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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第二十四章 殺意が芽吹く闇の底
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第四話

 「そんなはずありませんよ! だって……あの二人の大喧嘩はほとんど毎日でした! 長屋の人達だってみんな怒鳴り声を聞いてます!」


 思わず大声を上げて桐野へ詰め寄る海華を朱王が慌てて押し止める。

桐野の言葉は朱王だってにわかには信じられないが、忠五郎が出鱈目な報告をしてきたとは万に一つも考えられない。


 「海華、海華落ち着け、誰もお前が嘘をついているとは言っておらん」


 宥めるような声色を出す修一郎だが、海華は納得いかず、すがる目付きで兄を見上げ、朱王は大丈夫だ、と言いたげに妹の肩を軽く叩く。

その横で桐野は小さな咳払いを一つ、桐野は淡々と話しを続けた。


 「勿論海華殿の言い分を疑ってはおらん。ただ、村人らが嘘偽りを申す理由も見付からんのだ」


 確かに桐野の言うことも一理ある。

ぐっ、と唇を噛みしめる海華は、無言で顔を伏せてしまった。


 「忠五郎の話しでは、お静とおくまの家は隣同士だったらしい。おくまは昔から身体が丈夫な方ではなくてな、毎日のようにお静が家に出向いて家事や畑仕事を手伝っていたようだ」


 「家族ぐるみの付き合いだったと?」


  修一郎の問いに、桐野は小さく首を縦に振った。


 「そうだ。お静は早い時分に両親を亡くして天涯孤独の身だった。周りの者には『おくまさんは本当の母と同じだ』と言っていたと。作治との結婚も、おくまが半ば無理矢理決めたらしい。お静に頭を下げてな」


 「そんなぁ……あんなに評判悪い嫁姑なのに……」


 しょんぼりとした様子で呟く海華に、桐野はにやりと口元を歪めた。


 「それがだな海華殿、評判が悪いのは作治の方だった。こっちへ越してきた原因を作ったのも、作治にあったぞ」


 「作治さんに……ということは、やっぱり女関係ですか?」


 先日、お多喜らから作治の女癖が悪いことを聞いたばかりだった海華は、こくり、と首を傾げて見せた。


 「その通りだ。あの男、女と見れば片っ端から口説きにかかっていたと。手を付けられて泣きを見た娘も片手では足りないらしい。挙げ句の果てには、近所の若後家と手に手を取って逃避行だ。しかもお静と一緒になってひと月もしないうちにだ」


 「なんと不実な男だ! 信じられんなぁ」


 太い眉を思い切りしかめた修一郎は腹立たしげに吐き捨てる。

朱王と海華は、ただただ呆れるしかなかった。


 「新妻のお静とおくまが方々探してやっとのこと連れ戻したらしいが、そんなことがあってはもう村に居られまい。家も田畑も売り払って街まで越して……まぁ、逃げてきたと同じだ」


