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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第二十九章 亀と似顔絵
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第五話

「おしかが、坊主の実の母親ぁ!?」


 すっとんきょうな声を張り上げた留吉は啜り泣くお末を凝視し、あんぐりと口を開ける。

その場にいた全員の視線が肩を震わせる彼女と、状況が飲み込めていないのかポカンとした表情を見せる亀蔵に集中した。


 「なら、捨松って人は……亀ちゃんの、父 親?」


 大きな瞳を目一杯に見開く海華が生唾を飲みながら漏らした台詞に、お末はがくがくと首を縦に振る。 やがて覚悟を決めたように、彼女は充血し真っ赤になった目を正面にいる桐野へ向けた。


 「おしかさんとは家も隣同士、年も近かったので小さい時分から姉妹のように育ちました。 同じ村で育ち、同じ年に所帯を持って、同じ年に子供を宿しました……。でも、おしかさんの亭主、捨松さんは亀蔵が生まれたよく月に、借金だけを残して突然姿を消してしまって……」


 微かに震えるか細い声。

みるみるうちに桐野の眉間に深い皺が寄る。

『とんでもない奴だ!』苦虫を噛み潰したような表情の高橋が、忌々しげにそう吐き捨てた。


 「生まれたばかりの亀蔵を抱えて、おしかさんは働きづめに働いて必死に借金を返していました。見る影もなく痩せて……とうとうお乳も出なくなってしまって。亀蔵が生まれてひと月くらいたった頃でした。うちの人が、沼に身を投げようとしていたおしかさんを見付けたんです」


 悲痛な告白が進むに比例して番屋の空気が鉛のように重たくなる。

誰も口を開こうとする者はいなかった。

ただ、亀蔵だけが不思議そうな面持ちで隣に座るお末の袖を握り締めている。


 「うちの人がおしかさんを家まで引っ張って来た時は、もう精魂尽き果ててしまったようでした。『もう疲れた』『子供と一緒に死ぬ』の一点張りで……。だからあたしが言ったんです。子供はあたし達夫婦で育てるから、って」


 新たな涙がお末の痩せた頬をつたい流れる。

それを苦し気な表情で眺めていた桐野が、静かに唇を動かした。


 「理由は、わかった。それで、お前の子は、どうしたのだ?」


 「亡くなりました……生まれて三日目で……。だから、村の人達には死んだのはおしかさんの子だと嘘をついて、亀蔵は私達夫婦の子として育てました。おしかさん、借金を返すために江戸へ働きに出て、それからずっと行方知れずになってしまって」


 色褪せた袖で涙を拭うお末の乾いた唇から、細い細い溜め息が漏れる。

土間に立ったままの兄妹が見詰める彼女の背中は今にも消えてしまいそうなほどに小さく見えた。


 「今から三年前、私達親子も訳あって江戸へ出て、今の長屋に住み始めました。──神様が引き合わせて下さったんですね……すぐ近くに、おしかさんがいたのです。本当に、本当に驚きました」


 自らの膝先に視線を落としたお末は、ここで初めてうっすらとした笑みを見せる。

だが、それが嬉しさや楽しさからくるものではないことは、誰の目にも明らかだった。

たっぷりと哀しみを含ませた自嘲の笑みだ。


 「亀蔵もおしかさんによく懐いて。何度も本当のことをこの子に話そうかと。でも、おしかさんは『亀蔵は、もうあなた達の子供だから絶対に真実は話すな』と。── 亀蔵ごめんよ…… かあちゃん、ずっとずっと嘘ついてた。ごめんよ…… !」


 わんわん声を上げて泣きじゃくり、お末は傍らにいる亀蔵を力一杯胸に抱き締める。

未だに何が何やらわからない、といった様子の亀蔵は、小さな目を瞬かせながら、ただされるがままで母親の胸に顔を埋めていた。


 泣きじゃくるお末にきつくきつく抱かれていた亀蔵は、おもむろに自らの袂をまさぐり、くしゃくしゃになった布切れを引っ張り出す。

それは、先日茶店で出したと同じ手拭いだった。


 「かあちゃん、泣かないで。泣いちゃヤダ」


 そう言いながらお末の顔を何度も拭う亀蔵。

それを見ていた都筑が軽く鼻を啜り、乱暴に目尻を拳で擦った。

ようやく泣き止んだお末は、やんわりと亀蔵を胸から離し、泣き腫らし真っ赤になった瞳を再び桐野へと向ける。

 

