第二話
亀蔵を長屋まで送った海華は、足早に兄の待つ中西長屋へと向かう。
いつもより帰りが遅くなった、それは夕餉の時間も遅くなることを意味するのだから、きっと兄は腹を空かせて自分の帰りをやきもきしながら待っているのだろう。
先程会った亀蔵の母親のように『ご飯の支度はできている』と気のきいた言葉を一度でいい、兄の口から聞いてみたいと思いつつ海華は、星屑瞬く夜空の下で思わず苦笑いをこぼした。
兄に台所を任せれば、後から酷い目にあうことなど目に見えているし、なによりまともな料理が出来上がるとは到底思えない。
馬鹿なことを考えるのは止そう、と頭の隅で思いながら海華は戸口へ手を掛ける。
「ただいま!」
「やっと帰ってきたか、早く飯にしてくれ!」
行灯が柔らかな光を放つ室内、奥の壁に凭れて茶碗に注いだ酒を舐めている兄から開口一番出た台詞に、海華は再び苦笑を漏らした。
「ごめんなさい、ちょっと訳があってね……。すぐにご飯作るから」
畳に上がり、背負っていた木箱を下ろした彼女は休む間も無く継ぎの当たった藍色の前掛けを手にする。
部屋に入った時、一瞬兄が不機嫌になっているかと不安になったが、旨そうに茶碗を唇へ当てる彼の横顔を見る限り、その心配はないようだ。
「こんなに遅くなる予定じゃなかったんだけどね、亀ちゃんがいきなりいなくなっちゃって」
「なに、いなくなったって?」
傍らに置いた酒瓶を手に取りながら、朱王は顔だけを土間で手を洗う最中の妹へと向ける。
濡れた手を前掛けで拭い、彼女はこくんと頷いた。
「そうなの。いきなりふらっと姿見えなくなって、焦ったわよ。知らない男の人に……まぁ、自分からついて行ったのか、連れていかれたのかはわからないけど」
「随分無用心な奴だ。ちょろちょろ動くなと言っておけよ」
片手に持った酒瓶を茶碗の上で逆さに返してそう言った朱王は、直ぐに小さく舌打ちし、それを壁際に押しやる。
「そんなことより海華、明日にでも酒買ってきてくれ」
どうやら朱王には亀蔵がいなくなったことより酒が切れたことのほうが重要らしい。
右手に包丁、左手に大根を持つ海華は、残り少ない酒をちびちび啜る兄を横目に力無い溜め息をついた。
「わかりました、明日仕事から帰ったら買ってくるわ」
「ああ、頼む。明日は余り遅くなるなよ」
『はいはい』と気の無い返事をする海華の右手に握られた包丁がまな板に乗せられた大根をざくりと半分に切り分ける。
やがて、空きっ腹を抱える朱王の鼻をくすぐるように芳醇な味噌汁の香りが狭い部屋に広がった。
しかし、この日兄と交わした約束は結局守ることが出来なかった。
大根を刻む今この時も、波乱の神は静かに、気付かれることなく兄妹へ腕を伸ばしていたのだ。
翌日、海華はいつものように亀蔵と並んで柳が長い葉を揺らす辻に立つ。
前日とはうってかわり、雲一つ無い抜けるような青空に白い太陽が輝き、柔らかく吹くそよ風を薄絹にも似た羽に受けた赤蜻蛉が二人の頭上を滑るように飛びかった。
乾いた地面に蓙を敷き木箱の上に写生道具を並べた亀蔵は客を待つ間、陽光をその羽に受け、微かな煌めきを放ちながら過ぎ去る蜻蛉の群れを珍しそうに眺めていたが、今は口に楊枝を加えた左官屋の似顔絵描きに没頭している。
その傍らで朗々と義太夫を唄う海華は、日が高くなると共にその数を増す見物人らを人形が生み出す束の間の白昼夢へと誘う。
仕事に熱中していれば、時は矢のように過ぎてゆく。
気付いた時には、輝く太陽はすでに頭上高く昇っていた。
人波が幾分落ち着いたのを見計らい、海華は少し休憩しようと人形を木箱へしまい始めた。
「亀ちゃーん、ちょっとお休みしようか。 ……亀ちゃん?」
