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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第二十八章 花狩狂夜
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第二話

 今日はいよいよ白無垢を仕立てに出掛ける日、起床してから海華はそわそわと落ち着かず、朱王は眉間の皺を益々深めていつもより一層口数が少ない。


 白無垢を買い求める店は、桐野から『増田屋にしろ』との指示が出ていた。

なぜなら、先に殺された三人の花嫁達を繋ぐただ一つの共通点は、増田屋で白無垢を仕立てていることだとわかったからだ。


 その店と花嫁殺しがどう関わってくるのかは未だわからない。

ただ、高橋や都筑他、奉行所の者らが、やっと見付けた数少ない手掛かりである。


 「兄様支度出来た? 早く行きましょうよ!」


 「わかってる、そう急がなくたって増田屋も白無垢も逃げやしない!」


 むっつり顔の兄がのろのろ腰を上げるのを土間から眺め、早く早くと急かす海華の後ろで突然、かつかつ、と小さく戸口が叩かれる音がした。

振り向けば、黄色く変色した障子部分に、大きな人影が幾つか映り込んでいる。


 出掛けに来客か、と、いささか苛立ちながら戸口を開けた海華の目に飛び込んで来たのは、やたら肩幅の広い、どっしりした体躯の大女だった。


 「ここは朱王と申す人形師の住まいか?」


 女にしては低めの声が呆気に取られて立ち尽くす 海華の鼓膜を揺らす。

背丈は兄より頭一つ分低いくらいか。

えらの張った、大きな顔、太い眉毛に色黒の肌、一重の小さな瞳はじっと海華を見据えている。


 ただ立っているだけで強烈な威圧感を醸し出す女の横には、白い物がちらほら見える頭をきっちり結わえた小柄で上品そうな老女が、柔らかな笑みを浮かべて海華を見ていた。


 「は、い、朱王は……私の兄、ですが……」


 「兄、とな? ではそなたが海華か」


 じろり、とまるで睨むような目付きで見下ろさ れ、すっかり萎縮してしまった海華は、小さく頷いたまま顔を伏せてしまう。

部屋の中で突然現れた奇妙な来客に目が釘付けになっていた朱王は、慌てて土間に駆け降りた。


 「朱王は私でございます。失礼ですが、どちら様で……?」


 「誠之助の姉じゃ。都筑 新之助の。こちらは母上じゃ」


 女がそう言うと同時、隣に佇む小柄な老女が二人へ 小さく会釈する。

兄妹の頭の中は一瞬で真っ白、どうにか気を落ち着かせて大女の背後に目を遣った朱王は、そこに、この女と似たり寄ったりの体躯をした女達が五人、こちらの様子をじっと伺っているのが見えた。


