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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第二十八章 花狩狂夜
133/205

第三話

 長屋のほぼ全員に見送られ、籠に乗った海華は八丁堀にある都筑宅へと出発した。

日本晴れの空の下、ゆっくり進む花嫁行列に道行く人々の目は吸い寄せられ、にこやかな笑みをもって送られる籠の中では、心地好い揺れと暖かさも手伝ってか、海華がうとうと微睡んでいる。


 八丁堀にある都筑の屋敷は、桐野の屋敷より小さく敷地も狭いがよく手入れされており、白壁にはひび一つ無く、鈍色の瓦が秋の陽射しに煌めいていた。

重厚な門を入った玄関前では、こちらも中西長屋と同じく沢山の来客でごった返しており、都筑の母であるお初や姉らが忙しそうに、しかし満面の笑みを持って客の対応をしている。

奥にある台所では手伝いの女らが腕によりを掛け、料理や酒の支度に精を出していた。


 この屋敷で一番広い大広間、間仕切りの襖を全て取り払った二十畳程もあるそこには、大きな金屏風と左右にぼんぼりが置かれ、花婿と花嫁が来るのを待ち構えるように輝かしい光を放っていた。

海華の到着を控えの小部屋で待つ都筑は、肩衣に袴姿の正装だ。

角張った顔は茹で蛸のように真っ赤、だらだら流れる汗を幾度も手拭いで拭う彼の前には、紋付き袴姿の修一郎に桐野、そして高橋の姿がある。


 いつもと変わらぬ様子で出された茶を啜る桐野とは対称的に、修一郎と高橋はそわそわと落ち着かない。

特に修一郎は、都筑同様吹き出る汗を拭い、その度に厚い唇から溜め息を漏らしていた。


 「桐野様、海華はまだでしょうか?」


 「ちと遅くはないか? 今頃どの辺りだ?」


 何度も瞬きを繰り返す都筑と、胡座を組んだ膝を忙しなく揺らす修一郎が、ほぼ同時に桐野に問う。

そんな二人に苦笑いを見せた桐野は、顔だけを玄関の方向へ向けた。


 「もう少しで到着するだろう。少しは落ち着け。花嫁は逃げぬ」


 そう言いながら顔を二人へ戻した桐野は、ふと何かを思い出したように懐を探り、三つ折りにした和紙を畳へと広げた。


 「今日の客にこの者らがいないか、よく見ておいてくれ」


 三人が一斉に広げられた紙を覗き込む。

そこには、三人の男の人相書きが描かれていた。


 一人目は、年の頃三十半ば、丸顔で右目の下に大きな黒子が一つある。

二人目は、年の頃二十歳後半、細面の顔に尖った顎、切れ長の瞳がどこか狐を思わせる。

世間一般で言えば色男の部類に入るだろう。

そして三人目は、贔屓目に見ても五十は過ぎていそうな中年男、頬の肉が弛み、分厚い唇に肉に埋もれた瞳は、前者とは対称的だ。


 「この者らの誰かが、下手人でございますか?」


 じっと人相書きを見詰める高橋がぽつんと呟く。

顎の下を指で擦り、桐野は再び懐から同じ人相書きを三枚引き出した。


 「この中の誰かかはわからぬ。ただ、こ奴らは増田屋で今回の婚礼のことを店の者らに尋ねていたのだ。その様子が、どうも怪しいと思ってな」


 因みに一人目は増田屋に反物を運ぶ人足、二人目は増田屋近くに店を構える酒屋の道楽息子、そして三人目は、増田屋の下働きをしている使用人だ。


 『各自これを持っていろ』と、桐野は人相書を三人に渡す。


 「修一郎、お主はこれを朱王にも見せてくれ。 都筑、お主は海華にだ。いいな?」


 「承知、しました……。ですがこれから婚礼が始まりますが……」


 いつ見せれば良いのか、と僅かに戸惑いを見せる都筑に桐野は呆れたような眼差しを向けた。


 「何を言っている。婚礼の儀が終われば、離れで二人きりになるだろう。そこで見せればよい」


 桐野が何の含みも無く言った、『離れで二人きり』という台詞。

しかし、それを聞いた都筑は髪の生え際まで更に真っ赤になり、傍らの修一郎は今にも泣き出しそうに顔を歪めてしまった。


さて、海華の乗った籠が到着し、いよいよ婚礼の儀が執り行われる。

ぼんぼりの光を受けて鈍い輝きを放つ金屏風の前で、左に海華、右に都筑が座し、その前にはいささか緊張した面持ちの来客がずらりと並び、花婿と花嫁に視線を集中させていた。


