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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第二十五章 錺物屋の悲喜劇
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第三話

 「きちんとお医者様に診て頂いた方がいいのですが……」


 心配そうな面持ちの伽南がそう呟き、朱王を見上げる。

幸吉の部屋を飛び出した朱王が向かったのは、いざと言う時頼りになる男、伽南かなんの住む庵だっ た。

薬種問屋の長男である彼は薬の調合はお手の物、医師であった亡き父親に仕込まれたのか傷の手当てもそこいらの藪医師より上手いのだ。


 ぼろ雑巾のようになった幸吉に丁重な手当てを施し、部屋を出てきた伽南は戸口の脇で手当てが終わるのを待っていた朱王にまず最初に、『どうして医者を呼ぶのを拒んだのか』を尋ねた。


 「診療代なら心配いりませんよ? 小石川はお金が無くても診て頂ける場所ですから」


 「お金の心配ではないのです」


 そう一言答え、朱王は苦し気に顔を歪める。

小石川に好いた女がいる。

もし彼女に知られて無様な姿を見せたくない。

そんな理由を、伽南にはとても言えかった。

幸吉が余りにも惨めだ。

幸吉と伽南は初対面、知らぬ人間にそんな事を知られたくはないだろう。


 「――他人には言えない理由なのですね?」


 僅かに小首を傾げる伽南。

眼鏡の奥から子犬のように優しい眼差しが向けられる。

『申し訳ありません』そう消え入りそうな声で答える朱王は、自分より頭二つ分背の低い男に深々と頭を下げた。


 「貴方が謝ることはないですよ、誰にでも事情はありますから。薬は後から取りに来るよう、中にいた娘さんに伝えました。それじゃあ、私は失礼しますね」


 にっこりと微笑みを残し、伽南は長屋を去って行く。

お礼です、と朱王が差し出した幾ばくの金子も『ただ手当てをしただけですから』と、遂に受け取っては貰えなかった。

長屋の入り口で伽南の姿が見えなくなるまで見送り、重い足取りの朱王が幸吉の部屋に戻る。

薬の苦い匂いが充満する狭く薄暗い部屋。

訪れた時に聞こえていた呻きは既に無く、代わりに聞こえるのは、すぅすぅと静かに響く小さな寝息だけだった。


 額に真新しい包帯を巻き、痣だらけの顔を時折ぴくつかせて死んだように眠る幸吉の横には、あの肥え太った女がぼんやりと座り込んでいた。


 「あの……貴女は、この長屋の方ですか?」


 土間に立つ朱王の遠慮がちな問いに、女は半分肉に埋もれた瞳をぱちぱちと瞬かせ、真ん丸の顔がゆっくりこちらへ向けられる。


 「隣に住んでいます。おこまと言います」


 動作と同じのろのろした返事。

愚鈍そのもののような女だが、幸吉の看病をしていたのだから悪い人間では無いのだろう。


 「おこまさん、か。こんな事を頼んで申し訳ないんだが、さっきの先生が幸さんの薬を調合して下さるんだ」


 「へぇ、お聞きしました。後から取りに伺います。幸吉さんの面倒も、あたしが見ますから」


 太った芋虫に似た指を膝の上で握り締め、自分を見詰めてくる女の前に少額の金を置きながら、朱王が微かな笑みを浮かべた。


 「これは薬代です。幸さんが起きたらお大事にと伝えて下さい」


 「へぇ、わかりました」


 自分の前に置かれた金に視線を落としつつ、女はこくりと頷く。

それを確かめた後、部屋を出た朱王は天を仰いで深々と溜め息をついた。

酷く暗く落ち込んだ自身の気持ちとは裏腹に仰いた空は真っ青に晴れ上がり、いつの間に流れて来たのか、真綿を千切ったような白い雲が浮かぶ。

きらきらと網膜に刺さる光の矢に思わず顔をしかめた朱王。

そんな彼を笑うかのように、賑やかにお喋りを繰り返す雀の群れが頭上高く飛び去っていった。


 『幸さんが襲われた』 仕事から帰った海華に、朱王は開口一番そう伝えた。

最初は兄が何を言っているのか理解できず、ぽかんと口を開いたままの海華だったが、幸吉が三矢とその取り巻きらしき者らに手荒い暴行を受けた事を聞くなり、ぎりぎりと柳眉がつり上がり、激しい怒りに顔が真っ赤に紅潮していく。


