第四話
「きゃ――っ! 何するのやめて――っ!」
突如響いたけたたましい悲鳴に野次馬の群れがざわめく。
この悲鳴が海華の演技だとわかっていても、朱王は全身から冷や汗が吹き出すのを感じた。
「やめてっ! 離して……いや――っっ!」
どかん、ばたん! と何かが激しくぶつかりあう響き。
それと同時に『今だ! 突っ込め――っ!』と桐野の一喝が晴天の空の下に轟いた。
雄叫びと土煙を巻き上げ、一斉に戸口へ群がる役人達、生木を引き裂く凄まじい音を立てて弾け飛ぶ扉と響き渡る悲鳴、罵声、怒号の嵐。
「賊はどこだっ!? 逃がすな――ッ!」
天地が引っくり返る騒ぎの中から聞こえる都築の叫び。
その後を追うように、高橋と思われる些か甲高い声が響く。
「海華殿っ! 海華殿無事かっ!? 今助けてやるからなっ!」
それを聞いた瞬間、朱王は無意識に弾き壊された扉へ駆け寄った。
やがて、踏み込んだ男達で犇めき合う合う店内から高橋に抱えられるように姿を現す小柄な人 影が見える。
僅かに頬を引き攣らせたその人影は、間違いなく海華だった。
「海華っ!」
「あ、兄様!」
ふにゃ、と緩い笑みを覗かせる妹に駆け寄る朱王に、高橋がほっとした表情を向ける。
「朱王殿、大丈夫だ。縛られてはいたが怪我は無い。海華殿、酷い目にあったな」
案じるような眼差しを向ける高橋に、はい、と小さく答える海華。
そんな彼女を朱王に預け、高橋は再び滅茶苦茶に踏み荒らされた店内へ戻っていく。
黒山の人だかりを成していた野次馬達から、わあっ! と歓声が上がった。
出てきたら一発怒鳴り付けてやろう、そう決めていた朱王だが、今この状況では余りに不自然。
しかし、ぐらぐら沸き立つ怒りは鎮められたかった。
「あのー……兄様、あのね」
恐る恐るといった様子で上目遣いに自分を見上げてくる妹を抱き締め、朱王はわざと皆に聞こえる大声を張り上げた。
「お前、無事でよかったなぁ! 本当に……心配したんだぞ、ッッ!」
「うぇっ! く、るしっ! 兄様っ! 痛いっ!」
逞しい腕が万力の如く華奢な体をぎりぎり締め上げる。
全身の骨がみしみし軋む音を聞きながら目を白黒させる海華は、慌て兄の背中に平手打ちをかました。
こめかみに青筋を浮かべ、引き攣り気味の歪んだ笑みで怒りの抱擁を炸裂させる朱王を眺めながら、桐野と志狼は顔を見合わせて苦笑していた。
「あの様子じゃ朱王さん、かなり怒っていますね」
「うむ、まぁ仕方なかろう。とにかく無事に事は収まったのだ。――ここにもし修一郎でもいてみろ。この程度の騒ぎではすまなかった。 ……ある意味悪夢だったぞ」
そうぽつりと呟き、桐野は未だ賊を探す役人らの叫びが飛び交う店へと歩き出した。
中へ踏み込んだ都築らは、勿論下手人を捕らえることが出来なかった。
海華が悲鳴を上げる遥か前に店から逃げ出していたのだから、当たり前だろう。
地団駄を踏みそうな勢いで悔しがる役人らを横目に、朱王と海華は店を後にした。
後は事情を知っている桐野が上手く処理してくれるようだ。
『申し訳ありません』とひたすら桐野と志狼に頭を下げた後、今度は錦屋の主と女将に『怖い思いをさせてしまいました』と、ぺこぺこ 謝り倒された朱王は、見るからに疲れ果てた様子で肩を落とし、妹を引き摺って逃げるように その場を離れた。
長屋への帰り道、海華を待っていたのは予想通り怒涛の如き説教の時間だった。
「お前は馬鹿だ! 救いようのない大馬鹿だっ! いっそ一度死んでこいっ!」
燦々と降り注ぐ日の光を受け、煌めく大川を横目に柳眉をつり上げる朱王の口から何とも物騒な台詞が飛び出す。
それを耳にした通りすがりの侍は、ぎょっと目を見開いてこちらを振り返って行った。
「そこまで馬鹿馬鹿言うことないじゃない。ああするしかなかったんだからさぁ」
怒りを滲ませる兄の後ろを、不服そうに頬を膨らませてついていく海華。
