第三話
途中で志狼と別れ、眠り続ける妹を背負って暗い夜道を長屋へ急ぐ。
黒い影となって浮かぶ長屋門を潜り抜けた朱王の目に、灯りの無い自室の前に群がる長屋の住人達の姿が飛び込んできた。
前掛け姿のままで部屋に向かって一心不乱に手を合わせているのは、大家の女房であるお石、仕事から帰ったのであろう、大工姿で何やら真剣に祈っているのは、はす向かいに住むお君の亭主だ。
まるで葬式だな、と苦笑いする朱王を最初に見付けたのは、この長屋に一番古くから住んでいる老婆、おさきだった。
『朱王さんが帰ってきたよぅ!』との嗄れた叫びに、集まった人々が一斉にこちらへ顔を振り向ける。
どの顔も表情は固く青ざめており、亭主の隣に立つお君に至っては今にも泣き出しそうだ。
その人垣の中心から、薄汚れた白い着物を纏う山伏姿の大男がのそりと前に出る。
それを見た瞬間、朱王はぶつけた頭が鈍く痛み出すのをはっきりと感じた。
この男は、以前海華が声を失った時にお石が連れて来た、所謂呪い屋だ。
無精髭も目立つその男は、朱王をびしりと指差し『その者らは質の悪い狐に憑かれている』 だの、『これから三日間加持祈祷を受けろ』だの、『この御札を部屋中に貼れ』だのと、口から唾を飛ばして喚き立てた。
大男が怒鳴り散らす迫力に、皆は神様を拝むように男へ向かって手を合わせ、お石は念仏だか何だかわからぬ物を唱えている。
あまりの馬鹿馬鹿しさに目眩を覚えながらも、朱王は人波を掻き分けて部屋へ引っ込んだ。
しかし、この山伏の信者なのであろう、お石は引き下がらない。
朱王がぴしゃりと音を立てて閉めた戸口をそろそろ開き、そこから中へ顔を突き出した。
「ちょいと朱王さん!一回拝んで貰った方がいいよ?海華ちゃんの怪我もさ、治るかもしれないじゃないか」
「呪いで怪我が治るなら、医者なんざいりません! 海華は……ただ癇癪を起こしただけですから! 皆さんにもそう伝えて下さいっ!」
半ば怒鳴り付けるよう吐き捨てた朱王に、お石は納得いかない表情を浮かべながらも、またそろそろと顔を引っ込める。
しばらくは喧しかった表も、時間がたつうちに一人、また一人と部屋に去り、やがて夜の静寂が長屋を包んだ。
ほっと胸を撫で下ろし、行灯に灯りを灯して手早く妹の布団を敷く。
その物音に気付いたのか、海華の閉じられていた瞼がゆっくりと開いた。
「あ……? 兄、様……?」
「起きたか? 具合はどうだ?」
くたりと畳に横たわる妹の顔を覗き込み、汗で額に貼り付いた髪を指先で取り除くと、海華はぎこちない笑みを浮かべた。
「大、丈夫……手が、痛いだけ……。――あたし、どうしちゃったのかしら? 全然……何も、覚えて無い、の」
行灯の灯りを映す瞳が不安げに揺れる。
壁や畳に飛び散る自身の血、どす黒く変色したそれを目にした途端、海華の顔が苦しそうに歪んだ。
「余り心配するな、大丈夫、お前は何ともないよ。とにかく今夜はゆっくり休め」
宥めるように頭を撫で、静かに微笑んだ朱王は妹の着物を脱がせて襦袢姿のまま布団に寝かせた。
今夜も蒸し暑い、襦袢一枚でも寒いことはないだろう。
すがるように自分の手を握り、再び眠りの淵に落ちた妹の寝顔を眺めなる朱王の口から、深い溜め息が漏れる。
小さく灯る行灯の光が朱王の影を血の跡も生々しい壁に大きく映し出し、炎の揺らめきに合わせて、その影もふらふらと揺れていた。
翌日から、海華は両手が使えない不自由な…… いや、ある意味悲惨な生活を強いられることとなった。
指先から手首に掛けて包帯が幾重にも巻き付いた手では、仕事はおろか食事さえも満足に出来ないのだ。
少しでも指を曲げれば激痛が腕を突き抜けるために箸が握れず、渋々兄に食べさせて貰う。
必 然的に家事は全て朱王が担うことになるが、これが海華にとって頭痛の種だった。
米を炊かせれば釜を真っ黒に焦がし、近所からお裾分けされた『めざし』は、物の見事に魚の形をした消し炭へ化ける。
襦袢の洗濯を頼めば、どれほど「の馬鹿力で洗濯板に擦り付けたのだろう、綺麗な朱の布で出来た襦袢は大きな穴があちこちに開いたぼろ布と化した。
使えない手と、家事が全くこなせない兄を抱えた海華は、もうどうしていいのかわからない。