 ただ座っているしかやることが無い海華は、すっぽり頭からかぶった綿帽子の下からそっと来客らの観察を始める。

何しろ隣に座る都筑は真っ赤な顔をして石地蔵のように固まったまま、海華がここへ到着してからろくに口もきいてくれない。


 緊張しているから仕方無いとは言え、三三九度の時などは、おこりに罹ったかと思われるほど手を震わせ、注がれた水を半分はこぼしていた。

なぜ三三九度が水杯で行われたのか、それは海華が滅法酒に弱いからである。

もし何かがあった時、酔い潰れて動けないなど本末転倒だと、桐野が手を回して酒を水にすり代えてくれたのだ。


 浪々と唄われる高砂、皆が静かに下を向き、厳かな雰囲気が流れる大広間。

それがひどく退屈で、何度も欠伸を噛み殺す海華は、ちらりとお初、おいち姉妹へ視線を向けた。

都筑家の紋がついた漆黒の礼装姿のお初は、目尻を何度も指先で拭い、側に座した姉妹達は始終にこにこと笑みを絶やさない。

姉妹の亭主であろう侍達の姿もあり、それが揃って同じような男なのだ。


 大柄な嫁とは正反対、色は青白くひょろりとした貧弱な体型、気弱そうな青瓢箪が六人遠慮がちに座っている。

顔も性格も似通っていれば、男の好みも似ているのか、海華は吹き出しそうになるのを堪えるのが精一杯だ。


 次に朱王と修一郎へ視線を向ける。

普段着慣れていない紋付きに身を包んだ兄二人を見るなり、思わず都筑には聞こえないくらいの小さな溜め息が、紅を塗った唇から漏れた。


 二人揃っておいおい泣いているのだ。


 顔を俯かせた朱王は肩を震わせ、鼻先から止めどなく滴る透明な雫が袴に暗いしみを作り出している。 修一郎はと言えば、泣くを通り越して号泣だ。

掠れた嗚咽を漏らし、右腕を顔に当てて泣きじゃくる彼の隣で戸惑った様子の雪乃が懸命に慰めの言葉をかけ続けている。


 そんな二人の周りでは、都筑の親戚か同僚かわからぬ侍らが、唖然としながら泣き崩れる男らを見詰めていた。

兄である朱王が泣くのはわかる、しかし媒酌人の立場としてここにいる修一郎が号泣してはあまりに怪しいのではないか?

ひやひやしながら二人を見ていると、傍らにいた桐野が『お奉行は花嫁を子供の頃から知っている』、『妹のように思っている』などと苦笑いしながら周りに釈明していた。


 高砂に合わせて響く兄二人の泣き声を聞きながら、下手人がお縄になることより、あの二人をこの後どうするかの方が重要だ。

そう心中思う海華、やがて豪勢な料理と酒が広間に運ばれてくる。

『婚礼』が『酒盛り』に変わってからしばらくたった頃、海華は一人雪乃に手を引かれて大広間を後にする。


 心臓が爆発しそうになるのを感じながら、一人金屏風の前に残された都筑、彼は気付いていなかった。 花嫁が退室したと時を同じくし、修一郎、朱王、桐野、高橋の姿もこの場から忽然と消えていたことを……。





