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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第二十八章 花狩狂夜
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第四話

 自分目掛けてふっ飛んでくる小太りの身体を志狼は間一髪右に飛んでかわした。

がつっ! と鈍い響きを立てて床柱に後頭部を強打させた男の顔は一面鮮血に染まり、鼻があるべき場所はお椀型に陥没している。


 どうやら鼻の骨が折れたらしく、厚めの唇も大きく裂けて唾液と血液が混ざった泡が首まで流れ落ちていた。

ずるずる畳に崩れ落ちた男はぴくりとも動かない。

ただ、未だその図太い腕に拘束された海華が必死に足をばたつかせていた。


 慌てて駆け寄る朱王と志狼がその腕を引き剥がし、乱れた夜着を纏った彼女を助け起こしたと同時、背後で仁王立ちになっていた都筑の巨体がぐらりと傾ぐ。


 「つづ……あっ!? おい、こらっ!」


 咄嗟に高橋が支えようと腕を伸ばすが、細身の彼に都筑が抱えられるはずもなく再び布団に倒れ伏してしまった彼は、ごぉごぉと低い鼾をかき始めた。


 「――都筑、寝ているのか?」


 「はい、熟睡……しております」


 呆気に取られた表情で都筑を見下ろす修一郎へ、高橋は戸惑いがちに答える。

その前では、兄に抱き抱えられた海華が薄く痣の付いた首もとを擦り、苦し気に小さく噎せ込んでいた。 それに気付いた修一郎は、直ぐ様その傍らに膝をつき、肩を揺らして荒い息をつく海華の手を握る。


 「海華っ! 怪我は無いか? 怖い思いをさせたな、すまん、すまなかった!」


 「あ……私なら平気、です。それより下手人は……? 都筑様は、ご無事です、か?」


 いささか掠れた弱々しい声、瞳を潤ませる海華は、それでも無理矢理作った笑みを修一郎へ向ける。

くしゃりと泣き笑いの表情を見せた修一郎は、分厚く暖かい手のひらで海華の頬を撫でていた。

再び深い眠りに落ちてしまった都筑の傍らでは、桐野が失神する男の手足を手早く持参していた縄で縛り上げ、高橋は何度も都筑の名を呼びながら体を揺すり、頬を叩いている。

そうまでされても都筑は目を覚まさなかった。


 「桐野様、どうやら……一服盛られたようです。この眠り方は尋常ではありません」


 「やはり眠り薬か。海華殿、この部屋に来てから都筑は何かを口にしたか?」


 だいぶ息も整い、兄の腕から抜け出して畳に座り込んでいた海華の目が、少し離れた場所に転がる徳利へと向けられる。

それには、底の部分に僅かな血が付着していた。


 「お酒を……屏風の裏に用意されていたお酒を、お飲みになりました。でも、ほんの少しです」


 おろおろと視線をさ迷わせながら言った海華。

確か都筑は奉行所でも一、二を争う酒豪、一人で一升飲み干したこともある、言わば蟒蛇うわばみだ。


 「酒、か……。きっとその中に仕込まれていたのだろう。都筑がたった徳利二本の量で酔い潰れるなど有り得んからな」


 顎の下を擦り擦り呟いた桐野が、ゆっくりと腰を上げる。

と、渡り廊下の向こう、母屋側から何人かの叫び声と廊下を走る騒がしい足音が全員の耳に飛び込んできた。


 「何じゃ今の音はっ!? 新之助――っ! どうした! 何があったのじゃ!?」


 一際大きく響く掠れた女の叫び。

その声の主が誰かよく知っている志狼を抜かす全員は、これから起こるであろう一波乱に小さく身震いし、 朱王は深い溜め息を漏らす。


 初夜の席から響いた怒号とけたたましい物音に血相を変え、渡り廊下を踏み抜かんばかりの勢いで現れた六姉妹と母親、その後ろには酒の為だろう赤ら顔をした姉妹の亭主らや都筑、高橋の同僚が続く。