 「許せない! 絶対に許せないわよっ! ただの八つ当たりじゃないの!」


 木箱を背負い、土間に仁王立ちしたまま地団駄を踏まんばかりの勢いで怒鳴り散らす妹を前に、朱王は苛立たし気に髪を掻き乱す。


 「少し落ち着けよ」


 「これが落ち着いていられる!? 幸吉さんが酷い目にあったのよ! 兄様平気でいられるの!?」


 「そんな訳ないだろう! 俺だって奴らは許せない。だがな、ここで騒いでいても仕方無いだろう!」


 最もな兄の言葉に唇を噛み締め、項垂れる海華は土間で下駄を乱暴に脱ぎ捨て、壁に寄り掛かる兄の傍座り込んだ。


 「どうするの? このままやられっぱなしで、泣き寝入りする気?」


 どうにかならないのか? と、どこかすがるような声色を出す海華。

障子戸から斜めに射し込む橙色の夕日が、朱王の顔半分を染めていた。


 「――相手は腐っても旗本だ。忠五郎親分や都筑様方は手が出せない。今夜、修一郎様の所へ行ってくる」


 修一郎の名が出た瞬間、海華の表情が一気に強張り今にも泣き出しそうに唇が戦慄く。

そして、胡座をかく兄の腕を思い切り握り締めた。


 「駄目、絶対に駄目よ! 修一郎様には言わないで!」


 「なぜだ! 今、俺達の周りであいつらをなんとか出来るのは、修一郎様しかいないんだ!」


 声を荒らげる兄に負けない勢いで、『修一郎様に知らせては駄目だ』と言い張る海華。

余りに強情な妹の態度に、遂に朱王は押さえていた怒りを爆発させた。


 「いい加減にしろっ! お前、幸吉さんのことなんてどうでもいいってのか!? 一歩間違えれば死んでいたんだ! このまま放っておけと言いたいのかっ!?」


 憤怒の形相を露にする朱王は妹の手を払いのけ、弾かれたように立ち上がる。

その足にしがみつく海華の口から、悲鳴にも似た叫びが迸った。


 「違うわ! 違うのよっ! あたしだって悔しいわ! 幸吉さんの敵討ちたいわよ! でも! で も……!」


 一杯に見開いた瞳から、ぼろりと涙がこぼれる。

足元から響く嗚咽に、怒りを通り越して驚きの表情を浮かべた朱王は、しゃくりあげる妹の横に腰を降ろした。


 「どうして、修一郎様に知らせてはいけないんだ?」


 先程とはうって変わり、宥めるように穏やかな声色を出す朱王に、海華は溢れんばかりに涙を溜めた瞳を向ける。


 「だって……修一郎様、今凄くお疲れなの。これ以上、お仕事を増やすような真似はしたくない。――だからお願い、修一郎様には言わないで……」


 ぐすぐす鼻を啜り、きつく袖口を握り締めてくる妹を朱王が困惑の表情で見詰める。

確かに修一郎は日々激務と戦っている。

余計な面倒を掛けたくないのは朱王も同じ気持ちだ。

だが、ここまで海華が頑なになる訳がどうし てもわからなかった。

自分達の事ならまだしも、今度の被害者は大切な友である幸吉なのだ。


 「修一郎様はね、ただ疲れが溜まっただけだ、案ずるなって仰ったわ。少し休めば身体の調子も戻るって。でもね……同じことを仰ってた父上様は、死んじゃったのよ」


 ぽたぽた滴る涙が擦り切れ畳に吸い込まれ、丸く暗いしみを作る。

久し振りに耳にした、『父上様』という台詞に、今度は朱王が顔を強張らせる番だった。


 「父上様って……お前、どうしてそんなこと……」


 僅かに声を震わせながら、朱王はじっと妹を見詰める。

頬を流れる涙を袖で乱暴に拭い去り、海華は乾いた唇を戦慄かせた。


 「あたし、父上様に会ったの……亡くなる三日くらい前に。兄様達が寝ちゃってから、父上様のお部屋に行ったわ……」


 突然父が倒れ、床に臥せってしまった。

養母や修一郎、そして朱王に父の容態を聞いても、皆口を揃えて『お前は何も心配することはない』ただそれだけしか言ってくれない。

今思えば、幼い自分を不安にさせないための心遣いだったのだろう。

何しろ、倒れた時点で父は余命幾ばくも無いと養母や修一郎は医者から伝えられていたらしいからだ。


 「父上様が心配で……ずっと会いたくて…… 行っちゃいけないって言われてたけど、黙って行ったのよ」


 遥か昔を邂逅するように、海華は遠い目をして語り続ける。

橙色に輝く夕日は西の空へ沈みかけ、外は紫がかった闇が広がり出した。


 「父上様ね、頬がげっそり痩けちゃって、凄くお痩せになってたわ。あたしが『父上様』って声掛けたら、すぐに目を開けて下さった……」


 畳につかれた手が、きつく握り締められる。

朱王も初めて聞く、死にゆく直前の父の様子。

幼い頃の記憶は、僅かな胸の痛みを伴って頭の中に甦った。


 「『大丈夫なのですか?』って聞いたらね、父上様あたしの手握ってくれた。『案ずるな、少し疲れただけだ。休めばすぐに良くなる』って。身体が治ったら、皆で芝居でも観に行こう、って……」