 「おしかさんが捨松さんと再開したのも、本当に偶然でした。お店に捨松さんが突然来たとかで……。捨松さん、一度村へ戻っていたんです。そこで、亀蔵が私達夫婦の子供ではないんじゃないか、って噂を聞いたらしくて……先月でした。私の部屋に押し掛けてきたんです」


 「つまり、亀蔵を返せと?」


 桐野の問い掛けに、お末は大きく頷いた。


 「噂が本当なら、亀蔵を渡してくれ。あいつが絵を描いて稼いでくれるなら、俺は今ある借金を全部返してやり直せる、と。勿論断りました。あんな人にこの子は渡せません。── 私……そのことをおしかさんに話してしまったんです」


 荒れた手を握り締め、お末はうつ向いてしまう。

彼女によると、それを聞いて怒り狂ったおしかは『話は私がつけるから、お末さんは何も心配することはない』と、そう言っていたそうだ。


 「捨松さんの骸を見た時、すぐにおしかさんがやったとわかりました。でも、言えなかった……おしかさんが殺していなければ、私が捨松さんを殺していたと思います……」


 ぐったりと頭を垂れ、消え入りそうな声で幾度も『申し訳ございません』と呟くお末を責める者など誰一人としていない。

それどころか、どう慰めの言葉を掛けたらいいのか、と皆が必死に考えを巡らせているのだ。

そんなどんよりと沈む重たい空気を裂いたのは、やけにのんびりとした亀蔵の一言だった。


 「お侍さま、かあちゃんは、牢屋に行っちゃうの?」


 「牢屋? いや……そんな所へは入らん。大丈夫だ」


 こめかみを指先で掻きながら、桐野はいささか困ったような笑みを亀蔵に向ける。

『よかった』と呟き、白い歯を見せた亀蔵だが、その顔はすぐに不安そうに変わった。


 「じゃあ、おばちゃんは? おばちゃんは悪いことしたから、閻魔様に舌抜かれるの? もう会えないの?」


 突拍子もない質問に、珍しく桐野が言葉に詰まる。

なんと答えたらよいか、と深く腕を組んで思案する彼に、亀蔵の後ろへ座していた都筑が静かに声を掛けた。


 「桐野様、ここは私が」


 「ん? そうか、では頼んだぞ」


 それに軽い一礼で返した都筑はのそりと立ち上がり、亀蔵の前に座り直す。

体格の良い彼は、正座をしても亀蔵を見下ろす格好だ。


 「あー……亀蔵、俺のことを覚えているか?」


 「はい。河原にいたお侍さま」


 円らな瞳で都筑を見上げ、亀蔵ははにかんだように笑った。

それにつられてか、軽く口角をつり上げた都筑は、一度小さく咳払いをする。


 「そうかそうか、よく覚えていたな。── 亀蔵、お前の言うおばちゃんのことだがな。確かにおばちゃんは悪いことをした。お前は悪いことをしたら、母上……いや、かあちゃんになんて言う?」