 無惨に蹴り破られた襖、そこから室内へ駆け込んだ姉妹と母親の目に飛び込んで来たのは、血塗れで倒れ伏す見知らぬ男と、布団に仰向けで転がる都筑、なぜかこの場にいるはずもない……いや、いてはいけないはずの桐野に高橋、そして兄である朱王に寄り掛かった海華の姿と側に寄り添う修一郎の姿だ。


 一体何が起きたのか、と唖然とする姉妹らの横では、母親のお初が血だらけの男に仰天し、危うく失神しかけていた。

もう狭い離れは天地を引っ繰り返したような大騒ぎ、いびきをかいて眠り続ける弟の名を叫び、すがりついて 滅茶苦茶にその身体を揺さぶるおいち六実むつみらをなんとか宥めすかして母屋に押し戻し、右往左往する部下を一括、的確に指示を下す桐野と都筑を抱えて母屋まで引き摺る高橋に朱王、未だ酸欠気味で足元が覚束無い海華は志狼に付き添われ渡り廊下を歩く。


 大混乱の夜が過ぎ、皆が落ち着きを取り戻したのは明け方。

遠くで一番鶏が目覚めの第一声を張り上げた頃だった。


 東の空から白く輝く朝日が昇る。

いつもなら清らかに、神々しくさえ思えるその輝きも、一睡もしていない朱王達には網膜に突き刺さる無 慈悲な光の矢に感じた。

眠り薬が切れ、ようやく意識を取り戻した都筑は、しばらくの間意識朦朧の状態で『頭が痛い』と唸っていた。

昨夜の記憶は、海華に酌を受けている辺りでぷつりと途切れ、後はなにも覚えていないらしい。


 海華を『妻』と呼んだことも下手人を殴り飛ばしたことも勿論知らない。

やたらと右手が痛むのを感じ、何度も首を傾げていた都筑だが、自分とよく似た姉らが凄まじい表情でこちらを睨み付けているのを見るなり、 眠気も一気に吹き飛んだようだ。

燦々と朝日が射し込む大広間、昨夜行われた華やかな婚礼の余韻がまだ残るその場所で、修一郎以下六人はお初、そして六姉妹と対峙している。


 修一郎と桐野が淡々と事情を説明している間、背中を丸めて小さく縮こまった都筑と海華は生きた心地がしなかった。

まさに針の筵、いや五寸釘の筵に座っている気分だ。


 『この婚礼は花嫁殺しの下手人を誘き寄せる芝居だった』


 修一郎がそう告げた刹那、おいちの顔がみるみる真っ赤に上気し、こめかみに青筋が浮かぶ。


 「新之助ッッ! 上条様の仰られた事はまことか!? なぜ私達……母上までたばかったのじゃ!?」


 「そなた、武家の婚礼がどれほど重要がわからぬのですか!! 偽りの婚礼など……!」


 「そなたがやっと嫁を迎えると……やっと跡継ぎができると、母上がどんなにお喜びになられたかっ! 新之助っ! そなた母上のお気持ちを踏みにじるのかっ!?」


 おいち四乃しの五花いつかの怒声が部屋中に響き渡る。

姉妹の亭主らは嫁の剣幕に恐れをなしたのか、 隣室に籠ったまま顔すら出さない。

都筑はひたすら『申し訳ございません』と小声で謝るばかり。

俯いたまま、海華はちらりとお初へ視線を向ける。

元々小柄な体を更に小さく縮めたお初。

一回りも二回りも老けてしまった憔悴しきったその姿に、彼女の胸が針で刺されたように痛みを発した。


 「おいち殿、お初殿も、少し宜しいだろうか……?」


 恐る恐るといった感で、修一郎が柳眉を逆立てて弟を睨み付ける姉妹へ声を掛ける。

いくら腸が煮えくり返っているとはいえ相手は北町奉行、おいちは慌てて彼へ小さく頭を下げた。

ごほん、と一つ咳払いをした彼は乾いた唇を一舐めし、真っ直ぐにこちらを見詰める姉妹に目を向ける。


 「桐野が申したように、この度の一件は全て我々二人が仕組んだもの、都筑……いや、弟殿や海華は我らの言う通り動いただけ。どうぞもう責めないで頂きたい」


 きっぱりと言い切る修一郎に続き、その横に座した桐野が口を開く。

障子越しの庭から、賑やかな雀の囀ずりが聞こえた。


 「お奉行の仰る通り。全ての責めは我ら二人が負うべきもの、図らずも都筑家の家名を傷付けてしまった。だがお一殿、そなたの弟は立派に務めを果たしてくれた。どうぞ誉めてやって下さい」


