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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第二十八章 花狩狂夜
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第一話

 ざわざわと深紅の葉を揺らす紅葉の大木。

朱い波の間から響くモズの囀ずりを耳にしながら、与力組頭、桐野 数馬は地面を睨んで眉を寄せた。

正確には、ただ地面を見ている訳ではない。

そこに転がる、純白の夜着を纏った若い女の骸を見詰めているのだ。


 鈍い光沢を放つ絹の夜着、裾や胸元はぐちゃぐちゃに乱れ、肉付きの良い太股も露わな女は年の頃十六、七だろう。

まだあどけなさが残る丸い顔、目元には黒々とした痣が浮かび、口の端は裂け、息絶える間際まで与えられたのだろう凄まじい暴力の跡がそこここに刻まれていた。


 恐怖に引き攣った表情、かっと見開かれた瞳は既に白く濁りかけている。

自然が作り出した、紅葉の朱い褥に横たわる真っ白な身体、その上に更に舞い落ちる朱、強烈に網膜へ突き刺さる色彩と哀しいばかりの美しさは、渋い表情を崩さない忠五郎の手によって筵の下へと隠される。


 「……ご検死は、終わったのか?」


 朱く波打つ雑木林、桐野の暗い呟きを聞いた北町奉行同心、都筑は恐る恐るといった様子で口を開く。


 「はい、先程……。今回も、手込めにされた後に首を絞められたようです」


 「そうか、先の二件と同じか。……むごいことだ」


 ふぅ、と掠れた溜め息をついた桐野の顔が、悲痛そうに歪む。

足元に転がった骸、それは昨夜まで『花嫁』と呼ばれ、まさに幸せの絶頂にいたはずの女だった。

華やかな祝言、金屏風の前で交わした三三九度、沢山の人々に祝福され初夜を迎えた『花嫁』は、新郎が胸を高鳴らせて襖を開けた時、 既に忽然と部屋の中から消えていた。


 その後は天地を引っくり返したような大騒ぎ、 暗く塗り潰された闇の中を皆で手分けして探しに探し、やっと見付けた『花嫁』は、哀れ人気ひとけの無い雑木林で無残な死骸と変わり果てていたのだ。


 今は同心やら野次馬やらでごった返す現場、人垣の向こうから女が狂ったように泣き叫ぶ声や、男の慟哭がひっきりなしに響き渡り、それを耳にする度に桐野は深い溜め息をついて横にひかえる都筑と高橋も鉛を飲み込んだような重苦しい気持ちになった。