 「そうなんですか……。でも、今仲が悪いのは確かなんです。ずっと親子と同じに暮らしてきたのに、いきなり険悪になるなんて……」


 長屋に越してきて、まだひと月ほどしかたっていない。

それに、本当におくまのことが気に食わなければ、お静は作治と離縁し家を出ていけばいい話しだ。

別れたくないほどに立派な亭主だとは到底思えない。

ひどく不思議がる海華の姿を前にし、修一郎は静かに口を開いた。


 「家族というものはな、他人には伺い知れない闇を抱えている時もあるのだ。例えどんなに仲のよさそうに見える家でも、な」


 どこか哀しい色を含んだ修一郎の視線が朱王に向けられる。

遥か昔、自分達三人も家に渦巻く冷たい闇に翻弄されたのだ。

海華には気付かれぬほどの微笑を浮かべる朱王の睫毛が、ふっ、と伏せられ小さな影を落としていた。


 「それで、お主らに聞いておきたいことがあるのだ」


 ゆっくりと腕を組み、桐野は兄妹へ顔を向ける。

光の加減だろうか、桐野の姿は半分黒く塗り潰され闇と同化していた。


 「作治が殺められた日、日が暮れてからおくまとお静はどちらも部屋に居たかわかるか?」


 その問い掛けに、朱王はじっと己の膝頭を見詰めて考えこみ、海華は、うぅ、と小さく唸って首を傾げる。

作治が死んでから幾日も過ぎた。

あの日の記憶を懸命に辿る二人、ふと、朱王が何か思い出したように視線を上げる。


 「海華、確か作治さんが死んだと聞いた日は、俺達が昼近くに起きた日だったよな?」


 「ええ、そうよ。――あ! 前の夜遅く、おくまさんとお静さんが大喧嘩して……。兄様が怒鳴り込もうって、飛び出しそうになったわよね?」


 「夜遅くに喧嘩? なら、二人は長屋におったということだな?」


 ぐっ、と身を乗り出しながら修一郎が尋ねる。

 

 「そう、だと思います。しかし……お静さんの声は聞こえませんでしたので、確かなことは……」


 「あ、そうよ! 怒鳴ってたのはおくまさんだけでした。お静さんに『こういう時だけ黙りかい!』って怒ってましたから」


 顔を跳ね上げた海華が、ぽん! と一つ手を打った。

あの日、二人は一度もおくまとお静の姿を目にしてはいないのだ。


 「そう言えば……誰かがお静さんの部屋の前で怒鳴ってたな? 部屋の戸叩いて……あれは誰だった?」


 「確か、佐吉さんよ、お君さんの旦那さん。佐吉さんなら何か見てるんじゃないかしら?」


 些か興奮気味の海華とは反対に、桐野は僅かに眉を寄せる。

そして、桐野の口から出た言葉に今度は兄妹が怪訝な表情を浮かべる番だった。


 「おくまとお静は、普段からよく外出しているのか?」


 「おくまさんは、卒中で左手足が動きません。 だから部屋からは出られないんです。お静さんは……仕立て物の内職をしているので、品を納めに出掛けていますけど……長屋の人達を避けてるみたいで、あんまり姿は見掛けません」


 実際、海華はお静とは言葉を交わしたことがないし、おくまとは昨日少しだけ会話したくらい、朱王はと言えば弔問に訪れた時、初めて顔を会わせただけなのだ。


 「桐野よ、お前その嫁姑が怪しいと思っておるのか?」


 「うむ……どうも納得出来んのだ。都筑の言っていた通り、これはただの事故ではないのかもしれん……。明日、その佐吉とやらに話しを聞きに行かねばなるまいな」


 修一郎の問いに、難しい表情を崩さないままの桐野がぽつりと呟く。

闇が深くなると比例し、四人の影も濃さを増した。 海華の前には一度も口を付けていない湯飲み茶碗が一つ。 ゆらりと揺らめく茶の表面は、じりじり音を立てて燃える行灯の灯りを受け、きらきらと冷たい光を放っていた。