 『本当に申し訳なかった』そう声を揃え、 二人は深々と頭を下げる。

これには姉妹も驚いた。


 「どうぞお顔をお上げ下さいませ!」


 六実むつみが悲鳴じみた叫びを上げ、四乃しのは真っ青な顔でおろおろと隣の姉を見遣る。

何しろ今頭を下げているのは、自分達より遥かに身分が上の人間、また弟の上司でもある侍もいるのだから。

謝罪を繰り返す二人の姿を見た都筑は、ぐっと息を詰め、膝の上に置いた手を力一杯握り締める。

朱王以下三人は複雑な表情を浮かべて互いに顔を見合わせていた。

と、今までしょんぼりと自分の膝を眺めていたお初が、ゆっくりと顔を上げ、修一郎に向き直る。


 「お奉行様直々のお褒めのお言葉、誠にありがとうございます。亡き主人も喜んでいることでございましょう。……上条様、我が息子は……皆様のお役に立てたのでございますか?」


 未だに悲しげな色を宿す瞳、小皺の寄った目元が僅かに下がる。

お初の弱々しい問い掛けを耳にした途端、修一郎と桐野は、がばりと身体を跳ね上げた。


 「この度の事件は、御子息の協力が無ければ解決しなかった。御子息だからこそ、私は海華を託したのです。進之介殿は、立派な男だ」


 修一郎の言葉が終わらないうちに、お初は小さな嗚咽を漏らして口元を右の袖口で覆う。

隣を見れば、六姉妹達も一様に目を潤ませていた。

修一郎と桐野の言葉により、姉妹の都筑に対する叱責はぴたりと止んだ。

安心したのも束の間、話の矛先は無言を貫き通してうつ向いていた海華へ向かったのだ。


 「ところで海華殿、そなたやは新之助と一緒になるつもりは無いのですか?」


 二美ふみの口から飛び出た突然の問い掛けに海華は縮み上がる。

覚悟はしていた、しかしこの姉妹方を前にはっきり断る勇気はなかなか出てこない。


 「あの、私は……確かに都筑様はご立派な方だと思っております、ですから、私などよりもっとよい方が……」


 「いやいや、私達も母上もそなたを気に入ったのです。このような騒ぎになってしまいましたが、是非ともそなたを都筑家の嫁に迎えたい」


 「そうですよ。なんなら今宵すぐに婚礼の仕切り直しをしましょう」


 おいち五花いつかが次々と口を挟み、当人達そっちのけで話を進めていく。

しどろもどろに止めるよう説得を始めた都筑の言葉も全く耳に入っていないようだ。

しきりに冷や汗を拭う朱王は、助けを求めるように修一郎と桐野に視線を向け、二人もこの場を乗り切る言い訳を必死に考えている。

『うぅぅ……』と修一郎が低く唸った、その時だった。


 「申し訳ありませんが、一言よろしいでしょうか?」


 畳に手をついた志狼が姉妹らにすっと頭を下げる。

全員の視線が彼に注がれた。


 「そなたは……確か桐野様の……」


 「はい、桐野様にお仕えしております志狼と申します。こう申しますのは誠に畏れ多いのですが……実は海華と私は夫婦の約束を交わしておりまして……」


 「「え――――っっ!?」」


 修一郎、朱王、そして桐野の口から驚愕の叫びが飛び出す。

青天の霹靂とはまさにこのことだろう。

修一郎は半ば腰を浮かし、朱王は張り裂けんばかりに目を見開いて志狼を凝視している。

桐野なぞは顎が外れたかと思うほど口をあんぐりと開けていた。


 「旦那様にも朱王さんにも隠しておりましたが、いずれは所帯を持とうと話しておりました。そうだな、海華?」


 「あ……はいっ! そうなんです! ですから都筑様とは結婚出来なくて……申し訳ございませんっ!」


 志狼と視線がかち合った瞬間、おろおろしながらも海華はがばっと頭を下げる。

しんと静まり返る室内。