 母屋から渡り廊下を渡った所にある小さな離れ。

その障子戸の前に、純白の夜着に身を包んだ都築が一人立ち尽くしていた。

遠くから聞こえるどんちゃん騒ぎに沢山の笑い声、それと引き換えこちらは虫の奏でる音色だけが響く、静かな領域だ。


 濃い群青に染まる夜空には、細い三日月が一つ浮かぶ。

それを仰ぎ見ながら、都筑は深々と溜め息をついた。


 身体中からじっとり汗が滲み出す。

母屋でしこたま飲まされた酒のせいではない。

いよいよこれから初夜の真似事をしなければならない、緊張と訳のわからない焦りが汗を滲ませているのだ。


 同僚らのにやついた視線を背中に受け、ふらつく足取りで広間から出た都筑は近くの小部屋で夜着に着替え、びくびくしながらこの離れにやってきた。

その際、着替えが終わったのを見計らうように、二美ふみがひょっこり顔を出し、固まりきった都筑の耳許でこう囁いたのだ。


 『しっかり気張るのですよ。子は多ければ多いほどよいのですから。立派な世継ぎを、いいですね?』


 その瞬間頭が真っ白になり、なんと答えたのかも覚えていない。

半ば呆けたように離れまで来たが、どうしてもこの障子戸を開ける勇気が出なかった。

はぁぁ……と小さな溜め息が再び口から漏れる。

しかし、いつまでもここに突っ立っている訳にはいかない。


 「――えぇっ! どうにでもなれ、っ!」


 ほとんどやけくそになりながら、薄い柿色の光が透ける障子戸に手を掛け、がらりと横に引き開ける。 目の前に広がっていたのは、六畳程の床の間に敷かれた一組の布団。

当たり前のように枕は二つあり、枕元には千鳥を描いた屏風が広げられている。

行灯が一つ灯るだけの薄暗い空間、絹で出来ているだろう布団の上に自分と同じく純白の夜着を纏った海華が、ちょこんと座っているのを見た途端、都筑は軽い目眩を覚えて力一杯引き 戸を握り締めた。


