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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第二十五章 錺物屋の悲喜劇
122/205

第四話

 絹紐を引き抜く乾いた音が微かに響く。

それと同時に痩せた体がぐらりと傾き、ゆっく りと前のめりに地面へ崩れ落ちた。 血の気が失せた顔が土埃で汚れ、鮮血にまみれ た指先は、助けを求めるようにびくびくと大き な痙攣を起こす。


抜き身を手にしたまま、呆然とその様を凝視す る三矢の前で、朱の紐を手繰り寄せた白狐は、 頭陀袋のように転がる体を強か蹴り飛ばした。


ひっ、と小さな悲鳴が三矢の口から漏れる。 小刻みに震える膝を酷使し、ずるずる後退る彼 の後ろでは、女のように甲高い悲鳴を迸らせる 小太りが、滅茶苦茶に刀を振り回しながら黒狐 と格闘していた。


青ざめた顔から滝の汗を流し、半狂乱になって 襲い掛かる小太りの眼前で、突如狐の姿が闇に 溶ける。 己を飲み込むように広がる漆黒に、小太りの足 がぴたりと止まったその瞬間だった。


 彼の背後に、二つの金色が光る。

闇に紛れて気 配を消し、疾風の如く小太りの後ろへ回った黒狐。

その手に握られた白刃が、躊躇いも無く真っ直ぐ横に振られた。

肉を打つ短いが重たい響き。

小太りの盆の窪に、深々と柄頭がめり込んでいた。

張り裂けんばかりに見開かれていた小さな瞳から、一瞬で光が失われる。

口元からだらしなく涎を垂れ流した小太りは悲鳴すら上げられずに土煙を巻き上げ地面へ倒れ伏した。


 どん! と重たい響きと共に地面が揺れる。

今にも泣き出しそうな面持ちで立ち竦む三矢は愛刀を握り締めたまま、へなへなとその場へ座り込んでいた。

おこりにかかったように震える身体。

渇き切った口、歯の根は既に合っておらず、がちがちと微かな音は二匹の狐にまではっきり聞こえた。

背後に佇む白狐の手から、しゅっ! と空気を裂く音を立てて紐が繰り出され、刀を握る三矢の右手に紅い蛇が巻き付く。

へたり込んだまま戦慄く体が大きく跳ねた。


 「た、すけて……助けて、くれっ! 悪かっ た……! 俺が、悪かったっ!」


 切れ長の瞳からぼろぼろと涙をこぼし、必死に悪かった、許してくれ、と、すぐ目の前に迫る黒狐へ不様に懇願する三矢を見て、背後から紐を操る白狐から小さな失笑が漏れる。

冷たく光る金色の瞳でそんな男を見下ろす黒狐、その刀の切っ先が、すっと三矢の顎に突き付けられた。


 「立て」


 「助けてくれ……! 金なら、やる! だから命だけは!」


 「立て、と言っている。聞こえなかったのか?」


 骨の髄まで凍り付きそうな冷たい声色が黒狐から放たれる。

ぐしゃぐしゃに顔を歪め、三矢はふらつきながらも腰を上げた。

ゆらり、と黒狐の体が揺れ、音も無く目の前で縮み上がる男に近付いていく。

その耳許に黒い顔を寄せる狐から、ひどく静かな声が生み出された。


 「無体が過ぎたな……。次に逢った時は、命は無いと思え」


 ひぃっ! と三矢の喉から短い悲鳴が迸った刹那、刀を左手に持ち変えた黒狐の右の拳が鳩尾に撃ち込まれる。

強かに肉を打ちつけられ、三矢の体は『くの字』に曲がった。


 乾いた唇から、黄色い体液が吐き出される。

ぐしゃっ、と肉体が地面に倒れる鈍い響きが、暗い夜空に消えていった。


 「骨の無い奴らねぇ、つまんないわ」


 べろりと舌を垂らし、地面に転がる三矢を見下ろす白狐は軽い嘲笑を交え、おもむろにその顔へ手を掛ける。

狐の顔が横へずれ、ぼやけた光の中に浮かんだのは、口元に薄っすらと笑みを浮かべる海華だった。

その隣に立つのは朱王。

既に刀を収め、その右手には黒い狐面が金色の瞳を闇に光らせている。


 「侍と言っても、破落戸に毛が生えた程度の奴らだ。この程度のもんだろう」


 氷のように冷たい眼差しを転がる男に向け、髪を束ねていた紐を素早くほどいた朱王、ばらりと広がる艶髪が道を吹き抜ける風に舞った。


 「で? これからどうするの? このまま棄てて行く?」


 「いや、もう少し痛い目を見てもらうか」


 そう呟き、点々と道に転がる侍達を見遣る兄の横で何か良い案が浮かんだのか、海華はにやりと白い歯を覗かせる。


 「じゃあね、こういうのはどう?」


 ぐぅ、と思い切り背伸びし、耳打ちしてくる妹。

鼓膜に掛かるその台詞に今まで無表情だった朱王は思わず唇をつり上げた。


 「いいな、それなら暫く外は歩けないだろう」

 

