第四話
やっと泣き止んだ亀蔵を長屋まで送り届けた朱王は、彫刻刀をくるんだ包みと妹への手土産として買った団子の包みを抱えて帰路につく。
秋の太陽が西へ傾いた頃、部屋に戻ってきた海華はその土産を大層喜び、夕餉を済ませてから早速二人分の茶を煎れ、亀蔵と同じにこにこ顔で団子を頬張り出した。
朱王はいつもより渋めの茶を壁に凭れて啜っていたが、欠けた皿に乗せられた最後の一本団子が海華の腹に収まったのを見計らい、昼間あった出来事をぽつぽつ話し出す。
右手の親指をぺろりと一舐め、海華は僅かに眉をしかめた。
「そう、やっぱりあの人相描きは嘘だったの。その『蕎麦屋のおばちゃん』って、あたしも何度か見たことあるわ」
串を置いた皿を脇に押しやり、自分の側に座り直した妹へ朱王はぐっと顔を寄せる。
さらさら流れる黒髪が、胸元で不規則な曲線を描いた。
「そのおばちゃんってのは、どんな女だ?」
「どんなって、別にこれといった特徴なんかないわ。年はお末さんと同じくらいかしら? 大人しそうな人よ。亀ちゃんも懐いてるしね。 ……ああ、確かお末さんとも仲がいいわ。少し前にね、長屋の前で笑いながら話ししているの、見たことがあるから」
小首を傾げて答えた海華の肩越しを、薄茶色の蛾が羽を震わせふらふら飛び行く。
冷めかけた茶を口に含みつつ小さく頷いた朱王。
と、海華は水仕事でかさついた両手をぽんと一つ打った。
「それよりねぇ、殺された人、身元がわかったわよ。神田の長屋に住んでた蜆売りだって」
「神田? 随分遠くに住んでいたんだな。──ところで、それを誰から聞いたんだ?」
「留吉さんよ。確か名前は捨松だったわ。江戸から外れた……ええと、大沼って村生まれよ」
頬に片手を当て、留吉から仕入れた情報を喋り出す海華はあるところまで話すと、急に声を押さえて兄の耳許に口を近付けた。
「表向きは蜆売りだけどね、本当はただのやくざ者よ。賭場に入り浸りで借金もかなりあったみたい。村から出てきた理由も、それだったんじゃないかってさ」
ひそひそ声の妹の話をききながら、朱王は残っていた茶をぐっとあおる。
「賭場で借金か。顔に傷があったのを見たが……確かにまともな男じゃなさそうだ」
「それが博打だけじゃないの、もう飲む打つ買うの三拍子。でもね、何でそんな奴を『蕎麦屋のおばちゃん』が殺さなくちゃならないのかしら?」
「金でも貸していたか……だが金を貸していた奴らなら、とっくに桐野様が調べているだろう。他の理由か……」
壁に凭れたまま深く腕を組んだ朱王は胡座をかいた足の間から見えるささくれた畳に視線を落とし、黙り込んでしまう。
殺されるには何らかの理由がある訳だし、殺す側にもそれ相応の理由があるはずだ。
しかし今のところ二人の接点は見付からず、ただわかるのは『蕎麦屋のおばちゃん』が捨松を殺したということだけ。
「明日にでも桐野様にお教えした方がいいんじゃないかしら?」
皿の上に空の湯飲みを二つ乗せ、腰を浮かす妹の口から出た台詞に『駄目だ』と一言、朱王は大きく首を左右に振った。
これに驚いた海華は、中腰になったまま呆気に取られた様子で気まずそうな表情を見せる兄を凝視する。
いつもなら、『早く知らせてこい』『これ以上面倒事に首を突っ込むな』と言い捨てる兄が、どうして自分の提案を拒むのか、さっぱりわからないといった様子だ。
「亀蔵と約束したんだ。お侍様には言わないってな」
「そうだったの……でも、これからどうするのよ?」
「……明日一日俺に付き合え。行きたい場所がある」
長めの前髪を掻き上げ、そう呟く兄に僅かに目を細めながら、海華は『わかったわ』と意味ありげな笑みを浮かべて答え、皿と湯飲みを片付けに土間へと降りて行った。
翌日兄妹は、ドブ板長屋から海華がいつも立つ辻付近にある蕎麦屋を片っ端から覗き、『蕎麦屋のおばちゃん』なる人物探しに奔走した。
長屋から辻までは大通りを挟み、かなりの距離があり、蕎麦屋の数も店の大小合わせて十数軒はある。