 翌朝、まだ日の高いうちに桐野は都筑、高橋を従えて長屋へやってきた。

おくま達が騒いだ夜の話しを聞きたい、と告げられた佐吉は、大柄な体躯を小さく縮こませ矢鱈と恐縮しながら何度も頭を下げている。


 いつも勝ち気なお君も、まだ幼い子供らを部屋の中へと追い立てひどく不安そうな面持ちで表に出て行く亭主を見送っていた。

朱王は自室でじっと聞き耳を立て、海華は井戸端で野菜を洗うふりをしながら桐野らの話しに耳をそばだてている。


 「お前が、あの部屋に怒鳴り込みに行った、というのは相違無いな?」


 「怒鳴り込みっていっても……旦那、あっしゃあ、ただ戸を叩いただけでして……。少し静かにしてもらえりゃあ良かったんでさぁ。何しろガキが泣き出すもんで」


 おろおろした表情で話す佐吉を桐野は安心させるように小さな笑みをこぼした。


 「案じるな、何もお前を咎めにきた訳ではない。――戸を叩いただけ、と申したな? 部屋までは入っていないのか?」


 「勿論です! 戸すら開けておりやせん!」


 分厚い手のひらを顔の前で振りたくり、佐吉は口から唾を飛ばして否定の言葉を叫ぶ。

それを横目で見遣りながら、海華は前掛けで冷えきった手を拭いた。


 「ならば佐吉よ、お前はおくまもお静の姿も見てはいないのだな?」


 にゅっ、と桐野の横から顔を突き出す都筑に、佐吉は何度も首を立てにふる。

汚れた継ぎ接ぎの着物から、強い汗の匂いが漂ってきた。


 「どっちも見てはおりやせん。でもねぇ、あの婆ぁ……いや、おくまさんが、お静! って嫁の名ぁ喚き散らしてやしたから、多分どっちもいたんじゃねぇんですかい?」


 「そのおくまとやら、頭の方はしっかりしておるのか?」


 おくまの部屋を指差しながらの、高橋の問い掛けに佐吉はこっくりと頷いた。


 「ぼけてるって話しゃあ聞きませんがね、卒中で身体は満足に動かないらしいんですが……あれだけ嫁とぎゃあぎゃあ騒いでるんだ、口も達者でさ」


 「そうか……いや、急に呼び出してすまなかったな、もう行ってよいぞ」


 穏やかに言う桐野に佐吉はぺこぺこ頭を下げ、そそくさと部屋に入っていく。

辺りに人がいないのを見計らい、海華は三人へ駆け寄った。


 「やっぱり、お静さんはあの日部屋にいなかったみたいですね?」


 「そのようだな、夜中の大喧嘩は、おくまの芝居だったか……」


 深々と腕を組む都筑が低く唸り、隣の高橋は怪訝な面持ちで始終首を傾げっぱなしだ。


 「なぜそのような芝居をする必要がある? あの二人は犬猿の仲なのだろう、もし、お静が亭主を殺めたとして、それを庇うような真似をするなど考えられない」


 「でも高橋様、越してくる前は仲の良い嫁姑だったって……」


 「ああ、そうだったな。――もう何が何やらさっぱりわからん!」


 額を寄せ合わせて話し込む三人を背に、桐野はじっと奥の部屋、今もおくまが臥せっているであろう部屋を見詰める。


 「全て芝居だったのだろう」


 薄めの唇が、ぽつりと小さな言葉を紡ぐ。

三人の顔が、一斉にに桐野へと向けられた。

しっとりとした艶を放つ黒い羽織を纏う細めの背中が、ひどく寂しげな雰囲気を醸し出しているように感じ、海華は不思議そうに目を瞬かせていた。





 佐吉に話しを聞き終えた三人は、おくまら本人にも真偽を質したいと奥の部屋を訪ねて行く。

勿論同行できない海華は、一人ぽつんと井戸端で三人が出てくるのを待っていた。

可愛らしい雀の群れが賑やかにさえずりながら、地べたで餌を啄む。

その様をぼんやりと眺める海華の耳に、からからと戸口の開く微かな音が聞こえたのは、三人が奥の部屋に消えてから、暫くたった頃だった。


 『何かわかりましたか?』と、声を押さえて尋ねる海華に、桐野はただ曖昧に頷くだけ。

高橋に至っては、苦虫を噛み潰したような表情で口さえも聞いてくれない。

あえてしつこく聞くのは控えた海華に、都筑は帰り際にやりと意味深な笑みを見せる。


 「海華、あの部屋にいるのは大層な役者だ」


 そう耳許で囁かれた都筑の言葉に、海華はお静が作治を殺めたのだと確信した。

しかし、今すぐ番屋まで引っ張って行く訳にもいかず、三人は一先ず奉行所へと帰り、一人残された海華も、表情を強ばらせたまま自室へと戻っていった。


 「――殺したいほど憎い亭主だったのね……」


 灯りが消え、漆黒に包まれた室内に抑揚の無 い海華の声が響く。

掛け布団を鼻の下まで引き上げながら、同じく隣で布団を被る兄の方へ、ちらりと視線を投げ掛けた。

しかし兄からの返事は聞こえず、代わりに寝返りをうつ微かな気配がした。


 「兄様? ――寝ちゃったの?」


 「いや、起きているよ。なぁ、海華。今までの大喧嘩も、全部おくまさんとお静さんの芝居だったのかな? 自分らが険悪な仲だって、俺達に思わせるためのさ」


 「うん……そういうことになるわね」


 「だとしたらさ、――辛かったろうな、あの二人」


 ごろりと妹に背を向け、朱王が小さく呟いた。

同じ屋根の下に住む大切な家族。

例え芝居だとしても、互いに酷い言葉で罵り合うなんて、きっと心が張り裂けんばかりに辛かったろう、 と朱王は思っていた。


 仮に、明日から海華と仲の悪い演技をしろ、互いに罵倒し合えと言われたら、とてもじゃないが一日もたないだろう。

勿論人を殺めるなどは許されない。

だが、あの満足に日も当たらぬ陰気な部屋で、おくまとお静が作治に対する憎しみの芽を育てていたのかと思うと、ひどくやりきれない気持ちになるのだ。


 「確かにねぇ……可哀想だわ、あの二人……」


 溜め息と共に海華が呟く。

それを合図としたかのように月も顔を隠した真っ暗な外から、激しく戸口を叩き付ける、どんどんどんっ!というけたたましい音と共に、 男が何やら叫び散らす声が二人の鼓膜を震わせたのだ。


 「おーい! 開けろーい! 開けてくれよぅ!」


 ばんばんと戸を叩く音に重なるダミ声の主は、どうやらひどく酒に酔っているようだ。

飲みに繰り出したまま帰りが遅くなり、女房に閉め出されたのだろう。

夜中に迷惑な話しだ、と半ば呆れながら目を閉じた兄妹、その刹那、夜の空気を切り裂いて甲高い女の悲鳴が鼓膜を破らんばかりの勢いで長屋中に轟き、反射的に二人は掛け布団を跳ね飛ばしながら飛び起きた。