 そんな気持ちとは裏腹に見上げる空はどこまでも晴れ渡り、煌めく陽射しが地上を燦々と照らす。

骸を前に俯き加減で立ち尽くす三人、その頬を撫でる爽やかな風が、女が放つ僅かな死臭を雑木林へ運んでいった。





 「どうだ、何か手掛かりは見つかったか?」


 奉行所の一室で書類に目を落としたまま修一郎がぽつりと口を開く。

紙を捲る手は止めないまま、しかしその内容は全く頭に入ってこない。

桐野が部屋を訪れた時から、意識はずっとこの男に向けられたままだ。


 「おい桐野、手掛かりは……」


 「見付からぬ。今度も下手人を見た者はいない。先に殺められた女らは何の繋がりも無いのだ。……正直お手上げだ」


 いささかぶっきらぼうに言い、桐野は唇を噛み締めた。

いつになく意気消沈した彼の様子に、修一郎は気まずそうに太い指でぽりぽりと頬を掻く。


 「桐野、昨夜殺められた娘な、お主とは顔見知りだったそうだな?」


 「――よく立ち寄っていた茶屋の看板娘だ。親を早く亡くして苦労したが、喜瀬きせ屋の息子に見初められてな」


 廻船問屋である喜瀬屋は、江戸でも五本の指に入る大店だ。

小さな茶屋の娘がそんな大店に嫁入りする、これぞ玉の輿だと世間ではちょっとした騒ぎになった。


 「喜瀬屋の息子は若いながらもしっかりした男だ、あの娘も気立ての良い優しいだった。 やっと幸せになれると思った矢先、こんな事に……」


 絞り出すような声と共に、膝の上に乗せた手が強く握り締められる。


 『幸せになれ』そう告げた時、頬を赤らめてにっこり笑っていた娘が、その数日後に冷たい骸となって自らの前に転がった。

未だに信じられない、泣きたくても泣けない。

新妻の変わり果てた姿を見た新郎は、その場で卒倒し臥せってしまったそうだ。


 「――必ず下手人は挙げる。でなければ死んだ三人が浮かばれん」


 強い意志が籠る眼差しを向けられ、修一郎も大きく頷く。

障子越しに、賑やかな雀の囀ずりが聞こえた。


 「これ以上の死人は出せんからな。この頃は婚礼を延ばす家も出始めているらしい」


 深く腕を組み、低い声を出しながら修一郎は 片眉をつり上げる。

獲物となる花嫁がいなければ、下手人は闇に隠れたままだ。

かと言って婚礼をやれと強制する訳にもいかない。


 青畳の爽やかな香りに包まれる室内、射し込む白い光が桐野の膝先を掠めた。


 「向こうから出てこないのなら、こちらから誘き出せばいい。ひとつ婚礼の席を設けようではないか」


 顎の下を擦り擦り、桐野がそう進言する。

それを聞いた途端、修一郎はぽかんと口を開けて目の前に座する男を凝視した。


 「席を、設けるとは? お主、身近に結婚する者がおるのか?」


 「いいや。こちらから頼んで、一緒になってもらうのだ」


 にや、と意味ありげな笑みを浮かべた桐野に修一郎は思い切り顔をしかめる。

どうも嫌な予感がした。


 「お主、まさか……海華を?」


 「そのまさか、だ」


 反射的に腰を上げた瞬間、ばさっ、と修一郎の手から書類が滑り落ちた。

嫌な予感が的中してしまったのだ。


 「ばっ……馬鹿を申せ! なぜ海華を、俺達の都合で嫁がせねばならんのだ!? 大体、朱王が許すはずなかろう!」


 いきなり立ち上がったせいか、頭がぐらぐらと揺れる。

この男は人の妹をなんだと思っているのか、そう言いたげに顔を紅潮させ慌てふためく修一郎に対し、桐 野は涼しい顔で話しを続けた。


 「まぁ落ち着け、何も本当に嫁がせるとは言っておらぬ。芝居だ芝居、婚礼の芝居をしてもらうのだ。上手く下手人が現れれば、その場でお縄に出来るだろう」


 つまり、海華は下手人を誘い出す生き餌だ。


 「芝居、と言っても、危険に変わり無いだろう?」


 「案ずるな、海華殿をしっかり守れる男を花婿役にすればよい。――それともお主、赤の他人の同衾どうきんを見張る度胸があるのか?」


 うっ、と言葉に詰まる修一郎、確かにそれは難しいし、誰も好んでやりたい任務ではないだろう。

渋々といった様子で再び腰を下ろし、いささか睨むような視線を桐野に投げる。


 「朱王が了承すれば、の話しだぞ? それに、海華を守れる男とは一体誰を選ぶつもりだ?」


 その問い掛けに『適任がいるのだ』と呟い た桐野は、再び日に焼けた顔をにやりと歪めた。





作戦は修一郎と桐野によって入念に練り上げられた。

善は急げとばかりに、その日のうちに朱王と海華は修一郎の邸宅に呼ばれ、今は彼の自室に通されて修一郎や桐野、そしてなぜ呼ばれたのかわからぬが高橋、都筑らの四人と共に酒を酌み交わしている最中だ。