何とか兄の機嫌を治そうと試行錯誤を繰り返したが、全く効き目が無い。
こうなれば噴き出す怒りが自然と収まるのを待つしかない。
「何がああするしかない、だ! 一体桐野様方にどれだけ迷惑お掛けしたと思ってる!? しかも金まで渡しやがって!」
「あげたんじゃなくて、貸しただけ。あたしのこと観音様だって言ってたのよ、立派な人助けじゃない!」
ぱたぱたっ、と小走りで兄の隣に寄り添い、海華はその袖口を軽く引く。
しかし朱王はこちらを見ようともせず、ふん! と盛大に鼻で笑い飛ばした。
「お前が観音様ぁ? 置物の狸みたいな面のくせに。大体、押し込みなんかする輩が律儀に金なんざ返しにくるか! 騙されたんだお前は」
川面を吹き抜ける風が、さらさらと朱王の髪を揺らす。
むっとした表情の海華は、掴んでいた袖口を力一杯振りほどいた。
「誰が狸よっ!? あたし、騙されてなんかないわ! あの人は必ず返しにくるんだから! 人を見る目だけは自信あんのよ!」
「ああ、そうか! なら勝手にしろ! ――ったく、金のことはさておいてだ、俺がどれだけ心配したと思ってる」
横目で睨み付けてくる兄に、目を瞬かせた海華の口元が微かに緩む。
「へぇ……そんなに心配してくれてたの?」
「当たり前だ! 殺されるだの助けてだの聞かされて、落ち着いていられるか、生きた心地もしなかったぞ!」
肌を焼く強い陽射しに目を細め、そう言い放つ朱王。
じわりと額に浮かぶ汗を手で拭う海華は、にこにこ顔で兄の腕に己が腕を絡めた。
「嬉しいわぁ……。兄様、心配させてごめんなさいね」
『寿命が三年縮んだ』そう嘯く朱王は、やっと小さな笑みを見せていた。
錦屋の押し込み騒ぎから数日の間、朱王と海華は連日訪れる来客、珍客の対応に追われていた。
事件が無事解決した当日の夜には、桐野曰く『鬼瓦にそっくり』な厳つい顔を泣き出しそうに歪めた修一郎が土煙を上げて部屋に飛び込み、外れかけていた部屋の戸を大柄な体で木端微塵に打ち砕いた。
外界と部屋を隔てる『戸』と言う名の結界を破壊された室内には、翌日朝早くから長屋に住む女房連中が入れ代わり立ち代わりで押し寄せ、人質になった時の状況や賊の様子を興味津々に海華から聞き出していた。
そして次の日には錦屋の主と女将が揃って訪れ、迷惑を掛けました、これはお詫びの品ですと、朱王の着流し用にずしりと重たい正絹の反物を持参してきたのだ。
これには海華も大喜び、とても二両ぽっちで買える品ではない、と早速反物を抱えて仕立屋へ走る。
連日続く大騒ぎに、朱王はほとほと困り果てていた。
ようやく周囲が落ち着き出したのは、あの騒動から半月余りたった頃、容赦無く照り付ける強烈な陽射しの中、海華は朝から仕事に出掛けたまま昼近くになっても戻ってこない。
真新しい戸が付けられた部屋では、じっとりと滲み出る汗を拭き拭き人形の頭を彫る朱王の姿があるだけだ。
閉め切った部屋に暑く澱む空気と湿気。
表から響くのは風に揺れて涼しい音色の奏でる風鈴と、井戸端で水遊びに興じているのであろう子供らの賑やかな笑い声。
ずっと握り続けていた彫刻刀を木屑の散らばる机上に置き、両手を高く上げて、ぐぅっと大きな伸びをした朱王の耳が、こんこん、と戸が叩かれる微かな音を拾い上げる。
甲高い子供の歓声に描き消されそうな程弱々しい音だ。
『はい、どうぞ』と返事をしてみるが、戸を叩いた相手は一向に入ってはこない。
聞こえないのか、と思いつつ腰を上げ土間に降りた朱王が真新しい戸を引き開けると、目の前にあちこち泥で汚れた粗末な着物を纏う小柄な中年男がぽつりと立っていた。
「あのぅ……こちらは朱王さんのお宅ですか?」
妙におどおどと落ち着かない男は、腹の辺りに組んだ手を握ったり離したりを繰り返す。
「そうですが……どちら様でしょう?」
小首を傾げて怪訝な顔で尋ねる朱王へ、男は口元を引き攣らせて半ば無理矢理な笑みを作り出した。
「へい、おら源吉と申します。あの……海華さんは……?」
