第三話
「お前は本っ当救いようのない馬鹿だ」
海華から事の経緯を全て聞いた志狼の口から溜め息混じりに出た第一声はこれだった。
ぶぅ、と河豚のように頬を膨らませる海華の隣には、小さく縮こまった源吉が『申し訳ねぇ』と消え入りそうな声で呟き、自らの前に仁王立ちする志狼へ何度も頭を下げている。
「だって仕方無いじゃない! このまま見殺しに出来なかったんだもん!」
「だもん! じゃねぇ! 妙な仏心出しやがって、表は大騒ぎなんだぜ。どうやって事を治める気なんだ!?」
頭上で繰り広げられる派手な言い争いと、火花が散りそうな睨み合いに耐えきれなくなったのか、源吉はくしゃくしゃに顔を歪めて志狼を仰ぎ見た。
「あのぅ……おら、本当に出来心でやっちまったんです。この人には指一本触れちゃいねぇ、信じて下さいぃ……」
「そんなこたぁわかってる! このじゃじゃ馬はアンタの手に負える奴じゃねぇよ」
渋い顔付きのままそう吐き捨て、志狼は深く腕組みをする。
さて、この状況をどう打破するか、横から海華の視線をひしひしと感じながら必死で考える志狼の足元では、源吉が低く呻いて乱れた頭髪をぐしゃぐしゃに掻き乱している。
「あぁぁぁぁ……どうしてこんなことになっちまったんだぁ……何が間違ってたんだよぅ!」
「江戸に出てきたこと自体が間違ってんのよ! ……あ、そうだ、志狼さんこんなのはどう?」
ぽん、と手を一つ打ち、海華は志狼に何かを耳打ちする。
渋かった志狼の顔が、更に苦々しく変わっていった。
「――つまり、俺にも一芝居打てってことだな?」
「そう、上手くこの場を治めるには、それが一番いいんじゃない? 桐野様や兄様には本当のこと話していいから。ね、乗り掛かった船なんだからさ」
「よく言うぜ……。とにかく、俺は一旦外に出る。その合図とやらは良く響くように叫べよ」
最初から最後まで呆れ果てた表情を崩さず、志狼はしょぼくれる源吉の傍らにしゃがみ込む。
「そうめそくそするな。無事にここから出してやるからよ。海華の言うこと聞いてりゃいいからな」
「へいっ! ありがとうごぜぇやす! ありがとうごぜぇやす!」
畳に額を擦り付け、拝むように頭を下げる源吉に苦笑いをこぼして志狼はぽつりと呟く。
「それにしてもあんた、厄介な女人質にしたもんだ」
その言葉の意味がわかっていないのか、ぽかんと口を半開きに、源吉は志狼を見詰める。
その後ろでは、海華が散らばる商品の中から一本の帯締めを引っ張り出している最中だった。
店の裏手から小走りに現れた志狼に都筑、高橋らが駆け寄る。
『海華はどうだった?』『賊は何人だ?』と矢継ぎ早に浴びせられる質問に一瞬狼狽えながら、志狼は咳払いを一つ、些か引き攣り気味の表情で口を開いた。
「賊は一人です。雲をつくような大男で……海華は縛られて転がされていました。その……今すぐ踏み込むのは危険かと」
「そうか、裏口はどうだった? お前、どこから入ったのだ?」
ぐっと身を乗り出し、切羽詰まった声色で問う都筑に、志狼はちらりと今出てきたばかりの裏手へ視線を投げる。
「母屋の天井裏を伝って中へ。賊は裏口にも頻繁に行き来しています。気付かれずに忍び込むのは不可能でしょう」
がくりと高橋が肩を落とす。
こうなれば長期戦は必至だ、そう残念そうに口にした都筑も再び店の前へと戻って行った。
「あの……旦那様、少しお話しが……。朱王さんも、いいか?」
周りから人が去ったのを確認した志狼が、おずおずと二人へ顔を向ける。
いつもと違う志狼の様子に首を傾げながらも、 二人は彼に促されるまま人混みから離れた裏口方面へ歩いた。
「旦那様、実は今話した事は全部真っ赤な嘘なんです」
「嘘? それはどういうことなんだ? わかるように説明しろ」
僅かに目を細めて志狼を見遣る桐野。
何がなんだかわからない、といった様子の朱王は、ただ気まずい表情を見せる志狼を見詰めている。
額に浮かぶ冷や汗を拭いつつ、志狼は中であったことを包み隠さず二人に話した。
「……と、言うことはだな、賊はただの『こそ泥』で、海華殿は縛られても脅されてもいないのか?」
「はい、むしろあの男の方が海華に脅されて……いや、あいつは奴を助けようとしていますが」
「それで? 海華は今どんな状態なんだ?」