 くしゃっ、と泣き笑いの表情を浮かべる海華の瞳からは、また新たな雫が次々とこぼれる。

その約束は永遠に果たされることは無かった。


 「大丈夫って言ってたのに、父上様は死んじゃった……。もし、修一郎様まで同じことになるなんて、あたし絶対に嫌!」


 これ以上仕事を増やさせたくない、出来るだけゆっくり身体を休めて欲しい……。

あの日、ふらつきながら去って行く修一郎を目の当たりにし、そう思わずにはいられなかった。


 「だからお願い……。修一郎様にだけは言わないで……」


 泣き腫らした瞳を一杯に見開き、自らへ抱き付いてくる妹に朱王は返す言葉が見つからない。


 「――わかった、修一郎様には言わない。だからもう泣くな」


 宥めるように背中を軽く叩き、そっと身体を離せば、『ありがとう。』とくぐもった声が空気に溶けた。


 「修一郎様を頼れないとすると……、もう俺達が動くしかないな」


 「え? あたし、達が?」


 かくん、と小首を傾げる海華。

確かにこのまま幸吉の敵を打てないのはあまりにも悔しいし、なによりもう三矢の毒牙に掛かって泣く人間を出したくないのだ。


 「奴らには少し痛い目に遭ってもらわないとな。さて……どうするか」


 妹の前にどかりと胡座をかき、朱王は深く腕を組む。

薄い闇に沈む思案顔の兄を見ながら、海華は涙で汚れた顔を慌てて袖で擦り出す。

と、その様を何気無く眺めていた朱王は、突然にやりと口角をつり上げた。


 「海華、ちょっと一走り買ってきて欲しい物があるんだ」


 「何を買ってくればいいの?」


 不思議そうな眼差しを向けてくる妹の顔を覗き込み、どこか悪戯っぽい笑みを朱王が作り出す。


 「なに、今度は稲荷の使いにでも化けようかと思って、な」


 兄の口から出た、いかにも意味深な台詞に海華は益々訳がわからなくなり、しきりに首を傾げながらも、木箱から小銭が詰まった銭入れを取り出しにかかっていた。





 全てを漆黒の闇が塗り潰す新月の夜。

時折どんよりと生暖かい風が黒の影と変わった木々の葉を緩やかに揺らす。

人気の途絶えた川沿いの寂しい小道。

ぼんやりと眠たげな光を放つ辻行灯が数個あるだけの薄暗い道に、げらげらと下卑た笑いが響き渡った。

薄明かりに浮かぶのは三人の侍だ。

狭い道一杯に広がって歩く、黒い羽織の男達は、皆足元がふらふらと覚束無い。


 鶏のように痩せぎすの小男は酒臭い息を吐き散らし、意味も無く馬鹿笑いしながら隣を歩く小太りの男の肩を借り、肩を貸す小太りは酒精により耳まで赤く染め上げて肉厚のどす黒い唇からは楊枝が一本突き出ていた。