 「ごめんなさいって、謝ります」


 「そうだな。謝ったら、かあちゃんは許してくれるか?」


 ゆっくり噛んで含める物言いの都筑に、皆の視線が集まった。


 「はい。許してくれます。もうやっちゃ駄目、って」


 「うむ。だから、おばちゃんもこれから謝りにいくのだ。かあちゃんではなく、お奉行様に謝りにいく。だから、少しだけお前と離れねばならんのだ。わかるか?」


 真剣な眼差しで自分を見詰めてくる都筑へ亀蔵は幾度か目を瞬かせ、ちょこんと小首を傾げて見せていた。

暫しの間、亀蔵は無言で何かを考えていた。

ひんやりした空気が満ちる番屋の中で、皆が固唾を飲んで彼の口から次に出る一言を待っている。

『うーん』と小さく唸った亀蔵はくるくると瞳を動かし、額に浮かぶ汗をしきりに拭う都筑を見詰めた。


 「お奉行さまは、怖い人? おばちゃん、舌抜かれますか?」


 その台詞を聞いた刹那、海華の脳裏に修一郎の顔が浮かぶ。

罪人達からは『鬼修』と恐れられるだけあって、彼は一見強面だ。

もし、今こ の場に修一郎がいれば亀蔵が『閻魔様』と叫んで泣き出してしまうだろう。

都筑は何と答えるか、興味津々でその答えを待っているのは海華だけでないはずだ。


 「亀蔵、お奉行様はな、心の優しいお方だ。 閻魔様よりずっとずっと優しい。舌など抜かれん。お前、おばちゃんが帰ってくるのを待っていられるか?」


 都筑の厚い唇からこぼれる優しい声色、ほんの少し笑みを見せ、自分を見下ろす彼に亀蔵は満面の笑みで大きく頷く。

皆の顔に安堵の表情が見えた、その時だった。


 「お侍さま、かあちゃんが二人いるのは、悪いことですか?」


 「な、なに?」


 突然ぶつけられた奇妙な質問にさすがの都筑も言葉を詰まらせ、ぽかん、と口を半開きにする。

膝の上に乗せた手をもぞもぞ動かしながら、亀蔵は上目遣いで都筑を見た。


 「おばちゃんも、おいらの『かあちゃん』だから。おいら『かあちゃん』が二人いるんですよね? それ、悪いことですか?」


 これには都筑も、いや桐野でさえも頭を抱えて唸り出す。

確かに亀蔵の言う通りだ。

だが、『産みの母』と、『育ての母』がどちらも身近にいる、それが悪いことかなど今まで聞かれたこともなければ考えたこともない。


 どうしてこんなに厄介な質問ばかりするのか、そして亀蔵を納得させるには、どう答えればよいか腕を組み必死に考えを絞り出す侍三人に挟まれたお末は顔を赤く染め、申し訳なさそうに小さく縮こまっていた。


 「亀坊はいいな。優しいかあちゃんが二人もいるんだ」


 低い呻きが満ちる室内に、静かに響く涼やかな声。

一瞬で全員の視線が、その声の主朱王へと集中した。


 「かあちゃんが二人いるのは、何も悪いことじゃない。お前が羨ましいよ。俺も、みっちゃんも、かあちゃんがいないんだ。もしも亀坊が、『かあちゃんは一人でいい』と言うなら……俺にかあちゃん一人くれるか?」


 「んー……やだ。おいら、どっちのかあちゃんも大好きだから。あげない」


 ふっくらした頬を河豚のように膨らませ、亀蔵は首を横に振る。

さも残念そうに朱王が顔をしかめる横では、海華がにやりと唇をつり上げ、『よくやった』と言いたげに、兄の脇腹を肘でつついていた。


 『おばちゃんが帰ってくるの、かあちゃんと一緒にずっと待ってます』


 そう言い残し、亀蔵はお末と共に番屋を後にした。

おしかが捨松を殺めた本当の理由は、桐野が直に修一郎へ伝えてくれるという。

勿論、おしかと捨松の子供が亀蔵である、という複雑な理由は公にしない、との約束付きでだ。

これでおしかの罪も多少は軽くなるだろう。

朱王も海華も一安心だ。

さて、翌日から海華と亀蔵は共に辻で仕事に励み、再び平凡な日常に戻った……とはいかなかった。


 兄妹が番屋に呼ばれた翌日、亀蔵の住まうドブ板長屋へ初老の男が一人、訪れたのだ。

それは、江戸に住む者なら誰でも一度は名を聞いたことがある、高名な絵師だった。

名だたる大店や寺の襖絵や屏風絵など、多数の作品を描き上げてきた絵師は、お末に向かい亀蔵を弟子にしたいと申し出た。

なんでも、『辻で緻密な似顔絵を描く少年がいる』との噂を聞き付け、一度辻まで足を運び亀蔵に絵師自身の似顔絵を描かせたらしい。


 亀蔵は絵を描くことに対して天賦の才がある、このまま平凡な似顔絵描きにしておくには、あまりに惜しい、面倒は全てこちらで見るから、どうか弟子に……と頭を下げられて、もうお末は吃驚仰天だ。