初めは直ぐに見付かるだろうとたかをくくっていた二人だが、五軒廻っても尋ね人は見付からない。
店屋に入って何も注文しないのはどうにも気が引け、各店々で笊蕎麦やら揚げ出し豆腐やらを注文し、それを片っ端から平らげた二人の胃袋ははち切れんばかりに膨れ、五軒目の店を出たところで、ぽこんと突き出た腹を擦る海華が 遂に悲鳴を上げた。
「もう無理よぉ、これ以上食べられない! 蕎麦が口から出てくるわ!」
「汚いこと言うな! 大体な、俺達は蕎麦の食べ歩きに来たんじゃないんだ」
くしゃくしゃに顔を歪める妹を斜に見下ろす朱王も、先程から小さなげっぷを繰り返し、いささかうんざりした面持ちで次の店へと向かう。
昼下がりの大通りは相変わらず沢山の人々で賑わい、かさかさ乾いた音を立て、道に落ちた枯葉が道行く人に踏み砕かれる。
重たい足取りで二人が辿り着いた六軒目の蕎麦屋は、周りの店々に埋もれるように建つ、今までの中で一番小さく古めかしい、そして目立たない店構えだった。
店先に下げられた破れ提灯には蚯蚓がのたくったような墨字で、『たから屋』と書かれている。
醤油で煮しめた干瓢に似た縄暖簾が秋風に揺れ、長年の風雨に曝された小さな 戸口の横には、一輪挿しに飾られた名も知らぬ白い花が二人に向かって頭を垂れた。
「こんなところに蕎麦屋があったんだな」
余りにも貧弱な店を興味深そうに眺め、朱王がぽつりとこぼす。
その隣では、げんなりした表情の海華が顔に当たる縄暖簾を鬱陶しそうに手のひらで押し退けていた。
「どうでもいいから早く入りましょ。今日はここで終わりにしてね、もう本当に食べられないんだから」
「わかってる。それよりお前、店の者の顔ちゃんと見ろよ」
顔にかかる髪をわさりと掻き上げる兄にそう釘を刺された海華は頬を膨らませ、無言で小さく頷く。
暖簾を掻き分け、がたぴし軋む戸を引き開けた朱王が、店内へ静かに足を踏み入れた。
「いらっしゃいまし!」
薄暗い店内から響く、場違いなくらいに明るい女の声。
思わず狼狽えた二人の目の前に、赤っぽい絣の着物を纏った一人の女が店の奥から姿を現した。
年の頃は三十路後半か、薄く化粧の施された瓜実顔には、ぱっちりした丸い瞳とわずかに小さな鼻、ぽってりした唇が僅かな色気を感じさせる。
しかし、にこにこと朗らかな笑顔が、どこか垢抜けない印象を与える、どちらかと言えば田舎くさい中年女だった。
店内には二人以外に客はなく、ひんやりした空気が充満する中で目にした女の顔は、微かに入る日差しに白く浮き上がって見えた。
にこやかに笑う女が、『こちらへどうぞ』 と入り口に一番近い席に兄妹を案内する。
年季の入った固い席に腰を下ろした海華は、女が側を離れた隙を狙って前のめりに兄へ顔を 近付けた。
「あの人よ。間違いないわ」
真剣な眼差しで自分を見詰める妹へ、今度は朱王が無言のまま小さく頷く番だった。
蕎麦屋を巡って六軒目で、やっと二人は探し求めていた女を見付けた。
問題はどうやって話しを持ち出すか。
額を付き合わせて二人が考えていたその時、店の奥から再び姿を現した女が、ゆっくりとこちらへ歩いてくるのが海華の視界の端に写った。
「あの、失礼ですが……いつも辻で人形廻しをされている方じゃあありません?」
「え!? あ、はい! はい、そうです」
思いがけず女の方から話し掛けられ、ぎこちない笑みを見せた海華は、女を見上げてかくかくと首を縦に振った。
「あの、あたし、海華と言います。こっちは兄の、朱王です」
「朱王さん? あら、もしかしてあの有名な人形師の?」
円らな瞳を瞬かせ、自分を見詰める女へ朱王は照れくさそうに破顔し、小さく頷いた。
「まぁ、やっぱり! 嬉しいわ、そんな有名な 方がうちに来て下さるなんて! あ、失礼しました、私おしなと申します」
口元に手を当て、にっこり朗らかな笑みを二人に振り撒く女。
兄妹の左側にある格子窓から射し込む白い光に、薄化粧の下に隠された細かい皴がくっきりと浮かび上がった。
