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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第二十四章 殺意が芽吹く闇の底
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第一話

 太陽が東の空から顔を出し、新しい一日が始まる。

春もたけなわ、普段は湿った空気が漂う長屋にも燦々と金色の日射しが降り注ぎ、心地好い春風が吹き込んでいた。

朱王の部屋の戸口が軋みながら開かれ、朝餉に使う大根や葉物野菜を入れた笊を手にした海華が姿を現す。

清廉な朝の空気を伸びをしながら胸一杯に吸い込んだ海華は、早速井戸へと足を向けた。


 あちこちで飯を炊く甘い香りや、味噌汁の匂いが漂い朝餉の支度に精を出す女らで井戸端は大混雑だ。 野菜や米を入れた笊を持った女らは、せっせとそれらを洗い、皮を剥きながら、同じくらい忙しなく口を動かして世間話に興じていた。

朝の挨拶もそこそこに、海華もお喋りの輪に加わり、水が温くなっただの、今年の野菜は味が良いだのと他愛ないお喋りに花を咲かせ始める。


 いつもと何も変わらぬ朝の風景。

平凡だが、それでも穏やかに流れる時間を切り裂いたのは、ある部屋で勃発した言い争いの声だった。


 「ちょいとお静っ! いつまでもたもたしてるんだい!? 早く朝飯こしらえておくれっ!」


 「今行きますよ! 全く、日がな一日寝てるだけのくせに、よくお腹が空きますねぇっ!」


 「おいっ! 朝っぱらから何だっ! いい加減にしねぇかっっ!」


 びりびりと空気を震わす罵声と怒号に、井戸端は一瞬で静まり返り、皆の視線が長屋の一番奥にある部屋へ集中する。

長屋の中でも日当たりの悪い場所に位置する部屋には、ひと月程前に渋谷村から越してきた若夫婦と、その亭主の母親が同居しているのだ。


 一向に治まらない三人の怒鳴り合いに、井戸端にいた女らは一様に『またか』といったような表情を浮かべ、一時止めていた手を動かし出す。

海華も呆れた風な溜め息を一つつき、大根にへばりついた泥を束子たわしで擦り始めた。


 「ほんとにさぁ、あそこの人らも困ったもんだよ」


 海華の隣で米をといでいた大工の女房がこぼした一言に、海華も、そのまた近くにいた小間物屋の女房も同時に頷いた。


 「三日と空けずにアレですからね。よくやれるもんですよ」


  耳に刺さる聞くに絶えない罵詈雑言に晒されながら、海華は深々と眉を寄せる。


 「海華ちゃんとこは、部屋が離れているからまだましだよ。あたしの所は一つ隣だからね。 朝っぱらや夜中にあれやられたんじゃ堪ったもんじゃないさ」


 不満げに吐き捨てる小間物屋の女房は、洗ったばかりの芋を些か乱暴に笊へ放った。

あの家族が越して来てから、この長屋に怒鳴り声が響かない日は殆どない。

最初は周りの部屋に住む女房やら、大家やらが仲裁に入っていたものの一向に治まる気配は無く、今は皆呆れ果て、家族と深く関わろうとする者は殆どと言っていいほどいなかった。

