第三話
海華が辻から担ぎ運んできた木箱と矢立てを目にした亀蔵は、自ら進んでその箱の前に座り筆を取った。
粗末な和紙に慣れた手つきで筆を滑らす彼を興味深げに見下ろす侍達の中には、未だにだらだらと汗を垂れ流す留吉や、無精髭の生えた顎を頻りに擦る忠五郎の姿も混じっている。
すると、黒い羽織に囲まれる息子を不安げな眼差しで見詰めていたお末へ滑るように近付いた桐野が、その耳許で何やら小さく囁いた。
みるみるうちにお末の眉間に深い皺が刻まれ、 瞳にはうっすら涙が浮かぶ。
やがて、彼女は桐野と連れ立って人の輪から離れ、さらさらと藁の切れ端を風に靡かせる筵の側で足を止めた。
一体桐野は何をしたいのか、懸命に和紙と向き合う亀蔵と桐野の後ろ姿を交互に見遣る朱王の前で、彼はおもむろにその筵を捲り上げる。
『ひぃっ!』と微かな悲鳴が、お末のカサつき荒れた唇から飛び出す。
それを耳にした全員の視線が、一斉に彼女へ注がれた。
煌めく陽光の下にさらけ出された男の骸。
河原を吹き抜ける一陣の風が、踏み倒された芒の穂を天高く舞い上げる。
転がる骸に負けず劣らず、お末の顔は血の気が引いて真っ青だ。
小豆色の着物を纏う身体をわなわな震わせ、両手で口を覆う彼女は張り裂けんばかりに両目を見開き足元に転がる無惨な骸を凝視している。
「どうだ? この男に見覚えはないか?」
右手に筵を握ったまま、桐野が静かに問い掛けた。
「存じ、ません……こんな人、知りませ ん……」
ゆるゆると首を左右に振り、恐怖に声を詰まらせる母親を筆を握ったままの亀蔵は暗い光を宿す瞳で、じっと見詰めていた。
亀蔵の人相描きはほどなくして完成し、彼はお末と寄り添うように河原を後にした。
桐野や都筑らは戸板に乗せた男の骸を番屋まで運び、もう少し話しを聞きたいと桐野に請われた海華は、戸板の後について兄と番屋の門を潜る。
狭い番屋は全員が座れる余裕などは無く、兄妹と留吉は上がり框に腰を下ろし、室内に座る桐野らは亀蔵に描かせた人相描きを畳へと広げている最中だ。
この場にいる全員が粗末な和紙を覗き込み、 無言で紙に描かれた男を見詰めていた。
唯一、亀蔵から与えられた手掛かり、しかし全員の表情は曇り切っている。
都筑などは、小さく唸りながら幾度も首を傾げている状態だ。
「なんだか……おかしいですねぇ?」
「おかしい、ってかよ。……妙なんだよな」
腕組みしながらそう呟く海華の隣でポツリと言った留吉が、ばりばりと頭を掻く。
どう言い表せばよいのか誰もわからない。
しかし、今自分達が見ているこの絵は確かに妙なのだ。
高橋らと額を突き合わせて人相描きを眺める朱王の口から、ふぅっと小さな溜め息が漏れた。
さて、亀蔵が描いた人相描きはどんな物か、それは一言で言って『年齢不詳の男』だった。
がっしりと肉厚の顎をした大きな顔、二重で切れ長の瞳は顔に似合わぬくらいに小さく、その下についた鼻は丸々とした団子っ鼻の右横には、小指の頭ほどの黒子が一つ。
ぱっちりとした瞳の感じや薄く引き締まった唇だけを見れば、この男はまだ若いのだろう。
しかし、月代の下の額や目尻には細かい皺が数多に書き込まれている。
顔の大きさと比べて小さな目と妙に存在感のある鼻、全体的な構図が微妙に歪むその顔とにらめっこする七人の口からは、『うう』だの『むぅ』だのと小さな呻きが漏れるばかりだ。
「こんな奇妙な顔をした男が、本当にいるのか?」
「あの子供が見たと言っているのだ。──しかしおかしな面だなぁ」
人相描きに目を落としたまま言葉を交わす高橋と都筑。
その隣で怪訝な表情を浮かべる忠五郎は、鼻の下を指で擦る留吉にふっと視線を向け、微かに小首を傾げた。
