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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第二十六章 錦屋狂想曲
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第一話

 ぎらぎらと灼熱の太陽が空を焦がす。

熱せられた地面から立ち上る陽炎の中を歩く海華は額に玉の汗を浮かべつつ、兄の袖口を引きながらある場所へと向かっていた。

長い髪を後ろで一纏めにした朱王も、茹だるような暑さにゲンナリした面持ちで妹に手を引かれるがまま歩みを進める。

彼が不機嫌な理由は、この暑さのせいだけではなかった。


 「海華、何もこんなに急いで着物を新調しなくてもいいんじゃないか?」


 「何言ってんのよ! 今から用意しておかなきゃ間に合わないでしょ! 大体ね、どうして裾がほつれてるのを早く言わないの!?」


 熱気で赤く上気した頬を大きく膨らませ、海華はズンズンと先へ進む。

柳眉をつり上げた海華に手を引かれ、困ったように頭を掻いて歩く朱王に、汗を拭き拭き通り過ぎる人々が好奇の眼差しを投げ掛けていく。

そう、二人が身を焦がす灼熱の中をわざわざ外出し、向かっているのは呉服問屋、錦屋だ。

朱王がいつも人形の衣装に使う布地を買い求めている大店おおだなである。


 そして海華がこんなにも怒っているのにも理由があるのだ。

昨夜、洗濯した兄の着流しを畳んでいた海華は、裾が大きくほつれているのに気付く。

朱王は近々大名屋敷に出入りしなければならない仕事を受け、こんなみすぼらしい着流しでは、とてもそんな場所へ送り出せない。


 兄に聞いても、『ずっと前から解れていた』 と、あっけらかんとした答えが返るだけ。

慌てて、もっとましな物は無いかと長持ちをひっくり返して探したのだが、どれもこれも着古した物ばかり。

布地が薄くなったり、虫食いのある物まで出てくる有り様だ。


 どうしよう! と青くなる妹を横目に、朱王は酒を啜りながら『適当なもん着ていくさ』と、まるで他人事だった。

その瞬間、海華の怒りが爆発し一夜明けて朱王は錦屋へ引き立てられるはめになったのだ。


 「もっと自分の着る物くらい関心持ってよ! 今度の相手は町人じゃないの、よくもあんなボロ着て行く、なんて言えるわね!?」


 「たかが解れだろう? 継ぎ接ぎの物着ていく訳じゃない、ちょこちょこっとかがればいいだけじゃないか。それに、着飾って行って何になるんだ?」


 頭上から降るむったりした声色に、思わず海華は足を止め、呆れ果てたように兄を見上げる。


 「着飾るんじゃなくてね、少しだけいい格好して行ってって言ってるのよ。全く……兄様は着る物には無頓着なんだから!」


 『早く行くわよ!』半ば怒鳴るように言い放ち、汗ばんだ手のひらが朱王の手首を強く掴む。

一度言い出したら聞かない妹の性格を嫌と言うほど知っている朱王。

面倒臭そうに顔を歪め、何度も深い溜め息をつきながらも、海華に錦屋へと引き摺られていく。

汗だくで辿り着いた錦屋は、若い娘を連れた母親や亭主を同伴させた女房やらでごった返していた。

色取り取りの反物がずらりと並ぶ広い店内では、使用人らが忙しく動き回り、反物を品定めする客達のお喋りで大賑わいだ。


 人の群れの間を縫いながら店に入った兄妹の姿を最初に認めたのは、この店の女将だった。


 「いらっしゃいませ! まぁまぁ、お暑い所をよくいらっしゃいました!」


 綺麗に化粧が施された細面をにこにこと綻ばせた女将が二人に駆け寄り、深々と一礼する。

いつも人形の衣装に使う上等の反物を買い求め る朱王は、この店にとって上客なのだ。


 「いつもお世話になっています、あの、今日は兄様の着物を新調したくて……。いい物ありますか?」


 顎から滴る汗を手の甲で拭い、ちょこんと小首を傾げて訪ねる海華の後ろでは、顔に掛かる髪をうっとおしそうに避ける朱王が困ったような笑みを浮かべ、女将に小さく会釈した。