この場に引き留められる高橋と都筑は、すぐにでも逃げ出したい気分だった。


 「そうでしたか……そのような理由なら、仕方がありません」


 いかにも残念そうな声で呟き、お初は何度か頷く。

姉妹らも深く眉を寄せ、志狼と海華を交互に見遣っていた。


 「惜しいのう、実に惜しい。だが、好きあった二人を引き裂くのはあまりにも酷じゃ」


 『諦めるしかない』溜め息混じりに呟いたお一の一言は、頭が真っ白になった状態の男三人には聞こえていなかった。

完全にかたまってしまった部屋の空気。

清らかな朝日が白い帯となり射し込むのを呆然と眺める朱王の耳に、どこかでがぁがぁ鳴き喚く烏のだみ声が届く。

彼には、それがこの世の終わりを告げる神の声に聞こえていた。


 皆が都筑の屋敷からやっと解放されたのは、 昼近くになってのことだった。

目の下に薄い隈を浮かせ、疲労困憊した様子の都筑に見送られ玄関を出た修一郎ら五人、海華は未だ玄関先で見送りに出た姉妹やお初にぺこぺこと頭を下げている。


 燦々と降り注ぐ暖かい日射し、煌めく陽光を受けて目を細めた志狼が欠伸を噛み殺しながら重厚な門を潜り抜けた、その時だった。

突然朱王が志狼の腕を思い切り引き、傍らの修一郎がその身体を押す。

あれよあれよという間に、志狼は黒ずんだ板塀の陰、人目につかない場所へ押し遣られた。


 「志狼さん、さっきの話しはどういうことだ? 俺は何も聞いていないぞ!」


 「お主本当なのか!? 本当に海華と……」


 「なぜそんな大事なことを儂に黙っていたのだ!?」


 正面に朱王、左右それぞれ修一郎と桐野に囲まれ、志狼はきょとんと目を瞬かせる。

三人共にまさに鬼気迫る表情で彼を凝視し、修一郎は寝不足で充血した目を裂けんばかりに見開き、桐野のこめかみには、ほつれた髪が一筋脂汗で貼り付いていた。


 「なあ、あんた海華とどこまでの仲なんだ!?」


 痺れを切らした朱王が押し殺した叫びを上げる。

指先で頬を掻きながら、志狼はへらりと軽い笑みをもらした。


 「どこまでって……そりゃあ相当深い仲、だな……」


 ぐらりと朱王の視界が揺れる。

桐野はがっくり肩を落とし、修一郎は魂が抜けてしまったかのように目が虚ろだ。

打ちのめされる男三人の隣を、鼠をくわえた野良猫が風の如く走り去っていった。

今にも泣き崩れてしまいそうな朱王、目の前は既に真っ暗になり、思考は完全に止まっている。

凍り付いた時を再び動かしたのは、志狼の口から出た『冗談です』の一言だった。


 ぽかん、と口を半開きにする三人の間抜け面を前に、彼は盛大に破顔した。


 「じょ……冗談……っ!?」


 唇をわなわな震わせ、修一郎がやっと言葉を絞り出す。

朱王と桐野は未だ状況を飲み込めていないようだ。


 「全て私の作り話です。勿論海華とはそんな関係ではありませんし、一緒になる約束もしておりません」


 「どうしてそんな嘘を申しのだ!」


 「ああ申さなければ、お一様方は海華を諦めて下さらないと思いましたもので。驚かせてしまいました、 申し訳ございません」


 この時ばかりは声を荒らげる桐野と、放心状態の修一郎へ彼は小さく頭を下げる。

が、その頭を上げた途端反対に朱王には悪戯っぽい笑みを見せた。

生唾を一度飲み込み、乾いた唇を舐めた朱王の口から、小さな問い掛けがこぼれた。


 「本当に……本当に、海華とはなんでも無いんだな?」


 「当たり前だ。誰があんなじゃじゃ馬…… あっと、失礼致しました」


 片手で口元を押さえながら、志狼は修一郎へ一礼する。

海華は修一郎の妹でもあることを今更ながらに思い出したようだ。