「そう言やぁ、留の鼻にもでけぇ黒子があったよなぁ」
「へ? あぁ、これですかい? 産まれた時からありまさぁ。よく蝿が止まってると間違われんですよねぇ」
丸い顔をにへら、と笑みの形に崩し己の鼻を指差す留吉。
何気無くそれを眺めていた朱王の唇が小さく動いた。
「この男の鼻……もしかして留吉さんのものでは?」
その台詞と同時、皆の視線が留吉の鼻へ集中する。
どぎまぎしながら団子っ鼻を弄くり回す彼と人相描きを交互に見遣っていた海華は、『あっ!』と小さな叫びを上げて紙に描かれた男の目を指差した。
「この目、兄様の目よ! それにこの輪郭…… 都筑様じゃないかしら?」
「なに、俺か!?」
目を白黒させながら都筑が両手で己の顔を擦る。
『唇は高橋様!』『耳の形は桐野様よ!』といささか興奮気味にわいわい騒ぐ海華。
『この皺ぁ親分のですぜ!』と、留吉が額の部分を指差した瞬間、ごん! と鈍い音を立てて忠五郎の鉄拳が彼の頭に炸裂した。
「──つまり、この人相描きは皆の鼻や目を寄せ集めて出来た物なのだな?」
すっと目を細めて呟く桐野の肩口から顔を出した忠五郎は、忌々しそうに眉をしかめ、『まるで福笑いじゃねぇか』と低い声で吐き捨てる。
「あのガキ、口から出任せぬかしたんですね? 大人ぁおちょくるなんざとんでもねぇ奴だ」
「亀ちゃんはそんな悪い子じゃありませんよ」
ぶぅ、と頬を膨らませ頭を擦る留吉を横目で睨む海華を、朱王が肘で軽く小突く。
彼自身、亀蔵が人を騙せるほど器用な子供ではないと思っているが、出鱈目な人相描きを描いたのは確かなのだ。
なぜ自らを貶めるような嘘をついたのか。
その理由白日の元にさらされることになるのは、男の骸が見付かってから、七日も先のこととなった。
昼下がりの街を、乾いた風に黒髪を靡かせ朱王が行く。
頭上に広がる分厚い雲に日の光が遮られ、いつもより薄暗い街中はそれでも活気に満ち溢れ、老若男女が行き交う道の両脇では、ずらりと並んだ店々が色とりどりの暖簾を涼やかな風に揺らせている。
この日、朱王は日々愛用している彫刻刀や鐫を久し振りに磨ぎに出し、今はその帰りだ。
この所特に大きな仕事を受けていない彼は、別段急いで長屋へ戻る必要はない。
しかし、元々出不精な彼には、一人で店屋に入ったり散歩をする気など更々なく、いつも用事が済めば真っ直ぐ帰路についていた。
この日 も彼の足はどこへ寄り道する訳でもなく長屋に向かう。
沢山の人々と擦れ違う大通り、足早に横を過ぎ去る『ぼて振り』の天秤には泥だらけの芋がぎっしり積み上げられ、これまた泥で汚れた彼の身体からは、ぷん、と冷たい土の匂いが漂った。
朱王が住まう中西長屋、その近くを流れる小川の前で吹き抜ける風に目をしかめ、舞い上がる髪を押さえた彼の足がぴたりと止まる。
そこには若い娘や子供らで賑わう一件の小さな茶店があった。
長屋に近いため、兄妹もよく立ち寄るその店先に見覚えのある少年がぽつねんと佇んでいたのだ。
肩口や袖に継ぎの当たった、粗末な絣の着物。
ぽっちゃりした体つきをしたその少年は、茶店で口一杯に団子を頬張る五、六歳位の少女と、澄まし顔で茶を啜る母親らしき女をじっと見詰めていた。
「おい、亀坊!」
その場で足を止めたまま、朱王は少年に向かって声を掛ける。
くるり、とこちらを振り向いた福助顔。
彼が思った通り、その少年は妹が『亀ちゃん』 と呼んで可愛いがっている亀蔵だった。
道行く人を避けながら、すたすたと近寄ってくる朱王に亀蔵はばつが悪そうに顔を伏せ、親指の爪を噛む。
「どうした亀坊、一人か?」
磨ぎ終わった彫刻刀を包んだ風呂敷包みを胸にグッと身を屈めた朱王は、なるだけ優しい声色で彼に問い掛ける。
