表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第二十五章 錺物屋の悲喜劇
119/205

第一話

 「幸吉さん、邪魔するよ」


 人でごった返す神社、その裏手にひっそりと建ち並ぶ粗末な長屋に、よく通る朱王の声が響いた。

どこかの部屋の軒先に早々と吊るされた風鈴が涼やかな音を奏で、赤子を背負った少女が子守唄を歌いながら、朱王の後ろを通り過ぎる。


 風雨に曝され黒く変色した粗末な看板、『かんざしかざりもの 幸吉』と、墨字で殴り書きされた それがぶら下がる部屋の戸口に、朱王が手を掛ける。

立て付けの悪い戸口を開けば、土間に雑然と置かれた笊や木桶等の生活用具が、まず目に付く。

昼間でもあまり日の光が入らない薄暗い室内は、埃臭さと金属を打ち付ける甲高い音色が満ちていた。


 部屋の奥では灯りが灯された数本の蝋燭の下、背中を丸めて一心に金槌を振るう小柄な男がいる。

その背に向かい、朱王はもう一度『幸吉さん』と呼び掛けた。

すると、ぴたりと金属音が止み、背中を向けていた男がこちらを振り返る。

朱王の顔を確かめた途端、男は人懐っこい笑みを浮かべて右手に持ったままの金槌をひょい、と上げた。


 「朱王さんか、悪ぃな、気付かなかったよ」


 「気にするな、忙しいのは結構なことだ」


 にこりと微笑み返す朱王は部屋へと上がり込み、幸吉さん、と呼んだ男の隣へ腰を下ろす。

大きな八重歯を見せ、にこにこと笑う幸吉は朱王がいつも人形に使う錺物を頼む職人だ。

朱王に継ぎの当たった座布団を勧める間も、幸吉は程好く日焼けした顔から笑みを絶やさない。

いつもとは少し違う彼の様子に、朱王は小さく首を傾げた。


 「どうしたんだ幸さん、やけにご機嫌だな?」


 「ああ、やっぱりわかるかな?」


 細面の顔をくしゃっ、と歪め、幸吉が癖のある髪で覆われた頭をがりがりと掻く。

長めに伸ばされた、あまり手入れもしていないであろう髪は、先月会った時よりも幾分伸びており、今は無造作に後ろで束ねられていた。


 「わかるさ、矢鱈とにこにこしてるからな。 ――女か?」


 にや、と口角をつりあげる朱王の言葉に、幸吉は『えっ!?』と小さく叫び、何度か目を瞬かせる。

不思議そうに自分を見詰めてくる幸吉を前に、朱王は戸口を指差した。


 「部屋に入った時、微かだが香の薫りがしたんだ。まさか幸吉さんが香を焚く訳ないし、香袋を持っている訳もない。女が来ていたんだろ?」


 「朱王さんにゃあ敵わねぇなぁ。大当たりだよ」


 盛大に破顔し、幸吉は鼻の下を指で擦った。


 「どうりでご機嫌な訳か。どこで知り合った女なんだ?」


  ぐっ、と幸吉の方へ身を乗り出し、朱王が尋ねる。

幸吉がこれ程にやける顔など今まで見たことがない朱王は、相手がどんな女なのかに興味を持った。

普段、女に疎い朱王には珍しいことだ。


 「それがよぉ、確か五日くれぇ前だったかな? そこの辻で若い女が侍三人に絡まれてたんだよ。で、そこに俺が割って入った訳だ」


 「ほぅ、それで? まさか相手と一戦交えたのか?」


 「んな訳ねえじゃねぇか、刀ぶら下げたお侍だぜ? 啖呵切りまくってさ、隙見て女の手ぇ引いたまま逃げてきたのさ」


 してやったり、といった表情を浮かべる幸吉に、朱王もつられて笑い声を上げる。

それでな、と口走る幸吉の頬が、みるみるうちに赤く変わった。


 「取り敢えずこの長屋まで逃げて来てよ、よくよく女の顔見たら……物凄い美人だったんだよぉ!」


 興奮を押さえ切れないのか、幸吉は笑いながら作業机を手のひらでばんばん叩き出す。

置かれていた金槌が振動で跳び跳ね、朱王の足元へと転がった。

真っ赤に顔を上気させる幸吉の口はまだまだ止まらない。

足元から金槌を拾い上げようとする朱王にもお構い無しだ。


 「すらっとした小柄な女でさ、肌なんか抜けるみてぇに白いんだよ。よっぽど怖かったんだろうなぁ、円らな目に涙浮かべて、『ありがとうございました』って言われた時は、俺どうしようかと思ったぜ!」