今までどの奉公先も三日で叩き出された亀蔵が、江戸随一と言われる絵師に弟子入りなど出来るのか、お末の不安を他所に、亀蔵は弟子入りを二つ返事で引き受けてしまったのだ。


 大好きな絵を描いて沢山お金が貰える、とでも考えたのだろうかと、海華の口からこのことを聞いた朱王は半ば心配し、また呆れてもいた。

これから厳しい修行の道が待っている、亀蔵にそれが耐えられるのか? これは、亀蔵を知る者なら始めに思うことだろう。


 さて、亀蔵の弟子入りが決まってから三日がたった。

この日も朝から海華は仕事へ出掛け、昼過ぎになった今も帰ってくる気配はない。

外は生憎の曇り空、今にも大粒の雨が降りだしそうに暗く厚い雲が天を覆っている。

新しい仕事を受けた朱王は、朝からずっと仕事机の前に座り込み人形の胴体彫りに取り掛かっていた。

朝から背中は丸めたまま、さすがに肩が凝り、 背骨は鈍い痛みを生み出す。

そろそろ一息入れようか、そう思いながら持っていた胴体と彫刻刀を木屑の散らばる机上に置き、ぐぅっと大きく背伸びをした、その時だった。


 どんどんどんっ! とけたたましい響きを立てて戸口が激しく叩かれ、止まっていた室内の空気が揺れ動く。

一瞬驚きの表情を浮かべた朱王だが、すぐにがたがた揺れる戸口へ向かって、『どうぞ』と呼び掛けた。


 「こんにちは!」


 呼び掛けとほぼ同時に、甲高い子供の叫びと共に戸口が勢い良く開け放たれ、小柄な人影がぴょこんと一度頭を下げる。

裾に継ぎが当たった濃緑色の着物を纏い、朗らかな笑みを見せる福助顔の少年が亀蔵だとわかった時、朱王は自然に口角を上げていた。


 「ああ、亀坊か。こんにちは。みっちゃんはいないぞ? 辻に行っているよ」


 「みっちゃんじゃないの、あの……すおーさんにお願いがあります!」


 土間に立ったまま、もじもじと体を揺らす亀蔵に小さく首を傾げながらも、朱王はくすりと笑みをこぼした。


 「俺にお願い? まあ、とにかくこっちにおいで」


 「はい! お邪魔します!」


 勢い良く下駄を脱ぎ捨て、室内に入った亀蔵は朱王の前にちょこんと正座し、机上に置かれた人形の胴体を興味津々に眺め始めた。


 「亀坊、お前絵師に弟子入りするんだってな?」


 「うん。おいら、立派な絵師さまになりたい。一杯絵を描いて、お金稼いで、かあちゃんに楽させる!」


 にこ、と白い歯を覗かせる亀蔵の頭を朱王の大きな手のひらがグリグリと撫でていく。

どうやら、彼は彼なりに考えるところがあったらしい。


 「そうかそうか、頑張れよ。お前なら絶対立派な絵師様になれる。それで、俺に頼みってのは、なんだ?」


 「うん、あのね……。すおーさんに、おいらの人形造って欲しいんです!」


 朱王に頭を撫でられるくすぐったさに、にこにこ微笑みながら亀蔵はそう一言告げ、乾いた墨で黒く汚れた人差し指で自分の顔を指差していた。


 「亀坊の、人形?」


 突然の申し出に、ぽかんとした表情を浮かべる朱王。

それとは対称的に、笑みを絶やさない亀蔵は大きくこくりと首を縦に振った。


 「そう。おいらの人形二つ作って下さい! 一つは、かあちゃんに。もう一つはおばちゃんにあげたいの」


 そう言いながら亀蔵はごそごそと懐をまさぐり、子供の手のひらに納まるくらいの茶色く小さな巾着袋を引っ張り出す。

口を縛っていた紐をほどき、おもむろに袋を逆さに振ると、ちゃりん、と小気味良い音を立て十数枚ほどあるだろうか、小銭が白く変色した畳へ転がり落ちた。


 「かあちゃんも、おばちゃんも、おいらがいなくなったらきっと寂しがるから……だから、人形を置いていきたいんです。それなら、いつでもおいらの顔が見れるでしょ?」


 散らばる小銭をぷくぷく肉付きのよい手で掻き集め、それを朱王に向かって押しやる亀蔵は、つぶらな瞳で朱王を見詰める。

いくら実の母親でないとわかったとて、亀蔵にすれば身を粉にして働き自分を育ててくれた大切な母親だ。

また、産みの母のおしかは、いつも自分を可愛がってくれた『おばちゃん』である。

二人を残していくのが気掛かりなのだろう。


 「みっちゃんから、すおーさんは人形を作るのが仕事だって聞きました。だからお願いします! おいらの人形作って下さい! おいらの持ってるお金、これだけしか無いけど……」


