第二話
ぴったりと閉じられた錦屋の頑丈な戸口。
その前は天地を引っくり返したような大騒ぎだ。
抱き合って泣き喚いている錦屋の女中、真っ青な顔色で右往左往する番頭と店の使用人、騒ぎを聞き付けて押し寄せる野次馬達……。
そんな狂乱の中、真っ赤に上気した顔で錦屋の主人に食って掛かる朱王の姿があった。
「中に妹がいるんです! 裏口は!? そこから入れるでしょう!」
「お止め下さい、危険ですっ! 今お役人を呼びに店の者をやらせました、下手に賊を刺激しては……!妹様になにをされるかわかりませんっ!」
肉付きの良い丸顔にびっしょりと汗をかき、主は必死にそう引き留める。
隣に佇む女将は、今にも失神しそうな様子で呆然と店を見詰めていた。
確かに主の言い分は一理ある。
それがわかっているからこそ、何も出来ない自分に無性に腹が立つのだ。
苛立ちと焦りを隠せない朱王はぎりぎりと奥歯を噛み締め、物音一つ聞こえない店を睨み付けていた。
「申し訳ねぇ! 本当に申し訳ねぇっ! 後生だから命だけは……っ!」
外で朱王が喚いている頃、滅茶苦茶に荒れ果てた薄暗い店内、散らばる反物の間にちょんと正座する海華の前で乱れた頭髪を振り乱した男が畳へ額を擦り付けていた。
ぽかんとした表情で、自分に謝り倒す男を眺める海華の右隣には、鈍く冷たい輝きを放つ大きな出刃包丁が置かれている。
これではどちらが賊か人質かさっぱりわからない。
「えっと……、あたしに謝られても困るのよ、ね。ここの人じゃないから」
頬を指先で掻きながら戸惑いがちに口を開く海華へ、男は脂汗と涙でぐちゃぐちゃに汚れた顔を上げる。
「出来心だったんだ! 本当です! 信じて下さぁい!」
真っ黒く日焼けした顔が、ぐしゃりと歪む。
おんおん泣きじゃくり、鼻を啜る男は強盗と見るにはあまりにも情けない。
「うん、わかった。わかったから……。取り敢えず名前教えてくれない?」
まるで迷子に話し掛けるような声色。
これからどうしたらいいのか、はっきり言って海華にもわからない。
汚れた着物の袖口で乱暴に目元を拭いながら、男は『源吉と言いますだ』と、掠れ声で名を名乗った。
「源吉さん、ね。あたしは海華って言うの。それで……」
『どうして押し込みなんかしたの?』そんな問い掛けが口から出掛けた瞬間、閉め切った戸口が弾け飛ぶ勢いで激しく打ち付けられる。
突然の事態に固まる二人の鼓膜を震わせたのは、海華に聞き覚えのあるダミ声だった。
「おいこら手前ッ! どこのどいつだか知らねぇが、真っ昼間から押し込みたぁいい度胸じゃねぇかっ! とっととここを開けやがれこん畜生ーッッ!」
「海華ーっ! 大丈夫かっ!? すぐに助けてやるからなーっ!」
どかん、がつんと戸口が打ち付けられ、その震動が離れた二人にも伝わる。
男は無様に腰を抜かし、海華は思わず跳ね上がった。
「兄様! それに忠五郎親分!? もう来たのね。まだ話し終わってないのに……」
これから本題に入ろうとする話しを遮られ、ちっ、と小さく舌打ちする海華は何を思ったのか、胸一杯に空気を吸い込んだ。
「いや――っ! 来ないでぇっ! お願い入って来ないでッ! 殺される――っ!」
「殺さねぇっ! 殺しなんかしねぇよぅ!」
絹を引き裂く海華の悲鳴に、源吉は張り裂けんばかりに瞳を見開き、口の端から泡を吹いて目の前にいる彼女の足にすがり付く。
そんな源吉をぎろりと睨み付け、海華は唇に人差し指を押し当てた。
「少し黙って! 兄様お願いだから来ないでー! 静かにして――!」
『海華ーッ!』と、戸口越しから響く絶叫を最後に、辺りが静まり返る。
どうやら作戦は成功したようだ。
「さてと……これで暫く邪魔は入らないわ。 ゆっくり話し聞かせて貰おうじゃない」
半ば放心状態で自身の足へしがみつく源吉を見下ろし、海華は唇を三日月形につり上げて、にっこりと満面の笑みを浮かべる。
窓から微かに射し込む光が白い帯となり、薄暗 い店内を飾る。 海華の前にぺたりと座り込んだ源吉は涙ながら に自分の生い立ちを語り始めた。