長屋の女達が親身になって面倒を見てはくれるが、いつまでもその好意に甘えてもいられない。
朱王が『これなら俺にも作れるぞ』と、胸を張って作った料理、生米をどろどろに煮溶かした重湯……最早粥とは言えない代物を、泣きそうな顔で啜ったのは、手を怪我してから五日目の朝のことだった。
同じ日の夕方部屋を訪れた人物は、海華にとって神や仏と同等なくらい有り難い存在となったのだ。
「どうせこんなこったろうと思ったぜ!」
擦り切れた畳にどかりと座り、お櫃から掬った白飯をせっせと握る志狼は呆れ果てた様子でそう言い捨て、持参した根菜の煮付けや卵焼きを次々平らげていく兄妹を見据える。
きっとろくな物を食べてはいないだろう、と食材を持参して見舞いに来たのが正解だった。
部屋の戸を開いた途端、壁に凭れてへたり込んでいた海華が土間に飛び出し、『何か作って!』と懇願してきた時は流石の志狼も驚いた。
「朝晩重湯啜って味噌舐めてるだけじゃな、海華の怪我治る前に痩せ干からびるぞ?」
溜め息混じりに呟かれる志狼の言葉を聞いた朱王の眉が、ぴくりと跳ねる。
「重湯じゃない、あれは粥だ」
「嘘よ、お米なんかなんにも……うぐっ!?」
『米なんか入っていなかった』その台詞は、兄によって無理矢理口に押し込まれた卵焼きにより、喉の奥に封じられる。
むっつり顔の朱王、その横で喉のを詰まらせそうになりながら卵焼きを必死に飲み下す海華。
そんな兄妹を交互に見遣り、握り飯を作る志狼の口から再び深い溜め息が漏れていた。
「ところで朱王さん、あの人形はもう返したのか?」
山のように握った塩結びに濡れ布巾を掛ける志狼の問い掛けに、朱王の箸を持つ手がぴたりと止まる。 今までにこにこしながら料理を頬張っていた海華も顔を強張らせ、自らの膝先へ視線を落とした。
「まだ……ここにあるんだ」
そう小さく呟き、作業机の端に置かれた濃紺の風呂敷包みに顔を向ける朱王。
ぐっと眉根を潜め、志狼も同じく机へ目を向けた。
「修理、続ける気か? あんたも誰かさんに負けず劣らず頑固だな?」
その言葉に唇を噛み締め、箸を静かに料理が乗った皿に置く。
別に意固地になっているわけでは無い。
しかし、朱王にも人形師としての矜持があるのだ。
一度受けた仕事、例えそれが金にならない物だとしても全力を尽くす。
自分にはその責任があり、『呪いのせいで出来ませんでした』なんて言い訳は通じないのだ。
相手は人形、木と胡粉で造られた人形だ。
人の手で造られた代物を人が直せないはずはない。
例えそれが『呪いの人形』だったとしても。
「このままいけば、取り返しのつかない事になるかもしれねぇぜ? それでもいいのか?」
「いいわけないだろう。……志狼さん、俺はただの人形師だ。幽霊だ化け物だの相手は、本来の仕事じゃない。だがな」
真っ直ぐに志狼を見詰め、朱王は膝に置いた手を握り締める。
「仕事の邪魔をする奴は、例え幽霊でも許さない。今回は海華まで酷い目にあったんだ。落とし前は、きっちりつける」
兄の口から出た静かな、しかし強い意志を感じる台詞に海華は伏せていた顔を跳ね上げて長い髪に隠れた横顔を凝視する。
傍らに置いた濡れ布巾で手を拭い、志狼はやや癖のある前髪を掻き上げた。
「女将の幽霊とやり合おうってのか?」
「出来るなら、の話しだ。今夜、伊勢ノ屋へ行こうと思ってる。今度ばかりは、あの人形と女将の関係を聞き出さなきゃならん」
あの人形は誰を模して作られたのか、なぜ女将……いや、女将の幽霊はあれを壊したがるのか……。
伊勢ノ屋の口から、はっきりと説明して欲しかった。
でなければ、人形はこの先ずっと直せないままだろう。
しん、と一瞬の静寂に包まれる小さな部屋。
その静けさを破ったのは、海華の唇から出た一言だった。
「あたしも、一緒に行く……」
兄と志狼の視線が突き刺さるのを痛いほどに感じたが、もう顔は伏せなかった。
「あのな海華、お前は怪我人なんだ。それに人形のことは俺に任せろと言ったろう?」
「そうだそうだ。第一お前が行った所で何になるんでぇ? 少し大人しくしてろ」
僅かに眉をしかめる兄と、苦笑いすら見せる志狼へ海華はすがるような眼差しを交互に向ける。