 「はぁ……そうか」


 幸吉の余りのはしゃぎ様に圧倒され、金槌を持ったままの朱王はそう一言呟くしか出来ない。

どうやら完全に一目惚れしたようだ。


 「立てば芍薬座れば牡丹とはよく言うがよ、ありゃあ、あの人のことだぜ。ここら辺りの小便臭ぇ小娘とは全然違うんだよなぁ。なんつーか、ひんがあるんだよ」


 「品、ねぇ。で? その女がここへ来ていたのか?」


 金槌を玩ぶ朱王の言葉に、幸吉はがくがくと勢 いよく顔を縦に振り、金屑の散乱した作業机に頬杖をついた。


 「助けてからすぐだな、わざわざ礼を言いにきてくれてさ、俺が錺物職人だって知ったら、折角ですから簪を一本お願いします、って……。 それからちょくちょく顔出してくれんだよ、俺もう嬉しくて嬉しくて……」


 にへらっ、と頬を緩めて目を細める幸吉。

すっかり自分の世界に入り浸ってしまった彼に、朱王はもう苦笑いだ。

と、我に返ったように幾度か目を瞬かせ、幸吉は朱王へと顔を向ける。


 「そういやぁ朱王さん、今日は仕事で来たのかい?」


 「ああ、そうなんだ。また人形の簪を頼むよ。 二本なんだが、受けてくれるかい?」


 「当たり前ぇよ! 今まで朱王さんからの仕事、断ったことがあるか? それにな、今だったらいくらでも仕事受けられそうな気がするんだよ」


 そう声を弾ませ、幸吉は弾けんばかりの笑顔で朱王に答えた。





 「そう、幸吉さんにも、そんないい人出来たのね」


 擂り鉢に木綿豆腐を放り込んだ海華が穏やかな声色を出す。

擂り粉木で潰され、あっという間に形の無くなった大豆の化身、擂り鉢の横には細く切られ、茹でられた人参と白滝が皿に山と盛られている。

今夜のおかずは白和えのようだ。


 「いい人と言ってもな、まだ幸さんの片想いだ。気が早いだろう」


 作業机に向かう朱王が、擂り粉木を回す妹をちらりと見遣る。

擂った胡麻を一掴み擂り鉢へ放る海華の口元が小さくつり上がった。


 「そんなこと無いわよ、ああ見えても幸吉さん、結構押しは強いんだから。でも、兄様相手にのろけるなんてねぇ……。お相手はどんなひとなのかしら?」


 「さあな、何でも小石川の近くに住んでいるらしい。もしかしたら女医かもな」


 兄の口から出た、女医という言葉に豆腐を擂る手を止めた海華は、真ん丸に目を見開いた。


 「女医さん!? 凄いじゃない、幸吉さんの言う通りの美人だったら、才色兼備そのものだわね」


 「まあ、そうだがな。――惚れてしまえば痘痕あばた笑窪えくぼさ。そこまで言うほどの美人なのかね?」


 顔に掛かる髪を掻き上げ、朱王が呟く。

物凄い美人、という幸吉の言葉は、言っては悪いが甚だ疑わしい。

何しろ、今まで美人だ小町だと騒ぎ立てられている女を見ても、そこまで美しいと感じた者は皆無だったからだ。


 酷いわね、と苦笑する海華は皿に盛られた人参と白滝を全て擂り鉢へと入れる。

それほど大きくない擂り鉢は、白和えが溢れんばかりの山になっていた。


 「おい! お前作り過ぎじゃないのか? 何日白和え食わせる気なんだ?」


 大量に作られた豆腐と人参、そして白滝の和え物を前に朱王は眉間へ皺を寄せる。

小石川の美人より、今は晩飯の方が重要な問題だ。

自分へにじり寄ってくる兄へ呆れたような眼差しをむけ、海華は擂り鉢の中身を大きな丼へと移していく。


 「二人で食べきれる訳無いじゃない! お多喜さんの所へ持って行くのよ、何だか今朝から具合が悪いらしくてね、あそこは子供が多いから、おかずも沢山いるの。ちょっと行ってきます!」