口元をひくつかせる朱王に、志狼は酷く同情めいた眼差しを送る。
「飯……食ってた」
「――は?」
「だから、飯食ってたんだよ。母屋の台所から白飯持ち出して……」
「あの馬鹿野郎……っ!」
蒼白だった顔を耳まで真っ赤にした朱王が呻くように呟き、その場で頭を抱える。
穴があったら入りたいと思うくらいの恥ずかしさと、桐野らに対する申し訳なさに、消えて
無くなりたい気分だ。
『申し訳ございません。』と弱々しく謝る朱王に向けられる桐野と志狼の可哀想な者を見るような視線。
あの耳をつんざく『殺される』だの『助けて』だのの悲鳴は全て海華の芝居だったのだ。
今すぐ中へ押し入り、襟首掴んで引き摺り出したい気分である。
「まぁ……とにかく海華殿は無事な訳だから、な、朱王。良かったではないか」
苦笑いを見せて肩を叩いてくる桐野に何度も何度も頭を下げながら、出てきたらこっぴどく怒鳴り付けてやろう、と固く心に誓う朱王だった。
朱王が桐野に平謝りで謝り倒している頃、店内に籠城を決め込んだ海華は、やおら財布を引っ張り出し、畳の上で逆さに返す。
ちゃりん、ちゃりん、と小気味良い音を奏で、姿を現したのは山吹色に光る小判が二枚と数枚の小銭だ。
なるだけいい反物を買おうと貯えの中から持ち出した二両、ぽかんと口を開けて海華と金子を交互に眺める源吉へ、海華はそれを無造作に差し出した。
「これ、持って行きなさいよ。これだけあれば借金綺麗に返せるでしょ?」
射し込む白光にきらりと鈍く輝く小判。
生唾を飲み込む源吉の口から、戸惑いがちな声が漏れた。
「でも……いいんですかい? こんな大金……」
「あげる訳じゃないわ、貸してあげるだけよ。 また思い詰めてとんでもない事やらかされたら困るじゃない」
じろりと男を睨め付け、海華が腕を組む。
震える手で金をかき集める源吉は、おどおど視線をさ迷わせた。
「あのぅ、それで利息とやらは……」
「そんな物いいわよ! あたしは金貸しじゃないんだから! ところであんた、住まいはどこ!?」
「へい、川向こうの念仏長屋でさ」
念仏長屋と言えば、海華がいつも仕事で立つ辻の近くだ。
「あそこに住んでるの。――嘘ついてんじゃないでしょうね!?」
「嘘じゃねぇ! 今更嘘なんかつきませんよ!」
狼狽えながら頭を横に振りしだく男を見る限り、嘘をついているようには見えないし、嘘をつけるほどの度胸もないだろう。
「わかった、信じるわ。――そのお金はね、あたしの兄様が汗水垂らして稼いだ大切なお金よ。少しずつでいいから、必ず返して。いい? もし踏み倒すような真似したら……」
縮み上がる源吉を射殺す勢いで睨み、いきなり側に転がる出刃包丁をひっ掴んだ海華。
その出刃が、だんっ! と重たい響きを立てて深々と畳に突き立てられた。
「地獄の底まで追い掛けて、必ず返してもらうから。あたしはしつこいわよ? そこらの金貸しより、ずっと怖いってこと、覚えておきなさい?」
地の底を這う冷たい声色に、源吉は震え上がった。
「返します! 必ず返します! おらも男だ、約束は守るだ!」
「よし、それでいいわ。じゃあね、あたしの手と足、これで縛りなさい」
そう言って畳に放られたのは、先程見付けた二本の帯紐だった。
操り人形のようにふらふら立ち上がる源吉は、言われるがまま海華の手を後ろ手に縛り、足首を括る。
「うん、それでいいわ。あんた、今から逃げなさい。裏手の塀を乗り越えれば、すぐ裏道があるから。いい? あたしは百数えてから悲鳴上げるわ。そうしたら表からお役人達が押し入ってくる手筈なの」
志狼とは綿密に計画を練ってある。
必ず上手くいくはずだ。
「死罪になりたくなかったら、死ぬ気で走るのよ? ――ああ、そうだ、あたしの住まいは中西長屋、人形師の朱王の部屋は?って聞けば、すぐわかるから」
「わかりやした……ありがとうございやす! 本当に……貴女は観音様だぁ!」
ぼろぼろ大粒の涙をこぼし、両手を合わせて自分を拝む源吉に苦笑いを見せて海華は裏口へ通じる出入口を顎で示す。
「観音様でもお釈迦様でもいいからさ、早く行きなさい」
その言葉に無言で額を畳に擦り付けた源吉は、ゆっくり立ち上がり、ふらふらと覚束無い足取りで店の奥へと消えていく。
その丸まった背中を見送る海華の口から、ふぅっ、と一つ溜め息が漏れた。