江戸から遠い寒村で貧乏百姓の三男坊として生まれ、同じ村の女と所帯を持った。
猫の額ほどしかない田畑を懸命に耕す毎日だったが、暮らし向きは一向に良くならず、貧乏のどん底。
一念発起し、江戸で一旗上げようと女房子供を引き連れて出てきたはいいが、生まれてこのかた畑仕事しかしたことのない男にろくな仕事は見付けられない。
人足の下働きや物売りの真似事などをしていたが、生来の口下手と不器用な性格が災いし、どれもこれも長くは続かなかった。
「……で? 今は何で食い繋いでるわけ?」
嗚咽混じりに語られる源吉の話しに、半分は同情、もう半分は呆れながら耳を傾けていた海華が問い掛ける。
ずずずっ、と盛大に鼻を啜り、源吉はぽつりと『魚屋でさ』と答える。
だが、その仕事も今朝がた辞めたらしい。
「長屋のご隠居から紹介された仕事だったんですがね、おら江戸に来て初めて生魚を見たんでさ。でね、包丁をこう……ずぶっと入れたらね、気味悪ぃ腸やら血がどろどろと……それ見て失神しちまって……」
『血が苦手で……』そう呟きながら、しょんぼりと肩を落とす男に、海華は軽い目眩を覚える。
ここまで情けない男は中々お目にかかれない。
さらに源吉の話しは悲惨さを増す。
「そんなこんなぁしてるうちに、女房が病で寝込んじまって……。薬代にと、金貸しから一両借りたんで。でね、返す時になったらあの野郎、二両返せと言いやがる。こっちは一両しか借りてねぇってのに! おかしいと思いやせんか?」
八の字に垂れた眉毛がぐぐっと上がる。
確かに借りた倍額を返せというのは酷な話し、きっと性質の悪い高利貸しから借りたのだろう。
お上の決めた利息は一文なのだから。
「そりゃあ可哀想だけどさ、でもお金借りたら利息は付くのよ。一両借りたらそれ以上返さなきゃ」
「りそく……って、なんですかい?」
「あんた利息も知らないでお金借りたの!?」
思わず大声を出しそうになった海華は、慌て自分の口を手のひらで覆う。
信じられない、と言った様子でこちらを凝視してくる海華に、源吉はまたもやぐしゃりと顔を歪める。
「おら、学が無ぇから難しい話しはわからねぇ。とにかく金を返さねぇと、寝たきりの女房とガキ共が餓えちまう……」
「ああ……、そうね。それで子供は何人なの?」
完全に呆れ果てた海華が、頬を引き攣らせながら言った。
「へぇ、十を頭に五人でさ」
「五人っ!?」
「へぇ、二年置きにぽこぽこ産まれちまって。一番下が二歳になったばかりで」
まさに貧乏人の子沢山、もう返す言葉が見つからない。
「なんとか借金だけは返そうと思って……金がありそうなこの店に忍び込んだんで。そしたら、台所で人にばったり……」
「そういうのは強盗じゃなくて、こそ泥って言うのよ。って事は、騒がれて訳わからなくなって、咄嗟に包丁掴んだの?」
深く腕組みしながら源吉をねめつければ、がくがくと汚れた顔が縦に振られる。
海華の口から出た深い深い溜め息が、埃っぽい空気に溶けて消えた。
『おらはこれからどうしたらいいんだぁ ……!』おんおん泣きじゃくりながら畳に突っ伏す源吉を前に、海華は苛立たしげに頭を掻き乱す。
それを聞きたいのはこちらの方だ。
勿論このまま源吉の襟首掴んで表へ引き摺り出すことだってできる。
だが、それをすれば病身の女房と幼い子供らは、頼る人もいない江戸の街に裸一貫で放り出されてしまうのだ。
「ここで泣いてても仕方無いでしょ! あんた、腐っても男なんだから、少ししっかりしなさいよ!」
ぶるぶる震える背中へ向かい、そう言ってはみたものの一向に良い案が浮かんでこない。
その時、戸口の向こうが急に騒がしくなってきたことに海華は気付いた。
咄嗟に土間へ飛び降り、一筋の光が射し込む戸口の隙間から外を覗いた海華は、やっと垣間見えた光景に思わず泣きそうになる。
細い視界一杯に、六尺棒や刺す又、突棒等々の捕物道具を携えた男達が慌ただしく動き回っているのが映る。
ちらりと視線を動かせば、鬼のような顔でこちらを睨み付ける都筑と、緊張に顔を強張らせている高橋、そしてい並ぶ部下達に何やら指示を下しているであろう桐野の姿が見えた。