呼び掛けれど隣から返事は聞こえない。
はっと気付いた時には、既に蓙の上に亀蔵の姿はなかった。
「いやだ! もう、また勝手にいなくなっちゃったの!?」
眉間に深い皴を刻み、慌てて放置された蓙と木箱に駆け寄る海華。
辺りを見渡せど行き交う人波の中に亀蔵の姿はなかった。
と、先程亀蔵に似顔絵を描かせていた左官屋が、楊枝で歯をつつきながら彼女に向かって声を掛けてきたのだ。
「姉さん、ここにいた坊主探してんのかい? さっき、河原の方に走ってったぜ」
「え? 河原に? そう、ですか。ありがとうございます!」
ぺこんと左官屋に軽く頭を下げ、すぐさま彼が指差した方向へ走る。
そこは冷たく清らかな水を湛える大川の支流だ。
大小の丸い石に埋め尽くされた広い河原、川の真ん中辺りには白木で造られた頑丈な橋が美しい弧を描く。普段、河原に人はほとんどいない静かな場所だった。
茶や黄に枯れかけた草が風に揺れる土手を下り、きょろきょろ辺りを見回しながら大声で亀蔵の名を叫べば、時おり橋を渡る人々が不思議そうに河原で大声を張り上げる彼女を見下ろし、そのまま過ぎ去って行った。
「亀ちゃーんっ! ねぇ! 亀ちゃーんっっ! どこにいるのーっ!?」
よく通る海華の声は虚しく川を吹き抜ける風に消えていく。
まるで手招きするが如く、羽毛に似た穂を揺らす芒の群れ。
その中に、海華はあるものを見付けた。
それは薄い藍色に染められた粗末な絣の着物だ。
「いたっ! 亀ちゃんっ!」
頬を赤く染め、声に怒りを含ませた彼女は絣の着物目掛けて走り出す。
鬱蒼と背の高い芒が茂るそこは、ちょうど橋の真下に当たる場所だった。
「ちょっと! どうして勝手にいなくなるの!?」
足音も荒く芒を掻き分け、着物の袖口を思い切り引っ張る。
緩慢な動きでこちらを振り向いたのは、必死で探していた亀蔵その人だ。
「あ……みっちゃん」
まるで今夢から醒めたようにぼんやりと瞳を揺らし、亀蔵は眉をつり上げる海華を見詰める。
そんな彼の様子になんだか拍子抜けした海華は、その場でがっくりと肩を落としてしまった。
「みっちゃん、じゃないわよ。こんな所でなにしてるの?」
「あのおじさんが、起きません……」
彼女の問い掛けに、そうぽつりと答えた亀蔵は肉付きの良い人差し指で、すっ、と芒の根元を指差す。 怪訝な顔でその指先に目をやった海華の口から『ひっ!』と小さな悲鳴が上がる。
一杯に見開かれた瞳が映し出したもの、それは継ぎだらけの粗末な着物を一面どす黒い血で染め上げ、仰向けに倒れる男の骸だった。
芒野原の中に転がる骸を見てしまった海華は、無表情のまま立ち尽くす亀蔵の手をひっ掴み、番屋へと転がり込んだ。
今しがたまで蜻蛉が飛び交うだけの静かな河原は一転して大騒ぎ、血相を変えて飛んできた忠五郎と桐野、そして同心である都筑と高橋、その他大勢の侍らが駆け付けた時には、現場は黒山の人だかりが出来ていた。
土手に群がり遠巻きに筵が掛けられた骸を眺める者、橋の上から身を乗り出し口喧しく騒ぎ立てる者と、河原は大混乱だ。
人の背丈を遥かに超え、一面に生い茂る芒を踏み倒していく忠五郎と都筑を骸の傍らに立ち尽くして眺める海華と亀蔵。
すっかり意気消沈した様子で何度も深い溜め息をつく彼女の横では、きょとんとした表情の亀蔵が物珍しそうに、慌ただしく駆け回る侍らを目で追っている。
どうやら、彼は自分が見付けたものが死骸だとわかっていないようだった。
空気に触れ、黒く変色した血がこびりつく汚い着物。
天を睨むが如く、かっと見開かれた瞳は既に白く濁り始め、早くも死臭を嗅ぎ付けた蝿がぶんぶんと低い羽音を立てて筵の周りを乱れ飛ぶ。