 「朱王さんのお着物、はいはい! いい品がございますよ。さぁ、どうぞこちらへ!」


 満面の笑みを見せる女将は、二人を早速店内へ招くと側にいた若い男の使用人へ反物を持ってくるよう言い付けた。

どうやら女将直々に相手をしてくれるようだ。


 「今年は暑くなりそうだから、こんな生地はいかが? とっても涼しいんですよ」


 「本当、薄くて涼しそうですね! でも色が…… 海老茶は年寄り臭く見えるかしら?」


 「朱王さんは色白だから、濃い色の方が似合うんですけどねぇ。――なら、こちらはどう? 流水模様が綺麗でしょう?」


 「あ、これいいわぁ! 色もいいし、生地も上等ね」


 灰青色の反物を持ち、いいわ、素敵! とはしゃぐ妹の後ろ姿をぼんやり眺める朱王は、先程の若い男が出してくれた冷茶を口に含む。

爽やかな茶の香りと僅かな苦味が口に広がり、すっと身体に籠っていた熱が引いていった。


 「ねぇねぇ見て! これいいんじゃない!? きっと兄様この色似合う……って! 聞いてるの!?」


 くるりと後ろを振り返った海華は、反物に何の興味も示さない兄に再び柳眉をつり上げる。

しかし朱王は全く動じることなく、湯飲み茶碗を唇に当てた。


 「色も生地もお前に任せるよ。だから好きなのを選べ」


 「兄様が着る物でしょう!? 人任せにしないでちょうだいっ! あ……」


 突然言葉に詰まった海華が、いかにもばつが悪そうな表情で女将へと顔を向けた。


 「あの、ごめんなさい……。ご不浄貸して頂けます、か?」


 消え入りそうに小さな声で訪ねる彼女に、女将は直ぐ様店の奥を指差した。


 「あの廊下の突き当たり、右側にありますよ」


 「ありがとうございます。兄様、あたしが戻ってくるまでに、どれがいいのか決めておいてね!」


 じろりと兄を睨み付け、海華はそそくさと店の奥へ消えていく。

『はいはい』と気のない返事をする朱王へ、 女将は悪戯っぽい笑みを投げた。


 「朱王さんは幸せですわね。海華ちゃんが色々お世話してくれて。本当、お兄さん思いの妹さんですこと」


 「いや、口煩くて困っていますよ。お世話、というよりお節介だ。全く、一度言い出したら聞かない奴ですから」


 そんな他愛もない話しに花を咲かせていた、その刹那、人で賑わう店内を一瞬で凍り付かせるほどの絶叫が、今しがた海華が消えた店の奥から響き渡った。


 「ギャ――ッッ! 強盗――! 人殺しぃぃぃぃっ!」


 喉を破らんばかりの金切り声を張り上げ、転がるように店先に飛び出してきたのは、使用人とおぼしき一人の中年女だ。

女が飛び出してきた方向を凝視したまま、唖然とした面持ちの朱王と、一瞬で固まったまま動けない店の者と客達。

次の瞬間、その場にいた全員の視界に入り込んだのは、顔を真っ黒な布で覆い、右手にぎらぎら輝く出刃包丁を握り締めた一人の男の姿だった。


 賑やかだった店内は、あっという間に悲鳴と怒号の飛び交う狂乱の舞台と化した。

金切り声を張り上げ、泣き叫ぶ客らは我先に逃げようと入り口に押し寄せ、あちこちで美しい反物が嵐のように宙を飛ぶ。

藍色の前掛けを掛けた番頭がぎゃあぎゃあ喚きながら、賊に向かって筆や硯、分厚い大福帳をなげつけた。

それに驚いたのか、顔を黒布で覆った賊は唯一覗く瞳を血走らせて握り締めた出刃包丁を滅茶苦茶に振り回す。


 助けて! 人殺し!……そんな叫びの渦に巻き込まれた朱王が腰を浮かせた途端、顔を引き攣らせた女将が身体ごとぶつかるように朱王を土間へ突き飛ばした。


 「早く逃げてっ! 早く! 朱王さんっ!」


 「まだ妹が……! 海華っ! 海華――ッ!」


 汗の香る長い髪を振り乱し半ば暴れながら海華を呼ぶ朱王を、数人の男の使用人や番頭がよってたかって羽交い締めにし、表へと引き摺り出す。

まだ妹が中にいるんだ! そんな必死の訴えも虚しく、裸足のまま外へ出された朱王の目の前で、ぴしゃりと音を立ててと戸口が閉められた。


 さてその頃、小用を終えて鼻歌を歌いながら手水鉢で手を清める海華は、何やら表が騒がしいのに気付き、 不思議そうに首を傾げている最中だった。


 「どうしたのかしらねぇ? いやに煩いけど……」


 喧嘩でもあったのだろうか、そう軽く考えたのだろう海華は外の騒ぎを別段気に留める風もなく、手拭いで水気を拭いながら兄の元へと急ぐ。


 「兄様ー! 決まった? ……あら?」


 にこにこ顔でピョンと店内へ飛び出した海華は、目の前に広がる惨状に表情を固めたまま立ち尽くす。 一体これはどうした事だ。

まるで巨大な嵐が過ぎ去った後のように店は荒れ果てていた。

あちこちに転がり、だらしなく広がったままの反物の山とひっくり返った湯飲みや折れた筆、やけに薄暗い店内には兄どころか人っ子一人いない。

先ほどまでの賑やかだった錦屋とはすっかり別物、あれは夢だったのだろうか?


 ぽかんと口を開けたまま、呆然とその光景を見詰める海華、すると視界の端で何やらごそごそ動く物がある。

黒い影としか認識できない『それ』の正体を確かめるため、恐る恐る土間へと歩みを進めた。

ぴったりと閉め切られた分厚い戸口の前で、一人の男が放心状態でへたり込んでいた。

頭からだらりと垂れ下がる黒い布、そこから覗くのはぼさぼさに乱れた髷を結った頭。

継ぎ接ぎだらけの粗末な着物の下からは、泥だらけの股引きが見える。


 脂汗にまみれた卵形の顔の中で、くっきりした二重の目を虚ろに揺らす三十路過ぎだろう冴えない中年男は、小刻みに震える右手でしっかりと出刃を握り締めていた。

呆気に取られた表情で上がり框から自分を見下ろす海華に気付いたのか、男は、はっと汚れた顔を振り上げる。


 「あんた……誰?」


 そう怪訝そうに訪ねると、男は手にしていた出刃を慌てて自分の足元に放り投げた。


 「へぇ、あのぅ……強盗、で……ございやす……」


 へへっ、と掠れた声をひび割れた唇から漏らし、くしゃりと泣き笑いの表情を見せる男。

反対に海華の眉間には、深い深い皺が刻まれ出す。

そんな彼女の耳に、声を限りに自分の名を呼ぶ兄の悲痛な叫びが厚い戸口越しに届いたのだ。


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