「――ちょっと……! これ、大変なことになってるわよ!」
頑丈な戸口から飛びすさる海華が、血の気が引いた顔を源吉に向ける。
が、肝心の源吉は未だに泣き腫らした目元を着物の袖で擦り、ぐすぐすしゃくり上げている。
「だから泣いてる暇は無いんだってば! 外に奉行所のお役人がわんさか来てるのよ!?」
「ぶっ……ぶ、ぶ、奉行所!? お役人っ!?」
化物を見るような面持ちでこちらを凝視する源吉の口が、魚のようにぱくぱく動く。
額に滲む脂汗を拳で拭い、海華は源吉に駆け寄った。
「このままじゃマズいわ、放って置けばここに押し込まれるし、下手したら火盗が乗り出してくるかも……。とにかく時間を稼がなくちゃ……!」
親指の爪を噛み噛み焦る頭で考える。
何故、こんな情けない男を必死で助けようとしているのか。
そんな疑問は綺麗さっぱり消え去っていた。
「うーっ……あ! そうだ!」
ぱっ! と瞳を輝かせ、手を打つ海華を口を開けて眺める源吉。
そんな彼の耳に唇を近付る。
「いい考えがあるわ。あのね……」
小さな声で耳打ちすれば、みるみるうちに源吉の顔が泣きそうに歪む。
「むっ、無理だ! おら、そんな事言えねぇ、言えねぇよぅっ!」
その瞬間、海華の右手が力一杯粗末な着物の胸ぐらをひっ掴み、怒りに燃える漆黒の瞳が源吉を射る。 ぐぅ、と小さく息を詰め、目を白黒させる男の耳に、地を這うような低い囁きが聞こえた。
「『言えねぇ』じゃない、『言え』って言ってんのよ。あんた、今の状況わかってる?」
怒り心頭の海華の左手には、無意識だろうあの出刃包丁が握り締められていた。
「あんた、このままじゃ強盗でお縄になんのよ? 可愛い女房子供も路頭に迷うのよ? ――あたしは別に構わないけど? 今すぐあんたのこと、表へ叩き出してやろうか?」
にたり、と見るものを心底凍らせる笑みを前に、源吉は真っ青になりながら無言で首を左右に降りたくる。
頬に近付けられた出刃が、鈍い光を放った。
「あたし、あんたとここで心中する気なんか更々無いわ。無事に女房んとこ戻りたかったら、あたしの言うこと聞くのね」
そう言うと同時に胸ぐらを掴んでいた手で、どん、と身体を突き放す。
がたがた膝を砕けさせながら、源吉は土間へ転がり出て行った。
「やっ……! やいやいやいっ! 手前ぇらっ! なっ、なっ、何をごちゃごちゃ騒いでやがるんだっ!」
店の前にずらりとい並ぶ役人らの耳に、甲高い男の叫びが突き刺さる。
辺りに広がるざわめきとどよめき。
一斉に六尺 棒や刺す又が店へと向けられ、その場へ緊張の糸が張り詰めた。
閉ざされた扉をなすすべもなく見詰める朱王は暑さの為でない大量の汗をかき、それは着流しの胸元をじっとりと濡らす。
「い、いいい……いいかっ! 入ってくんじゃ ねぇぞっ! 無理に来て……来てみやがれっっ! この、 女ぁ、なっ、なっ、なすに切り刻んで樽に放るぞぉぉ……ぉ!」
やたらと震えて突っ掛かり、悲鳴にも似た男の叫びを聞いたその場にいる全員が、はて、と首を傾げた。
「――茄子に切り刻む? 樽に放る? おい高橋、どういう意味だかわかるか?」
「いいや、さっぱり……。賊は八百屋か、漬物屋なのか……?」
ぽかんとした表情で言葉を交わす都筑と高橋の背後では、桐野と朱王がこれまた怪訝そうな面持ちで顔を見合わせている。
「随分と気弱そうな声だが……。賊は男一人なのか?」
「私が見た限りでは一人でした。後から仲間が押し入った可能性もあります。――ですが桐野様、もし賊が一人だけとなると、どうも海華の様子が……」
「腑に落ちぬか?」
桐野の問い掛けに朱王は素直に頷く。
逃げる際一瞬見た限りだが、賊はそう体格もよくはない、どちらかと言えば小柄な方だ。
先ほど都筑から聞いた話しによれば、店内からは微かな話し声と人の蠢く気配がするという。
と、すれば、縛り上げられても猿轡を噛まされているわけでもないだろう。
先ほど聞いた叫び声からして、賊は狂暴な男ではなさそうだ。
ならばなぜ、海華は『助けて』だの『殺される』だの、喚き散らしたのだろうか?