しかし答えは返らず、代わりに亀蔵は上目遣いに朱王を見遣った。
『お前は誰だ?』と言いたげな視線を受け、朱王は今更ながら自分の名を教えていなかったことに気付かされた。
「あー……俺は、みっちゃんの兄さんだ。朱王って言うんだが、前に会ったろう? ── あぁ、覚えてないか?」
小さく苦笑しながら自分を見詰めてくる朱王を穴の開くほど見詰め、亀蔵はもごもごと赤い唇を蠢かす。
「みっちゃんの、兄さん。みっちゃんの、兄さん……すおーさん……すおーさん……」
ゆらゆら体を左右に揺らし、幾度も呟く彼に朱王は大きく頷いた。
端から見れば奇妙に映るだろう、だが、亀蔵が人と少しだけ違うことを知っていた朱王は、別段焦ることもない。
「そうだ、朱王だ。なぁ亀坊、ここで何してたんだ?」
『何もしてません!』そう叫んだ途端、彼の腹に住まう虫が『ぐぅぅぅ……』と盛大な鳴き声を上げる。 慌てた様子で臍の辺りを押さえた彼は、団子を頬張る少女へちらりと視線を投げた。
「お前、腹減ってるのか?」
身を屈めたまま目を瞬かせた朱王に、丸々した白い顔が小さく縦に振られる。
その仕草に小さく唇を綻ばせ、目の前で縮こまる肩を、ぽん、と軽く叩いた。
「俺も腹が減ってるんだ。一緒に食ってくか?」
「でも……お金、ありません……」
悲しげに眉を寄せる亀蔵に、『金なら心配するな』と一言告げ、朱王は半ば無理矢理彼の手を引いて茶屋へと向かった。
茶屋の前に置かれた席に並んで腰掛けた二人へ、艶やかに光る串団子と湯気の立つ茶が運ばれる。
にこにこと顔を綻ばせた亀蔵は早速そのうちの一本を手に取り、大きな口を開けてかじりついた。
嬉しそうに団子を頬張る彼を横目に、朱王は団子には手をつけず、ただ茶のみを啜っている。
元々甘味は得意でないし、『腹が減っている』 と言ったのも嘘だからだ。
「どうだ、美味いか?」
「はい!」
既に二本目に口をつけていた亀蔵は、朱王を見上げて大きく首を縦に振る。
満面の笑みを浮かべた福助顔を見ていた朱王の口角も自然と上がっていた。
あっという間に二本目も平らげて、皿に乗せられた最後の一本を手にした亀蔵は、なぜかそれに口はつけず、おもむろに自らの懐をまさぐり始める。
そこから出てきたのは、皺だらけの手拭いだ。
覚束無い手付きで膝の上にそれを広げた彼は、残った団子をその上に置いた。
「おい、何してるんだ?」
「かあちゃんにあげます」
にこにこ顔を崩さず、団子を包み始める亀蔵を朱王は慌てて止める。
「そんなもんに包んだら汚いだろう! ああ、すみません! これを包んで下さい。あと……これとは別に、団子一人前頼むよ」
茶屋の娘に向かい自分の団子を差し出すと、薄紅色の頬をした若い娘はにっこりと微笑み、その皿を受ける。
そんな朱王を、亀蔵は目を瞬かせを見上げた。
「いいの?」
「いいんだ。持って帰って、かあちゃんに食わせてやれ」
「すおーさん、ありがとうございます!」
辺りに響く大声で叫び、ぺこりと頭を下げる彼に思わず苦笑が漏れた。
道を行く人々の目も、一斉に二人へ向けられる。
多少の気恥ずかしさを感じながら、黙々と茶を飲む朱王の耳が、遥か彼方から風に流れるがらがら声を拾い上げた。
それは亀蔵にも聞こえたらしく、しきりに辺りを見回している。
善行を積めば極楽に行ける、欲にまみれれば六道地獄が云々と、そのだみ声は喚き立てる。
風呂敷包みを携えた女や、遊びに興じていた子供らが歓声を上げて駆けて行く所を見ると、どうやらこの付近で辻説法が行われているよう だ。
真っ直ぐな道を吹き抜ける風に乗って途切れ途切れに響く説法を聞きながら、朱王は無意識のうちに鼻で笑っていた。