 「あ、都筑様。遅かったですね」


 こちらを振り返った海華は、都筑の姿を見てにこりと白い歯を覗かせる。

頬を引き攣らせ、泣き笑いの表情を浮かべて無言で頷いた都筑の首筋から汗が一筋滴り落ちた。


 「まっ、ままま……待たせた、な。どうだ、っ? 変わりはないかっ!?」


 完璧に引っくり返った声でそう問うと、海華は『はい』といつもの調子で明るく答えた。


 「ついさっきまで雪乃様がついてて下さったんです」


 「奥方様が!? お前、何か……」


 「いいえ、今回の件については話してません。 でも『全部都筑様にお任せすれば大丈夫よ。 楽にしていれば、すぐに終わるから』って言われました」


 あっけらかんとしたその台詞に、都筑は湯気を出さんばかりに顔を紅潮させる。

喉はからから、舌は干からびたように動かない。 と、その時、海華の真上辺りの天井裏から、かたかたと小さな音が聞こえ、おもむろに天井の一部が横にずれる。


 『何奴だ!?』と叫ぶ間も無く、開いた穴から顔を出した人物を目にした途端、都筑は顎が外れんばかりに大口を開けていた。


 「都筑様! やっといらっしゃいましたか」


 にゅっ、と突き出た精悍な顔、やや癖のある髪を後ろで軽く束ねた男、それは都筑もよく知る志狼だった。

なぜ、上司の使用人が屋根裏なんぞにいるのか、ぐちゃぐちゃに混乱する頭で必死に考えるが、なかなか掛ける言葉が出てこない。

そんな都筑を察したのか、志狼は小さな笑みを薄めの唇に浮かべる。


 「都筑様がいらっしゃらない間、海華に何かあっては大変だ、と旦那様が」


 「志狼さんがいてくれて心強いわ。今晩はずっとそこにいるの?」


 「あぁ。都筑様、旦那様とお奉行様は庭に、朱王さんと高橋様は渡り廊下で待機しております」


 『ですから、どうぞごゆっくり』


 にやぁ、と 意味深な笑みを残し、口をぱくつかせる都筑の前で志狼は再び天井裏へと消えていった。


 『どうぞごゆっくり』志狼の冷やかしが頭の中をぐるぐる回る。

軽い目眩を覚えながら、都筑はその場にへたり込んでしまった。


 正面の庭には上司とお奉行、背後の渡り廊下には花嫁役の兄と同僚、そして頭上には上司の使用人がこちらの様子を窺っている。

そんな状況で女と『致せる』男がいるなら会ってみたい。


 頭を抱えて低く唸る彼に小首を傾げながら、海華はおもむろに立ち上がり、屏風の側に置かれていた徳利と杯が二つ乗った盆を手に都筑の隣へ腰を降ろした。


 「そう緊張しないで下さいよ。誰も取って食べ たりしませんから。まぁ、お一ついかがです?」


 にっこり微笑み、猪口を差し出す海華。

しかし都筑はそれを受けるのを躊躇った。


 「いや、しかし……もし賊が襲ってきた時、俺がへべれけになっていては……」


 「そこまで酔っ払う量じゃありません。もしも都筑様が寝てしまわれたら、私が必ず起こしますから。景気付ですさ、どうぞ」


 そんな海華の言葉に甘え、都筑は酌を受けた。

一口、二口飲むうちに緊張はだいぶほぐれていく。

人肌に温められた酒が喉を落ちていく感覚が、とても心地好かった。


 「下手人、うまく引っ掛かってくれたらいいですね」


 「うむ。ここで食い止めるねばな。またどこかの花嫁が殺められることになる」


 初夜の床とは思えない物騒な会話。

ふと思い出したように都筑は懐をまさぐり出す。

そして、海華の前に桐野から渡されたあの人相書きを広げだした。


 「海華、この三人の誰かを、今日見なかったか?」


 「今日? ええっと……あ、この人なら見ました。昼間長屋の近くにいて、私が籠に乗るのを見物してました。顔に大きな黒子があったし、普段見掛けない人だったから、よく覚えてます」


 ぱちぱち目を瞬かせ、海華は青畳に広げられた人相書きの一人を指指す。

それは、増田屋に反物を運ぶ人足の人相書きだった。


 「なに、長屋から? それで、奴はここまでついて来たのか?」


 「そこまでは……何しろ、ずっと籠に乗っていましたから」


 申し訳なさそうに眉を下げる海華へ、都筑は小さな笑みを向けた。


 「気にするな。俺だって、ついさっきこれを渡されたのだ。第一、見物人の顔を全て覚えるなんて出来んからな」


 今日初めて目にしたかもしれない都筑の笑顔に、海華もほっと胸を撫で下ろす。

それからはいつもと変わらぬ様子に戻った都筑、海華の酌を受けながら、母親や姉達、その亭主についてを時おり笑みを交えて話し出した。


 とろとろと柔らかい光を放つ行灯、微かに響く虫の音。

何事も起こらぬままに夜は深々と更けてゆく。

次第に、都筑の口から何度も大欠伸が漏れ始めた。


 「都筑様、少しお休みになられたらいかがです? お疲れなんですよ」


 過度の緊張で疲弊した体と精神に酒精が効いたのだろう。

いつになく酒の廻りが早く、既に視界はぼやけている。


 「何かあれば起こします。休まれて下さい」


 「い、や……あぁ、……そう、するか……」

 