よくよく見れば、口に当てた手は粉を噴き、小さな爪は乾燥して白い縦縞が幾筋も見える。
女の方から名を名乗ってくれたのは好都合、素早く兄と目配せした海華は、ちょこんと小首を傾げながら笑みを絶やさない女、おしなを見上げた。
「あの、おしなさん? いつも私の隣で似顔絵描いてる子のこと知りませんか?」
「知っていますよ、亀坊のことでしょう? 私、あの子が赤ん坊の時からの知り合いでしてね。よく辻へ会いに行っていますよ」
ころころと鈴を転がすような笑い声を上げるおしなの唇から、黄色みを帯びた歯が微かに覗く。
飯台の下で拳を握り締める朱王。
その前で相変わらずにこやかに笑う海華は、おしなの目尻に刻まれる小皺に視線を向けた。
「その亀坊のことで、おしなさんに話したいことがあるんです。ここじゃなんだから……申し訳ないんですけど、少しお時間頂けませんか?」
「え? 私に? ──ええ、いいですよ。今時間はお客さんも少ないですから。ちょっとお待ち下さいね。おじさん! 少し出てきますから!」
店の奥に向かっておしなが叫ぶと『おぅ』 と嗄れた返事が返り誰かがごそごそ蠢く気配がした。
紫紺色の前掛けを外したおしなを伴って、兄妹は古びた店を後にする。
朱王を先頭に向かった場所、そこは人気の全くない寂しい河原だった。
そこは捨松が刺し殺された場所である。
秋の陽射しを反射し、煌めき流れる川の音と、 風にそよぐ芒が渇いた歯を擦らす微かな音だけが聞こえる場所。
あの日、空一面に舞っていた赤蜻蛉の姿も全く見えない。
捨松の骸があった所は広く芒が踏み倒され、 柔らかな綿の穂が辺りを漂っている。
青空へ緩く弧を描く橋の上にも、人がいる気配は全く感じられなかった。
「先日、ここで人が殺されたのはご存知ですか?」
渇いた風に朱王の問い掛けが流れる。
袖をはためかせ、海華の横を歩いていたおしなの顔は、相変わらず朗らかな笑みを作ったままだ。
しかし、その口元が微妙に強張ったのを、黒曜石の煌めきを宿す海華の瞳は見逃していなかった。
「──ああ、そんなこともありましたねぇ」
しばしの河原を包んだ静寂の後おしなが抑揚のない声を発する。
顔を強張らせたのは一瞬のこと、白い光を半身に受けた彼女は店で見せた朗らかな笑みで朱王を見詰めた。
あくまでもしらを切り通すつもりか。
心中でそう呟いた朱王は、薄めの唇を軽く噛み締める。
「単刀直入に窺います。ここで男を……捨松さんを殺めたのは、貴女ではないですか?」
その刹那、朱王とおしなの視線が火花を散らさんばかりにかち合った。
既に彼女の顔から微笑みは跡形もなく消えている。
「仰っている意味が、よくわかりません。どうして私が? 捨松さんなんて人、会ったこともないし名前だって聞いたことは……」
かさついた両手を帯の前で強く握り締め、忙しなく視線を宙にさ迷わせるおしなは、わずかに上擦った声で答える。
明らかな動揺を見せる彼女は透き通るような白い陽射しに包まれ、どこか痛々しくも見えた。
「私は何も知りません、妙な言い掛かりは止して下さいな」
乾いた唇を一舐めし、おどおどした様子でくるりと踵を返すおしな。
そよ風に揺れる粗末な着物の袖を海華が咄嗟に握り締める。
さっとこちらを振り向いた彼女の顔は、今にも倒れてしまうかと思われる程に蒼白だった。
「亀ちゃんが……亀蔵が、見ていたんです。 全部、全部見ていたんです」
「── え、っ?」
がさっ、とおしなの足が倒された芒を踏みつける。
一杯に見開かれた瞳で穴が開くほど見詰められ、海華は思わず掴んでいた袖を離し、背後に佇む兄へ二、三歩後退った。
「亀蔵は全てを見ていました。あの日、辻で貴女を見掛けて後を追い掛けたそうです。『蕎麦屋のおばちゃんが河原で男の人にぶつかった。気付いたら男の人が寝ていて、赤い物が流れてた』と」
静かな声色で淡々と話す朱王の周りを、日の光を受けてきらきらと煌めく千切れた芒の穂が舞い飛ぶ。 『蕎麦屋のおばちゃんは、貴女ですね?』と、 朱王が問うた途端、おしなは『違います!』と叫び激しく首を横に振りしだいた。