 白と橙色が混ざった一品を手にし、海華はさっさと部屋を出ていく。

朱王が覗き込んだ擂り鉢には、きっちりと二人分の白和えが分けられ、仄かに甘い香りを漂わせていた。





 夏疾風が青葉を巻き上げ、人の溢れる通りを吹き抜ける。

結い上げ髪や着物の裾を押さえ小さな悲鳴を上げる女達、店先を掃き清める最中、舞い上がる土埃に顔を歪める丁稚の前を、朝顔の図柄が描かれた水色の着物が駆け抜けた。


 派手な江戸紫色の朝顔が風にはためく。

額からじっとり滲み出る汗を拭いながら、海華は道の傍らで足を止めた。

江戸はまだ初夏を迎えたばかりだが、それでも降り注ぐ太陽は容赦無く暑い舌で肌を舐め、少し走っただけでも一気に体温が上がり、心臓は早鐘を打ち鳴らす。


 髪を掻き乱す風に目を細める海華の手には、若草色に染められた薄っぺらい風呂敷包みが一つ。

朝からの仕事を一段落させて昼に長屋へ戻ってすぐ、兄から使いを頼まれたのだ。


 ぎらぎらと輝く太陽を顔をしかめて恨めしげに見遣る海華、ふっと地上へ目を戻したその時、行き交う人波の間から見覚えのある横顔がちらりと覗いた。


 「あら、幸吉さん? 隣にいるのって……」


 ぱちぱち瞬きを繰り返し、顔見知りの男と向かい合う者の姿を確かめた途端、海華の唇がみるみるうちにつり上がる。

僅かに背中を屈め、喜色満面で幸吉が話し込んでいたのは、一人の若い女だった。

すらりとした華奢な身体に薄桃色の着物を纏う女。

年は海華と同じ位だろうか、透き通るように白い肌、遠くからでもはっきりわかる可憐な赤い唇、幸吉と言葉を交わし笑みを浮かべる度になめらかな頬に笑窪ができる。


 垂れ目気味の瞳を囲む黒々した長い睫毛が顔へ小さな影を落とし、清楚な美しさを滲ませる女は兄から聞いていた小石川の美人その人なのだと、海華はすぐにわかった。


 始終目尻を下げっぱなしの幸吉と談笑する女を眺めながら、目の前通り過ぎる人に隠れて少しずつ距離を詰めていく。

ここで声を掛けるほど海華は野暮ではないのだ。

やがて、女は幸吉へ小さく会釈しその場を離れていく。

女の後ろ姿を食い入るように見詰める幸吉の肩を、駆けてきた海華が、ぽん! と勢いよく叩いた。


 「こーきちさんっ! 久し振りっ!」


 「な、何でぇ! 海華ちゃんか!?」


 突然の呼び掛けに飛び上がらんばかりの幸吉は、よろけながらも酷く慌てた様子で後ろを振り向いた。 そして、にやにやと意味深な笑みを見せる海華の顔を見るなり茹で上がったように顔が赤くなる。

勿論、立ち込める熱気せいではないだろう。


 「いやぁね、鼻の下伸びっぱなしでさ、あの人が幸吉さんの助けた人なの?」


 「朱王さんから聞いたのか? まいったなぁ」


 ぼりぼりと頭を掻き、まいったと何度も呟いているが、その顔には照れ臭そうな笑みに満ちている。


 「そうだよ、あの人なんだ。お藤さんって言ってさ。さっきここでばったり……。この頃本当についてるぜ。海華ちゃんも見たろ? 名は態を表すって言うけどな、ありゃ本物の藤より綺麗だぜ……」


