第一話
綿雲を浮かばせた空に白い太陽が燃える。
照り付ける強い日射しは、長屋門に絡み付く萎れた朝顔の花にも容赦なく照り付け、晩夏の時期だというのに全く暑さは和らがない。
洗濯に精を出す女達の横では、全裸の幼児がたらいに満たされた水に腰まで浸かり、水飛沫を上げて水遊びに興じている。
そんな長屋の一室、朱王の住居兼仕事場に一人の客が訪れた。
細い縦縞模様の着物と薄い鼠色の羽織は、傍目からしても上等だとわかる生地だ。
がっしりと筋肉質の体格、黒く日焼けしたほぼ四角と言ってもいい顔には黒々と太い眉と一重の小さな目、皺の目立つ額にじっとり浮かぶ汗を何度も拭う五十半ばの男。
その横には、小さな風呂敷包みがぽつんと置かれていた。
男と向かい合って座する朱王の視線は度々その包みに向けられる。
つい今しがた『木目込み人形の修理を頼みたい』とやってきたこの大柄な男は、塩問屋『伊勢ノ屋』の主、伊勢長兵衛と名乗った。
「修理をお願いしたいのは、この人形です」
乾いた唇を一舐めし、長兵衛が風呂敷包みを揃えた膝の前に引き寄せ、ゆっくりと結び目をほどき出す。
その指先が微かに震えているのを、朱王は見逃さなかった。
群青色の風呂敷が畳の上ではらりとほどけ、中から現れた人形を見た途端、朱王は思わず『うっ』と声を詰まらせる。
こめかみから流れた汗が頬をつたい、細い顎の先からぽとりと膝へ滴り落ちた。
風呂敷の上には、壊れた人形が一体。
いや、滅茶苦茶に破壊された人形の残骸が転がっている。
愛らしく膨れた頬には蜘蛛の巣状のひびが入り、人毛を使ったのであろう肩の辺りで切り揃えられた黒髪は無惨に引きむしられ、頭半分は禿げている。
異様なのは、頭や手足全てが胴体から引き千切られ右手や左足は、最早木の破片と言っていいくらい木端微塵だ。
生首のように転がる頭、ぱっちりと円らな瞳はなぜか真っ黒に墨が塗られ、ぼろ雑巾を思わせる萌木色の着物には、何やら赤黒いシミがべったり染み付いていた。
「――これは、一体……」
人形の残骸から目を反らせないまま、低い声色で朱王が尋ねる。
神経質そうに何度も手拭いで顔を拭い、そわそわと落ち着かない長兵衛の口から出た言葉は……
「子供が……子供が悪戯で壊してしまいました」
「お子様が、悪戯で……」
長兵衛の答えを反芻する朱王。
その答えは到底信用出来ないものだった。
髪を毟る、瞳を墨で塗り潰す、この位なら子供でも出来るだろう。
しかし、この破壊された四肢は別だ。
子供の力でここまで粉々に砕けるほど、脆くは出来ていない。
「よその人形師には軒並み断られてしまいまして……もうこちらにお願いするしかありません。どうぞ引き受けて頂けないでしょうか?」
どこか怯え混じりの表情を浮かべ、長兵衛は必死で頭を下げる。
なぜ他の人形師が依頼を断ったのか、既にその理由を知っている朱王は、難しい面持ちで腕を組んだ。
本来ならば、引き受けたくない仕事。
しかし、目の前で何度も頭を下げ『修理してくれ』と懇願する男を無下に追い返すのも気が引ける。
はぁっ、と腹の底から深い溜め息をつくと同時、隙間から吹き込む温い風に、引き毟られた人形の髪が、ゆらりと揺れる。
幾度も額を畳に擦り付け、必死に頼み込む長兵衛に根負けした朱王は、結局人形の修理を引き受けることに決めた。
長兵衛は踊り上がらんばかりに喜び、前金として三十両もの大金をぽんと置いて長屋を後にした。
濃紺の風呂敷から取り出された人形は、今机の上に並べて置かれている。
汗だくで仕事から帰った海華は、その気味悪い人形の残骸を見るなり、鼻の上に皺を寄せて露骨に嫌な顔をした。
「どうしてこんな厄介な仕事受けるのよ? 他に依頼ならいくらでもあるでしょ?」
夕餉の片付けを終え、むっつりした表情で茶を啜る妹の横顔を気まずそうに眺め、ばりばりと頭を掻き毟る朱王は、『仕方無いだろう』と 一言呟く。
その途端、柳眉を逆立てた海華から怒りを含ませた視線が突き刺さった。
「何が仕方無いよ! 兄様だって、あれがどんな人形か知ってるんでしょ!?」