 「でも、海華が上手く話し合わせてくれて助かった。『違う』とでも言われたらどうしようかとひやひやしたんだ」


 「まぁ……あいつも馬鹿ではないからな……」


 顔を引き攣らせながらも、朱王は僅かに口角をつり上げる。

その隣では、安堵したのか力が抜けたのかわからぬ様子の修一郎と桐野が、ぐったりと板塀に寄り掛かり深々と溜め息をついていた。


 寝不足と志狼から受けた心理的打撃にふらふらになりながらも、長屋に帰った朱王の仕事はまだ終わらない。

何も知らずに祝福してくれた伽南や幸吉ら、その他大勢の人々の所をお詫び行脚し、海華と 二人ひたすら頭を下げて貰った祝儀を返しに回る。


皆にわかには信じられない話しに驚愕の表情を浮かべて二人を問い質したが、海華が懐から引っ張り出した瓦版を見るなり、一様に言葉を失っていた。

海華が帰り道で買い求めた瓦版には、事の顛末が詳しく書かれていた。

どうしてこんなに早く話が広がるのか、二人が思うよりずっと世間は耳ざといようだ。


昼前に出掛け、長屋に戻ったのは橙色にぎらつく太陽が紫に染まる西ので輝く頃。

体力気力共に限界を向かえ、足元も覚束無い二人を待ち構えていたものは、今日最大の敵。

しかも手強い相手が複数戸口の前に群がっている。

何を隠そう、この長屋に住まう女房連中だ。


「ちょいと朱王さんっ! 海華ちゃんも! これは一体どういう訳だねっ!?」


げじげじ眉毛を一杯につり上げ、怒気を含ませた叫びを上げたお石が、擦り切れ畳に広げられた皺だらけの瓦版を力一杯平手で叩く。

お石の後ろには、長屋に住む者ら、老若男女ほぼ全員が押し掛けて狭い室内は互いの肩が触れ合うくらいにごった返している。


 入りきらない者は土間から室外にまであふれ、全員の視線が壁際に押しやられた兄妹へと集中していた。

『申し訳ありません』『お騒がせしました』昨日から数え切れないほど言ったであろう謝罪の言葉をひたすら繰り返し、二人は事情を話して謝りに謝り倒す。

こうなれば言い訳なんざ通用しないのだ。


 「皆さんを騙すつもりは全く……頂いたご祝儀はきちんとお返ししますので」


 「ごめんなさい! 本っ当にごめんなさいっ!」


 額に畳の跡がつくほど深々頭を下げ続ける兄妹。

その耳に入るざわめきの中に、最早二人を責める言葉はなかった。


 「まぁねぇ……お上に頼まれたんなら、仕方無いかねぇ……」


 「あんまり責めても可哀想だよ。好きで嘘ついた訳じゃないんだからさ」

 

 お石とその隣に座ったお多喜の台詞に、その場にいた全員が大きく頷く。

ほっと安堵の息をつき、二人がそろそろ顔を上げた瞬間、土間の近くから間延びした嗄れ声が部屋に響いた。


 「あたしゃあねぇ、ずーっとおかしいなぁ、と思ってたんだよねぇ」


 数多の視線がその声がした方向に一斉に集中する。

視線の先には継ぎ接ぎだらけの粗末な着物を纏い、黄ばんだ白髪を結い上げた老婆、おさきが背中を丸めて座っていた。


 「なんだいおさきさん、まさか今度の話し知っていたのかい?」


 「馬鹿だねぇ、そんなの知るわけないじゃないか」


 怪訝そうに眉を潜めるお多喜に、ゆるゆると首を横に振りながら彼女が答えた。


 「あんた方は何年この二人を見てんだい? 海華ちゃんが嫁ぐとなってさ、朱王さんが大騒ぎしない訳ないじゃないか」


 にや、と色気の悪い唇をつり上げ、おさきは兄妹へと視線を向ける。

嫌な予感が朱王の背筋を駆け抜けた。


 「知らぬ男と茶店に入ったってだけで皿は飛ぶ茶碗は飛ぶの大喧嘩だ。いくら相手がお侍だからって、『嫁にくれ』『はい、どうぞ』 なんて簡単にいくなんてあり得ないと思ったよ」