唯一酒が苦手な海華は雪乃が用意してくれた干菓子(ひがし)を旨そうに頬張り、都筑と高橋の両人は奉行の前ということもあるため、いささか緊張気味だ。


 障子越しの庭からは、秋の虫達がころころ、りんりんと賑やかに羽を震わす音色が響く。

空の徳利が畳に並び始めた頃、ごほんと咳払いを一つした修一郎が恐る恐るその分厚い唇を開いた。


 「あー……実はその、今夜お前達を呼びつけたのは、ある事を相談したかったからなのだ。

まずは海華、お前……」


 『花嫁になれ』思いもよらぬ修一郎の一言に、彼の正面に座していた海華の指から齧りかけの干菓子が転がり落ちる。

その左隣の朱王は、唇に当てた猪口をそのままの形でぴたりと止めた。

ぴんと張り詰めた空気が部屋を支配する。

驚愕の表情を浮かべた都筑、高橋は、無言のまま互いに顔を見合わせる。

その静寂を最初に破ったのは、海華の掠れ声だった。


 「花、嫁って……私が……?」


 「そうだ」


 「――これは、どういう事でしょうか?」


 呆然と瞳を見開く海華の隣から、怒りを圧し殺したような低い声が響く。

僅かに震える指で猪口を畳に置いた朱王は、鋭い眼差しを気まずい表情を見せる修一郎に向けた。

突然呼び出されたうえ、『嫁に行け』とはどんな了見だ。

じろりと厳しい視線を送る朱王へ、桐野は静かに口を開く。


 「朱王、本当に海華殿を嫁に出す訳ではない、お前達も聞いているだろう、件の花嫁殺しを」


 「――昨日また一人殺められたとか……。その事件と海華は……」


 『何の関係もありません』そう告げようとした刹那、朱王はひくりと片方の眉を動かす。

一を聞いて十を知る男、修一郎と桐野が何を言いたいのか気付いたようだ。


 「海華をまた囮に、ということですね?」


 「あぁ、なるほどそういう事ですか」


 渋い面持ちの兄とは正反対、ぽん、と一つ手を打った海華は、大きな瞳をくりくりと動かす。

未だに呆気に取られた様子の都筑と高橋は、無言を貫いたままで四人の話しに耳を傾けていた。

桐野の口から練りに練った作戦が兄妹に語られる。

何度か小さく頷き、それを真剣な眼差しで聞いていた朱王は、聞いて当然とも言える質問を桐野へぶつけた。


 「海華が花嫁役と言うのは、納得できます。ですが花婿役は誰が……」


 芝居とはいえ白無垢を纏い、婚礼の儀を一通り終えて最後は『初夜』の名目で二人きりで部屋に籠る。 相手が誰だかわからない限り、また信用できる男でなければ、今度ばかりは朱王とて首を縦に振れない。

不安を滲ませる朱王に、桐野は小さく微笑んだ。


 「案じるな、何もお前の知らぬ男を花婿にする気はない。奉行所の者の中に適任がいるのだ。こ奴になら安心して海華を任せられる、こんな 時こそ頼りになる男が、な」


 にんまり意味ありげな笑みを見せる桐野に、都筑と高橋は小首を傾げる。

桐野がここまで絶賛する人物は、一体誰なのだろうか?


 しばし間を置いて軽い咳払いを一つ、桐野は首だけを部下二人へ向けた。


 「都筑、お主が花婿をやれ」


 その瞬間、部屋中の空気が一気に凍り付き、痛いほどの静寂が全員を包み込んだ。

しん、と静まり返る室内。

外から聞こえる鈴虫の羽音以外、全くの無音だ。

誰も何も喋らない、身動ぎする者すらいない。

まるで時が止まってしまったかのようだった。


 幾分角ばった大きめの顔をぴくぴく引き攣らせた都筑、雄牛のよえに太く頑丈な首に、汗が一筋流れ落ちる。

ぎくしゃくとその顔を桐野へ向けた都筑は、乾いた厚めの唇を戦慄かせた。


 「わっ……私が、花婿役……!? 桐野様、それは、どういう……?」


 「どうもこうも、今話したばかりだろう。お主と海華の祝言を挙げるのだ。『都筑家で婚礼がある』それを聞き付けた下手人が海華殿を狙って現れた所をお縄にする。わかったか?」


 そうさらりと言いのけた桐野は、手にしていた猪口を傾け、酒を一気に飲み干す。

『祝言』『婚礼』と言う言葉を聞いた瞬間、都筑は茹で蛸よろしく顔を紅潮させ、額から汗を吹き出した。


 「しっ! しかしっ! 私めはそんな……他に適任が……そうだ! 高橋、お前がいい、俺よりずっと適役だ!」


 「なっ!? こっちに振るな! だいたい俺には小梅が……!」


 いきなり話を振られた高橋は吃驚仰天、思わず腰を浮かせて都筑へ叫ぶ。

慌てふためく二人を前に修一郎は頭を抱え、兄妹は顔を見合わせた。


 「止めぬか二人共、騒々しい! 良いか都筑、今頼りになるのはお主しかおらぬ。最初は儂が、と思ったが、どうも釣り合いがとれぬ。志狼もいいと思った。だが、あれには別の役目を頼むことにした。残るはお主だけなのだ」


