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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第二十七話 盲目の告発者
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第四話

 「この方達に、全てお話し下さいな……あなた……」


 夢遊病者のように海華はふらふらと立ち上がり、じろりと長兵衛を睨む。

その様を呆気に取られた様子で見ていた志狼が慌てて腰を上げた。


 「おいっ! 海華どうし……うぉっ!?」


 肩に手を置いた刹那、力一杯胸を突き飛ばされて志狼は強かに尻餅をつく。

口を半開きにしている長兵衛の前で海華が両手の包帯を引き毟り、足元に投げ捨てた。


 「朱王さんっ!? なぁ、朱王……」


 「志狼さん、これは海華じゃない。――壁を見てみろ」


 畳に座したままの朱王は慌てふためく志狼に目配せし、壁を顎で指した。

長兵衛と志狼はほぼ同時に左側の壁に向かって 振り向く。

そこに映る影を目にした瞬間、『ひっ!』と小さな悲鳴が長兵衛の口から飛び出した。

揺らめく行灯の灯りに黒々と映し出された影、 それは海華の姿とは全く違う。

髪をきっちりと結わえた小肥りの女の影だ。

丸髷の髪に差した簪までがはっきりと見える。

海華の姿をした別人は大柄な体をがたがた震わす長兵衛へ、にたりと嫌な笑みを投げ掛けた。


 「お久し振りですわね、あなた……。嬉しいですよ、またこうしてお話しが出来て……」


 「お、おぉぉぉ……お露っ!? お前……お 露!?」


 腰を抜かしてしまったのか、尻をついたまま物凄い勢いで後退る長兵衛は床柱に背中をドンとぶつけ、助けを求めるように朱王へ視線を投げる。

しかし、朱王は姿勢を崩さない。

正確にはその場から動けないのだ。


 全身を包み込む暑さのためでない大量の汗が全身から吹き出し胸元を濡らす。

きつく唇を噛み締める朱王と、張り裂けんばかりに目を見開いてこちらを凝視する志狼を、海華……いや、お露はちらりと一度見遣っただけだった。


 静寂に包まれた部屋、行灯が灯っているにも関わらず、この場には暗く深い闇が口を開けてい る。

傷を隠していた包帯が外れた両手は、ぱんぱんに腫れ上がり、赤黒い瘡蓋かさぶたが一面に貼り付いていた。


 「どうしてそんな顔をなさるの? 私、ずぅっとこの家にいたのよ? あなたの側に……あなたと、お祐を見ていたのよッッ!」


 突如お露が声を荒らげ、目の前に置かれていた人形の頭をひったくる。

髪を振り乱し、眉間には深々とした皺、こめかみに青筋を浮かべた様は、まさに憤怒の化身、鬼の形相だ。

最早影どころか、顔までが海華でなくなっている。


 「あなたは私を裏切った! 私に子供ができないのを知っていながら……あんな女を孕ませてっっ! おまけにこんな物……お祐の人形まで作らせて! 許さないっっ! 絶対に許さないっっ!」


