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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第二十五章 錺物屋の悲喜劇
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第二話

 「なんだこの茶はっ! 蝿が入っておるではないかっ!」


 穏やかに晴れ渡る空に荒々しい男の怒号が響き渡る。

あっという間に小さな茶屋の前には野次馬達が群がり、幾重にも人の壁が出来ていた。


 青々した葉を風に揺らせるどくだみを抱えた海華も、さっと踵を返してその野次馬の群れに加わる。

一杯に背伸びし、興味津々に中の様子を伺う魚売り、気の毒そうな表情で口元を袖口で覆う中年女、老若男女が群がる中をすり抜けた海華が目にしたものは、わんわんと声を上げて泣きじゃくる十五、六の娘と、その前で異様なほど激しく喚き散らす一人の侍の姿だった。


 丸い木盆を胸に固く抱き締め、ぼろぼろ涙をこぼす娘の足元では、白髪の老婆が小さな身体を更に小さく縮こませ、土間へと額を擦り付けていた。


 「この店はこんな汚い茶を客に出すのかっ!?」


 娘の前に仁王立ちになった紋付き袴姿の侍は、おもむろに飯台に置かれた湯飲みを引っ掴み、 蚊の鳴くような声で『申し訳ございません』と土下座したままひたすら謝り続ける老婆に向かい、力一杯投げ付けた。

空を切る湯飲みは僅かに狙いを外れ、老婆の背中を通り越して煤けた板壁にぶち当たる。

がちゃん! と派手な音を響かせ、湯飲みは中の茶をぶちまけながら、粉々に砕け散った。


 茶屋を覗く野次馬から小さな悲鳴が上がり、娘の身体はおこりに掛かったかのように震え出す。

思わず顔をしかめる海華の近くで、男二人が抑え気味の声量でひそひそと話し始めた。


 「またあいつか、三矢様んとこの息子だぜ」


 「様なんか付けるこたぁねえや。旗本奴め、あんな婆さんからまで金ぶん取るなんざ、畜生の所業だなぁ」


 たっぷりと憎悪を含ませた二人の声色に、海華は改めて茶屋の中へ目を凝らす。

細面の顔、こめかみに青筋を立てて未だに口汚く喚く侍、年は自分と同じくらいか、つり上がった細めの 眉の下には、鋭い一重の目がギラギラと殺気立った光を宿している。


 どこか神経質そうな若侍が、志狼が言っていた三矢という旗本の息子なのだろうか?

乱暴狼藉の限りを尽くす三人の侍、風の噂で聞いた話しだが、実際海華は顔を知らないのだ。

もし、あれが三矢だとしたら、その後ろで椅子に腰掛け、泣いて謝る老婆と娘をにやにやと嫌な笑みを浮かべて眺めている小肥りと痩せぎすのは侍は、恐らくその取り巻きだろう。