 「なに!? 今の!」


 「わからん、だが、奥の方から聞こえたぞ」


 寝間着姿の二人が慌てて土間へ下りた時、再び狂ったような金切り声が耳に飛び込む。


「来ないでーっ!!行って……早く出ていって ――っ!」


 「なんだとぅ!? 亭主が帰ってきたんじゃねぇか! 出ていけとは何事でぃっ!? とっとと開けやがれーっ!」


 戸を殴り付ける響きが一層強くなり、それに比例して悲痛な女の叫びも大きさを増す。

下駄を突っ掛けた二人が表へ出てみれば、長屋の一番奥ので一人の男が口汚く喚き散らしながら、戸口を壊さんばかりに握り拳で殴り付けているのが暗闇の中で微かに窺えた。


 あまりの騒ぎに、周りの部屋からぞくぞくと寝惚け眼の住人達が姿を現す。

がつん! と男の足が戸を蹴り上げた、その瞬間 だった。

泣き叫ぶような嗄れ声が、薄い戸口を貫いて辺りに木霊したのだ。


 「許して! 許しておくれぇぇっ! 作治っ! 後生だから成仏しておくれっ!!」


 それを聞いた瞬間長屋の空気が凍り付き、一切の物音がぴたりと止む。

嗄れ声の後を追うように、甲高い狂乱の叫びが迸る。


 「ごめんよぅ! お前さんごめんよぅ! ああするしかなかったんだ! あぁ、ごめんよぉぉっ!」


 その後は、言葉にならない悲鳴と叫びが延々と続く。

肌寒い風がそよぐ暗闇の中、呆然とした面持ちで立ち尽くす兄妹の背後から、ばたばたと慌ただしい足音を立て、寝間着姿のお多喜が、戸口を殴り付けていた男へと駆け寄った。


 「あらいやだっ! やっぱりお前さんかい!?」


 「おぅ、お多喜ぃ……おめぇ、どこから出てきて……」


 「何を言ってんだよこの人は! そこはお静さんの部屋じゃないか! お静さん、ごめんなさいねぇ。さっ! 早く帰るよっ!」


 『お騒がせしてすみませんねぇ』と、顔を出す住人らにぺこぺこ頭を下げて謝り倒しながら、お多喜は酔っ払った亭主を半ば引き摺り、部屋へそそくさと引っ込んでしまう。

お静の部屋からは、未だに引き攣り気味の泣き声が漏れているが、誰一人として中の二人を気遣う者はいない。

眠気に負けたこともあるだろうが、厄介事に巻き込まれたくないというのが皆の本心なのだろう。

お多喜が部屋に消えるなり、他の住人も次々と部屋に戻っていく。


 遂に、表に出ているのは朱王と海華の二人だけになってしまった。


 「――兄様……今の、聞いた?」


 「ああ、聞いた……」


 ごくりと生唾を飲み、海華が消え入りそうな声で呟く。

叩き付けられていた戸を凝視する朱王は、同じく微かな声色で答える。

陰鬱な啜り泣きが響く闇の中、全身に冷たい汗をかきながら、二人は暫しの間固まったようにその場へ立ち尽くしていた。




 翌日、朝一番でお静は駆け付けた忠五郎、都筑らによって番屋へと引き立てられた。

昨夜響いたお静らの絶叫を不審に思った長屋の住人の誰かが、番屋に事の次第を話しに赴いたのだろう。

目の下に黒々と隈を作り、憔悴しきった様子で都筑と高橋に抱えられ、お静が部屋を後にする際、おくまは不自由な体でその足にしがみつき、狂ったように『この子は何も悪くない!』 と泣き叫び、畳の上をのたうち回った。