 蝿一匹、塵屑一つ椀に入れれば、鱈腹たらふく飲み食いしても全て無料(ただ)よ。


 ちょいと脅せば金まで出すのだ。

こんな良い話しが他にあるか。


 修一郎や桐野が耳にしたなら、烈火の如く怒り狂うであろう台詞を喚き散らし、痩せぎすと小太りはゲタゲタと笑う。

そんな二人の一歩前を行くのは、以前茶屋で大暴れしていた男、三矢その人だった。

しこたま酒をかっ食らったのだろう。

両の瞳はどろりと濁り、赤く上気した細面の顔にはじわりと汗が滲んでいる。

背後で馬鹿騒ぎする同胞を全く気にする風はない。


 と、前方にぽつんと灯る行灯の灯りを目にした途端、乾いた地面を擦るように歩く三矢の足が、ふいに止まった。


 「おぉい、どうしたぁ!?」


 突然立ち止まってしまった三矢に、小太りが怪訝な顔で問い掛ける。

三矢は無言のまま、道の向こうを顎でしゃくった。


 蝋燭の火が揺れる行灯の真下に、一人の女が立っている。

薄い水色に江戸紫の朝顔が描かれた着物を纏った、小柄な女だ。

こちらに背を向け、ぽつんと立ち尽くす女の右手が、ふっと何かを空中に放り投げる。

黄色みを帯びた灯りに一瞬の煌めきを放ったのは、一枚の山吹、小判だった。


 きらりと網膜に突き刺さった光に、三人の澱んだ瞳が一斉に見開かれた。

ぬらりとした風が熱く上気した頬を撫でる。


 「――見たか? 今の……。」


 「見た。あれは小判だ」


 呆然と呟く痩せぎすに、ぽかんと口を開けた小太りが頷く。

一重の瞳を細くしながら、三矢は顔だけを背後の二人へと向けた。


 「どうだ、やるか?」


 「やるともよ。で、あの女、顔はどうなんだ?」


 分厚い唇から楊枝を落とし、小太りはいかにも好色な笑みを浮かべる。

そんな男に三矢は僅かな蔑みを含ませ、ふんと鼻で笑った。


 「貴様はいつもそれだ。顔など見えぬわ。――金を奪ったら後は好きにすればいい」


 その言葉に痩せぎすはひび割れた唇をべろりと舐め、小太りは今にも涎を垂らさんばかりの表情だ。

自分達以外、他に人はいない。

人家も無い寂しい小道に大金を持った女が一人。

まさに鴨が葱を背負って歩いてきたようなものだ。


 こちらは大の男が三人、よってたかって横の雑木林に引きずり込み、金を奪った後は犯すも殺すも簡単なこと。

泣けど叫べど誰も気付かない。

三人の唇に暗い笑みが宿る。

徐々に早くなる足取り。

そんな男達を誘うかのように、女の手から再び山吹が一枚、暗い空へと放られた。



 「おい! そこの女!」


 小肥りの肉が弛んだ喉から、野太い声が放たれる。

夜空へ放り投げた山吹を片手で受け止めた女は、微かに首を横に傾げた。

赤ら顔を盛大ににやけさせ、痩せぎすと小肥り、そして三矢が女のすぐ後ろまで歩みを進めた。

ぼんやりと灯る辻行灯の明かりに浮かび上がる、朝顔が描かれた薄い水色の着物。

ただ一人無表情のままの三矢は、短めの髪から覗く白い首筋をじっと眺めている。


 「おい! 女、お前だ!」


 「はい? なんでございましょう?」


 酒臭い息を吐き散らし、よろつきながら再び目の前に佇む女に声を掛けた小肥りに、未だ背を向けたままの女は透き通るような声色の返事を返した。


 「お主、随分と懐が温かそうではないか? 悪いが少し貸してくれ」


 『貸せ』と聞こえはいいが、勿論返す気など更々無い。

にたにたいやらしい笑みを漏らす小肥りと痩せぎす。

しかし、次の瞬間女から返った言葉に、二人の表情は一変した。


 「申し訳ありません、ただの酔っ払いに渡すお金など一銭もございませんの」


 「なん……だとぉ!?」

 

 二人の眉間に深々とした皺が刻まれる。

と、その様子を察知したのか女がくるりとこちらを振り向いた。

その途端、二人は『ぎゃっ!』と叫んでよたよたと後退る。

無表情を貫いていた三矢ですら、目を一杯に見開きながら、ぐっ、と息を詰まらせる。

三人へ向けられたもの、それは闇夜にくっきりと浮かび上がる白い狐の顔だった。


 耳まで裂けた真っ赤な口、金色に光る瞳の周囲も赤い線で縁取られ、鋭い眼差しが固まる三人を射る。 今までの威勢はどこへやら、がたがた身震いし始めた小肥りは、ぼってりと分厚い唇を戦慄かせた。