河原を吹き抜ける涼しい風が柔らかな髪を撫で、微かな生臭さを青空へ運んでいった。
背後や頭上から響く野次馬らの声にうんざりした面持ちの海華の口から、今日何回目かの溜め息が漏れた時だった。
ざくざく枯れ草を踏み締める音が近くで聞こえ、項垂れる海華の前に黒い影が伸びる。
ふいに感じた人の気配に慌てて顔を上げれば、そこには心配そうに眉を寄せた高橋がいた。
「海華殿、大丈夫か? とんでもないものを見付けたものだな」
「はい……。でも、あの骸を見付けたのは私ではないんです。この子が最初に……」
その高橋の一言に、おろおろと視線をさ迷わせた海華は隣に佇む亀蔵に顔だけを向ける。
今の状況が飲み込めていないだろう彼は、何度も目を瞬かせて高橋を凝視した。
どこかぼんやりと掴み所のない雰囲気を醸し出す亀蔵に、高橋は一瞬怪訝そうな表情を見せる。
「あ……高橋様、この子ちょっと変わった子なんです。何かお聞きになりたいことがありましたら、私から……」
亀蔵と高橋を交互に見ながら、海華がそう言い添える。
『そうか。では頼む』そう短く答えた高橋は、不安げな眼差しを送る彼女を安心させるかのように小さな笑みを浮かべた。
高橋の背後では頭から足まで薄茶色をした芒の穂にまみれた都筑が、次から次に茂る雑草を踏み倒し、その傍らでは鈍い艶を放つ黒の羽織を纏った桐野が、部下らにあれこれ指示を下している最中だ。
喧騒と死臭に埋め尽くされた河原。
その中で目の前に立つ高橋をじっと見詰めている亀蔵。
ふと、彼は肉付きのよい福助顔を海華に向け、ひどく不思議そうに尋ねたのだ。
『あのおじさん、どうして寝たままなんですか?』と……。
『どうして起きないの?』その質問を聞いた途端、高橋はあからさまに動揺し助けを求めるような眼差しを海華へ向ける。
『こいつは何を言っているんだ?』そう言いたげな彼へ、海華は困りきったように眉を寄せ、ただ小声で謝るしかできなかった。
「申し訳ありません……あのね亀ちゃん、あのおじさんは死んじゃったの。仏様になったのよ。だからもう起きないの」
「死んじゃった……? 死んじゃった、死んじゃった、死んじゃった……」
小さな瞳を不安げに揺らめかせた亀蔵は、親指の爪をかじりながら『死んじゃった』と何度も何度も繰り返す。
初め見る彼の異様な行動に海華は息を飲み、高橋は顔を引き攣らせて一歩後退った。
「ね、ぇ、亀ちゃん、亀ちゃん落ち着いて、ね? こっち見て。あたしの方見て? 大丈夫、大丈夫だから」
「みっちゃん……おじさん死んじゃった…… 仏様になっちゃった……とうちゃんとおんなじになっちゃった……」
海華の両手を痛いくらいに握り締め、彼は太い眉を八の字に寄せる。
ひたすら『大丈夫よ』と声を掛け続ける海華と、そんな二人をなすすべなく見守る高橋。
そんな三人の背後から、突如悲鳴じみた女の叫びが飛んできた。
「亀蔵──っ! 亀蔵っ!? どこにいるのっ!?」
「あ! かあちゃんっ!」
その叫びを聞いた途端、亀蔵は海華の手をパッと離し勢いよく後ろを振り返る。
土手にずらりと並ぶ人垣を掻き分け、押し退けて転がるように駆けてきた小豆色の着物。
それは死人の如く真っ青な顔をした、亀蔵の母親だった。
半狂乱の態で息子の名を叫ぶ母親と、母親を呼びながら駆け出す息子は、河原の真ん中辺りで固く固く抱き合い、その場にいる全員の視線がその親子に集中する。
涙に声を詰まらせて息子を胸に抱き締める女をじっと見詰める海華の視界の端に、漆黒の長髪をたなびかせ、土手を走り降りてくる人影が飛び込んできた。
「海華っ!」
「あら、兄様!?」