「そりゃ知ってるさ。だけどな、貴方だけが頼りだと頭下げられちゃ断るに断れんだろう」
なるべく妹の方を見ないように煙草盆を引き寄せた朱王は、覚束無い手つきで煙草を煙管に摘めて火種に翳す。
苦い紫煙がゆらゆら立ち上ぼり、狭い部屋に苦い香りが広がった。
海華がこうもあの人形を毛嫌いしているのは、ある理由があるからだ。
今、江戸の街中でまことしやかに囁かれている噂、『伊勢ノ屋の呪いの人形』。
それは紛れもなくこの部屋にある人形のことだ。
事の起こりはひと月程前、人形の修理を最初に受けた人形師の女房が布団の中で変死した。
前日まではぴんぴんしていたのに、朝起きた時には既に冷たくなっていたのだ。
それだけならば、まだ『呪いの人形』とまでは呼ばれない。
おかしいのはここからである。
一向に修理が進まないのだ。
右手を直せば左足が壊れ、顔を直せば、今まで傷一つ無かった胴体がひび割れる。
さすがにおかしいと感じたのであろう人形師は、直ぐさま依頼を断った。
次に依頼された人形師も同じだ。
修理をしてもしても気付かない間に次々壊れていく人形、そして時を同じくして家族や弟子が怪我や病気に次々と倒れていく。
結局そこも断られ、三件目は更に悲惨な結末を迎えた。
人形師が川で溺死したのだ。
手足が滅茶苦茶に砕け散り、顔の半分がひび割れた人形を固く抱き締めて……。
ここまでくれば、噂はあっという間に人形師仲間や街中に広がり、曰く付きの人形、死を招く呪いの人形と呼ばれることとなった。
また、『夜中に人形が痛いと涙を流して泣き叫ぶ』、『顔だけが宙を舞った』など話しに尾ひれ背びれが付き、大方の人形師はこの人形を目にすることすら嫌がるのだ。
胸一杯に紫煙を吸い込み、薄い唇から細く吐き出しながら朱王はちらちらと妹の様子を伺う。
相変わらず不機嫌な表情を崩さないまま、海華は湯飲みに残った茶を一息に飲み干した。
『気持ち悪いから出しっぱなしにしないで』 海華からそんな抗議を受け、人形は再び風呂敷に包まれた。
翌日から早速修理に取り掛かった朱王は、まず粉々に砕けてしまった手足から直しに掛かる。
と言っても右手、左足は完全な作り直し、元の手足は全く使えないのだ。
昨夜から臍を曲げたままの妹が仕事に出たのを見計らい、しっかり縛っていた風呂敷の結び目をほどく。
白く煌めく陽光に照らし出されるひび割れた人形の首。
毟り取られたぐちゃぐちゃの髪と黒く目潰しされた瞳は、明るい中で見ても不気味であり、どこか強い怨念さえ感じさせた。
なるべく頭を見ないように、素早く左手を取り、残りは再び風呂敷で包み直した。
いつも賑やかな女や子供らの声が響く長屋もひっそりと静寂が包み込み、時おり聞こえるのは晴れた青空を群れ飛ぶ雀の囀ずりだけ。
今日はいつにも増して暑いためか、みな部屋に引っ込んでいるのだろう。
かろうじて原型を留めている左手を前に、朱王は新たに買い求めた材料に彫刻刀を入れた。
木屑を固めたそれは、形を彫り出すのにそこまで苦労はしない。
暑い空気が澱む狭い室内に、彫刻刀が木を彫る『しゅっ、しゅっ、しゅっ』と小気味良い音が響く……はずだった。
「――なんだ、おかしいな……?」
怪訝そうな面持ちの朱王が小首を傾げ、彫刻刀の動きを止める。
左手に持った木材はぎざぎ さな断面を晒し、細かな木屑が机にこぼれた。
削った、と言うより毟ったような汚い彫り跡は、粗削りにしてはあまりに雑だ。
自分の仕事とは思えない、まるで子供が遊びでやったような跡に、朱王は驚きを隠せない。
手にしている彫刻刀は昨日今日使い始めた物ではなく、長年愛用している道具、勿論毎日の手入れは欠かさない。
上から下までくまなく刃を確かめるが、欠けてはいない。
いつも通り鋭い輝きを放っている。
彫っている材料も、いつもと同じ店から朱王自ら選んで買い求めた物、決して不良品ではない。
「調子が出ないだけか……?」
そう一人ごち、試しに刃先を濡れ布巾で拭いてから作業を再開するが、相変わらずぼろぼろ木屑がこぼれるだけだ。
一向に進まない作業に、さすがの朱王にも焦りと苛立ちの色が見え始めた。