 油っ気の無い、ぼさぼさの白髪を振り乱して泣き喚くその姿は、まさに地獄の底でのたうつ餓鬼そのものであり、それを目の当たりにした朱王と海華は背中に冷たい物が流れるのを感じ、海華に至っては兄の袖口を力一杯握り締め、微かな震えを起こすほどだった。

そのおくまも、作治殺しに加担していたわけだが、病身の年寄りを引き立てて行く訳にもいかず、結局は部屋へ一人取り残されることとなったのだ。


 「お静が、全て喋ったぞ」


 一通りの調べを終え、いつもの静けさを取り戻した番屋に穏やかな桐野の声が揺れる。

お静の身を案じ、番屋を訪れていた朱王と海華は、ただ黙って頷くしかできない。

障子戸からは、暖かい春の陽光が白く射し込み、心地好く部屋にいる者の身を包む。

しかし、畳に座した桐野も忠五郎も留吉もどんよりと浮かない顔のまま、兄妹に至っては上がり框に腰掛けたまま、顔を上げようともしなかった。


 都筑と高橋は、お静を連れて奉行所へ行ってしまった後だ。

じっと自らの爪先を見詰めていた朱王が、小さく唇を開く。

そこからこぼれた言葉は、ひどく暗い陰気なものだった。


 「お静さんは……なぜ作治さんを殺めたのですか?」


 「言わんでもわかるとは思うが……全ての元凶は作治だ。奴め、江戸に出てきてからも女遊びに耽っていたと。稼ぎは全てそちらへ廻る。お静の内職で、やっと食べていた有り様だったらしい。その上、奴は女郎に熱を上げてな、それと一緒になるから、お静に出て行けと言ったと」


 不機嫌そうな面持ちで話す桐野の眉間には、深い皺が寄せられている。

『奴め』と吐き捨てるたび、その皺はより深くなった。


 「今まで散々作治の女遊びで苦労して、裸一貫で放り出されるなど、お静には耐えられなかったのだろう。何より体の弱い姑を置いては行けないと……」


 考え直してくれるよう、おくまと共に必死で説得し、懇願した。

しかし、作治の考えは最後まで変わらなかったのだ。


 膝に置かれていた海華の手が、固く握り締められる。

葬式の夜、作治の冥福を祈って手を合わせた自分が、ひどく馬鹿らしく思えた。


 「とんでもねぇ馬鹿野郎だ、その作治って奴ぁよ」


 忌々しそうに呟く忠五郎は、力任せにがりがりと頭を掻きむしる。

留吉は、まるでこの場にいるのが居たたまれないと言うように、そそくさと奥へ引っ込んでしまった。

再び訪れた重苦しい静寂。

それを破ったのは、桐野の小さな溜め息だ。

そして、その薄い唇から紡がれた台詞を耳にした瞬間海華は、はっ、と息を飲み、伏せていた顔を思い切り跳ね上げて桐野の顔を凝視していた。


 「作治殺しを持ち掛けたのは、どうやらおくまの方らしい。自分は身体が動かぬゆえ、お静に殺害を頼んだようだ」


 哀愁の色を滲ませた桐野の瞳が小さく揺れる。

驚きに息を飲む海華とは対称的に、朱王は表情一つ変えずに桐野を見詰めた。


 「どうして……? 実の息子じゃないですか、何で殺してなんて頼むんです? お静さんが、そう言ったんですか?」


 「いや、お静は全て自分の一存だと申している。だがな、それでは話しの辻褄が合わぬのだ。なぜおくまがお静と言い争いをする芝居をしたのか、二人の間で段取りが付いていなければ、そんなことをする理由が無い」