湿気を帯びた重い空気が、ぐらりと揺れた気がした。
「あたしね、なんだか……行かなきゃいけないような、そんな気がするの。どうしてだかわからないけど……だからお願い! 一緒に連れて行って!」
兄の膝を強く握り、必死に『連れて行って』 と懇願する海華。
普段は余り見られない妹の様子に、朱王は目を瞬かせ、志狼までもが不思議そうに首を傾げる。
結局この日の夕方、人が魔と出逢う逢魔が時に長屋を後にした影は三つ。
人形の入った風呂敷包みを携えた朱王と志狼、そしてどこか不安げな面持ちで二人の後をつく海華の影が、埃の舞う道に長い影を映し出していた。
三人が塩問屋、伊勢ノ屋に着いたのは、ぎらぎらと燃える真っ赤な夕日が西の空に沈む、まさにその時だった。
家路を急ぐ人々が行き交う通り、黒光りする瓦屋根、白壁の大きな店の前に停められた大八車に山と詰まれる塩の詰まった藁包みを、重たそうに運ぶ大柄な人足達。
微かに海の香りが漂う店内に客は無く、入口付近にいた若い男の使用人に主を呼んでくれるよう頼んだ所、幾ばくもしないうちに鼠色の着物を纏った長兵衛が、店の奥から姿を現した。
突然店を訪れた朱王と、見知らぬ男女を前に長兵衛は驚いた様子だったが、朱王は海華を妹、そして志狼を『仕事を手伝ってくれる友人』と紹介し、人形の事で話したい事があると告げる。
すると長兵衛は何も言わずに三人を店に上げ、母屋の奥に建つ離れへと通した。
この人形に関しては、なるべく人のいない所で話がしたいのだろう。
母屋と離れを結ぶ渡り廊下からは、広い中庭が一望でき、緩やかな曲線を描く太い幹を空へ伸ばす巨大な松が、黒い影となって三人を迎えた。
通された離れは十畳ほどの広さがあり、女がうたた寝する姿を描いた掛け軸があるだけの殺風景な部屋だ。
普段は使われる事なく閉め切られているのだろう。
黄ばんだ障子を開けた途端、埃と畳の匂いがない交ぜとなった、澱んだ空気が流れ出す。
長兵衛の手で明かりが灯された古い行灯。
柔らかな光が広がる表から隔離された空間で、朱王は持参した風呂敷包みをほどき出した。
風呂敷の上に転がる半分髪をられ、目潰しされた痛々しい頭。
粉々に砕け、胴体から取れた四肢。
それを目にした瞬間、長兵衛は日焼けした顔を強張らせ、朱王の左に座る海華は顔を伏せる。
その隣に座する志狼は、息を飲んで哀れな人形を見詰めていた。
「――修理は、まだ終わりませんか?」
以前と全く変わらぬ、それ以上に破壊が進んだ人形を目にした長兵衛の口から微かに震えた声が漏れる。
「申し訳ありません。もうしばらく時間が掛かるかと……。今日は、先日と同じ事を伺いにまいりました」
軽く一礼する朱王の正面で、長兵衛が軽い溜め息をついて太い腕を組む。
その視線は人形から離れ、落ち着きなく宙をさ迷った。
「朱王さん、私は貴方に人形を直して欲しい、それだけをお願いしました。貴方は他の人形の修理を行う時も、わざわざどうして作られたのか、誰を模して作ったのかを聞きますか? そんなもの、修理には何の関係も無いはずだ」
苛立ちを滲ませる声。
確かに長兵衛の言うことは間違っていない。
しかし、朱王は引き下がらなかった。
「お言葉を返すようですが……。この人形は普通ではありません。まるで『直されるのを拒んで』いるようです。以前修理を依頼された人形師達も、私と同じ事を聞いたのではないですか?」
すっ、と頭を上げたと同時、切れ長の瞳が鋭い光を放つ。
あれだけの妙な噂、この壊れかたを見て、これはどのような目的で作られた人形なのかを、人形師らが聞かないはずはないのだ。
「これはどなたを模して、どんな目的で作られたのです? この髪は、人の毛ですね。もしや、この髪の持ち主が人形の……」
「――話して差し上げたらいかがです?」
朱王の言葉を遮ったのは、忘れもしないあの嗄れた声だった。
がさがさしたその声を耳にした途端、朱王と志狼は全身の毛が逆立つような感覚を覚えた。
顔を伏せたまま、兄と長兵衛の話しを聞いていた海華。
その身体が前後にゆらゆらと揺れる。
ゆっくり、ゆっくり長兵衛へ向かい顔を上げ始める海華の赤い唇が、にぃっと大きくつり上がるのを、朱 王は見逃していなかった。