 そこまで言われてしまえば、もう断ることなど出来はしない。

うぅ、と低く唸る都筑を横目に、修一郎は笑みだか泣いているのかわからない奇妙な面持ちで、海華へ身を乗り出した。


 「海華よ、お前はどうだ?嫌なら、遠慮なく断っても……」


 「いいえ。私やります」


 躊躇せず答えた海華へ、全員が一斉に視線を向ける。

思い切り眉を潜めた朱王の口から小さな溜め息が漏れた。


 「少しでもお力になれるなら、私やります。都筑様がいて下さるなら、きっと大丈夫です」


 じっと自分を見詰める修一郎へ微笑みかけ、次に隣で渋い表情を崩さない兄を見上げる。


 「兄様、都筑様ならいいわよね?」


 その問い掛けに、朱王は言葉に詰まる。

都筑本人の前で『駄目だ』と言うわけにもいかない。

確かに彼なら充分信用できるし、どさくさ紛れに海華へ妙な真似をすることもない。


 「――都筑様が、承知して下さるなら……」


 俯き加減でぼそりと呟く朱王に、都筑は今にも泣き出しそうに顔を歪める。


 「いや、しかし朱王。俺はとても……」


 「都筑、お主海華殿が花嫁では不服か?」


 とどめをさしたのは、高橋のこの一言だ。

『不服な訳がないだろう!!』そう怒鳴った後、都筑はもう逃げ場は無いことを悟ったのである。


 『この件は我ら五人だけの秘密だ。周りにも家 族にも絶対に真実は話すな』


 修一郎からきつく口止めされた兄妹と都筑、高橋の四人は、桐野より一足早く邸宅を後にする。

婚礼の支度は全て修一郎と桐野が整えてくれるらしい。

朱王と海華がやることと言えば、都筑宅に挨拶へ行くぐらいだ。

一様に複雑な心境、面持ちで邸宅を出た四人、今日は十五夜、鏡のような満月が煌々と夜空を照らし出すが、都筑の周りだけはやけに闇が深く見える。


 「高橋……すまぬが俺は少し飲み直したい、先 に帰っていてくれ……」


 「あ、ああ、わかった。気を付けてな」


 ドンヨリと暗い雰囲気の都筑は、くるりと踵を返し三人とは逆方向に歩き出す。

がっくり肩を落とし、足取りはふらふらと覚束無い都筑の後ろ姿を見送りながら、海華は悲しげに眉を寄せた。


 「やっぱり都筑様、私とじゃ嫌なんですね。もう一度修一郎様にお願いして、別な女の人に変えた方が……」


 「いや、それは違う。奴はけして海華殿が嫌な 訳では無いんだ」


 俯き加減で呟く海華へ、高橋はきっぱりそう言い切る。

彼の手にした提灯が、秋風にゆらゆらと揺れた。


 「都筑が何なぜあれほど嫌がるのかは……まぁ、あれだ。家の事情というやつだ」


 「お家の事情……もしや都筑様、将来を約束された方が?」


 冷たい月明かりに照らされ、闇夜に白く浮き上 がる端正な顔立ち。

朱王の問い掛けにも、高橋は緩く首を振った。


 「いや、それも違う。事情と言うのは……母上と姉上の事なのだ」


 「都筑様にお姉様がいらっしゃったんですか?」


 意外そうに目を見開く海華。

うむ、と小さく頷く高橋は、ひどく言いにくそうにもごもご口を動かす。


 「いるのだ、奴に性格が瓜二つの姉上が。その……六人」


 「六人っ!?」


 普段から冷静そのものの朱王が、この時ばかりはすっとんきょうな叫びを上げ、慌てて片手で口を覆う。

すぐに意味が理解出来ないのか、海華は口を半開きにしたままだった。

遠くから響く哀しげな犬の遠吠え。

邸宅の門前に佇む三人の周囲に人影はなく、乾いた落葉が風に吹かれて足元に絡み付く。

気まずげな面持ちで頭を掻いた高橋は、更に話しを進めた。


 「都筑は末っ子なのだ。四、五、六番目の姉上とは年子で……。あ奴を見れば、姉上方がどんな性格だかわかるだろう?」


  こくん、と無言で頷く朱王の頬が小さく引き攣る。

雄々しく豪快、まさに益荒男と呼ぶに相応しい都筑。

彼に性格が瓜二つな姉とは……想像するのも恐ろしい。

しかも一人ではなく、六人もいるのだ。


 「さすがのあ奴も姉上方には頭が上がらぬ。六人とも嫁に行ったらしいが、まるで全員示し会わせたように実家に顔を出すと、嘆いていたな。今まで何回も見合いの話はあったが……なぜいい年をして独り身なのか、わかったか?」