 いつまでも泣いてばかりいる娘と老婆に痺れを切らせたのか、侍は飯台の足を折れんばかりに蹴り飛ばし、近くにあった椅子を床へ叩き付ける。

茶屋の外まで響くけたたましい破壊音、それに娘の悲鳴と侍の罵声が混ざり、辺りは修羅場と化す。

その様子を目の当たりにした野次馬は、 皆一様に表情を強張らせ、女子供は足早にその場を去って行く。


 目の前で繰り広げられるあまりにも惨い光景。

ぎりぎり唇を噛み締める海華も、飯台を倒し茶碗や湯飲みを投げ付け暴れまくる三人の侍を鋭い視線で睨み付けるしかなかった。

店の片隅に追いやられ、抱き合って泣き崩れる老婆と娘に最初に怒号を上げたあの侍がにじり寄る。


 「おい、婆ぁっ! この俺を誰だと思っている!? 直参旗本、みつ……」


 「これはこれは、三矢殿ではないか」


 『直参旗本、三矢某だ』その言葉は男の口から発せられることはなかった。

突然その台詞を遮った低い呼び掛け。

それは店の前を埋める野次馬の背後から響いたものだ。

若干低めな、そして確かに聞き覚えのあるその声を耳にした途端、海華は一杯に目を見開き、『あっ!』と小さく叫んでいた。


 その低い声は人垣の一番後ろから響いた。

男の怒号がぴたりと止み、鋭い眼差しが表に集まる野次馬達に向けられる。

ざわつく人々の中から、のそりと姿を現したのは黒い羽織姿の二人の侍だった。


 熊のような大柄な体躯の男、その後ろにひかえるもう一人は対称的にすらりと細身であり、漆黒の羽織が小さく風に揺れている。

それは正しく修一郎と桐野だった。

ぽかんと口を半開きにし、一杯に目を見開く海華の近くを二人は悠々と通り過ぎ、嵐が去った後のような荒れ果てた店内へ進んでいった。


 「これは……上条様」


 修一郎の顔を目にした途端、今までの罵詈雑言はどこへやら、三矢と呼ばれた若侍は呻くような声を出し、二人に小さく頭を下げる。

ずっと 騒ぎを面白そうに眺めていた小肥りと痩せぎすの二人も、みるみる顔を強張らせて跳ね上がらんばかりに立ち上がった。


 「何やら騒がしいと思ったら……三矢殿であったか」


 じろっ、と店内を一周見渡した修一郎が抑揚の無い声を出す。

片隅で老婆ときつく抱き合い震えている娘は、今にも気絶するのではと思う程に顔面蒼白だ。


 「随分と酷い有り様だ、これは訳を聞かねばなるまいな」


 地を這うような低い声色、射殺さんばかりに修一郎に睨まれ三矢は喉を鳴らして一本後ずさる。

野次馬達も、海華も固唾を飲んで店内の様子を見守っていた。


 「蝿が……蝿を入れた茶を、出されたので……」


 「ほう、蝿入りの茶をな。それはけしからん。 桐野、確かめてみろ」


 しどろもどろに答える三矢を睨み付けたまま、 修一郎は桐野へそう命じる。

はっ、と短く答えた桐野は、つかつかと飯台へ歩み寄り、まだ湯気の立つ湯飲みの中を覗き込んだ。


 「確かに、見事に叩き潰された蝿が浮いております。腹を潰されてまで湯飲みに飛び込むとは……なかなか根性のある蝿ですな」


 にや、と薄い唇を微かに上げ、桐野は黙りこくってしまった三矢へ視線を投げた。

つまり、この蝿はお前がわざと入れたのだろう、と言いたいのだ。

一瞬で辺りを静寂が支配する。

三矢も、その取り巻きも野次馬達も口を閉じたままだ。

修一郎の黒々とした太い眉毛がつり上がる。

蛇に睨まれた蛙よろしく侍三人は小さく俯き、小肥りなどはがたがた震え出していた。