 顔を見合せ、にんまりと笑いながら二人はその計画を実行すべく侍達の身体に手を掛けた。






 翌日、江戸の街はある事件の話で持ちきりだった。

道端に立ち、大声を張り上げる瓦版屋の周りには黒山の人だかりができ、皆が我先にと粗雑な紙切れに手を伸ばす。

その中には、小さな風呂敷包みを携えた海華の姿もあった。

やっと買い求めた瓦版を手に、人波を掻き分けて走った先には降り注ぐ陽射しに目を細める朱王の姿がある。


 「兄様! 見て見て! ほら、でかでかと載ってるわよ!」


 「どれ……ほう、世直し狐か。いい見出しを付けたもんだ」


 二人が覗く紙面には、大きな墨文字で『世直し狐現る』と書かれている。

内容はと言うと、今朝がた早く街外れにある川沿いの小道に侍が三人、着物を剥がされ褌一枚の姿で辻行灯へ縛り付けられているのが発見された。


 身に付けていた物は全て川の中に放られ、刀は側の雑木林に打ち捨てられている。

気絶していた三人の頭からは髷が切り落とされ、足元に塵か何かのように放り投げられていたそうだ。

そして、そのうち一人の顔面には大きく『天誅』と殴り書きされた紙が貼られていたという。


 「――なになに、『狐の化け物にやられたと一人は話している』か。どうやら上手くいったらしいな」


 満足そうに頷いた兄を見て、海華も口角を上げる。

髷を切り落とされた侍が、大手を振って街中を歩くことなど出来る訳がない。

なにしろ、どこの誰だか瓦版にしっかりと書かれているのだから。

二人の前を通り過ぎる人々も、皆瓦版に夢中になりながら『天罰だ』だの『いい気味だ』 だのと口々に言い合っている。

三矢らに手酷い仕打ちを受けた者らなら、踊り上がって喜びたいくらいだろう。


 瓦版を丁寧に畳み、懐へ仕舞う朱王の耳が不意に遠くから自分の名前を呼ぶ野太い声を拾い上げた。

晴れ渡る青空の下に響いた呼び掛けに兄妹は瓦版から顔を上げ、きょろきょろと辺りを見回す。

道を行き交う人の波を避け、こちらに向かってくる二人の侍の姿を最初に見付けたのは、海華だった。


 「あ、都筑様! 高橋様も!」


 「おぉ、海華もいたか! 久し振りだな」


 大柄な体躯を揺らせて歩く都筑が、ひょいと片手を上げる。

その少し後ろを歩く高橋も、海華の顔を見るなり人懐っこい笑みを浮かべた。

『御無沙汰しておりました』と一礼する朱王に軽く頷く都筑は、やたらと嬉しそうに、にこにこと顔を綻ばせている。


 「都筑様、随分とご機嫌ですね?」


 「うむ、わかるか?」


 いつもとは明らかに違う様子に小首を傾げて尋ねる海華に、にんまりと笑う都筑は背後で声を張り上げ瓦版をさばく男へちらりと視線を向けた。


 「お前達、瓦版はもう見たか?」


 「瓦……あぁ、世直し狐のことですか?」


 綺麗に畳んだ瓦版を手にした朱王に、都筑が鼻息も荒く『そうだ、それだ』と答える。

その様を前に、思わず高橋は苦笑漏らす。


 「朝からずっとこの調子だ。――まあ、気持ちはわからんでもないが」


 「これほど愉快な話しがあるか。あのろくでなしどもが。よりによって狐に髷を取られるとはな」


 頬を僅かに上気させる都筑のこめかみに、きらりと汗が光った。


 「旗本だかなんだか知らぬが、狼藉か過ぎたのだ。俺達のことなど人として見てもおらん!」


 今までの笑みが一転、眉間に深々と皺を寄せ始めた都筑に、朱王と海華は顔を見合せる。

どうやら都筑達も、三矢とその取り巻き連中に手酷い仕打ちを受けた一人のようだ。


 「不浄役人と言われたのが、余程腹に据えかねたな? しかし、俺達が手出し出来ん相手に天誅を下したのだ。お狐様々だな」


 にや、と白い歯を見せる高橋に海華もつられて微笑んだ。

と、都筑が何かを思い出したかのように、ぽん、と一つ手を打つ。


 「そう言えばなぁ、あの三人の親父どもが、お奉行の所へ談判しに押し掛けたようだな。高橋、お主何か聞いておるか?」


 『お奉行』、そう聞いた瞬間、朱王の眉が小さく寄せられる。

傍らの海華も、無意識に唇を噛み締めた。

修一郎に負担を掛けたくはないと思い、危ない橋を渡った。

だが、それは結果的に修一郎に更なる仕事を増やしてしまったのだろうか? そんな二人の心配を他所に、高橋は深く腕組みし、唇の端だけをつり上げた。


 「聞いているぞ。『侍が髷を落とされるなど、これ以上の屈辱はない。必ず下手人を捕らえてくれ』と、来たらしい」


 「それで……お奉行様はなんと仰ったのです?」


 湧き上がる不安を押し殺し、朱王が静かに口を開く。

高橋から返った答えは、二人が予想だにしないものだった。


 「それがな、『獣や化物を捕らえるのは奉行所の仕事ではない。どうしても下手人を捕らえたいなら、猟師か山伏にでも頼め』と。妖ごときにたぶらかされるなど、武士にあるまじき、恥を知れ! と追い返したようだ」