「私じゃありませんっ! 亀坊の……あの子の 見間違いです! 私は、そんな……!」
ぜぇぜぇ荒い息をつき、朱王を睨む彼女のこめかみに、ほつれた髪が一筋脂汗で貼り付く。
鬼気迫るその姿にたじろいだ海華は更に兄へと 後退った。
だが、当の朱王は表情一つ変えていない。
「亀坊も、奉行所のお役人に貴女のことは一 言も喋りませんでした。それどころか、存在すらしない男の人相描きを描いたのです。この人がやったんだ、と。……それがなぜだか、貴女にはわかりますよね?」
「亀坊が、嘘を?」
おしなの声と体がわなわな震え出す。
大きく一つ頷いた朱王は、更に言葉を続けた。
「亀坊、泣いていました。自分は嘘つきだから地獄に堕ちる。極楽の父親にはもう会えない、と。── この先ずっと、亀坊は自分を嘘つきだと責めて生きていくのです。それでもまだ、あの子の見間違いだと言いますか?」
ふらりとおしなの体が揺れる。
戦慄く口元を手で覆い、見開いた瞳からは、ぽろぽろ透明な雫がこぼれ落ち、白粉を塗った頬をつたっていく。
声も出さず、震えながら泣き続ける彼女を見 遣る兄妹は、ただ無言を貫いたまま吹き抜ける涼しい風に黒髪を揺らしていた。
『番屋まで、連れて行って頂けますか……?』
涙で声を詰まらせ、か細い声を喉の奥から絞り出して、おしなは兄妹へ深々と頭を下げる。
無言のまま小さく頷いた朱王は、妹とおしなを伴い忠五郎の番屋へ向かった。
突然、捨松を殺したと女が名乗り出てきたことに、もう番屋は天地を引っくり返したような大騒ぎだ。
夜道で化物と遭遇したかのような表情を見せた留吉は都筑と高橋を呼びに番屋を飛び出し、未だに何が起こったのかわからない忠五郎は口から唾を散らし、これはどうしたことか、と朱王に詰め寄ってきた。
とにかく忠五郎を落ち着かせ、今までのことを全て話した二人は彼におしなを託し、都筑らが到着する前にその場を後にする。
後は桐野達が事の真相を解明してくれる。
自分達の出る幕はない。
そう思っていた二人だが、翌日の昼を過ぎた頃、留吉が長屋を訪れた。
なんでも、桐野が話しを聞きたいと言っているらしい。
取るものも取りあえず、兄妹は留吉について番屋へ急いだ。
そこには忠五郎、桐野、都筑と高橋と、いつもの面々が揃っていた。
畳に座した忠五郎と桐野、上がり框に腰を下ろす都筑と高橋、皆一様に冴えない表情をし、都筑などは手に湯気の立つ湯飲みを持ったまま、 ぼんやり宙を眺めている有り様だ。
がらっ! と留吉が勢いよく戸口を開けたと同時、皆の視線が一斉に兄妹へ注がれる。
「桐野様、朱王さんと海華ちゃん連れて参りやした」
「ああ、ご苦労だった。二人とも突然呼びつ けてすまぬな」
微かに目尻を下げる桐野につられ、二人は小さく微笑みながら会釈をする。
それほど広くもない番屋の中に、五人もの男がいる。
しかし、空気に温もりは感じられず、今しがたまで時が凍り付いていたかのようだ。
「昨日は、世話になったな。礼を言うぞ」
「いえ……お役に立てて光栄です。それで桐 野様、おしなさんは……」
土間に立ったまま静かに口を開く朱王に、桐野は『うむ』と小さく唸り、顎の下を指で擦る。
「捨松を殺めたのは自分だと、全て喋った。 貸した金を返す返さないでもめていた。最初から殺すつもりで河原まで呼びつけたと。…… だが、どうも腑に落ちぬのだ」
「腑に落ちないって…… おしなさんが嘘をついていると?」
ぱちぱち目を瞬かせ、海華が小首を傾げる。
「嘘…… と言うより、何かを隠しているように思えて仕方がないのだ。それに捨松の周りからはおしなと言う名は全く聞こえてこなかった。そうだな、忠五郎」
「へい。捨松って男は金にだらしねぇ奴でしてね。あちこちから借りまくってたんで。で、奴に金貸した連中を片っ端からあたってみたんですがね、おしななんて女は誰も知らないし、 おしなの周りの奴も捨松のこたぁ知らなかったんでさ」