 そこまで一気に喋り終えた亀蔵は、急に笑顔を引っ込めて、しゅんと項垂れる。

この金は、お末から貰った物ではないだろうことは、朱王にも充分わかっていた。

あの家に、子供に小遣いを渡せる余裕なぞ無い。

これは、亀蔵自身が辻で似顔絵を描いて得た金の一部なのだ。

真剣な眼差しでこちらを見る亀蔵を見詰め返していた朱王の口元がふっ、と綻んだ。


 「わかった。作ってやる。だけどな、今、お金はいらないよ」


 自分へ出された小銭を静かに押し返すと、今度は亀蔵がキョトンとした面持ちで口を半開きにし、小さな目を瞬かせる。


 「でも……お金は、ちゃんと払わなきゃ……」


 「お金はな、お前が一生懸命絵の勉強をして、立派な絵師様になってから払ってくれ。あぁ、それともう一つ。──お前、かあちゃんの人形はいらないのか?」


 亀蔵を見下ろす朱王は、にやにやと悪戯っぽい笑みを浮かべる。

言われている意味がよくわかっていないのか、 亀蔵は小さく首を傾げて見せた。


 「かあちゃんと離れたら、寂しくて泣くんじゃないのか?」


 「おいら泣きません!」


 みるみるうちに亀蔵の顔が耳まで紅潮し、頭が取れてしまうかと思われるほど激しく頭を振りたくる。 が、けして朱王の言葉に怒っているのではない。

ただ、恥ずかしいだけなのだ。


 「おいら男だから! 男だから、もう泣いたりしません! 死んだとうちゃんとも、約束したから…… 絶対立派な絵師様になるんだ!」


 腰を浮かせ、半ば叫ぶように言い切った亀蔵。

興奮気味の彼をなんとか落ち着かせ、髷を結った頭をぐりぐり撫でる。

おっとりした見た目に比べ、亀蔵は芯が強い。

きっと厳しい修行も耐えられるだろう。

真っ直ぐに自分へ向けられる澄んだ瞳を見詰め、朱王はそう確信していた。


 「お前にそっくりな人形作ってやるからな。 だから、頑張るんだぞ?」


 大きな手のひらで頭を撫でられながら、亀蔵は嬉しそうに目尻を下げ、『はい!』と大声で返事を返す。

この日から朱王はほぼ徹夜で、彼の人形作りと依頼された品造りに没頭することとなったのだ。





 亀蔵が長屋を訪れて十日目、とうとう彼が母の元を離れる日が来た。

頼まれていた人形は前の日の晩にようやく出来上がり、今、兄妹は亀蔵を見送りにドブ板長屋を訪れている。

すっきり晴れ渡る青空には綿を千切ったような雲が浮かび、涼やかな風が頬を撫でていく。

人生の新たな旅立ちには、ぴったりの朝だった。


 黒く変色した長屋門の前に立つ兄妹と、大きな風呂敷包みを背負った亀蔵。

いつもは粗末な着物の彼だが、今は継ぎも当たっていない濃紺の着物に身を包み、きっちりと髷を結い上げて、いささか緊張した様子だ。


 すぐ近くでは、亀蔵を迎えに来た絵師とその弟子と思われる若い男一人に、お末が『息子を宜しくお願い致します』と、涙ながらに何度も頭を下げていた。

その胸にしっかりと、大切そうに抱かれているのは、布で出来た小さな人形。

濃緑色の着物を纏ったそれは、中にたっぷりと綿が詰められ、木綿糸を縫い込んで造られた髪が日の光を受けて柔らかな光を放つ。


 同じく糸で縫い付けた目、鼻、口は、見た者誰もが顔を綻ばせるような柔和な笑みを浮かべていた。