 「つ、都筑様の……母上様と、姉上様……」


 顔を引き攣らせ、慌てて頭を下げた朱王の声が小さく震える。

隣の海華は、目を大きく見開いたまま、がちがちに固まっていた。


 「そうじゃ、うちの弟とそなたの妹が結婚すると聞いたのでな、どんな娘か気になって、こうして押し掛けてきたのじゃ」


 大きな身体を震わせ、からからと豪快に笑う女。 その笑い声を聞き付けた長屋の住人達が、次々と部屋から姿を現す。


 「それは……本来ならこちらからご挨拶に伺わなければならない立場です。ご足労頂き、誠に申し訳ございません」


 ぺこぺこ頭を下げる朱王に、女の野太い声が飛ぶ。


 「なに、堅苦しい事を言わぬでもよい。母上が早よう花嫁を見たいと申したのじゃ。ここで立ち話もなんだ、中へ入れておくれ」


 はい! と一言答え、女七人を部屋へ招き入れた 朱王は、未だ固まったままの妹に何やら短く耳打ちする。

海華は無言でがくがくと頷き、よたつきながら大家の元へと走っていった。


 背中を丸め、びくつきながら下座に座る兄妹の前には、七人の女がずらりと並んで継ぎ接ぎだらけの座布団に座り、形や大きさもばらばらの湯飲みで茶を啜っている。

座布団も湯飲みも急遽大家から借りた物だった。


高橋から聞かされていた通り、六姉妹は皆弟である都筑と瓜二つだ。

どっしりと石臼のように大きな体、浅黒い肌、 四角に近い顔は、まさに都筑に白粉を塗りたくり、女物の着物を着せたようである。

当然皆が武家に嫁ぎ、今は実家に都筑と母親、そして数人の使用人達と暮らしているらしい。

海華が震える手で煎れた茶をぐっと飲み干し、最初に口を開いたのは、あの大女だった。


「申し遅れたな、こちらは我が母上でお初、私はおいちと申す。そして左から、二美ふみ三枝みつえ四乃しの五花いつか六実むつみじゃ」


 わかりやすい名前を付けたようだが、何しろ顔が似たり寄ったりだ。

今の兄妹には、誰が誰だかまだよくわかっていない。


 「はじめ、まして……海華ともうします」


 「兄の朱王です。この度は妹が……」


 『お世話になります』そう言いかけて、朱王は思わず言葉に詰まる。

妹の嫁ぎ先に対して、どんな挨拶をするべきか全くわからないのだ。

畳に手を付いたまま、必死で考えを巡らす朱王にはお構い無しで、姉妹は矢継ぎ早に海華を質問攻めにし始めた。


 『うちの新之助とはどこで知り合ったの?』


 『随分急な話しだけれど、本当に新之助でよいのですか?』


 『婚礼は盛大にしましょう、親類縁者も全員呼んで……』


 わぁわぁ喧しく喋り立てる姉妹を前に、海華は懸命に質問に答え続ける。

額から吹き出す汗を拭う暇も無ければ、横から朱王が助け船を出す暇もない。

もう喋っているのが誰かすらわからなくなりかけた頃だった。


 今まで始終微笑みを浮かべて娘らと海華のやり取りを聞いていた母親、お初が、ひどく穏やかな声色で海華へ声を掛けたのだ。


 「ところで海華殿、一つ伺いたいことがあるのですが」


 「はい、っ! 何でございます、か?」


 ぴん! と背筋を伸ばし、裏返った声で返事をした海華へ、お初は目尻に笑い皴を浮かべた。


 「そなた、息子のどんなところに惹かれたのです?」


 野に咲く花々を揺らす、春風に似た優しい声色で告げられた問い掛けは今日一番海華を困らせたものだった。

都筑のことは好きだ。

しかし、それは愛しているとか惚れているとかいった意味ではない。

膝の上に置いた手を固く握り締め、だらだら大汗をかいたまま黙り込んでしまう海華に、七人の視線が集中する。

すると、お一の左隣に座る藍色の着物を纏った女、二美ふみが、ふぅっ、と小さな溜め息をついた。


 「母上、それを聞くのは可哀想です。進之介は見てくれも決して良くはありません。それに 優柔不断です」


二美ふみの台詞に、五花いつかが同調するように深く頷いた。


二美ふみ姉様の仰る通りですわ。人は悪くないのですよ、ただ要領が悪い。だからいつまでたっても出世出来ないのです」


 笑いを含ませ、そうだそうだと言い合う娘らを、お初は少し悲しげな面持ちで見ている。

優柔不断、要領が悪い、挙げ句の果てには軟弱者と散々な言葉が飛び交う中、突然『違いますっっ!』と悲鳴じみた叫びが海華の口から飛び出した。


 一瞬で静まり返る室内、驚いたように目を見開いているのは目の前の六姉妹とお初だけでなく、朱王もだった。


 「都筑様は優柔不断なんかじゃありません! お優しいんです! 要領が悪いのではなく慎重なだけです! いつも、いつも一生懸命お仕事に励まれています! 都筑様は……ご立派なお方です!」