 うっとりした表情でお藤が消えた道の向こうを見詰める幸吉。

お医者様も草津の湯も、今の彼は治せないだろう。

完全なる恋の病に取り憑かれた幸吉を前に、海華は盛大に吹き出した。


 「そこまで惚れてんならさ、立ち話しで終わらせるなんて勿体無いわよ。『折角ですから、そこでお茶でも』とかなんとか言わなくちゃ! あたしが間取り持ってあげようか?」


 じれったいわねぇ、と言い寄る海華に幸吉は激しく首を左右に振り回した。


 「いいんだ! いいんだ海華ちゃん! あんまり押しが強ぇのも駄目なんだとよ、それにさ、まだ知り合ったばっかりだし……」


 「そぉ? じゃあ、まだ誰にも言わないでおくわ。――祝言の時は教えてよね? 御祝儀弾むから」


 にこっ、と朗らかな笑みを見せる海華の前で、耳朶までを真っ赤に染め上げた幸吉がうつ向きながら、ぼさついた髪を掻き回す。

『おぅ』と口からこぼれた微かな返事は、吹き抜ける風に掻き消され海華の耳には届かなかった。


 道端でにやけっぱなしの幸吉に別れを告げ、海華は目的の場所へと急ぐ。

着物の裾をはためかせ、向かった先は八丁堀だった。

与力、同心の屋敷が並ぶ道を駆け、辿り着いたのは桐野の屋敷だ。


 八丁堀の奥まった場所に建つ古びた屋敷の周りは人通りもなく閑散としている。

年季の入った、重厚な佇まいの門の脇では白い鷺草が繊細な花弁を夏風に揺らしていた。

松の大木が青空へ腕を伸ばす玄関前に広がる広い庭では、今を盛りとばかりに数々の花々が咲き誇り、白や黄色の蝶々が乱れ飛ぶ。

苔むした庭石の上では、一匹の蟷螂が突然の侵入者へ、さっ、とご自慢の鎌を振り上げて見せた。


 「お邪魔しまーす! 志狼さーん! 志狼さんいるー?」


 「いるぞ! 奥に廻ってくれ!」


 玄関を入り、中へ向かって大声で呼び掛ける海華の耳に、遥か遠くから志狼の返事が響いた。

小さく首を傾げて屋敷の裏へと向かってみると、燦々と日の当たる縁側で何やら作業をする作務衣の志狼の姿があった。

やや癖のある長めの髪を後ろでひっつめ、頭に白い手拭いを巻いた志狼は手に大きな刷毛を持ったまま、海華に向かって小さく片手を上げた。


 風雨に曝され黒ずむ縁側には骨だけになった障子が数枚、ぽたぽたと水を滴らせたまま立て掛けてあった。

どうやら障子の張り替えをしていたようだ。


 「お邪魔します。この暑いのに精が出るわねぇ」


 額や首筋にじわりと滲む汗を拭い、海華はにこりと白い歯を見せる。

おぅ、と小さく返した志狼は、手にしていた刷毛を縁側に置かれた糊を入れた小桶に放り込み、浅黒い顔を首から下げていた手拭いで拭った。


 「暑い方が乾きは早いからな。お前こそ、暑い中をどうしたんだ?」


 「うん、兄様にお使い頼まれたの。はい、これ。魚の干物よ。貰い物だし少しだけど、桐野様と一緒にどうぞ」


 そう言いながら、持参した薄い風呂敷包みを差し出す。

光沢を放つ小桶の糊か、日の光を受けて視界の端で煌めいた。


 「いつも悪いな。ありがとう」


 「いいのよ、うちも二人だけなんだから、沢山頂いても食べきれないの。もらってくれるの有難いのよ」


 痛ませてしまうよりずっといい。

そう笑いを交えて話す海華に、志狼も目尻を下げる。


 「それじゃあ、あたし帰るわ。邪魔してごめんなさいね」


 くるりと踵を返した海華の背中に、些か慌てたように『ちょっと待て!』と志狼の叫びが飛ぶ。

何だろう? と不思議そうな様子で、海華は再び志狼へ振り向いた。


 「旦那様から、お前に逢ったら伝えておけと言われていたんだ。――まぁ、座れよ」


 縁側を指差す志狼に海華は大人しく従って小桶の隣に腰を下ろし、その隣に座った志狼が頭に巻いた手拭いを外す。