すっとんきょうな声を上げて目を瞬かせる妹に脱兎の如く走り寄る朱王。
その後ろでは、真っ赤に上気した丸い顔から滝の汗を垂れ流し、土手の中腹にへたり込む留吉の姿が見えた。
「兄様どうしたのよ?」
「どうしたもこうしたもあるか! 留吉さんから聞いたぞ、お前死骸を見付けたんだって!?」
傍らの高橋に小さく会釈し、はぁはぁ息を切らして心配そうな眼差しを向けてくる兄を、ぽかんとした表情で見上げる海華だが、心の中では自分を案じて駆け付けてくれたことを嬉しく思っていた。
「最初に見付けたのは亀ちゃんなのよ。あたしはなんともないから……」
「そうか、よかった……。下手人と鉢合わせでもしていたら、どうしようかと思った」
ほっと胸を撫で下ろし、額に滲む汗を拭う兄に微笑みを投げ掛けた海華。
しかし、その顔がみるみるうちに曇り出す。
「下手人は見てないんだけど、殺された人には、見覚えがあるのよ……」
桜色の唇からぽつりとこぼれたその一言を、抱き合う親子と兄妹を交互に見ていた高橋の肩が小さく跳ねたことを朱王は見逃していなかった。
「海華殿! あの骸と面識があるのか!?」
いささか興奮気味の高橋は、海華にずいっ! と顔を近付け早口でそう尋ねる。
ぎくしゃくしながら頷いた彼女はちらりとほつれた端を風に靡かせる筵へ視線を向けた。
「どこの誰だかは知りません。でも、昨日の夕方見たんです。実は……」
海華は昨日の出来事を包み隠さず高橋に話した。
骸になった男が亀蔵と何やら話しをしていたこと、自分が声を掛けた途端に逃げ出してしまったこと……。
「さっきちらっと見ただけですけど、あの骸の目の下に古い切り傷がありました。顔つきや体つきも、昨日の人に間違いないと思います」
彼女が話している途中、何度も小さく頷いていた高橋はすぐさま上司である桐野の元へ走る。
彼と耳打ちしているところを見ると、今の話しをそのまま伝えているのだろう。
高橋の話しを聞き終わった桐野は、骸の側で 懸命に芒を踏み倒し何か手掛かりはないかと必死で探している都筑を大声で呼び、枯れ草を踏み締めながら兄妹へ向かってきた。
「海華殿、今高橋に話したことはまことか?」
「はい。きっと亀ちゃん……いや、亀蔵さんも覚えているかと」
「そうか。おい高橋。あの親子をここに呼んでこい」
顎を擦り擦りそう命じた桐野に高橋は『はっ!』と短く答え、親子の元に走って行く。
やがて彼に連れられてやってきた二人は不安を隠しきれない様子で女は赤く腫れた目元を粗末な着物の袖口で何度も拭い、亀蔵は幼子がするように母の胸に顔を埋めてしっかり抱き付いていた。
「まずは……そなたが亀蔵の母親か?」
低い声色で尋ねた桐野へ、女は蒼白い顔をがくがく縦に振った。
「はい、亀蔵の母の……末と申します。お、役人様! うちの子は人様を殺めるような真似が出来る子では……!」
必死の形相で桐野に言い寄るお末を朱王と海華がなんとか宥め、落ち着かせた。
痩せた体を小刻みに震わせ、おろおろと狼狽える彼女へ、桐野はにこりと微笑みを投げる。
「安心致せ、亀蔵の背丈では男の胸を刺し貫くなど無理な話し。儂は下手人を見たかどうかを知りたいのだ。息子に話しを聞かせてくれぬか?」
彼の言葉にほっとしたのか、お末は小さく頷き、胸にすがり付いていた亀蔵の顔をそっと撫でて耳許で何かを囁く。
すると、亀蔵は恐々と自分を見下ろす侍達を見上げた。
そんな彼と桐野を交互に見遣る兄妹。
突然、桐野の口から思いもよらぬ台詞が飛び出した。
「では……都筑、お主が亀蔵と話しをしてくれ」
「承知致しました!」