 「お奉行も堪忍袋の緒が切れたのだ。全く親子共々愚かな奴らよ」


 げらげらと高笑いを響かせる都筑を前にし、海華は、ほっと胸を撫で下ろす。

ちらりと兄に目をやれば、安堵の感を滲ませた漆黒の瞳が自分へと向けられていた。

笑いが止まらぬ様子の二人と別れ、兄妹は幸吉の長屋へと向かった。

からりと晴れ上がる空には純白のちぎれ雲が浮かび、ぎらぎら輝く太陽の熱線が肌を焼く。

神社の裏にひしめき建つ長屋にも、白く輝く天の恵みが光の帯となって降り注いでいた。


 軒先に吊るされた風鈴の音色が響く狭い道に入った途端、行く手を塞ぐように古びた着物を纏った肉の塊が目の前に現れる。

それは、以前甲斐甲斐しく幸吉の看病をしていた女だった。

真ん丸に膨れた顔に埋まる、小さな瞳を瞬かせた女は、朱王の顔を見るなりひょこんと頭を下げた。


 「ああ……あんたおこまさん、だったかな? 幸吉さんの具合はどうだい?」


 「へぇ、だいぶ良くなりました。もう布団からは起き上がれます。今、先日来て頂いたお医者様がお見えになってますので」


 おこまの言葉に、伽南が訪れているのだとすぐにわかった。

しかし、分厚い唇から次に出た台詞に思わず小首を傾げてしまう。


 「あとお二人お見舞いの方がいらしてますよ。 綺麗な女の人と、年のいった男の方です。お医者様のお知り合いの方みたいですね」


 『ちょっとお使いに行ってきます』と言い残し、お駒は大きな身体を牛のように揺らしながら長屋を出て行く。

伽南の知り合いとは誰なのか。

疑問を抱きながらも、朱王は幸吉の部屋に向かい、軋む戸口に手を掛けた。

昼でも薄暗い部屋には、埃と汗の匂いが漂う。

男が一人で住まう殺風景な室内に、艶やかな藤色の花が咲いていた。


 薄い紫色の着物を纏った女が、兄妹に背を向けて畳へ座している。

強く抱き締めれば折れてしまいそうな、華奢な体躯。

唯一覗くうなじは雪のように白く、薄暗い中でその白さはより際立って見える。

女の左右には一人ずつ男が座り、その左側の人物は僅かに丸まった背中から伽南だとすぐにわかった。

しかし、左側にいる白髪混じりの髪を後ろで束ねた男は、後ろ姿だけでは一体誰なのか兄妹には全くわからない。


 おこまが言っていた『見舞い客』であろう三人と向かい合い、幸吉はきちんと布団の上に正座していた。

強かに殴られた顔は、だいぶ腫れも退き、元の大きさに戻りつつある。

しかし、顔や寝間着から覗く胸元に浮かぶ黒い痣は、消えるにはまだ時間が掛かるだろう。

切れてしまった唇も、未だにどす黒い瘡蓋がこびり付いたままだった。


 「あっ! 朱王さんじゃねぇか! 海華ちゃんも!」


 三人の後ろ姿を見詰めたまま、声も掛けられないまま土間に立っていた兄妹に、幸吉は痛々しい笑みを向けながら叫ぶ。

それと同時に、三人が一斉にこちらへと振り向いた。

右側にいた男は、やはり伽南だ。

問題は左側の男と、真ん中の女である。


 「おや、朱王さん! それと……海華さん、でしたか?」


 「清蘭先生!?」


 男の顔を確かめた瞬間、朱王は呆気に取られたようにそう叫んでいた。

目尻に刻まれた数多の皺、優しげな瞳を驚きに見開いてこちらを凝視している五十過ぎの細身の男は、小石川の医者である清蘭だった。