微かな汗の匂いが鼻先を掠めた。


 「お前、今街中で暴れ回ってる侍連中知ってるか?」


 「知ってるわ、確か……旗本の一人息子と、その取り巻きが二人でしょ?」


 海華の眉間に小さな皺が寄る。

志狼の声も心持ち小さく慎重な色を滲ませ始めた。


 「料理にわざと虫入れて詫料取ったり、出店の主人に因縁付けて店滅茶苦茶に壊したり……とにかく録でもない奴らよ」


 「そうだ、三矢みつやとか言う旗本の倅だ。お前も充分気を付けろと、旦那様が仰っていた。何し ろ袖が触れただけでも絡んでくるらしい。たちが悪いぜ」


 「そうね、相手が旗本じゃあ、都筑様達も迂闊うかつに手が出せないものね」


 いかにも困った、といった様子で頬に手を当てる海華。

それを見ながら、志狼は小さく唇を上げた。


 「まぁ、お前の後ろにはお奉行様が付いているからな。何かあっても大丈夫か?」


 お奉行様、という名が出た途端、海華は、うぅと唸ってうつ向いてしまう。

薄絹の羽を持つ小さな蝶々が、海華の肩先を掠めて飛び去っていった。


 「いつもいつも、修一郎様に頼る訳にはいかないわよ」


 自分の周りを舞い飛ぶ蝶々を目で追いながら海華がぽつりと呟いた。

僅かに哀愁を含ませた声色に、志狼は『不味いことを言った』という風な面持ちで俯いてしまう。


 「別に、な、べったり甘えろと言いたい訳じゃない。ただ……本当に困った時には、力借りるのもいいんじゃねぇのか?」


 「そりゃあそうだけどさ。――何だか悪いなぁ、って思っちゃうの。修一郎様は、いつもあたし達のこと気に掛けて下さっているのに、 その上またご迷惑掛けるだなんて」


 この気持ちをどう説明すればいいのかわからない。

確かに修一郎と自分達は血が繋がっている。

しかし、本来ならば対等に話しが出来る立場では無いのも、また確かだった。


 「修一郎様は、北町奉行よ。あたしは、ただの傀儡廻し。本当なら顔を合わせてお話しするのも畏れ多いわ。それでも半分血が繋がってる、ってだけで、とっても良くして下さるの。それだけで充分なのよ」


 ぼんやり庭を眺める海華の口から、深い深い溜め息が漏れる。

修一郎には迷惑を掛けたくはない。

しかし、自分達に何かあれば、必ず彼は手を差し伸べてくれるということは、痛い程にわかっていた。


 「――血が繋がっているのなら、『家族』に違 いねぇだろう?」


 ぼそりと低い声で言い放つ志狼が、おもむろに立ち上がった。


 「俺は、親父もお袋も死んだ。兄弟だっていない。言ってしまえば天涯孤独だ。でもな、旦那様は俺を家族だと仰って下さる。俺も同じ気持ちだ」


 がたがたと水の滴る骨だけになった障子を縁側の端へ運ぶ志狼の口は、淡々と言葉を紡ぎ出す。


 「赤の他人でも、長く暮らしゃあ家族になれる。反対によ、一緒に暮らしていなくても、血が繋がっているお前らとお奉行様は誰にも文句がつけられねぇ、家族だろう?」


 「――そんな、もんかな?」


 困ったような笑みを見せる海華へ、志狼は力強く頷いて見せた。


 「俺は、そう思ってる。大分前になるがな、お前が枯れ井戸に放り捨てられたことがあっただろう。あの時お奉行様、自分が井戸に降りる、 海華を助ける、って今にも飛び込みそうな勢いだったんだぜ」


 庭を駆ける暖かな風が志狼の言葉を空へと拐う。

咲き誇る花々から漂う甘く可憐な香りに包まれ、あの時頭上から懸命に自分の名を叫び続ける修一郎の悲痛な声が、はっきりと頭の中に甦った。


 「あれを見た時にな、俺確信したんだ。お奉行様にとってお前らは大切な家族なんだってな。身分の差だの、妾腹だの関係ねぇ。家族なんだから、頼り合ったっていいじゃねぇか。白昼堂々道の真ん中で物騒な紐振り回すより、ずっとましだろ?」