ふわふわと手触りの良いそれは朱王が作り上げた人形だ。

骨組みのみが木で出来ている、子供の遊び人形とも取れる人形。

勿論朱王が手抜きで作った物ではない。


 頑丈な骨組みを持ち、豪華な布地を用いた人形よりも布と綿を使った素朴な物の方が、より亀蔵の持つ優しさや朗らかさを表現できる、と朱王は思った。

何より、お末がいつも息子に接するように、抱き締め可愛がれる品を作りたかったのだ。


 髪と表情の縫い付けは亀蔵と接する時間が多かった海華に任せた。

彼女は苦手な針仕事に四苦八苦しながらも、亀蔵に生き写しと言っても過言ではない、見事な仕事をしてくれた。

もう一つの人形は、海華と亀蔵が番屋に走り、おしかに渡してくれるよう、ちょうど居合わせた桐野に頼んできた。

これで亀蔵も心置き無く絵の勉強に励めるだろう。


 「亀ちゃん、元気でね」


 「身体には気を付けてな。頑張るんだぞ」


 どこか寂しげな表情を浮かべて亀蔵の手を握る海華と朱王に、白い歯を見せながら亀蔵はこっくりと頷いた。


 「おいら、頑張ります! みっちゃん、すおーさん、今までありがとうございました」


 「いいのよ……。でも、亀ちゃんいなくなっちゃうと、寂しくなるわ」


 しょげたように下を向いてしまう妹の肩を軽く小突く朱王の口角が、微かにつり上がる。


 「辻に来る客も少なくなるんじゃないか? まぁ、お前も頑張ることだな」


 悪戯っぽく笑う兄の口から出た台詞に、『失礼ねっ!』と一言叫んだ海華が柳眉を逆立てる。

そんな彼女を前に、おもむろに懐をまさぐり出した亀蔵は、綺麗に折り畳んだ和紙を二枚、二人へ差し出した。


 「これ、あげます。おいらのお礼」


 嬉しそうに微笑む彼からそれを受け取った二人は、興味津々といった様子で和紙を開く。

途端、海華の口から、『わぁ!』と感嘆の叫びが上がった。

それは、繊細かつ緻密な線で描かれた二人の姿絵である。

傀儡廻しの最中を描いたのだろう海華の絵は、 姫人形を遣う彼女や取り巻く観客らが生き生きと、躍動的に描かれ、また、作業机の前に座して人形の胴体を彫る朱王の絵は、髪の流れや真剣な眼差しがそのまま、ぴんと張り詰めた緊張感までを描き取っている。


 「凄いな、よく描けている……亀坊、ありがとう」


 「やっぱり亀ちゃん天才だわ! あたし、こんなに美人かしら?」


 心底嬉しそうな笑みをこぼす朱王に、きゃあきゃあはしゃぐ海華。

そんな二人を交互に見遣る亀蔵は頬を赤らめ、照れ臭そうにうつ向いて「よかった』と一言だけ呟いていた。

絵師とその弟子に挟まれ、長屋を後にする亀蔵の後ろ姿が見えなくなるまで、二人はずっと見送った。

隣には目を真っ赤に充血させ、しっかり人形を抱き締めたお末がいる。


 亀蔵の作品が世に出るまでにはまだ時間が掛かるだろう。

二人がもらった似顔絵は、間違いなく絵師、亀蔵の処女作になるはずだ。

似顔絵を大切に懐へしまい込む朱王の頭上を、群れから離れた赤蜻蛉が一匹、風に吹かれて飛び去っていった。








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