「妹は仕事に出ていますが。どんなご用件でしょうか?」
「あ、海華さんにはそのぅ……先日呉服屋でお世話になりまして」
土が挟まり黒く汚れた爪で、源吉と名乗る男は髭の伸びた頬をポリポリと掻く。
『呉服屋でお世話に……』その言葉を聞いた途端、男を見下ろしていた朱王の眉間にみるみる深い皺が刻まれた。
「――あんた、もしや錦屋さんに……」
「へい、そうでごぜぇやす。錦屋さんに押し込んだ、そのぅ……強盗で」
いささか照れたように下を向いてぺこぺこ頭を下げる男を、朱王はひどく胡散臭げな眼差しで見詰めていた。
『強盗』と名乗るその男を取り敢えず朱王は部屋へと通す。
日の光を受けて白っ茶け、あちこちささくれ立った古畳にきちんと正座した男、源吉は、朱王が自分の前に座ったと見るや、がばりと身体を前方に折り曲げ、汗の浮いた額を畳に擦り付けた。
「妹さんには、海華さんには本っ当にお世話になりやしたっ! 何とお礼を言ったらいいか……本当に本当にありがとうごぜぇやす!」
ひたすら礼の言葉を繰り返し、頭を下げ続ける源吉を見下ろす朱王は戸惑い気味に『頭を上げて下さい』と声を掛ける。
そろそろと顔を上げた源吉の額には、畳の跡が赤くくっきり刻まれていた。
「貴方の事は妹から聞いていますが……」
「あ、そうですか! いや、店から逃がして頂いた後、すぐに金貸しんとこに走りやしてね、借りた金子で全部借金払いやした。残りの金で嚊 (かかぁ)の薬も買えまして……」
身振り手振りを交え、口から唾まで飛ばしながら喋り立て始める源吉の話しを、朱王はただ呆気に取られた様子で聞いていた。
どうも勢いで口を動かしているらしく、『はぁ』とか『えぇ』と相槌を打つのが朱王には精一杯だった。
「でね、嚊の奴、おらが押し込みしたって言っても鼻で笑うだけなんで。『魚捌いて気絶するあんたが、そんな大それた真似出来るわけない』って言いやがるんでさ」
「はぁ……」
「あんまり悔しいから、海華さんのこと全部喋りやして。借りた金子で借金払ったって言ったら……」
「……言ったら?」
「鬼みてぇな面で殴られやして……。おら、もうあんな真似はしねぇ。割りに合いませんや」
妻に殴られたのであろう右頬を指差し、源吉はくしゃっと泣きそうに顔を歪ませる。
それを見た途端、朱王の口から深々と溜め息が漏れ、がくんと力無く頭が垂れた。
呆れ果てて言葉も出ない。
さっきまで一発怒鳴り付けてやろうと思っていたが、どうもこの男を前にしていると調子が狂う。
「で? 今日はどんなご用で……?」
弱々しい問い掛けに、源吉はおもむろに懐をまさぐり出す。
そこから引き出されたのは、継ぎ接ぎされた茶色い布袋。
中からじゃらじゃらと金属の擦れ合う音が微かに聞こえるそれは、ちょうど大人の手のひらに収まる大きさだ。
「おら、魚屋辞めて今は八百屋で世話になってます。大根や芋は切っても血は出ませんから。 何とか続いていやして……それで、少しばかりですが借りた金子お返しにきやした」
「金を、返しに?」
源吉の口から出た意外な台詞に、朱王は目を瞬かせる。
はい、と頷く源吉の小さな目は、真っ直ぐ朱王に向けられていた。
「必ず返すと約束しやした。二両には全然足りやせんが……残りはまた、絶対全額お返ししやす」
そうきっぱり言い切り、源吉は汗と埃で汚れた顔をにこりと綻ばせた。
『海華さんに宜しく伝えて下さい』そう言い残し、源吉は長屋を後にした。
背中を丸め、ひょこひょこと歩く後ろ姿を長屋門で見送りながら、朱王は渡された袋を懐にしまう。
海華が帰ったら渡してやろう。
そしてこう言わなければならない。
『お前の人を見る目はたいしたもんだ』と。
空を見上げれば、白く燃える太陽がそびえ立つ入道雲と並び輝く。
愚直な貧乏人にも、底抜けに明るいお人好しにも、天の恵みは均等に降り注ぐ。
それを実感したある夏の出来事だった。
終