 「いや、おさきさん……」


 真っ赤になりながら言い繕う朱王をよそ目に、ああ! と一言叫んだお石が、ぽん、と一つ手を打った。


 「そう言われりゃあそうだよねぇ!この朱王さんが、簡単に海華ちゃん手離す訳ないよねぇ。さすがおさきさんだ!」


 『年の功にゃ勝てないよ』 誰かが放った一言に、どっと笑いの渦が巻き起こる。

楽しげに笑い合う人々の前で兄妹だけは小さく縮こまり、紅潮した顔から止めどなく冷や汗を垂れ流していた。





 「──どうだ、お前達の周りは落ち着いたか?」


 猪口を口に運びかけた修一郎が、苦笑いを交えて正面に座る兄妹に問い掛ける。

偽りの婚礼から十日余りたった日の夜、兄妹と都筑、高橋は、首謀者である桐野と共に修一郎の邸宅へ赴いていた。


 「はい、なんとか……。長屋の人達もわかってくれましたので。私達より、都筑様は?」


 心配そうな声色で尋ねる朱王は、ちらりと自らの左前方へ座した都筑へ目を遣った。

今日は新月、月明かりも入らぬ室内に光源は行灯が一つだけ。

ぼんやりと暖かい光に浮かぶ都筑の顔は、心なしか窶れて見えた。


 「俺か? まぁ……姉上も母上もあれからは特に何も言わんかった。親戚連中からは色々と小言を食らったが、な」


 へらり、と相貌を崩して都筑は太い指で頭を掻く。

だが、その隣にいた高橋はひどく暗い表情を見せていた。


 「──俺の方は酷い目に合ったぞ? 小梅から散々どやしつけられて……」


 酒を飲み下したそばから深い溜め息を漏らす彼に向かい、修一郎は困ったような笑みを浮かべる。


 「なんだ、お主もか。俺も雪乃の奴に半日説教を食らったぞ。『嘘八百で白無垢を着せるなんて、海華ちゃんが可哀想だ』とな」


 失笑とも取れる複数の小さな笑いが、紗を掛けたような薄い闇に溶ける。

どうやらそれぞれ後始末が大変だったようだ。

雪乃に怒鳴られる修一郎の姿を想像したのか、湯飲みを手で包む海華が、ぷっ、と吹き出した。


 穏やかな面持ちで酒を啜る桐野が小さな咳払いを一つ、空の猪口を畳へと置いた。


 「話は変わるが……下手人の男がな、昨夜全てを話した」


 静かに紡がれた台詞に、その場の空気が一瞬で静まり返る。

朱王も海華もすっかり忘れていたのだ、都筑の鉄拳に鼻面をへし折られ、無様に失神していたあの男の存在を。


 「そうか。先の殺しも、全部奴の……増田屋の使用人の仕業だな?」


 温厚な修一郎の顔から北町奉行の顔へ瞬時に変わった彼は、がっちりとした顎を指先で擦る。

桐野は沈んだ眼差しを彼へと向け、一度だけ首を縦に振った。


 「そうだ。あいつなら、どの家で婚礼があるのかもいち速くわかる立場だったからな」


 「どうして、あんなことをしたのですか?」


 ちょこんと小首を傾げて尋ねる海華の問いに答えたのは、空にした猪口を畳へ置いた高橋だった。


 「止められなかった、そう奴は言っていた。 最初の一件は、完全に好奇心から起こした事件らしい。こっそり初夜の床を覗いたら花嫁と鉢合わせ、騒がれては困るからと絞め殺した。その……犯したのは死後だと」