あっさり承諾してしまった都筑を呆気に取られた様子で見詰める海華、その隣に立つ朱王は桐野に気付かれぬよう、静かに高橋へ近寄った。
「高橋様、失礼ですがどうして都筑様に……?」
どう見ても彼は子供に好かれるご面相ではない。
がっしりと大きな顔に太い眉毛、大きな体躯で上から見下ろされれば、まるで熊と鉢合わせしたような気分になるだろう。
しかし、高橋は何ら不思議ではない、といった風にこう言い放ったのだ。
「都筑には甥と姪が合わせて二十人と少しいるからな。昔から子供を相手にするのは慣れているのだ」
それを聞いた瞬間、以前長屋を訪れた六人姉妹の顔が朱王の脳裏を掠めていった。
桐野に促され、ごほん、と一つ咳払いした都筑は、未だ視線をさ迷わせお末にしがみつく亀蔵の前に膝をつく。
大柄な彼は、そうでもしないと亀蔵と視線が合わないのだ。
「あー……坊主、いや、亀蔵と申したな?」
僅かに目尻を下げ、いつもより柔らかな声色で尋ねる都筑の顔をじっと見詰め、無言でこくりと頷いく亀蔵。
そんな息子の肩をお末は慌てたように平手で叩いた。
「なんですか亀蔵っ! ちゃんと答えなさい! ──申し訳ございません、この子は人様とは違うもので……」
ぺこぺこ頭を下げて謝り倒す彼女へ、都筑はにこやかな表情のまま首を横に振った。
「なに、よいのだ。あんなものを見たばかりだからな、致し方あるまい。ところで亀蔵、お前、あのおじさんと、一緒にいた人を見なかったか?」
子供に聞き取り易いようにか、大きな声で一言一言区切りながら話す都筑を前に、兄妹は顔を見合わせる。
普段は豪快が着物を着て歩いている、そんな表現がぴったりの彼とは大違いだ。
大きな顔に柔和な笑みを浮かべる都筑に警戒を解いたのか、亀蔵は母親から身を離し、『見ました』と消え入りそうな声で答えた。
「そうか、見たか。なら、その人は男だったか女だったか覚えているか?」
「────男の、人……」
一瞬の沈黙の後、亀蔵のふっくらした唇からこぼれた言葉は、何故だか小さく震えている。
分厚い手のひらで彼の肩を軽く叩いた都筑は、更に質問を続ける。
「男の人だったか。よく答えてくれたな。お前は賢い子だ。それからな亀蔵、その男の人の、顔は覚えているか? どんな顔だったか、ゆっくりでいいから思い出してくれないか?」
その途端、亀蔵は自分の足元に視線を落とす。
その顔は茹で上がったかと見紛う程紅潮し、広めの額やふくよかな頬から玉の汗が滴る。
『うぅ、うぅ……。』と低い呻きだけが、河原を吹き抜ける穏やかな風に溶けた。 あちこちに散らばっていた侍達も興味津々といった様子で都筑と亀蔵に視線を向ける。
一向に答える気配がない亀蔵。
しかし都筑は急かすことなく、変わらぬ柔和な笑みを絶やさなかった。
だらだら汗を滴らす亀蔵は親指の爪をひたすら噛み続け、今にも泣きそうに顔を歪める。
これは駄目だ、と皆が諦めかけた時だった。
兄と並び立っていた海華が、あ! と小さな叫びを上げ、ぽん! と一つ手を打ったのだ。
「絵よ! 絵にすればいいわ!」
その場にいた全員の視線が、ぱっと顔を輝かす彼女に集中する。
爪を噛み噛み不安げにこちらを見詰めてくる亀蔵に、海華はにっこりと笑いかけた。
「 ねぇ亀ちゃん、男の人の顔は、覚えてるのね?」
「──はい」
「なら、その人の顔、絵に描けるかしら?」
彼女の提案に彼はしばし目を瞬かせていたが、直ぐにこくりと首を縦に振る。
それを確かめた瞬間、海華は『筆と紙持ってきます!』と一声叫び、くるりと踵を返す。
そして唖然とした面持ちで自分を見る兄を残したまま枯れ草を蹴り飛ばし、土手に群がる野次馬らを掻き分け、例の辻へと走り去っていった。