 「三矢殿、ここで暴れるくらいなら奉行所で話しを聞こうではないか。なんなら、お父上を同席させるか? こちらは一向に構わんが」


 深々と腕組みをした修一郎が、とどめの台詞を発する。

その瞬間、三矢は血の気の失せた顔を跳ね上げ、ぎりぎりと唇を噛み締めた。


 「それには及びません。――今日のところは勘弁してやる! 次からは気を付けろっ!」


 泣き続ける娘と老婆に振り向き様そう吐き捨て、人垣を乱暴に掻き分けながら三矢は脱兎の如く駆け去っていく。

その後を、小肥りと痩せぎすの二人が足を縺れさせて追い掛け、街を行く人波に紛れ、消えて行った。


 「――三矢の馬鹿息子が、余計な騒ぎを起こしおって!」


 強い怒りを含ませた声色、ぎりぎり眦をつり上 げる修一郎は、足元に散乱する湯飲みの欠片を軽く蹴飛ばす。

店の奥では、桐野が娘と老婆に何やら声を掛け、二人を助け起こしている最中だった。

怒りに紅潮した顔を歪ませたまま、ゆっくりと野次馬達へ振り向いた修一郎、おぉ! と人垣のあちこちから感嘆の叫びが上がった。


 『ありゃあ、お奉行様じゃねぇか!?』


 『違ぇねぇ、鬼修だ!』


 どよめく数多の人々に埋もれ、手に汗握って事の全てを見届けていた海華に、修一郎も桐野もついに気付くことはなかった。

肩を怒らせ、店から出て行く修一郎と桐野の後を、ざわつく野次馬の群れからやっと抜け出た海華が追い掛ける。

人が大勢行き交う往来で、気安く修一郎の名を呼ぶ訳にはいかなかった。


 人に紛れる二人の背中を見失わないよう、適度な間を取り歩みを速める。

と、二人は表通りから少し脇道にそれて人気ひとけの無い小路へと入っていき、これ幸いとばかりに海華の足が勢い良く地面を蹴る。


 「修一郎様! 桐野様!」


 「海華か!」


 「海華殿、こんな所でどうしたのだ?」


 振り向いた二人は一様に驚きの表情を浮かべて海華を見る。

息を切らせて二人へ駆け寄った海華は、整わぬ息の中でぺこんと小さく頭を下げた。


 「今、桐野様のお屋敷からの帰りで……。さっきの全部見てたんです」


 頬を薄い紅色に染め、漆黒の大きな瞳を見開いて見詰める海華に修一郎と桐野は気まずそうな笑みをこぼす。


 「なんだお前、見ておったのか」


 「全く気が付かなかったな。人に紛れていたか」


 ぼりぼりと首筋を掻く桐野の羽織を吹き抜ける風が大きく揺らす。

道の両側に生い茂る雑木林が、激しくざわめき、海華の小さな笑い声を掻き消していった。


 「街で暴れ回ってるって噂の三人組って、あのお侍様方なんですか?」


 その問い掛けを聞いた途端、修一郎の顔がみるみる厳しい物に変わる。

先ほど茶店で見せたと同じ、眉を寄せつつ今はいない三矢を睨み付ける如く目が細められていく。


 「そうだ、あ奴らだ。強請ゆすりたかりは当たり前、平気で店は壊すわ人は殴るわ……全くとんでもない奴らだ」


 「旗本の倅でなければ、今頃牢に叩き込んでやるところだ。こちらが手が出せんのを知っておるからあのような乱暴狼藉を働くのよ」


 深く腕組みをして何度も頷く修一郎の横で、いかにも忌々し気に吐き捨てる。

確かに相手が旗本となれば、桐野らとて無闇に手出しは出来ないだろう。


 「旗本、旗本と言うがな、所詮しょせん親父は無位無役よ。親がろくでなしなら子もああなるのか」


 がっしりした顎を擦り、そう呟く修一郎へ無意識に海華が小首を傾げる。