狐狸妖怪、幽霊の類いどころか神仏の類いも一切信じない彼にとっては、説法などそこらの雑音と同じだし、何より生きながらに地獄を見た経験もある。
地獄に行くか極楽に行くか、生きている間にぐだぐだ考えていても仕方無い。
時間の無駄だ。
冷めた表情で湯飲みに口をつける彼の横では、亀蔵が声のする方をじっと見詰め、しきりに爪を弄くり回していた。
やがて、亀蔵は朱王に顔を向けやたらと真剣な声色で『すおーさん』と名前を呼んだ。
「ん? なんだ?」
「地獄って、どんな人が堕ちるんですか?」
突然彼の口から出た奇妙な質問に、朱王は視線をさ迷わせながら指先で頬を掻く。
「地獄、か……。そうだな、人の物を盗ったり、人を殺めたりした奴が堕ちるんだ。──ああそうだ、嘘つきは閻魔様に舌を抜かれるんだぞ」
遥か昔に聞いた子供騙しの世迷い事。
しかし、一瞬で亀蔵の顔が強張りふっくらした頬は蒼白に変わる。
「おいら……おいら地獄に堕ちる、んだ…… 嘘つきだから、もう、とうちゃんにも……会えないんだ……」
ぽっちゃりした身体がぶるぶる震え出す。
彼の様子に唖然とする朱王の前で亀蔵は円らな瞳から透明な雫を撒き散らし、わんわんと号泣し始めたのだ。
「お、い!? どうした? 亀坊、どうしたんだ!?」
己の隣で突然泣きじゃくり始めた亀蔵に朱王 は狼狽え、思わず手にしていた湯飲みを取り落としそうになる。
なんとか泣き止ませようと、頭を撫でたり背中を擦ったり試行錯誤する朱王の後ろでは、団子の包みを二つ持った娘が、きょとんとした面持ちで彼を見詰めていた。
次々と溢れる涙を拭おうともせず、亀蔵は更に声を張り上げて、わんわんと号泣する。
尋常ならざるその泣き声を聞き付けて、二人の周りには続々と人が集まってきた。
冷や汗を浮かべ、亀蔵を宥める彼の前に背中に大きな風呂敷包みを背負い、ほぼ水平になるまで腰の曲がった老婆が一人、杖をつきながらひょこひょこ近付いてきた。
「ちょっとあんた、子供苛めちゃ駄目じゃないか。こんなに泣かせて、可哀想にねぇ……」
「いや、俺は……」
『苛めているわけじゃない』そう続けよう とした朱王は、はっとした様子で集まる野次馬に目を向ける。
こちらに突き刺さる数多の視線はそのどれもが、『お前が泣かせたんだろう』と、無言で物語っていた。
今、自分は悪くないといくら言い訳しても通じるはずはない。
そう瞬時に判断するやいなや、朱王は団子代をその場に放り、弾かれるように立ち上がって、ぽかんと口を半開きにする娘から包みを引ったくる。
そして泣き続ける亀蔵を半ば強引に立たせ、その手をひっ掴んで、逃げるようにその場を後にした。
ぐすぐす鼻を啜る亀蔵の手を引き、顔を引き攣らせながら朱王はドブ板長屋へ向かう。
亀蔵の涙は止まったようだが、頬にはくっきり涙の跡が残り、目を真っ赤に充血させた彼を擦れ違う人々は怪訝そうな表情で見遣り、ついでに朱王には非難めいた眼差しを投げていく。
本当なら今すぐ逃げ出したい気分だが、こんな状態の彼を置き去りに出来るはずもなく、なによりそれが海華の耳にでも入れば、どやしつけられるのは火を見るより明らかだ。
髪を揺らす涼やかな風に吹かれて、額や首筋に滲んだ冷や汗が冷たく感じる。
茶屋からしばらく歩けば、目と鼻の先にドブ板長屋の黒ずんだ長屋門が迫る。
しかし朱王はその門を潜ろうとはせず、すぐ近くの人気がない小道へ亀蔵を連れ込んだ。
「なぁ、亀蔵。お前どうして地獄に堕ちるなんて思うんだ?」
どうしたらいいのかさっぱりわからず、困り果てた朱王は今にも泣きそうな声色で亀蔵に問う。
ぐすん、と一つ鼻を啜り、亀蔵は消え入りそうな声で呟いた。
「おいら……嘘ついた。この間描いた絵…… あれ、嘘なんです」