 頬を真っ赤に染め上げ、半ば怒鳴るよう一気に喋り立てた海華。

肩で大きく息をしている彼女は、自分が何を叫んだのか気が付いた瞬間ひどく狼狽え、両手で口を押さえてへたり込んでしまった。


 「気に入ったっ!」


 分厚い手のひらで己の腿を思い切り叩き、おいちが大声を張り上げる。

ばしん! と肉が叩かれる音と、よく通る声色が泣き出しそうに顔を歪める海華の鼓膜を震わせた。


 「いや、そなたは新之助の内面をよくわかっている! 確かに弟は優柔不断でも軟弱者でもない、心根の優しい男じゃ」


 鼻息も荒くそう喋り立てるお一の横では、母親と妹達が微笑みながら首を縦に振っている。

事態がうまく飲み込めないのか、朱王と海華は呆気に取られた様子で彼女らを見詰めていた。


 「私達を前にそこまで言い切ったのは、そなたが初めてじゃ」


 「本当に。以前見合いをした娘達は、私達がどれだけ新之助を悪く言っても『左様でございますか』だけでしたねぇ」


 「張り合いが無いったらありゃしません。それに比べて海華殿は、違うことは違うと、はっきり物を言う」


いち四乃しの五花いつかが笑いを交えて一斉に話し出す。

頬を薄く上気させ、再びおいちが、ぱん! と音を立てて腿を打った。


 「海華殿、そなたになら都筑の家も弟も母上も安心して任せられる。私はそなたが気に入った!新之助もいい娘を嫁に選んだものじゃ」


 「さすがは私の息子、人を見る目はあるようですね」


 おほほほほっ……と七人分の幾分高い笑い声が部屋を埋める。

それを無言のままに聞きながら、兄妹は気まずそうに顔を伏せているしかできなかった。


 『結婚が決まれば後は子が出来るのを待つだけじゃ』


 満面の笑みを浮かべてそう言い残し、おいち以下 姉妹と母親は意気揚々と長屋を去っていった。

六つの広い背中が小さくなるまで見送る朱王と海華は、しばし呆然と部屋の前に立ち尽くしている。

嵐のように過ぎ去っていった六人姉妹、 未だに現実とは思えない、悪い夢を見ているようだった。


 「兄様……どうしよう、か……」


 「どうしよう、って、お前……俺にどうしろと言うんだ?」


 そよそよと吹き抜ける風が流れた汗を冷たく乾かしていく。

こちらもからからに乾いた唇を一舐めした朱王は、無意識に髪を掻き乱していた。

これは思ったより大変な事態になってきたようだ。

もし弟と海華の結婚が嘘だと知ったならば、あの姉妹はどんな反応をするだろう。

多分、怒り狂うだけでは済まない気がした。

下手をすれば都筑どころか海華の命も保証出来ないかもしれない。


 ぼんやりと遠いところを見詰めたままの兄妹の背後から、怪訝そうな面持ちのお石がスタスタ近寄ってきた。


 「ちょっと朱王さん、今のでかい人方は一体どこのどなたさね? 格好からしてお武家さんみたいだけど……まさか……」


 「相手方の母上様と、姉上様方です……」


 お石へ振り向きもせず、ぽつんと呟いた海華。

朱王はお石の声が聞こえているのかすらわからない。

海華の答えに、お石は眉間に深い皺を寄せ盛大に顔をしかめた。


 「姉上様って……六人もいるのかい!? 小姑が六人なんてねぇ……。海華ちゃん、とんでもないお家へ嫁に行くもんだ」


 『頑張りなよ』と、苦笑いを見せて軽く肩を叩いてくるお石。

ひくりと頬を引き攣らせた海華は、掠れた声で『はい……』と返事をするのが精一杯だった。

自分達を祝福してくれる皆に対する罪悪感と後ろめたさ、そして今後への不安がない交ぜになった気持ちを引き摺りながら、二人は足取りも重く増田屋へ向かった。


 二人の気持ちとは裏腹に空は真っ青に晴れ上がり、風に吹かれてちらほら舞う真っ赤な紅葉が足元に落ちる。

朱王御用達の錦屋より小さな増田屋は、それでも沢山の人々が値引きされた反物の品定めをしようと集まり、そこそこ繁盛しているようだ。


 薄い紫に白抜きされた文字で『増田屋』と染められた暖簾が風に靡く。

絶え間無く客が出入りする店先から少し離れた場所に、黒い羽織に二本差しの侍が二人佇んでいる。

肩幅の広いがっちりとした体格の侍、都筑は、そわそわ落ち着かない様子で道行く人波に視線を走らせ、その隣に立つ細身で浅黒く日焼けした侍、桐野は増田屋の暖簾を潜る客達に鋭い眼差しを向けていた。