以前、海華が声を失った時世話になり、伽南の知り合いでもある。


 『お久し振りです』『妹がお世話になりました』互いにぺこぺこと頭を下げる清蘭と兄を横に、海華は女の顔に目が釘付けになっていた。

くっきりした二重の大きな瞳は、泣いていたのだろうか僅かに充血し、目元も赤く染まっている。

抜けるように白く滑らかな肌、すっきりと通った鼻筋、花弁のような可憐な唇を持つこの美しい女の顔を、海華は穴が開くほどに見詰め続けていた。


 『そんな所に突っ立ってないで、上がってくれよ』との幸吉の言葉に兄妹は畳へと上がった。

ただでさえ狭い部屋には布団が敷かれ、おまけに先客が三人もいるため、二人は身を寄せ会うように片隅へ座るしかない。

どうして先生方がここにいるのか、と言う朱王の問い掛けに、伽南は経緯を話し出した。


 先にここを訪れたのは伽南であり、部屋の前でばったりお藤と鉢合わせした。

お藤は頼んでいた簪の進み具合を聞きにきたらしい。

伽南とお藤は清蘭を通しての顔見知りであり、幸吉が侍三人に襲われ大怪我をした、と伽南がぽろりと喋ってしまったのだ。

無論、幸吉がお藤に惚れているのを知らない伽南を責めることは出来ないだろう。

それを聞いたお藤は吃驚仰天、慌ててて小石川に舞い戻り、清蘭を連れて戻ったという訳だ。


 「私と関わり合いになられたばかりに、こんな目に……。本当に申し訳ございません」


 大きな瞳から今にも涙をこぼさんばかりのお藤は、くしゃくしゃに顔を歪め弱々しくそう呟きながら、ささくれた畳に額を擦り付ける。

立てば芍薬座れば牡丹、そう幸吉が言っていた通りの清楚な美人だ、と綺麗な弧を描く女の背中を見ながら朱王は思った。


 「いやいやいや! お藤さんは何も悪くないんです! ぼーっと歩いてた俺が……いや、あのお侍が一番悪いんだ! だから、気にしないで下さい!」


 やや上擦った声を張り上げ、お藤に顔を上げるよう言った。

恐る恐るといった様子でお藤が顔を上げると、幸吉は痣だらけの顔を盛大ににやつかせ、でれでれだらだらと鼻の下は伸びっぱなし。

挙げ句の果てには『こんな傷、舐めておけば治りますから』ときた。

これには朱王も海華も顔を見合わせ、呆れ返るばかりだ。


 やがて神妙な面持ちの清蘭が、突然畳に両手を付く。

その口から、低く静かな声が漏れた。


 「この度はお藤が……いや、妻が大変お世話になりました。きちんとしたお礼にも伺わず、無礼をお許し下さい」


 ――その瞬間、室内の空気が一気に凍り付いた。


 「つ……つ、妻……?」


 みるみるうちに幸吉は驚愕の表情に変わり、そのまま石仏のように固まった。

口は顎が外れるかと思う程に大きく開けられている。

朱王も海華も、呆気に取られた様子で清蘭とお藤を凝視していた。


 「おや、先生やっと決断されましたか、よかったですね、お藤さん?」


 そんな三人の様子に全く気付く様子はなく、にこにこ顔の伽南の口からこの場にそぐわない穏やかな声色が出る。

お藤は涙に濡れた白い頬をさっと赤らめ、恥ずかしそうにうつ向いてしまった。


 「あの……清蘭先生と、お藤さんは、ご夫婦……?」