 最早口をきくのも億劫だ。

強烈な睡魔が思考と身体を麻痺させていく。

何かおかしい、そう思いながらもフラつく身体を海華に支えられ、布団まで辿り着いた都筑が最後に見たもの、それは穏やかな眼差しで自身を見下ろす海華の白い顔だった。




 ところ変わって離れに面した庭では、松の大木とその側に建つ石灯籠の陰から、四つの瞳がじっと仄かな灯りが漏れる離れを監視していた。

紋付き袴姿のままの修一郎と桐野である。

海華が離れに入ってずっとここに潜んでいるが、変化したのは月の傾きだけ、怪しい人影どころか猫の子一匹出てこない。


 足元から響く涼やかな羽音と頬を撫でる風、淡々と流れ去る時間の中で修一郎は泣き腫らし赤く充血した目を幾度も擦っている。

傍らで松に寄り掛かる桐野も、今日何度目かの大欠伸を放っていた。


 「なぁ桐野、やけに静かではないか?」


 「何も変わり無い証拠だ。きっと二人も寝ているのだろう。……あ、いや、おかしな意味ではないぞ?」


 「当たり前だ! しかし気になる……」


 一向に落ち着かず、何度も背伸びして離れを窺う修一郎に軽く失笑し、桐野はごきごきと鈍い音を立てて首を回した。


 「そう案ずるな、都筑や朱王がいるではないか。天井裏には志狼もいる。……それよりな、あの人相書きの男がここにいたぞ」


 ぼそりと呟き、懐から人相書きを引き出した桐野は、自分へ顔を向ける修一郎へその紙を突き出し、三番目の男を指差した。

弱い月明かりだけが降る庭、修一郎は目を凝らして桐野の指指す男を見る。


 「こ奴は……確か増田屋の使用人だった、な?」


 「そうだ。海華殿がここについてからしばらくしてな、こ奴が台所近くから歩いてきた」


 白無垢を仕立てた店の使用人が、なぜ婚礼の場にいるのか? 問い質そうとしたが、男は来客に紛れて姿を消してしまった。


 「なら、奴が下手人か?」


 「まだわからぬ。実は、この二番目の優男に似た奴が、手伝いの娘に声を掛けていたと、高橋が言っていた」


 「つまりは、この人相書きの男全員がこの近くにいたのか?」


 信じられないといった面持ちで修一郎は桐野を凝視する。

これはますます厄介なことになった。


 「――どうやらそうらしい。とにかく、離れから絶対に目は離せん、ということだ」


 そう言い切った桐野は顎の下を指先で擦り、鋭い眼差しを灯りが灯る離れへ投げ掛けていた。





 その頃、離れの中の海華は冷たい白壁に寄り掛かり、うとうとと微睡んでいた。

枕が二つ並べられた布団では都筑が大の字に寝転び、ごぉごぉと地響きにもにたいびきをかいて爆睡している。

勿論同じ布団に潜り込める訳もなく、都筑の足元にぺたりと座って船を漕ぐくらいしか出来ない。

天井裏もしんと静まり返ったままだった。


 「あーあ……。やっぱり空振りなのかしら……」


 天井裏の志狼に話し相手を頼めるはずもなく、完全な手持ちぶさたの海華は何気無く毛先を弄りながら盛大な溜め息をつく。

いつも上手く事が運ばないとはわかっているが、それでも気落ちしてしまう。

はぁ、と再び口をつく溜め息。

ごろんと固い畳へ寝転べば、薄暗い天井が目に入った。

兄以外の男の前でだらしなく寝そべったことなど無い。

だが、今、都筑は熟睡しているのだ。


 少しくらいならいいだろう。

そう思いながら瞼を閉じた瞬間、足を投げ出していた畳が、ぐぅっと上に押し上げられる。


 「っっ!? な、にっ!?」


 張り裂けんばかりに瞳を見開き、都筑の傍らへ飛びすさった彼女の目の前でゆっくりゆっくり持ち上がる畳、そこからにゅっ、と現れた人影を目の当たりにした途端、海華は声にならない悲鳴を上げて、都筑の夜着を握り締めた。


 「つ……都筑さ、まっ! 都筑様ぁ……っ!!」


 腰が抜けた状態で必死に都筑の身体を揺さぶる。

しかし彼はぐぅぐぅ鼾をかくばかりで、一向に目覚める気配はない。

その間にも、畳が持ち上がりぽっかりと穴の空いた床下から、人影が這い上がってきた。


 肩幅の広いがっちりした体格、あちこちに継ぎの当てられた粗末な着物、鼻から下は薄汚れた手拭いで覆われ、唯一覗く瞳は血走りぎらぎらいやらしい光が宿っている。

思いもよらぬ場所から現れた侵入者に竦み上がり、助けを呼ぼうと口を開いた刹那、暴れ牛のような勢いで男は海華に襲い掛かり、分厚くざらついた手のひらで口と鼻を塞いだ。


 仰向けに押し倒され、ばたつく両足の上へ男が跨がり抵抗を封じられる。

息が出来ない苦しさに、唯一自由になる手で力一杯都筑を叩くが、起きる気配は感じられなかった。


 苦しくて苦しくて、徐々に意識が薄れてゆく。

心臓は破裂せんばかりに跳ね上がり、全身から汗が吹き出す。

終始無言で海華を見下ろす男、はぁはぁ荒い息遣いだけが目に涙を浮かべる海華の鼓膜を揺らす。


 口を塞いでいた手とは反対の手が、純白の夜着の胸元をまさぐり、その合わせ目に太い指が掛けられた瞬間、海華は夢中で傍らに転がった徳利をひっ掴み、男の頭を渾身の力を込めて殴り付けた。