 と、都筑の口から『来た!』と小さな叫びが飛び出す。

人混みの中に、待ち人を見付けたのだ。


 「朱王! 海華ここだ!」


 「都筑様! 桐野様も……遅くなって申し訳ありません」


 ひょい、と片手を上げた都筑に気付き、小走りにこちらへ走り寄った兄妹は、二人に深々と頭を下げる。

桐野と都筑が増田屋の前にいるのは、決して海華の白無垢を仕立てる付き添いでは無い。

この店で働く者、または訪れる客の中に怪しい輩はいないか偵察に来たのだ。


 遅れたことを詫びる朱王、頭を上げた彼の顔がいささか強張っているのを認めた都筑は、小さく首を傾げる。


 「どうしたのだ朱王、何かあったか?」


 「は、い。あの……今しがたまでお客様が……」


 「なに、来客が? 誰が来ていたのだ?」


 横から顔を出した桐野の問い掛けに、今度は海華がもごもごと口を動かした。


 「あのぅ……都筑様の、母上様と姉上様が……」


 その一言を聞いた瞬間、みるみるうちに都筑の顔から血の気が引いていく。


 「はっ、はっ……母上と、姉上がぁ!? 一体……何をしに!?」


 「早く私の顔を見たかったと……夜まで待てなかったと仰って」


 ぐらりと都筑の体がふらつく。

目眩に襲われ、身体中から汗が吹き出た。

心臓は今にも破裂しそうにだくだくと脈打っている。


 「そっ……それで、母上達は、お主らになんと……何か言われたか?」


 「はい、海華をとても気に入られたようで……」


 そう口ごもりながら、朱王はちらりと傍らに立つ桐野へ視線を投げる。

しかし、その桐野は平然とした様子で、顎の下を擦っていた。


 「ああ、確かにあの母上と姉上らなら、海華殿を気に入るだろうな。こう言っては語弊があるかもしれんが、どちらも男勝りな性格だ。海華殿、お主とは馬が合うだろう」


 そうあっさり言われても、こちらが困る。

朱王は内心そう呟いた。

隣の都筑は見ているこちらが可哀想になるくらい動揺し、石臼に似た大きな顔をくしゃくしゃに歪めている。

一度でいいからこの冷静が着物を着て歩いているような桐野が、慌てふためく姿を見てみたい。

呉服屋の店先、項垂れる海華の前で頭を抱えて唸る都筑を見た若い娘が、くすくす笑いを噛み殺しながら薄紫色の暖簾を潜っていった。


 なんとか気を取り直し、増田屋の暖簾を潜った四人。

桐野は店先で来る客らを見張り、都筑、朱王、海華は店の奥まで通され、早速白無垢の寸法取りにかかった。

寸法を取り終えるまでの間、都筑と朱王は別室で待たされることとなり、今は使用人であろう十二、三歳程の少女が運んでくれた茶菓を前に、横並びで黙りこくっている。


 障子を突き抜けて部屋に射し込む白い光は、飾物として置かれている美しく彩飾された大きな壺に反射し、その眩しい光の矢が二人の目を射る。

六畳程あるだろうか、二人が待つ部屋と襖一枚隔てた隣室からは、海華と増田屋の女将が賑やかに談笑する声が漏れ聞こえてきた。


 時折聞こえる『おめでとうございます』という言葉を耳にする度、都筑と朱王の口からは深い溜め息が漏れる。

始終無言を貫いて茶を啜り、菓子を摘まむ二人。

しばらくすると、互いの湯飲みが空になったのを見計らったかのように都筑が口を開いた。


 「あー……朱王、母上と姉上方のこと、もっと早く話しておくべきだった。……すまなかったな、驚いたろう?」


 「はい……あ、いいえ。その……」


 突然掛けられた言葉にしどろもどろに答えた朱王は、日焼けして僅かに白く変色した畳へ目を落とす。 確かにあの姉達を見た時は驚いた。

高橋から聞いてはいたものの、あれほど外見、性格がそっくりな姉弟がいるなど思わなかったのだ。


 「とにかく……海華を気に入って頂けて良かったです。もし反対されたなら……今回の計画は白紙に戻さねばならなかったでしょうから」


 「うむ、確かにな。―― 事が無事終われば、母上と姉上には俺からしっかり説明する。お前達に迷惑はかけん。……たぶん、だが……」


 そう言った都筑の太い指が、がりがりと頭を掻きむしる。

しかし次に掛けられた言葉に、朱王は思わず目を見開いた。


 「海華には……お前にも悪いことをしたと思っている。こちらの都合で婚礼の真似事をさせるなんてな。本当に好いた相手と挙げるのが婚礼だ」


 『俺なんぞが相手ですまないな』そう自嘲気味に呟いた都合が朱王に顔を向け、苦笑いを浮かべる。

一瞬言葉に詰まった。