 ちらちら海華の様子を窺い、なるべく言葉を選びながら言う高橋は神経質に羽織の袖口を弄り回していた。


 「一度目が上手くいったから、二度目、三度目と繰り返したという訳ですか?」


 軽く目を閉じ、そう低く呟いた朱王に高橋は 『ああ』と短い返事をした。


 「いつお縄になるかとびくびくしていたようだが……。花婿から花嫁を奪うのが快感だったと。そうほざいていた」


 「芯から腐った奴め。あやめられた娘らが憐れだ」


 くしゃくしゃに顔をしかめ、いささか乱暴な手つきで猪口に酒を注ぐ修一郎は、ほんのりと甘い香りを放つ液体があふれそうなそれを慎重に持ち上げながら、ふと桐野へ視線をむける。


 「酒に仕込まれていた眠り薬、あれはどうだった?」


 「勿論奴の仕業だった。料理だの酒の用意だので、慌ただしかった台所に忍び込んだのだ。その前にこっそり隠れて様子を窺っていたと。 そこで離れに運ばれる酒がどれかを知ったようだ」


 そう一気に言い切った桐野は、ふぅ、と微かな溜め息をつく。

それに合わせたように行灯の灯りがふらふらと揺れ、とろりとした闇に光の粒子が広がった。

ここにいる皆の気持ちを察しているのか、いつもは賑やかに羽を震わす秋の虫達も今宵は沈黙を貫き、漆黒に塗り潰されて静まり返った庭では、花弁を閉じた菊の花が涼しいそよ風にゆっくりと揺られている。


 「やりきれんな……やりきれんが、桐野よ、茶屋の娘の敵は討てたな?」


 重苦しい空気を打ち消したいのか、修一郎は自分の正面で静かに酒を啜る彼へ語りかける。

僅かに笑みを形作る唇、しかし瞳には確かな哀しさが宿っていた。


 「敵討ち……か。いや、儂は自分が遣るべき仕事をしたまでだ。まあ、都筑と海華殿の協力あってのことだがな」


 その言葉に、都筑は恐縮しきった様子で頭を下げ、海華は兄と顔を見合わせてにっこり微笑む。

だが、朱王の顔からはすぐに笑みが消え、どこか困ったように眉を寄せて修一郎へ向き直った。


 「あの……修一郎様。申し訳ないのですが、一つだけお願いしたいことがございます」


 「ん? 願い? なんだ遠慮なく言ってみろ」


 ぐっと体を前に乗り出し、頬を緩める彼に対して朱王は気まずげに視線を膝先へと落とす。


 「実は……白無垢のことなのですが」


 「白無垢? ああ、代金のことか? それなら心配無用だ。全てこちらで……」


 「いえ! 違うのです。お金のことでは……」


 「なに? 違うのか?」


 修一郎の言葉を慌てて遮る朱王を、皆きょとんとした表情で見詰める。

言いにくそうに口ごもりながら、彼は消え入りそうな声で囁いた。


 「今、うちにある白無垢を……こちらで預かって頂きたいのです」


 実は……と朱王は早口で訳を述べ始める。

海華の結婚が偽りだと知ったお石が、『せっかくの白無垢が黄ばんで駄目にならないうちに!』と毎日のように海華の見合い話しを持ち込んでくるのだ。


 朱王がそれを片っ端から断り続けると、今度は『海華ちゃんが嫁にいかないのは、朱王さんが早く嫁を貰わないからだ!』と勝手に決め付け、朱王の見合い話しも合わせて持ってくるようになったのだ。


 「ですから、白無垢を手放せばお石さんも諦めるかと……修一郎様、どうぞお願い致します」


 「あ……あぁ、そういう訳か。わかった、御安いご用だ。こちらで預かろう」


 ほっとした様子で深々と頭を下げ、礼を述べる朱王を唇の端をひくつかせて見遣る修一郎と、笑いを噛み殺すのに必死な桐野、都筑、高橋。

それを横目に海華は苦笑しながら冷めかけた茶を啜る。


 『結婚』『花嫁』『白無垢』。

この言葉はしばらく耳にしたくない。

兄妹が、そして修一郎が染々とそう感じたこの秋。

長い長い夜は、障子の向こうで深々と更けていった。









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