こめかみの辺りを太い指で掻きながら、忠五 郎は大きく眉を潜める。
と、上がり框に腰掛けていた高橋が、何かを思い出したかのようにポン、と一つ手を打った。
「妙だと言われればもう一つ、捨松の奴、賭場に出入りしていた知り合いに、いい金蔓を見付けたから、借りた金は倍にして返すと嘯いていたそうです」
「金蔓? 誰なんですかそれ?」
「いや、それはわからん。まぁ、それこそが苦し紛れの嘘っぱちだとは思うがな」
きょとんとした面持ちの海華の問い掛けに、 高橋が微かな苦笑いを浮かべながら答える。
その時、とんとんと戸口が軽く叩かれ、『ごめん下さいませ』と掠れた女の声が、皆の鼓膜 を小さく震わせた。
からからから……と小さな音を立てて、遠慮がちに戸口が開かれる。
昼下がりの白い光を背に受け、そこに立っていたのは河原に来た時と同じ小豆色の色褪せた着物を纏ったお末と、彼女としっかり手を繋いだ亀蔵だった。
「突然押し掛けまして申し訳ございません。 あの……おしなさんのことで、お話ししたいことがございます」
何度も何度も頭を下げ、消え入りそうな声で告げるお末、その隣で親指をしゃぶる亀蔵に、桐野はにこりと微笑みかけ、『こちらへこい』と小さく手招きをした。
「ちょうどよかった、お主らにも話しを聞きたいと思っていてな。まぁここへまいれ」
桐野に招かれ、恐縮しきったお末は身を縮ませながら室内へ上がり、彼の前にきっちり正座する。
上がり框に座する都筑らと、土間に立つ兄妹に忙しなく視線を向けていた亀蔵は、お末の隣に座った途端、何を思ったのか桐野にぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい、おいら嘘ついてました……。お侍さま、ごめんなさい!」
畳へ額を擦りつけながら、ひたすら『ごめんなさい』と繰り返す亀蔵の肩を、桐野の筋ばった手が軽く叩く。
「確かに嘘をついたのはけしからん。だがな、きちんと謝れたのは、えらいぞ」
穏やかに響いた桐野の台詞に、そろそろ顔を上げた亀蔵は、以前と同じ見る者が顔を綻ばすような笑みを見せた。
しかし、それを見遣るお末の顔色は優れず、痩せた目の下にはうっすらと隈が浮かんでいる。
かさつき荒れた手を、膝の上でぎゅっと握り締めたお末は、思い詰めた眼差しを桐野へ向けた。
「お侍様……私も、嘘をついておりました。 殺された人……いいえ、捨松さんは、私と同郷でございます」
「なに、同郷? ならばそなたも大沼村の出身か?」
顎の下を擦りつつ、桐野は目を瞬かせる。
ひび割れた唇をきつく噛み締め、無言で頷くお末に、全員の視線が集中した。
次に彼女の口から出るであろう言葉を、皆が固唾を飲んで見守っているのだ。
「はい、私も捨松さんも、おしな……いえ、 おしかさんも大沼村で生まれ育ちました」
『おしか』と言う聞き慣れない名が出た途端、『ひぇ!?』と留吉が間の抜けた叫びを上げて海華の横で飛び上がる。
「おしか!? おしかたぁ……捨松の奴が村で捨ててきた女房の名前じゃねぇか!?」
「なに女房っ!? ならばおしなと捨松は、元夫婦か?」
裏返った声で叫び、高橋は腰を浮かせた。
都筑や忠五郎、そして兄妹は裂けんばかりに目を見開き、お末を凝視する。
余りのことに、最早言葉が出てこないのだ。
うっすら涙を浮かべ始めたお末はきょとんとした面持ちで自分を見詰めてくる亀蔵の手を、力一杯握り締めた。
「かあちゃん、痛いよ」
「ごめんよ……。亀蔵、今からとっても大事な話しをするからね。お前、ちゃんと聞いているんだよ?」
今にも大粒の涙を流しそうな母親へ、亀蔵は小首を傾げながらも大きく頷く。
一度大きく深呼吸したお末は、意を決したように唇を開いた。
「仰る通りでございます。捨松さんとおしかさんは夫婦でした。そして……この子の、亀蔵の本当の母親はおしかさんでございます」
痩せた白い喉から絞り出された告白は、凍り付いていた番屋の空気に揺蕩い、時までをも凍らせていった。