しかし、すぐに朱王は小さく微笑み、緩やかに首を横に振った。


 「私は、都筑様がお相手で良かったと思っております。海華だって、嫌いな相手となら花嫁役など引き受けなかった。私も絶対反対しました」


 今の率直な気持ちだった。

今度は都筑が驚いた表情を見せ、じっと朱王を見詰める。

自分より遥かに大きいがっちりした顔を見詰め返しながら、朱王は再び唇を笑みの形に変えた。


 「あれは素直な女です。嫌だと言ったら譲らない、やると言えば最後までやりとげます。私も海華も、桐野様や都筑様、勿論高橋様も、信じておりますから」


 今はただ下手人を捕らえることだけに集中しなければならない。

例え周りの人々や家族を騙しても、この一世一代の芝居はやり遂げなければならないのだ。


 「――わかった。朱王、海華は必ず無傷でお前に返す。これだけは約束するからな」


 強い決意を滲ませる朱王の瞳を真っ直ぐに見据え、都筑はそう力強く宣言していた。






 白無垢を揃えた後は結納、ついに婚礼と話はとんとん拍子に進んだ。

勿論修一郎と桐野が裏で手を回していたのだが、都筑、朱王らの周囲で誰もこの結婚を偽りの物だと思う者はいない。

いちら姉妹の嫁ぎ先からは、海華が傀儡廻しの大道芸人であることや、年が二十歳を過ぎているなどで反対の声がちらほら上がったようだ。

しかし、『あの娘でなければ嫌だ』と、お初の鶴の一声があり、また、媒酌人が北町奉行である修一郎、花嫁の付添人がその妻である雪乃が務めるとの話が出てからは、反対する者はいなくなった。


 いよいよ婚礼当日、朝から兄妹は入れ代わり立ち代わり訪れる客の対応に大忙しだ。


 雪乃の手により真っ白く白粉を塗られ、紅をさして化粧した海華は、部屋に射し込む秋の陽射しに眩しいほど輝く純白の白無垢に着替え、頭からすっぽり綿帽子をかぶった出で立ちで、壁際にちょこんと座り、朱王は紋付き袴姿に髪を後ろで束ねている。


 祝福に訪れた客の中には、朱王が仕事で関わりのある人間、海華が披露する人形芝居の常連客の姿もある。

勿論、忠五郎親分に留吉、錺物屋の幸吉、伽南と清蘭、お藤夫妻に惣太郎と妹夫婦である三太、お仙の姿もあった。


 皆口々に二人へ祝福の言葉を述べ、海華の白無垢姿を褒めていく。

数え切れないくらい頭を下げ続け、どのくらいたったろうか。

ふっ、と来客が途絶えたのを見計らい、礼装で側にひかえていた雪乃が、朱王にそっと耳打ちする。


 「朱王さん、今のうちに海華ちゃんと少しお話しなさいな」


 突然の言葉に何も答えられず、ただ目を瞬かせる朱王を見て、雪乃はくすりと小さく笑う。


 「二人水入らずで話しをするなんて、これからはなかなか出来ないのよ? 私は表にいますから」


 にこっ、と微笑みを一つ残し雪乃は部屋から出ていった。

戸口が閉められた途端静けさが部屋を満たし、どうも朱王は落ち着かない。

急にそわそわし始めた兄を見て、海華は赤く塗られた唇を三日月形につり上げた。


 「どうしたのよ兄様。急に静かになっちゃって」


 「少し……疲れただけだ」


 僅かに口ごもる朱王は、そのまま視線を畳へと落としてしまった。

正面に座る妹を朝から直視出来ないでいるのだ。

それは日の光を反射し、輝く白無垢が眩しいからではない。

いくら偽りの婚礼だとしても、実際白無垢を纏う妹を見てしまうとひどく複雑な気持ちになるのだ。


 何を話し掛けても、自分と視線を合わせることなく『うん』や『ああ』など短くぶっきらぼうな返事しか返さない兄に小さく溜め息をついた海華。

ふとその身体が微かに動き、きちんと座り直した彼女は、畳へすっと三つ指をついた。


 「兄様、今までお世話になりました」


 白い綿帽子をかぶった頭が、ゆっくり下げられる。

その瞬間、鼻の奥がつんと痛み、慌てて朱王は息を詰めた。


 「今までも何も……明日になれば帰って……くるんだろ?」


 自分でもわかる程声が震える。

みっともない、と思いながらも、目尻に光る物 が滲み出てくるのを押さえられない。

僅かに肩を震わせる朱王とは正反対に、海華は朗らかな笑い声を上げた。


 「そうよ。だから、またしばらくお世話になるわね。よろしくお願いしまーす」


 綺麗に化粧された顔を綻ばせてけらけら笑う妹を前に、朱王は羽織の袖口で乱暴に目を拭い、『バカ野郎』と小さく呟いていた。

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