 獣の如き咆哮、歯を噛み鳴らし目を一杯に見開いたお露が人形の髪を狂ったように引き毟る。

闇に散る黒髪、瘡蓋が剥がれてどす黒い血が人形の顔を染め、辺りに飛び散る。


 「お前が私を突き飛ばしたんだっ! だから、だから私は目を潰して……! 呪ってやる! この人殺しっ! 子供は死んだ、お祐は狂った、次は……次はお前だ――ッッ!」


 がくがく体を痙攣させ、お露は髪を引き毟ったを壁へ叩き付ける。

空気を裂く、ひゅっ! と高い響きに次ぎ、鼓膜を震わすけたたましい破壊音を立てて頭は壁にぶち当たった。

跳ね返り、長兵衛の足元に転がる頭は血に塗れ、塗り潰された瞳が口から泡を吹いて今にも失神しそうな長兵衛を嘲るように見詰めていた……。


 「お露様、そう怒鳴らずとも聞こえております」


 凍った空気に朱王の抑揚の無い声が響く。

肩で荒い息をつくお露が顔だけをこちらに向け、きっ、と朱王を睨み付けた。

傍らにへたり込む志狼は、ただ無言で眦を吊り上げる海華を凝視するだけ。

蛇に睨まれた蛙よろしく、身体は全く動かない。

話そうとしても、舌が痺れて動かないのだ。


 「これは、主人と私の問題です。貴方には何の関係も……」


 「何の関係も無いと? 冗談じゃない。貴女が今使っている身体は、妹の身体です。返して頂かないことには……私はここから出られないのですよ」


 朱王と海華の身体を借りたお露、二人の視線がぶつかり合う。

生唾を飲み下し、それをじっと見詰める志狼には、宙に青白い火花が闇に散ったように見えた。

するとお露は真っ赤に腫れ上がり、血の滲む両手のひらを眺め、瞳を細める。

壁に映る影は、未だ海華の形に戻っていない。


 「そうでしたねぇ……。でも、この身体は返しませんよ。人形がある限り、私はずっとこの娘に取り憑いたままです」


 ぎゅっと握り締めた手から粘つく血潮が糸を引いて滴り、畳に黒いシミを作る。

ふぅ、と小さな吐息が朱王の唇から漏れた。


 「どうしたら、妹を返して頂けますか?」


 「それは簡単なこと、人形を直さなければ良いのです。今すぐ粉々に叩き壊し、灰になるまで焼き尽くしなさい」


 足元に転がる人形の胴体を、白い足が踏みつける。

これさえこの世から消え去れば、全ては終わるのだ。

だが、朱王の口から出た言葉は、志狼も長兵衛も予想だにしないものだった。


 「私に人形の修理を依頼されたのは貴女ではない。ご主人だ。ご主人が『人形を壊せ』と仰らない限り、私は人形を必ず直します」


 一体この男は何を言っているんだ。

そう言いたげな表情で朱王の横顔を穴が開くほど凝視する志狼、人形を壊さなければ海華はこの先ずっとお露 の亡霊に取り憑かれたまま。

たった一人の妹を犠牲にしてまで仕事を遂行しようという考えが信じられない。


 びっしょりと汗をかく朱王を射抜くような眼差しで睨み付けるお露が、悔しそうにぎりぎり歯軋りする。

思った通りにならないもどかしさはそのまま激しい怒りへ昇華した。


 「おのれ……っ! ならば構わぬ! 主人も人形も、私が纏めて始末してくれるわっ!」


 だんっ! と畳を蹴り飛ばし、歯を剥き出しにしたお露は、床柱の前でがたがた震える長兵衛へ飛び掛かり、太い喉首を血塗れの手で力一杯締め上げ始めた。

滅茶苦茶に手足をばたつかせ、もがき苦しむ長兵衛の顔が、みるみるうちに土気色に変わる。

絞められた喉がごぼごぼと鳴り、分厚い舌を垂らして狂ったように暴れる体へ馬乗りになったお露。

夫の首を締める彼女の顔には、はっきりとくらい喜びの色が浮かんでいた。


 目の前で起こった狂乱の惨劇に、今まで固まっていた志狼が弾かれたようにお露へ飛び掛かる。

にやにやと薄気味悪い笑みを浮かべて長兵衛の首を締め上げる元海華の身体を渾身の力で引き剥がし、体重を掛けて上にのし掛かった。


 「止めろっ! もういいだろうがっ!」


 「煩いっ! 離せ……離せ――っ!!」


 滅茶苦茶に手足を振りかざして暴れるお露の前では、口からだらだら涎を垂らした長兵衛が畳に突っ伏し、背中を震わせて激しく咳き込んでいる。

浅黒い首にくっきりと付いた紫色の指の跡、手を引き剥がした時に付いたのか、爪で深く引っ掛かれた赤い線状の傷からは、深紅の血が流れ着流しの襟元をよごしていた。


 必死な形相の志狼に組み敷かれたお露は髪を振り乱し、野獣の如き咆哮を迸らせた。


 「私はここの女将だ! この人は私の主人、私はこの人の妻……例え死んでも……この人の妻は私だけだ――っっ!」