 「それになぁ海華ちゃん、あの婆さん、嫁が引き出されて行く時泣いて叫んだんだ。全て私がやりました。私がお静に頼みました、ってな」


 腕組みしながら言った忠五郎が、深々と溜め息をつく。

下手人がお縄になったというのに、皆の顔は暗く沈んだままだった。

それは、作治の死を殺しではないかと疑った都筑も同じ。

お静を引き連れて長屋を去る都筑の肩は、がっくり落ち、ひどく辛そうな雰囲気を醸し出していたのだ。


 「でも、お静さんが持ち掛けた話しかも……」


 「お前な、実の親と慕ってる姑に貴女の息子を殺しましょう、なんて言える嫁がいるか」


 横から飛んだ兄の声に、海華は『そうか……』と弱々しく呟いた。

お静が作治を殺めに行っていた間、おくまは自由の聞く右手で近場にある物を手当たり次第に壁に叩き付け、お静と激しい言い争いをしているように、必死で演技していたのだろう。


 「頭を下げて、頼み込んで来てもらった大切な嫁だ。娘同然の嫁に、散々気苦労を掛けさせる息子が、許せなかったんだろう」


 「ちゃらんぽらんな倅より、良くできた嫁のが大事だったんですかねぇ……」


 声を重ね合わせた桐野と忠五郎が、ちらりと視線を交わらせる。

そんな二人を眺める海華には、どうしても聞いておきたいことがあった。


 「あの、桐野様。お静さんは……お静さんはこれからどうなるのですか?」


 おずおずと尋ねる海華へ、桐野は難しい表情を浮かべて顎の下を擦る。


 「汲むべき事情は多々あるが、人を一人殺めたのだ。無罪放免という訳にはいかんだろう。 ――お奉行が、どうお裁きを下すかは、儂にもわからん」


 全ては修一郎の裁量にかかっている。

もし、死罪や流刑などになれば、一人残されるおくまが不憫でならなかった。

と、今まで眉をしかめていた桐野の表情が、ほんの少しだけ和らいだ。


 「まぁ……お白州では鬼と呼ばれるお奉行だが、心根まで鬼では無い。お静の事情も、しっかり考慮して下さるだろう」


 『お主らが一番知っているはずだ』と、兄妹に向けられる桐野の視線が物語る。

海華はにっこりと微笑みながら、軽く頷き、朱王も顔を綻ばせる。

突如、ああ、そうだ。と、 一言叫んだ海華は、笑みを浮かべたままで小さく手を打った。


 「桐野様、お静さんに伝えて頂きたいことがあるのですが、宜しいですか?」


 「うむ、引き受けよう」


 「ありがとうございます! あの、おくまさんのことなんですが……大家さんが、今のまま長屋に住んでもいいと。おくまさんも、長屋の皆が面倒見ると言っています。だから、心配しないで下さい、と。お伝え下さい」


 海華の言葉に朱王は目を瞬かせる。

もう、そこまで話がついていたなど全く知らなかったのだ。

忠五郎も驚いた様子で海華へ向かい身を乗り出した。


 「へぇ、随分太っ腹な話しじゃねぇか。でもよ、家賃はどうするんでぇ?」


 「それが、『元々人が入らなくて困ってた部屋だ、一部屋分の家賃が入らなくったって、痛くも痒くもない』って」


 にこにこ顔で言う海華につられ、桐野も白い歯を見せる。


 「そうか、それは何よりだ。必ずお静に伝えるぞ。海華殿、お静が戻るまで、おくまを頼む」


 承知致しました! と、叫びながら、ぴょこんと海華は頭を下げる。

暗く澱んでいた番屋の空気が、やっと和らぎ始めた。

お静がおくまの元へ帰るのは、あと何回桜が咲いた頃だろう。

柔らかな陽気が身を包む、ある春の一日は、じれったいほど穏やかに過ぎていった。







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