 「え、ええ……。はい」


 姑と同居する上、頻繁に小姑六人が押し掛けてくるなど、嫁からすれば堪ったものではない。

背中に冷たいものが流れるのを感じながら、ぎくしゃくと頷く朱王の横で、海華は泣きそうな顔でただ立ち尽くしていた。





 翌日の朝、朱王は長屋の大家に妹が結婚する旨を報告に行った。

あくまでも周りには海華が『本当に嫁ぐ』と思わせなければならないためだ。

『海華が結婚することになりました』恐る恐るそう告げた途端、大家は飲んでいた茶を盛大に吹き出し、女房のお石は目をひん剥いて腰を抜かしかける。


 歩く瓦版の異名を持つお石の耳に入った話しは、風のよう中西長屋や周りの長屋に広まり、その日のうちに朱王の部屋は二人を知る大勢の人々が押し寄せ、祝い金を渡し祝福の言葉を掛けていった。


 『海華ちゃん、やっとお嫁に行けるんだねぇ』


 『相手はお侍だって? 今度会わせておくれよ』


 『朱王さんのことはあたしたちが面倒みるからさ、何も心配しなくていいからね』


 長屋にすむ女房達から掛けられる有り難い、どこかお節介とも取れる言葉に、兄妹は苦笑いしながら『はい』とか『ありがとうございます』 など、在り来たりな返事をすることしか出来ない。

いくら花嫁殺しの下手人を捕らえるためとはい え、ここまで自分達を気に掛けてくれる人々を 騙していることに変わりはない。

『おめでとう』と言われる度に、二人の心に広がる後ろめたさ。


 どこで噂を聞いたか知らないが、ひどく慌てた様子の伽南が部屋を訪れ、さめざめと泣きながら『幸せになって下さい』と告げた時は、あまりの申し訳なさに、もう洗いざらい白状してしまいたい、とさえ思った。

海華が街に仕事へ出れば、いつも人形廻しを見物してくれる顔馴染みから、『ねぇさん結婚するんだってな!』と、公衆の面前で叫ばれ、最早仕事どころではない。

江戸八百八町と言うが、世間は案外狭いのだと海華は改めて思い知ったのだ。


 「あー……疲れたぁ」


 今日一日山と押し寄せる来客の対応に追われ、へとへとになりながら夕餉を終えた海華は、片付けが済むなり畳へ大の字に寝転がった。


 「今からへたれててどうするんだ? 本番はこれからだぞ?」


 こちらも疲労困憊した朱王は、むっつりした表情で壁に凭れ、ちびちび酒を舐めている。

昨夜、修一郎宅から帰って以来不機嫌なままの兄に、海華は寝転んだ状態で視線を向けた。


 「結婚するって、こんなに大変なのねぇ。…… 明日は何をするんだったしら?」


 「白無垢の寸法取りと、夜は都筑様のお屋敷へ挨拶に行くんだろ? お前、しっかりやれよ?」


 ぐい、と酒を飲み干し、深い溜め息をつく朱王。

きっと、いや必ず六人の姉も挨拶の席にくるだろう。

質問攻めにされ、ぽろりと本当の事を喋ってしまっては一大事だ。


 「あたし何だか不安になってきたわ……。都筑様の母上様と姉上様って、どんな人達なのかしら?」


 畳から身を起こし、相変わらずのむっつり顔で酒を飲む自分を見詰めてくる妹へ、朱王はちらりと視線を投げる。


 「人間には変わりないさ。言葉は通じるんだ。 取って食われる訳じゃないんだから、聞かれたことに答えていればいいんだよ」


 「簡単に言わないでよね……」


 海華はいかにも不安だ、と言いたげに顔を歪め、がくりと項垂れる。

そんな妹の姿を見た朱王は、ほんの僅か、唇を綻ばせていた。

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