 血だらけの指が、ばりばり畳を掻き毟る。

血走った瞳、裂けんばかりに見開いた眦から透明な雫が一筋頬を滑り落ちた。

狭い部屋に木霊す絶叫、しかし、母屋から駆け付けてくる者は誰一人としていない。

まるで見えない何かに音を遮断されているか、またはこの離れ自体が現し世とは別の世界に存在するかのようだった。


 首を押さえ、げぇげぇえづく長兵衛へ朱王が汗にまみれた顔をゆっくりと向ける。


 「旦那様……ここまで来ても、まだ、この人形を修理されますか?」


 静かに、静かに闇に染み入るような声色。

涎と涙、そして汗で汚れ、浮腫んだ顔を左右に振り乱した長兵衛は、充血した目からぼろぼろ涙をこぼして、暴れ狂うお露に向かい深々と頭を下げた。


 「すまな、かっ、た……お露、全て、私が悪、かった……もう、人形はいらない……。捨てる、すてるから……だから……」


 『成仏してくれ』


 涙に咽ぶ弱々しい呟き。

それを耳にしたお露の身体がぴたりと止まり、乾いた唇が戦慄く。


 「私は……成仏なんて、しない……。ここは私の家、どこにも行かない……あなたが来るまで、ずっと……ははっ……あはははっ、あ゛あ゛あ゛あ゛――――っっ!」


 掠れた絶叫、それと同時に壁際に転がっていた人形の頭が、ばんっ! と激しい音を立てて真っ二つに爆ぜる。


 ばらばらと散らばる胡粉の欠片、緩やかに舞い散る漆黒の髪……。


 志狼の下にあった身体が大きく一度だけ痙攣し、ぐったりと力が抜けていく。

涙で濡れた長い睫毛を伏せた海華は、先程の暴れようが嘘のように静かな寝息を立てていた。

未だに嗚咽が治まらない長兵衛を横目に、志狼は慌てて倒れ伏した身体を軽々と抱き起こす。

狼狽えながらも朱王に目をやれば、同じくこちらを振り向いた彼と視線がかち合った。


 この場にそぐわない、穏やかな光を宿した瞳。

汗で額に貼り付く髪を掻き上げた朱王の口から出た言葉は、


 『全て終わった』


 ただ、これだけだった。





 放心状態の長兵衛と最早木屑と化した人形、そして前金として渡されていた三十両を残して三人は離れを後にした。

外は月の光も差さない漆黒の世界。

家々から漏れる灯りだけを頼りに歩く朱王の背中には、深い眠りに落ちた海華が穏やかな寝息を立てている。

その両手には血の滲む包帯が乱雑に巻かれていた。


 「――女って奴は、恐いもんだな」


 ぐしゃぐしゃと髪を掻き乱し、ぽつんと呟いた志狼に朱王は無言で頷く。

愛憎と執念と深い哀しみ……そんな感情が凝り固まった物が、海華の体を借りて二人の前に現れたのだ。


 「でもよ、幽霊なんざ信じないって言ってた朱王さんが、まじない屋紛いの真似するとは思わなかったぜ。いっそのこと人形師なんざ辞めて、海華と口寄せ屋になったらどうだ?」


 揶揄を含ませた志狼の言葉に困ったような笑みを見せた朱王は、べたべたと首筋を汚す汗を片手で拭った。

 

 「こんな真似を毎回やってみろ、海華がもたないだろう? それに、俺は女将さんが海華に取り憑くなんて思わなかったんだ。ただの偶然さ」


 あんな事になるとわかっていたら、絶対に海華は連れて来なかった。

だが、『行かなきゃならない気がする』と真剣な眼差しで言っていた海華は、何かしらを感じていたのだろう。

ねっとりと湿った風が頬を撫で、傍らに建つ木塀の上で、一匹の白い猫が緑色の瞳を不気味に光らせた。


 「なぁ、朱王さん。もしもあの旦那が、何がなんでも人形を直せとごねたら、あんたどうする気だったんだ?」


 「決まってるさ。あの場で人形ぶち壊してたよ。でも、あれだけ凄まじい物を見せられたら、旦那だって意固地に人形直せとは言っていられないだろう?」


 亡霊なんぞに妹は渡さない。

半分賭けのような気持ちで『ご主人が断らない限り修理を続ける』と断言したが、何とか事態を良い方に進められた。

二人が立てる下駄の音以外聞こえない静かな夜道。

どっと疲れが出たのだろう、朱王も志狼も口数は少なく、ただ黙々と歩みを進めるだ。


 あれは本当に女将の亡霊だったのか、それは朱王にもわからない。

ただ、先日志狼が言った言葉がずっと胸に引っ掛かっていた。


 『憎い、殺してやりたいという感情は、例え身体は死んでもなかなか消えない』


 あの日、眠り続ける妹の寝顔を見ながら考えた。

人が死ねば、肉体は腐り爛れてやがては土に還る。

しかし、形を持たない『感情』はどうなるのだろう?