 鈍い打撃音に続き、ぎゃっ! と嗄れた悲鳴を上げた男が畳へ転がる。

その悲鳴が全ての引き金となった。


 『どうした――っ!?』と空気を震わす怒声と同時に天井板が跳ね飛ばされ、真っ白な埃と共に志狼が部屋に舞い降りる。

廊下側の襖は足で蹴破られ、朱王と抜き身を握り締めた高橋が転がり込み、庭に面した障子からは修一郎と都筑が躍り出た。


 襖はひしゃげ、障子は無惨に骨を折られて畳へ倒れる。

ばきばき、ばりばりっ!と凄まじい破壊音に地鳴りの如き足音、まさに狂乱の舞台と化した部屋で、海華は踏み潰されないよう身体を縮めて都筑の胴体にしがみつく。


 「神妙に致せっ! 北町奉行所の者だ ――っっ!」


 耳をつんざく桐野の怒号が部屋一杯に、いや、 闇が支配する庭にまで轟いた。

低く呻いて頭の右側を押さえていた男、殴られた際に切れたのだろう右のこめかみからは、一筋の鮮血が滴っていた。


 「海華なにやっている! 早くこっち へ……!」


 緊張に冷や汗を吹き出す朱王が布団に伏したままの海華に叫ぶ。

はっと我に返った海華が立ち上がろうと上体を起こした瞬間、突然夜着の襟首が物凄い力で後ろに引き上げられ、はだけた首もとに太く汗臭い腕がぐるりと回された。


 「あっ! 海華っっ!」


 「くっ、来るなっ! 近寄るんじゃねぇっ! この女の首……へし折るぞっ!」


 顔色を蒼白に変え、海華の名を叫んだ修一郎が男に飛び掛かろうと足を踏み出す。

しかし、それを身を挺して桐野は止めた。

筋が浮かぶ腕にぎりぎりと首を絞められ、海華の顔が苦痛に歪むのを見ていたからだ。


 「大人しくしろっ! このまま無事に逃げおおせると思うか!? 早くその娘を離せっ!」


 こめかみに青筋、眉間に深い皺を刻みながら桐野は鬼の形相で怒鳴る。

まさに一触即発の状況に、修一郎は射殺さんばかりの勢いで男を睨み、朱王と志狼はなすすべなく息苦しさに顔をしかめる海華を見詰めるしかない。


 と、刀をもったまま焦り出す高橋の背後で大きな影がゆらりと揺れる。

ふらつきながら立ち上がったその影は、深い眠りの世界から舞い戻った都筑だった。

ぐちゃぐちゃに乱れた布団を踏み締め、覚束無い足取りで高橋を押し退けた都筑。

その目は完全に据わり、虚ろな光を宿している。


 「お、いっ! 都筑っ! 止めろ行くな……!」


 慌てた高橋が止めるのも聞かず、都筑は男と対峙する。

突然近寄ってきた大柄な侍を前に動揺を隠せない男は、海華の細首に回した腕へますます力を込めた。


 ぐぅっ、と息を詰めて足を引き攣らせる妹を前に朱王はぎりぎり歯軋りし、男のすぐ後ろにいる志狼は悔しそうに拳を握り締める。


 「来る、な……来るなぁぁ……っ!」


 男の身体と声が細かく震え出す。

ぎろりと血走った目で男を睨み付けた都筑、その喉から、若干掠れたしかし確実に怒りを押し殺しているだろう、低い低い声が漏れた。


 「貴様ぁ……人の、つ、つま……妻に……なにをしているか――っっ!」


 雷の如き、いや、それ以上の怒声がびりびり空気を震わせる。

一瞬でその場の空気が凍り付いた。

何かおかしい、これはいつもの都筑ではない。

男を除く全員がそう思った時だった。


 都筑の右手が固く固く握り締められ、青い血管と筋が、くっきりと浮かび上がる。

太い眉を思い切りつり上げ、乾いたその唇から再び大地を揺らす雄叫びが放たれた。


 「海華を、離さんかっ! この……無礼者が ――――っっ!」


 岩と見紛う拳が止まった時を切り裂き、男の顔面ど真ん中に電光石火の速さでめり込む。

ぐじゃっ! と嫌な音を立て、顔を陥没させた男の身体は海華を抱えたまま物凄い勢いで背後に立つ志狼目掛けて吹き飛んでいった。


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