この間の絵、それが何を指すのか朱王にはすぐにわかった。
男を殺した下手人の人相描きだ。
「あの人相描き、やっぱり嘘だったのか。お前、本当は何も見ていないのか?」
身を屈め、なるだけ穏やかに尋ねる朱王。
彼の問いに、亀蔵は千切れんばかりに首を左右に振りしだいた。
「見た! 見ました! おばちゃんが……おばちゃんがいました!」
必死の形相で『おばちゃんがいた』と繰り返す亀蔵。
一杯に見開いた小さな瞳から、新たな涙が一筋流れ、青ざめた頬ををつたっていった。
再びぼろぼろ涙を流し始めた亀蔵の顔を懐から引っ張り出した手拭いでいささか乱暴に擦り、彼と視線を合わせるように地面に膝をつく。
真剣な眼差しで自分を見詰める彼に、亀蔵はしゃくり上げながら充血した瞳を瞬かせた。
「亀蔵、その『おばちゃん』ってのは、どこの誰なんだ? 俺に教えてくれないか?」
「──お侍様には、言わないでくれる?」
声を震わせ、不安げに瞳を揺らす亀蔵に朱王は静かに微笑んだ。
「わかった、お侍様には絶対に言わない。約束する」
ふっ、と亀蔵の表情が和らぐ。
人気の全くない裏路地、周りを囲む板塀の上に止まる一羽の小雀だけが、円らな瞳で二人を見守っていた。
「お蕎麦屋の、おばちゃんがいたんです……。おばちゃん、おいらの前を歩いていって……呼んでも止まってくれなくて……」
「それで追い掛けて行ったんだな? あの河原まで、おばちゃんの後ついて行ったのか」
こくん、と亀蔵が小さく頷く。
それと同時に、赤く染まった頬がひくひく引き攣った。
「おばちゃん、男の人と喧嘩して……おいら怖くて、目を瞑ってたんです。そしたら……男の人が寝てて、おばちゃんいなくなってて…… 赤いのが一杯……」
親指の爪をしきりに噛み、下を向いてしまった彼の肩を朱王が軽く叩く。
これだけ聞き出させれば、もう充分だった。
何よりあの人相描きが嘘だとはっきりしたのだから。
「わかった、よく話してくれたな。お前は良い子だ」
口元から白い歯を覗かせて微笑む朱王に亀蔵は乾いた唇を小さく戦慄かせ、消え入りそうな声で何事かを呟く。
それが聞き取れず、小首を傾げた朱王の顔を彼は穴が開くほど凝視した。
「おいら、やっぱり地獄に堕ちる? ……嘘つきだから、もう、極楽にいるとうちゃんと、会えないのかな……?」
暗く沈んだ声色が朱王の鼓膜を揺らす。
きっとお末は、死んだ父親は極楽に行った、とでも言い聞かせているのだろう。
「大丈夫だ。お前は地獄なんかに行かないよ。俺に、本当のこと話してくれたんだ。だから、とうちゃんともちゃんと会える」
『本当?』と涙声で呟く彼の柔らかい両頬をつまんだ朱王は、にゅぅ、と左右に引き伸ばす。
昔、泣きべそばかりかいていた妹によくやっていたことだった。
「本当だ。地獄にはやらないでくれ、って仏様に頼んでやるから。それよりもう泣くな! お前男なんだろ? お前が泣けば、かあちゃんが心配するぞ!」
横に引き伸ばされ、崩れた顔のままで『うにゃ』と奇妙な返事をする亀蔵。
笑いながら手を離し、彼へ団子の包みを渡した朱王が膝についた土を払ってゆっくり立ち上がる。
吹き抜ける風に舞う黒髪を片手で押さえ、彼は亀蔵の髷を結った頭を軽く撫でた。
「男はな、ちょっとやそっとで泣いちゃ駄目だ。わかったな?」
「うん……とうちゃんも、同じこと言ってた。おいら、もう泣かない」
汚れた袖口でごしごし目元を擦り、朱王を見上げた亀蔵は、いつものように見ているこっちが力の抜けそうな笑みを浮かべる。
にや、と口角をつり上げた朱王は肉付きの良い彼の手を握り、お末が待っているであろうドブ板長屋へと足を向けた。