「あいつの性格からして、あんな弱々しい台詞を吐くとは思えないのです」
「同感だ。海華殿は強盗を前に縮み上がるほど柔ではない。賊の襟首ひっ掴んで表へ引き摺り 出した、と言われた方がまだ納得できる」
そんな場面を想像したのか、桐野は薄い唇をニヤリとつり上げる。
数多の修羅場を潜り抜けてきた女だ、たかだか男一人に怯むはずはない。
『とにかく、中の状況を知らんことには下手に動けん』顎を擦りながら呟いた桐野は何を思ったのか、人混みに紛れて野次馬と化していた留吉の名を大声で呼び始めた。
人波を掻き分け、小太りの体が二人の前に現れた。
「お前に頼みがある。八丁堀まで一走り、儂の家まで行ってくれ。志狼と言う使用人をここに連れて来て欲しいのだ」
「へい、志狼さんでやすね。承知致しやした!」
大きく一つ頷いた留吉は、群がる野次馬を掻き分けて八丁堀へ走る。
その間も現場は膠着状況のまま、皆の顔に焦りの色が見え始めた時だった。
「桐野様ぁ! 連れてきやした!」
丸い顔を真っ赤に上気させ、だらだらと汗を滴らす留吉が人垣の向こうから躍り出る。
その後ろには、濃紺の作務衣姿の志狼が息を切らせて走っていた。
家事を片付けている最中だったのだろう、頭には白い手拭いを巻いたまま黒く日焼けした精悍な顔から煌めく汗が顎まで伝い落ちている。
「旦那様……!」
「おぉ、来たか。いきなり呼びつけてすまなかったな」
「そんなことは……、今、留吉さんから聞きました。海華が人質に取られていると……」
ぜぇはぁと牛のような荒い息をつき、その場にへたり込んでいる留吉を横目に、志狼はひどく心配そうな声色で桐野に尋ねる。
「うむ、海華殿は中にいる。何しろ賊人数も何もさっぱりわからんのだ。志狼、お前には悪いが裏手から中へ忍び込んでもらえぬか? 海華殿がどこに捕らえられているか、賊は何人か、これだけを調べて欲しいのだ」
『承知致しました』力強く即答した志狼は、傍らに立つ朱王に複雑な表情を向けた。
「申し訳ない志狼さん。こんな危ないことを頼んで……」
ぐっと唇を噛み締め、顔を伏せる朱王の肩を軽く叩き、志狼はにやりと笑う。
「気にするな。こんな事はお安い御用だ。海華のことは……心配するなよ。旦那様方が、きっと助けて下さる」
そう一言残し、紺の作務衣は店の裏手、母屋側へと消えていった。
さて、その頃の海華はと言うと、反物が散乱する店先に座り込み、台に乗せられた真っ白な握り飯にかじり付いている最中だった。
腹が減っては戦は出来ぬ、悪いとは思ったが、台所にあった白飯を勝手に使い作った握り飯は十ばかり。
今、皿の上に残っているのは五つだ。
「ちょっとあんた、まだ一口しか食べてないじゃない! 長丁場になるかもしれないのよ、食べておかなきゃ倒れるわ!」
指についた米粒をぺろりと舐め取り、海華は自分の前に肩を落として座り込む源吉に言った。
がっくりと頭を垂れる源吉の手には、一口だけかじった跡のある握り飯。
つまり、四つは海華が平らげたのだ。
「おら……胸が一杯で……」
「そんな気弱でどうすんのよ! これからが本番……ん?」
ぱっと顔を上げた海華の瞳に、微かに蠢く影が入る。
ちょうど厠へ行く時使った、あの入り口辺りだ。
「誰!? 誰かいるの!?」 腰を浮かし、奥を睨む海華の耳に、よく聞き覚えのある声が聞こえた。
「海華?……海華か?」
「え!? 志狼さん!?」
『無事だったか!』その叫びと同時、薄い闇に黒い人影が躍り出た。
頭に巻いた手拭いだけが、射し込む光に輝いて見える。
志狼の姿を目の当たりにした源吉は声にならない悲鳴をあげて腰を抜かし、握り飯が宙を舞った。
「志狼さん来てくれたのね!」
にっこりと微笑みを見せる海華に、志狼はほっと胸を撫で下ろす。
「怪我は無いな? 人質は……二人か。それで賊はどこだ?」
「賊? ああ、そこよ」
そう一言、海華は大真面目な顔で畳に呆然と座り込む源吉を指差す。
それを見た志狼の眉間に深い皺が寄り出した。
「あのな、こんな時に冗談は……」
「冗談なんか言ってないわよ。賊はこの人。強盗って言うより、こそ泥だけど、ねぇ?」
にこにこしながら源吉を覗き込む海華につられ、志狼も無様に腰を抜かして動けない男に視線を向ける。
赤く泣き腫らした目をした源吉は、志狼と視線がかち合うなり頬を引き攣らせ、何とも奇妙な笑みを浮かべて見せた。