いくら腹に据えかねているとはいえ、相手の親まで糞味噌に扱き下ろす修一郎を、今まで見たことが無かったからだ。


 「修一郎様……、何だかお疲れじゃありませんか?」


 恐る恐るそう口にする海華。

よくよく見れば両目の下には薄っすらと隈ができ、頬も僅かだが痩けてしまったようだ。

その言葉に、逸早く答えたのは桐野だった。


 「そら見ろ、海華殿にもそう見えるのだ。少しは身体を休めたらどうだ?」


 「仕方無かろう、後から後から仕事がくるのだ。周りが必死で勤めを果たしている時に、俺一人だけ休む訳にはいかん!」


 むっとした様子顔を横へ向けてしまう修一郎に、桐野は呆れたようた苦笑いをこぼす。

だが、海華の表情はひどく暗いものに変わっていった。


 「修一郎様、修一郎様が、もしお倒れになられたら、一番悲しむのは雪乃様です。だから……どうぞ御自愛下さい。雪乃様の泣く姿なんて、私は見たくありません」


 うつ向きがちの海華が呟いた一言に修一郎は驚いた様子で瞬きを繰り返す。

ざっ、と吹き荒ぶ暖かい春風が、海華がしっかりと抱えるどくだみの花弁を散らしていた。


 『お願いですから、お体だけは大切に』 そんな海華の言葉に、どこか困ったような笑みを浮かべながらも修一郎は素直に頷き、桐野と共にその場を去っていく。

黒い羽織に包まれた大きな背中をゆっくりと揺らして歩く修一郎の足が突然ぴたりと止まり、何かを思い出したかのように、顔だけがこちらに向けられた。


 「海華、お前も三矢らには充分気を付けろ。金を取られるくらいなら、まだましだ。万が一怪我でも負わせられたら一大事だからな」


 「わかり、ました。気を付けます……」


 こくん、と海華が首を縦に振ったのを見た修一郎の口から、うむ。と小さな返事が返る。

橙色に変わり始めた春の陽光。

それを顔半分に受け、穏やかな色を宿した瞳が僅かに細められる。


 一瞬、本当に一瞬だが、自分へ向けられた微笑。

それを目にした途端、海華の心臓が一度だけ大きく跳ね上がった。

微笑んだその顔が、朱王に瓜二つだったのだ。


 海華から見ても二人は全くと言っていいほど外見は似ていない。

誰が見ても兄弟とは思わないだろう。

しかし、光の加減や無意識に出る僅かな表情の変化に、血の繋がりをはっきりと感じさせられたのだ。


 「やっぱり、兄弟なのよね……」


 徐々に小さくなる侍二人の後ろ姿を見詰めながら、海華はそう一言漏らしていた。





 その日の晩、夕餉の席で海華は昼間の出来事を全て兄に話して聞かせた。

幸吉が楽しげに会話していた小石川小町のこと、茶屋で大暴れしていた旗本連中のこと、そして突然現れた修一郎と桐野が、その連中を難なく追い払ったこと……。

中でも朱王が一番興味を示したのは、やはり修一郎がひどく疲れているようだ、という海華の言葉だった。


 「そんなに疲れてらっしゃるのか、修一郎様は」


 「うん、なんかやつれてらっしゃったわよ。頬も痩けてたわ。大丈夫かしらね?」

 

 艶やを帯びた魚の煮付けをつつき、海華が溜め息混じりに呟く。

炊きたての飯を口に含む朱王も、滅多に聞かない修一郎の疲弊した様子に不安を隠し切れないようだ。


 「朝からお城へ上がって、昼からはお裁きだろう。疲れも溜まるさ。――落ち着いた頃を見計らって、一度顔を出しに行くか? お前の顔を見たら、修一郎様も少しは気が和らぐだろう」