 抑揚の無い海華の問い掛けに、伽南は『はい』と即答する。

布団の上に座る幸吉は、まるで魂が抜けてしまったかのように目は虚ろだ。


 「清蘭先生は昔に奥様を亡くされまして、それからずっとお藤さんが身の回りのお世話をしていたのですよ。確か、前の奥様の遠縁に当たる方でしたね?」


 「はい、私のような年寄りとでは、と最初は迷いましたが……。お藤が私でよいと言ってくれました。それならば早々にきちんとした形を、と思いまして、先月……」


 細面の顔に優しい笑みが浮かぶ。

そんな清蘭の横顔を、お藤は幸せそうな眼差しで見詰めていた。

つまり、幸吉は完全に横恋慕していたようだ。


 『好いたお方と一緒になるのが一番ですからね』そんな伽南の言葉に、幸吉は玩具を取られた子供のように、ぐしゃりと顔を歪めて兄妹へ視線を投げる。

直ぐにでも逃げ出したくなる居心地の悪さに二人は自らの膝先に視線を落とすしか出来なかった。


 『お隣のお嬢さんが看病されているのですね、 安心致しました』


 幸吉の心情など露知らず、お藤は強烈なとどめの言葉を残して清蘭、伽南と共に長屋を後にした。

怪我は清蘭が責任を持って、勿論無料ただで診てくれるようだ。

三人が帰った後、しんと静まり返った部屋には未だ虚ろな眼差しで宙を見詰める幸吉と冷や汗を流して俯いたままの兄妹が残された。


 気まずい。

泣き出したくなる程に気まずいこんな状況を、朱王も海華も未だかつて経験したことはなかった。


 「あの……な、幸吉さん? その、何て言うか……」


 どの位沈黙の時が流れたろうか、口元を僅かに引き攣らせた朱王が恐る恐る幸吉へ顔を向ける。

どんな言葉を掛けたら良いのか、女に袖にされた経験の無い朱王は、今必死に慰めと励ましの混じりあった台詞を考えているのだろう。

兄の必死さは隣にいる海華にもひしひしと伝わってくるのだ。


 案の定、言葉が続かないまま自分を見詰める朱王に目を遣った幸吉が、突然痣のついた顔をくしゃりと歪め、笑いたいのか泣きたいのかわからない表情を兄妹へ向けた。


 「いいんだ朱王さん、何も言わねぇでくれ。いつもなんだよ、勝手な片思いなんだ」


 へへっ、と自嘲気味に笑い飛ばし、癖のある髪を掻き回す幸吉。

その笑みがやたら痛々しいものに見える海華は、無意識に彼から目を反らし、唇を強く噛み締めた。


 「あれだけの別嬪だからな、嫁いでないはずが無いと思ってたが……お医者様じゃあこっちの勝ち目はねぇや。こっちは貧乏を絵に描いたような錺物屋だから……」


 「そんなことないわよっ!」


 尻すぼみになる幸吉の台詞を遮るように、突如海華が顔を跳ね上げ甲高い叫びを迸らせる。

凍り付いていた部屋の空気が、ぐらりと揺れた。


 「貧乏だから何よ! 食べていけない訳じゃないでしょ!? あたし達だって同じよ! 毎日毎日必死で働いて……それのどこが悪いってのよ!?」


 顔を紅潮させ、腰を浮かせて叫ぶ海華を朱王も幸吉も呆気に取られた表情で見詰めていた。


 「貧乏人だから人好いちゃ駄目なんて誰が決めたの!? 幸吉さんなら、お藤さんと一緒になってもおかしくないわ! 少し……少しだけ、間が悪かったのよ」