 にや、と悪戯っぽく唇をつり上げる志狼。

これには海華も笑うしかない。


 「あたしだって、そんな馬鹿じゃないわよ。何かあれば走って逃げるわ。韋駄天のお華さんなめんじゃないわよ」


 跳ねるように縁側から腰を上げ、お邪魔しました! と叫んで踵を返した海華。

その背へ、またしても志狼の『待て!』という叫びが飛んでいた。


 『渡したい物がある、少し待ってろ』そう言い残し、志狼は屋敷の裏手へ小走りに駆けて行く。

どうやら干物の御返しを探しに行ったようだ。


 「志狼さぁん! いいのよ、何も気にしないで!」


 彼が消えた方向へ大声で叫ぶ海華は、後を追うように裏手へ走った。

そこで目にしたのは、日の光を受けてぎらりと鈍い輝きを放つ草刈鎌を手にし、庭の隅へ向かう志狼の後ろ姿だ。


 「ねぇ、何をしてるの?」


 「いいから、ちょっと待っててくれ。すぐに終わる」


 きょとんとした面持ちで鎌を携えた志狼を見詰める海華、彼は庭の一番端、鬱蒼と生い茂る青草を掻き分け煤けた土壁の方へと進んで行く。

壁によって日陰となっているその場所は、手入れの行き届いた広い庭の中で一番暗くじめじめと湿った所だ。


 志狼はおもむろにそこへ屈み込み、鈍色に光る鎌を振るい、わさわさ茂る草を刈り始める。

やがて彼は、鎌と一緒に持っていた細い麻縄で刈った草を束ねだした。


 「こんな物しかなくて悪いんだが、良かったら持って行ってくれ」


 その言葉と同時に、庭から戻った志狼が海華へ差し出したのは一抱え程もある草の束だ。

薩摩芋さつまいもに良く似た濃緑色の葉っぱ、可憐に咲いた真っ白く小さな花、その真ん中からは錦糸卵のような鮮やか黄色の花芯がにょきりと伸びている。


 何が何だかわからないまま志狼からそれを受け取った瞬間、海華の眉間に深い皺が寄った。


 「なによこれ、酷い匂い……」


 湿った土の匂いを掻き消すように、胸が悪くなる悪臭が鼻をつく。

盛大に顔をしかめる海華に、志狼は小さく笑いをこぼした。


 「どくだみだ。葉を煎じて飲んでみろ。毒出しになるぞ」


 「これが毒出しぃ? 逆にお腹悪くなりそうね」


 「匂いに騙されるなよ、これでも立派な薬草だ。それに、鼻が詰まった時はこの葉を塩で揉んで、水洗いしてから鼻に詰めて寝てみろ。次の朝にはすっきりしてるから」


 得意気にどくだみの効能について語る志狼。

それを前に、海華の目がみるみるうちに大きく見開かれた。


 「鼻に、詰めるって……志狼さんやってるの?」


 「ああ、ちょっと鼻の調子が悪い時にな。変な薬より効くぜ?」


 その言葉が終わらないうち、花々が満開に咲き乱れる庭中に大音量で、どっと海華の笑い声が響き渡る。

突然のことに、志狼は唖然とした表情で笑い転げる海華を見詰めた。


 「なっ……! 何がそんなにおかしいんだっ!?」


 「だってぇ! 志狼さんが鼻に葉っぱ詰めて……寝てるの想像したら……! おかしくて!」


 いつも取り澄ました顔の志狼には似つかわしくない姿、あまりに間の抜けた寝姿を想像してしまい、どうにも笑いが止まらない。

目尻に薄っすら涙まで浮かべ、腹を抱えてげらげら笑う海華を前に志狼は顔が茹でられたように紅潮していく。


 「うっ、うるせぇ! 別にいいじゃねぇかっ! 人の寝姿勝手に想像するんじゃねぇ!」


 「あー、はいはいごめんなさいねぇ、あたしも鼻に詰めて寝てみるわ! それじゃ、お邪魔しましたぁ!」


 未だに笑いを抑えきれず、ふらふらと身体を揺らせながら帰って行く海華を見送りながら、志狼は顔を赤く染めたまま悔しそうにその背を睨み付けていた。


 「あの人も以外と可愛い所あるのねぇ」


 にやにやと顔を緩め、どくだみの束を抱えた海華が帰途につく。

太陽は既に傾きかけ、それに合わせたように、風は益々勢いを増して大勢の人間が行き交う広い通りを、土埃を巻き上げ吹き抜けていく。


 激しい風に揉まれ、よたつきながら頭の上を飛ぶ雀を見上げた海華は、ばさばさに乱れる黒髪を手のひらで押さえ、家路を急いだ。

とある一軒の茶屋の前を通り過ぎた時、何の前触れもなくその騒ぎは起きてしまった。


 唸りを上げる吹き荒ぶ風の音にも負けない、きゃーっ! という耳をつんざく悲鳴が茶屋の中から通りへ響き渡り、後を追うように激しい男の怒号と陶器が砕け散る派手な破壊音が海華の鼓膜を震わせたのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