 「そうかなぁ、あぁ、それならどくだみの葉っぱ持っていこうかしら。毒出しだって志狼さんが言ってから、疲れも取れるんじゃない?」


 そう言いながら、ちらりと部屋の隅に視線を向けた海華。

その先には、昼間志狼から貰ったどくだみが全て茎から外され、一枚一枚丁寧に平笊に並べられている。


 「そんな物、修一郎様が飲むか? どうせ持っていくなら酒だろう」


 苦笑いを浮かべ、残った味噌汁を一気に飲み干す朱王が、ああ、そうだ。と一言、手にしていた箸を置く。


 「明日、幸さんの所へ行ってくるよ。簪の仕上がりを見てくる」


 「わかったわ、でも、先にお客さんが来てたらすぐに帰ってくるのよ?」


 沢庵を摘まみ上げる海華が白い歯を見せ、にやりと意味深な笑みを向ける。

海華が言う『先客』、の意味を朱王も充分にわかっていた。

例の小石川小町のことだ。


 「わかっている。俺だってそこまで野暮じゃない」


 ふん、と鼻を鳴らす兄の前で、くすくす小さな笑みを漏らす海華の唇から、ちらっと赤い舌が突き出されていた。




 翌日の朝、幸吉の長屋へ向かう朱王は、その途中一件の菓子屋へと立ち寄った。

ずらりと並ぶ色鮮やかな菓子の中から選んだのは数本の団子と、ぎっしり餡の詰まった饅頭。

幸吉は酒もいけるが甘味も好む。

何より、もしお藤が部屋を訪れていた時、二人で摘まめるだろうとの心遣いもあった。

雲一つ無い真っ青な空で、燦々と太陽が輝く。

道を行き交う人々と擦れ違う度、微かな汗の匂いが鼻を掠めた。

道の脇には頭に手拭いを掛けた金魚売りの男が座り込み、一杯に水を満たした桶の周りにしゃがみ込む数人の子供立ちは、水の中を泳ぐ真っ赤な金魚を目を輝かせて眺めている。


 大通りから外れた場所にひしめき合うように立ち並ぶ幸吉が住まう長屋、その前に立った朱王は、長屋の様子がいつもと異なることに気付いた。

普段、両側にずらりと部屋が並ぶ薄暗い道で騒いでいるのは幼い子供くらい。

しかし、今は酷く慌てた様子の十人ほどの大人が道を走り抜け、ある部屋の前に群がっている。

その部屋は、朱王が目指す幸吉の部屋だった。


 「あの、何かあったのですか?」


 人々の慌て様にただならぬ気配を感じた朱王は、近くを通った小太りの中年女を呼び止める。

鼻の脇に大きな黒子のある女は、一瞬だが怪訝そうな面持ちでこちらを見遣った。


 「あんた、幸吉さんの知り合いかね?」


 「はい、幸吉さんに簪を頼んでいる者です。一体何の騒ぎですか?」


 真剣な眼差しで見詰めてくる朱王に、女は皺の寄った目尻を僅かに下げて幸吉の部屋へちらりと視線を向けた。


 「それがね、幸吉さん今朝がた部屋の前に倒れてたんだよ、見つけたのはあたしなんだけど、もう死んでるかと思ってさ、おったまげたよぅ」


 ぼそぼそした声色で呟かれる女の言葉を聞いた途端、朱王が『えっ!』と小さな叫び声を上げ、驚愕に瞳が一杯に見開かれる。


 「幸さんが!? どうして……?」


 「どうしても何も、誰かに手酷く殴られたんだろ。もう酷い有り様さ、顔なんか元がわからないくらいに腫れちゃって……」


 『死ななかったのが不思議なくらいさ』 その台詞が女のかさついた唇から出切る前に、朱王は幸吉の部屋へと走り出していた。

開けられたままの戸口に群がる人を掻き分け押し退け、転がるように室内に駆け込んだ瞬間、朱王の視界に入ったのは色褪せた茶色の着物だった。

水の入った手桶を持ち、驚きの表情をこちらに向けて土間に立ち尽くしているのは、まるで酒樽に手足が 生えたような体型の丸々肥え太った一人の女だ。


 幸吉や海華の話しからして、この女がお藤でないことは一目瞭然、肉に埋もれた小さな瞳が朱王をじっと見詰め、分厚い唇がもごもごと動く。


 「あんたぁ、誰だい?」


 「幸吉さんの、知り合いだ。幸さんは……?」


 ぱんぱんに肉のついた満月のような顔を悲しげに歪めた女は、部屋の奥へと視線を向ける。

行く手を阻むでっぷりとした体を押し退けながら、朱王は部屋の奥に向かう。

土間で些か乱暴に下駄を脱ぎ捨て、畳へ駆け上がると、そこにはあちこちに継ぎが当てられた薄い布団が敷かれていた。


 微かに聞こえる呻き声、枕の上にある幸吉の顔を恐る恐る覗き込んだ次の瞬間、はっ、と息を飲む音と共に、朱王の手から持参した菓子包みが、ぐしゃり、と鈍い響きを立ててささくれた畳へと落下していた。