 力が抜けたようにぺたりと畳へ座り込む海華。

肩で息をする彼女を見ていた幸吉の顔に、やっと本物の笑みが浮かんだ。


 「そうだなぁ……ちぃっと間が悪かった、か。 ――海華ちゃん、ありがとな」


 『どういたしまして』ぼそりと答えた海華が、にやっと唇をつり上げる。


 「まぁ……どうしても良いひとが見つかんなかったら、その時は、あたしがお嫁に来てあげるわよ」


 「ああ、そりゃいいや! 海華ちゃんなら文句はねぇや。って訳だ朱王さん。そん時は頼むな!」


 切れた唇から白い歯を覗かせる幸吉が、ちらりと視線を朱王に投げる。

思わず苦笑した朱王は、腕組みをしながら一度大きく頷いた。


 「こんな跳ねっ返りを嫁にしたら苦労するぞ? やっぱり返します、は勘弁してくれよ?」


 どっと三人分の笑い声が狭い部屋に響く。

煎餅布団の上で笑いこける幸吉を前にし、二人はホッと胸を撫で下ろしていた。


 「幸吉さん、これから大丈夫かしら?」


 長屋からの帰り道、風呂敷包みを一つ携えた海華が心配顔で兄を見上げた。

『もう吹っ切れた』そう笑顔で見送ってくれたのだが、それが幸吉の精一杯の強がりに感じてしまう。


 「うん……。多少は落ち込んでいるだろうな。 一途な男だから……。でも、幸さんなら大丈夫だ。必ず立ち直るさ」


 緩やかに吹く暑い風に髪をなびかせる朱王が遠い眼差しで呟く。

じりじりと照り付ける陽射しも和らいだ街中には、気の早い蝉が羽を震わす音がどこからか響いていた。


 「そうだといいんだけど……。怪我が良くなったら、お酒飲みに誘ってみれば? たまには男同士腹を割って話ししてみたらいいわよ」


 からりとした笑顔を向けてくる妹につられ、朱王の口元にも小さな笑みが浮かんだ。

一歩足を踏み出す度に乾いた道から土埃が舞う。


 「早く良くなればいいな。――それよりお前、幸さんに見舞いって何を持って行ったんだよ?」


 行きは二つ、帰りは一つになった包みの中身を朱王は知らない。

大切そうに胸に抱えた風呂敷包みに視線を落とした海華は、『どくだみよ』と小さく答えた。


 「志狼さんから貰ったでしょ? 乾かして砕いて、後は煎じればいいだけにしてあるわ。お酒や甘い物よりは身体にいいでしょ?」


 にっこりと白い歯を見せる妹へ軽く頷いた朱王だが、すぐに不思議そうな眼差しで薄い包みを指差す。


 「もう一つはどうする?」


 「これは修一郎様に。疲れが取れるんじゃないかな? と思ってね。これから行きましょ」


 ぱっと顔を上げた海華の髪が、さらさらと日焼けした頬を撫でる。

微かな汗の匂いが鼻をくすぐった。


 「たまにはこっちから顔を出すのも悪くない、か。きっと喜ぶぞ」


 「うん!」


 『よく来たな。』そう言いいながら、修一郎はいつもの優しい笑顔で出迎えてくれるだろう。

無意識に顔を綻ばせる二人は、道行く人波に紛れて修一郎の元へと向かう。

街のざわめきに、小さな蝉の歌声は、あっという間に掻き消された。


 夏本番は、もう少し先のようだ。







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