「なんなんだ……っ! くそっ!!」
がつっ! と鋭利な刃先が材料に食い込んだその瞬間、ばきっ! と派手な破壊音と共に煌めく光が目の端に飛ぶ。
あっ! と口から漏れる小さな叫び。
光の弾をかわす暇も無かった。
じわりと右目の横に広がる熱い痛み。
右目を手のひらで押さえ、よろめきながら立ち上がった朱王は、慌てて妹の鏡台の前に向かい、曇りかけた丸い世界に己の顔を映し出す。
僅かに青ざめて見える己の顔。
右目の目尻辺りから、赤い血が糸のように細く流れ出ているのを見た朱王は、生唾を飲み込み傷口を指先でなぞる。
ほんの掠り傷程度、放っておけば出血もそのうち止まるだろう。
だが、そんな些細な傷がいやに熱く疼くのだ。
呆然とした様子で机まで戻る朱王、そこで目にした物は刃先が横一文字に割れた彫刻刀と、畳に刺さった状態で鈍く輝く小さな刃先の破片だった。
「本っ当、兄様も嫌な仕事引き受けちゃったわよ」
うんざりとした面持ちで吐き捨てた海華が、串に刺さった団子にかじり付く。
昼下がりの茶店は一時の涼を求める人々で賑わい、道に面した長い腰掛けも端の端まで人が腰掛け、冷えた餡蜜や甘酒に舌鼓を打っていた。
ぶつぶつと文句をこぼす海華の横には、やや癖のある髪を後ろで束ねた志狼が座り、苦笑いしながら冷茶を啜っている。
買い物に出掛けた志狼が辻で人形を遣う海華とばったり逢ったのは、この少し前だ。
薄い藍色をした着物の胸元を汗で湿らせた海華を茶に誘い、この茶店の暖簾を潜った時から、志狼はずっと愚痴の聞き役に徹している。
「そうかりかりするなよ。呪いの人形なんて眉唾物の噂、鵜呑みにしてるのか?」
「全部信じてる訳じゃないのよ? でも死人が出てるのは事実なんだからさ」
団子の串を小皿に置き、冷たい茶の満たされた湯飲みを持つ海華は、きゅっと眉根を寄せる。
首筋から流れる汗を手拭いで拭った志狼は、独り言のようにぽつりと呟いた。
「伊勢ノ屋の旦那も、小さな塩屋を一代で大店にしたやり手だからな……。大金払ってでも直したい大切な人形なんだろう」
聞いた話しによると、伊勢ノ屋はお城に献上する塩も一手に引き受けているらしい。
志狼の呟きを聞いた海華が、最後の一口となった茶を一気に喉へ流し込んだ。
「六十両も払うなら、新しい人形作ればいいのよ。子供が悪戯で壊した物なんてさ」
「子供が壊した? おかしいな?」
怪訝な面持ちで首を傾げる志狼のことを、海華が不思議そうに見上げる。
「伊勢ノ屋に子供はいねぇはずだ。そう言えば女将の姿もしばらく見ねぇな」
「それ本当? ――まぁ、兄様も子供がやったなんて言い訳信じてはいないけど。どうして嘘なんかついたのかしら?」
首を傾げた格好の黒い影が二つ、地面に貼り付く。
ふと空を見上げれば、ぎらぎら輝く太陽が網膜に突き刺さる白い矢を放った。
「……そうでも言わなけりゃ、受けて貰えないと思ったんじゃねぇのか?」
「そうなのかしら? どっちにしても、早く修理を終わらせてくれなきゃ気持ち悪くて仕方無いわ」
はぁ、と小さく溜め息をつく海華の頬に、さらさらと黒髪が流れる。
何気無くそれを眺める志狼は不意に懐から財布を引っ張り出し、二人分の代金を腰掛けに置いた。
それを見た海華が慌てて財布に手を掛ける。
「あたし払うから!」
「いい、ここは俺が出す。お前は……そうだな、塩と酒でも買って帰れ」
塩と酒、その言葉に目を瞬かせて自分を見詰める海華に、志狼はにやりと口角を上げた。
「今夜辺り人形の首が飛ぶかもしれねぇぜ? その時はな、清めの塩と酒ぶっかけろ」
「なんだ……結局それなのね」
さっきまでの膨れっ面はどこへやら、困ったような笑みを見せた海華。
「少しでも動いたら塩漬けにして叩き返してやるわ。――それじゃあ、ご馳走様でした!」
「おう。朱王さんにも宜しく伝えてくれ」
ちょこんと頭を下げる海華に片手で応えた志狼は八丁堀へ戻るべく、陽炎の立つ道をゆっくりとした足取りで人混みに紛れ、消えていく。
志狼の姿が見えなくなるまで見送っていた海華も、すぐに次の辻へ向かい大きな木箱をがたがた揺らして駆けていった。