薄っぺらい煎餅布団に横たわる幸吉の顔は、思わず目を背けたくなるほど悲惨なものだった。

強かに殴りつけられたのであろう顔は大きく腫れ上がり、あちこちにどす黒い痣が浮かんでいる。

唇の端は切れ、赤黒い血の塊がこびりついていた。

右目の瞼は目を開けるのが困難なほど腫れ上がり、充血した左目が呆然と自分を見下ろす朱王の顔を捉える。


 「す、おぅ……さん。――やられ、た……」


 苦し気に顔を歪め、荒い息の下で呻く幸吉は外で話を聞いた女が言っていたように、死ななかったのが不思議といった有り様だ。

泥にまみれた着物のまま寝かされ、僅かに見える胸元も擦り傷と痣が赤と紫の毒々しい色彩を覗かせている。


 「やられたって、誰にやられたんだっ!? 誰が……こんなこと……!」


 息も絶え絶えの幸吉の側に座り込み、柳眉をつり上げる朱王が布団の端を思い切り掴む。

その後ろでは、小桶を携えたままの女が丸い顔を不安げに歪めて横たわる幸吉と朱王を交互に見詰めていた。

誰がやったのか、と半ば怒鳴り付けるような朱王の問い掛けに幸吉が途切れ途切れに話した出す。


 昨夜、久し振りに街へ飲みに出掛けた幸吉は、いい心持ちに酔っ払い、だいぶ夜も更けてから帰途についた。

長屋近くにある稲荷まで来た時、いきなり数人の男が目の前に立ち塞がり、そのまま力ずくで暗がりに引き摺り込まれたのだ。

後はひたすら殴る蹴るの暴力を受けた。

嵐の中へ放り込まれたが如く、ろくに抵抗出来ずにただただ痛め付けられるだけ。

とうとう失神してしまい、気付けば朝になっていた。

僅かな金が入った財布も奪われ、這いずるように長屋まで戻り部屋の前で力尽きたのだ。


 「やったのは……あいつらだ、あの……侍、三人。間違い、ねぇ……。顔は、見てねぇ、けど……声は……覚えて、る」


 「侍!? あの、お藤さんに因縁つけていた奴らか!?」


 「そう、だ……あ、の侍……だ」


 晴れた顔がぐしゃりと歪む。

今にも光を無くしてしまいそうな瞳を見た瞬間、朱王の背中に冷たい物が流れた。

これはかなり危ない状態かもしれない。


 「幸さんしっかりしろっっ! おい、あんた! 医者は? 医者は呼んだのか!?」


 思い切り顔を後ろへ向け、立ち尽くしている女へと叫ぶ。

しかし、女はふるふると丸い顔を横に振ったのだ。


 「幸吉さんが、医者はいらねぇって。小石川のお医者様なら、貧乏人から金は取らないって言ったんだけど……」


 それを聞いた瞬間、朱王はぽかんと口を開けたまま固まってしまう。

だが、それはほんの一瞬だ。

すぐに顔を真っ赤に上気させ、睨み付けるが如く幸吉に向き直った。


 「医者はいらないって、何を言っているんだ! こんな大怪我なんだぞっ!?」


 『いいんだ』と、今にも泣き出しそうな声が切れた唇から漏れる。


 「小石川には、行かないで、くれ……。あの人に、こんなみっともねぇ姿、見られたくねぇ ……。頼むよ、朱王さん……後生だから、止めて、くれ……」


 ひどく弱々しい、ついには啜り泣きまで漏らして『小石川には行かないで』と懇願する幸吉に、朱王は強く唇を噛み締める。

その時、頭の中にいつも頼りにしている、ある男の顔が浮かんだ。


 「わかった幸さん、小石川には行かない。代わりに手当てしてくれる方を呼んでくるからなっ!」


 そう叫ぶやいなや、脱ぎ捨てた下駄を突っ掛けた朱王は呆けたようにこちらを見ていた女に幸吉の看病を頼み、戸口を跳ね飛ばす。

群がる長屋の住人らを押し退け、朱王は『頼りになる男』を呼びに必死の形相で表通りを駆け抜けて行った。



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