 「なっ! なっ……なんだ貴様っ!? ぶ、無礼者! この……このお方をどなたと……!」


 顔中から冷や汗を垂れ流し、隣に立つ三矢に視線を向けた小肥り、傍らの痩せぎすは失神してしまいそうに青ざめた顔で白狐を凝視している。

そんな三人の背後で、冥く凝った闇が揺らめいた。


 「直参旗本、三矢様……。よく存じておりますが?」


 『ひーっ!』と甲高い悲鳴を迸らせ、痩せぎすはもの凄い勢いで後ろを振り返る。

それに続いて踵を返した三矢の前には、漆黒から生まれた異形が佇んでいた。

辺りを包む闇と同じ、真っ黒な着流しを纏ったそれ。

風に靡く長髪、その下にある黒いかんばせは、まさに狐その物だ。

白狐と同じく耳まで裂けた口には赤い紅が塗られ、金の瞳は辻行灯の光を受けて鮮やかに煌めく。

ゆらりと着流しの裾を揺らして近寄る黒狐の手には、艶やかな黒漆で塗られた鞘が握られていた。


 「我ら、飯森稲荷の狐だ。貴様ら、我が神聖なる社を血で汚したな?」


 黒狐から聞こえる幽玄な声色。

最早蛇に睨まれた蛙状態の三人は、まともに返事をすることも出来ない。

張り裂けんばかりに目を見開いている小肥りの前で、白狐は持っていた小判を帯と着物の間に押し込み、代わりに袂から鮮やかな朱の組紐を素早く引き出した。


 『天誅じゃ』どこか嘲りを含んだ台詞を三矢に吐き捨てた白狐の影が、行灯の揺らめきに合わせてふらふらと揺れていた。


 「畜生の分際でっ! 生意気なことをほざくなーっ!」


 闇に怒号を轟かせ、三矢は白刃を引き抜いた。

冷たい光を跳ね返す刃が、黒狐の前に突き出される。

激しい怒りを剥き出しにする三矢とは対称的に、痩せぎすと小太りは今にも気絶しそうな様子で縮み上がり、身を寄せあってがたがたと震えていた。


 そんな二人を目の当たりにした三矢は、まるで駄々っ子のように地を滅茶苦茶に踏み鳴らし、甲高い耳障りな叫びを上げた。


 「貴様ら何を怖じ気付いているんだっ! 相手は狐だ! 畜生だ! 斬り捨てたところで罰は受け ぬっ!」


 その台詞に背中を押されたのか、はたまた怒鳴り散らす同胞に恐れ戦いたのか二人は大きく震える手で刀を抜き、痩せぎすは白狐へ、小太りは黒狐へと刃構える。

しかし刃先の狙いは一向に定まらず、上下左右に激しくぶれた。


 「――見苦しいものよ」


 そう一言吐き捨て、黒狐は己が刀をすらりと抜く。

清廉な輝きを放つ白銀の刃は、揺らめく行灯の灯りを受け、暗き闇へ浮かび上がった。

じゃりっ、と土を踏み締める音と共に黒狐が一歩前に踏み出したと同時、小太りの喉から、ひゅうっ! と息を飲む鋭い音が立つ。


 「ひぃ……! ひっ! うぁぁぁぁぁぁ ――っっ!」


 肉に埋もれた瞳を張り裂けんばかりに見開き、滅茶苦茶に刃を振りかざした小太りは、土煙を上げて黒狐へと突進する。

それを合図としたのか、痩せぎすも悲鳴だか怒号だかわからぬ奇妙な叫びを響かせ、足を縺れさせながら白狐へ斬り掛かった。


 夜気を切り裂く鋭い響き。

血走った瞳、唇から涎を流した小太りの振るう刃は、虚しく闇に光の軌跡を残すだけだ。

握った刀を構えもせず、黒狐は軽々と白刃の攻撃をかわしていく。

暗い闇を舞い踊る、漆黒の着流しに包まれるしなやかな身体。

束ね髪が宙を舞う様は、艶やかな鱗を持つ蛇が鎌首を上げるようにも見える。

呆然と抜き身を握ったまま、それを凝視する三矢の後ろでは、ぎゃあぎゃあ意味にならない叫びを上げながら胸の前で刀を水平に構え、突き進む痩せぎすを白狐がひらりとかわす。


 薄い水色をした袖が舞い踊り、次の瞬間白い手のひらから放たれた深紅の一撃が、痩せぎすの刃に痛烈な一撃を食らわせた。

先端に付いた槍先が光の矢となり、出鱈目に振り回される刀を撃つ。

金属同士がかち合う激しく、爆発的な響き。

美しい放物線を描き、頼り無い主の手から弾き飛ばされた刀は、高々と宙を飛び、雑木林の中へと墜落していった。


 「うぎゃあっ! みつ……三矢っ! たすけ……!」


 『助けてくれ』その言葉が痩せぎすの口から出ることはなかった。

滑らかな光沢を放つ紅い凶器が鶏のような首へ巻き付き食い込んでいる。

ぎりぎりと首へ沈む紐を外そうと指先が肉を掻きむしり、紐と同じ紅い体液が流れ散った。

色の悪い舌を突き出し、白目を剥いてもがき苦しむ侍を地面に捩じ伏せた白狐は金色の瞳を輝かせ、紐を引く手へ更に力を込めた。


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