 身体と同じく消えて無くなるのか、はたまた空気に溶け、風に乗っていつまでもこの世に留まり続けるのか……?

生きている身の朱王にはわからない。

ただ、一つだけわかること、それは憎悪と怨念、そして激しい怒りが形を成し、未だ自分と妹の周りをさ迷い続ける亡霊がいるということ。

背中に感じる温かく柔らかな温もり。

それと同時に、刻まれた古傷がずきりと痛んだ。





 伊勢ノ屋から帰った夜から三日が過ぎた。

短い生を終え、道に転がる蝉の骸に群がる蟻の群を跨ぎ、炎天下の中を中西長屋に向かう志狼の両手には、野菜や米が山と入った風呂敷包みが下げられている。

海華の手は、お露のせいで傷口が更に広がり使い物にならない。

毎日重湯を啜る生活が更に長引いているかと思うと、ひどく不憫でいてもたってもいられなかった。


 あの日から、『呪いの人形』の噂はぱったり聞かない。

長兵衛はお露と約束した通りあれを処分したのだろう。

志狼は、『お前が殺した!』とのお露の言葉がずっと気に掛かっていた。


 何度か桐野に打ち明けようとしたが、既に一年前事故として処理されている件であり、何より長兵衛はこれから先、死ぬまでお露の亡霊に怯えて暮らす事を考えれば、それ以上の罰はないだろう。

真実は長兵衛のみが知っている。

あの一件は、自分の胸にしまっておこう。

そう志狼は決めたのだ。


 傾いた長屋門に絡まる朝顔はすっかり枯れ、茶色く干からびた葉を虚しく揺らす。

荷物を抱え、器用に部屋の戸口を開けた志狼の目に飛び込んできたのは、新たな包帯が巻かれた手を顔に当て、肩を震わせてさめざめ泣く海華の姿だった。


 「お、い……、どうしたんだ?」


 風呂敷包みを抱えたまま土間に立ち尽くし、ぽかんと口を半開きにする志狼を、海華は泣き腫らして真っ赤に充血した瞳で見詰めた。

泣くほど腹が減っているのか!? と、半ば焦りながら部屋へ上がった志狼の耳に、弱々しい海華の呟きが届いた。


 「志狼さぁん……兄様が、兄様が……ちゃんと、ご飯炊けたのよ!」


 「……あ? ご、飯?」


 呆気に取られた声色の問いに、こくこく頷く海華は包帯で涙を拭い、片手で竈の上に乗せられた釜を示す。

土間へ降り、恐る恐る釜の蓋を明ければ、甘い香りと共に真っ白な湯気がもうもうと立ち上る。

中には、艶やかに輝く白飯がぎっしり詰まっていた。


 「お米磨ぐ所からみんな完璧に出来たの! こんな日が来るなんて……! やっぱり兄様はやれば出来るのよ!」


 背後から聞こえる嬉し泣きを聞きながら、志狼は苦笑いを浮かべる。

飯を炊けたくらいで感激させるなんて、朱王は余程家事が出来ないのだろう。


 「で? その『やればできる』朱王さんはどこに行ったんだ?」


 「お醤油切れたから、買いに行ったわ」


 「そうか、それなら、帰ってくる前にまた何か作ってやるよ。ここ、借りるぜ」


 白飯だけではあまりにも寂しい食卓だ。

風呂敷を開き、中から前掛けを取り出す志狼を見て、『いつもありがとう』と、海華は顔を綻ばせる。

やがて部屋から漂う味噌汁の香り。


 呪いの本体が消え去った部屋は、いつも通り平和な時が流れていた。









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