つまり、この長屋で三人は孤立状態なのだ。


 「同じ屋根の下に住んでるってのにねぇ、あの嫁もなかなか気性が荒そうだから……」


 小間物屋の女房の呟きに、大工の女房が小さく首を振る。


 「あの姑さんも、なかなか気の荒い人みたいだよ。似た者同士なんだねぇ」


 「こんなに仲の悪い家族も珍しいですよ。――どうしてあの旦那さん、あんなお嫁さんもらったのかしら?」


 不思議そうに首を傾げる海華は、泥を落とした大根を笊へと戻す。

雪のように白く洗われた大根は、日の光を受けて眩しいほどに輝いた。


 「たいして器量良しの嫁じゃあないがね。まぁ ――料理が上手かったとか?」


 少し考えながら小間物屋の女房が出した答えに、海華は納得したように頷く。

が、大工の女房は意味ありげな笑みを二人へ向けた。


 「料理もそうだけどさ、案外……床上手だったりしてね?」


 にやにやと白い歯を見せる大工の女房に、いやだねぇ。とは言いながらも口元を歪めたのは、小間物屋の女房だ。

海華はと言えば、ただ無言で鼻の下を擦り、ばつが悪そうに視線を青く晴れ上がる空へと泳がせていた。


 「あらっ!? もう起きたの?」


 透明な雫を滴らせる笊を手に部屋の戸を開いた海華が目を瞬かせ、すっとんきょうな声を上げる。

寝ていた布団の上にどかりと胡座をかき、むっつりとした面持ちの朱王は寝乱れた髪を掻き上げながら、おぅ、とひどく不機嫌な声を出した。


 昨夜、注文を受けた人形の最終仕上げに入った朱王は、夜中遅くまで作業机に向かい、ふらふらになって布団へ潜り込んだのは、既に東の空が白み始めた頃だ。

低いいびきをかき、死んだように熟睡する兄を見た海華は、朝飯が出来るまで寝かせてあげようと、なるべく静かに部屋を出たつもりだった。


 「まだ寝てても良かったのに……」


 「朝からあんな怒鳴り声聞かされちゃ、眠りたくても眠れない。……ったく、いい迷惑だ」


 目の下に薄いくまの浮かぶ顔を苦々しく歪めて朱王が吐き捨てる。

寝不足の為か、いつもはすっきりとした瞼が浮腫んでいるように海華には見えた。


 「本当に困った人達が越してきたもんよね」


 ぶつぶつ愚痴る兄へ苦笑いの表情を向けながら海華はまな板と包丁を取り出し、水の滴る真っ白な大根へ鈍色に光る刃を押し付ける。

ざくり、と心地好い手応えと同時に大根は瑞々(みずみず)しい 断面を露に真っ二つに切られた。


 「一つ屋根の下にいながら、あれだけ険悪な家族もそうはいないだろう。一体どんな人らが住んでるんだ?」


 大きな欠伸を放ち、いかにも眠たそうな声色の兄に問われた海華は、味噌汁を作っていた手を止めおもむろに畳へと上がる。

寝惚け眼を擦る兄の前に腰を下ろした彼女がちらりと戸口へ目を向けた。


 「お石さんから聞いたんだけどね、旦那の名前は……確か作治さんって言うの。大工らしいわよ」


 「ふぅん……で、あのしょっちゅうぶつかり合ってる嫁さんと姑の方は?」


 次々と込み上げる欠伸を噛み殺し、ぱちぱちと軽く頬を叩いた朱王。

しかし、そのくらいでは溜まりに溜まった疲れと眠気は飛びそうにない。


 「お嫁さんの方は、お静さん。お姑さんは…… ああ、確か『おくま』さんよ。何でも、おくまさん がここへ越してくる前に卒中で倒れて、左手と左足が駄目になったんだって。で、お静さんが仕立て物の内職しながら看病してるってさ」


 一気に喋り終えた海華は、ここで大きく息をつく。

既に長屋の女房らには知れ渡っていることだろうが、朱王には全てが初耳、改めて女の情報収集力と話しを広げる速さは男の比ではないと思い知らされた。


 「日がな一日口煩いお姑さんと狭い部屋で面付き合わせてるんだから、苛々するのもわかるけどね」


 「あの喧嘩は尋常じゃないだろ? 真夜中にまでおっ始めるんだぜ? こっちの迷惑も考えて欲しいな」


 安眠を妨げられた怒りは未だ収まらないらしく、不機嫌な表情を崩さないままで、朱王は再び布団へ潜り込む。

そんな兄を見下ろしていた海華は、不意に口元をにやりとつり上げた。


 「ねぇ兄様、どうして作治さんがお静さんと一緒になったかわかる?」


 「そんな事知るか。蓼喰う虫も好き好きって言うからな。それじゃないのか?」


 『酷いわねぇ。』 くすくす含み笑いを漏らした海華は、再びまな板の前へと舞い戻り大根を刻みに掛かった。


 「さっき聞いたんだけどさ、お静さん、料理上手か床上手か、どちらかじゃないか、って」


 その途端、継ぎ接ぎだらけの掛け布団が派手に宙を舞い、弾かれたようにガバリと朱王が身を起こす。


 「……お前、意味わかって言ってるのか?」


 唖然とした表情で自分を見詰める兄に、海華の顔が盛大ににやけた。


 「わかってるわよ? まぁ、作治さんに直接聞いた訳じゃないから、嘘か本当かはわからないけどね」


 「当たり前だっ! 朝っぱらから下らんことほざいてないで、さっさと飯作れっ!」


 矢鱈と顔を上気させた朱王はまるで照れ隠しのように妹を怒鳴り、飛ばした掛け布団を引ったくる。

そしてそれを頭から被り、けらけらと笑い転げる妹に背を向けて、固く両目をつぶってしまった。





 橙色に輝く夕日が、ぎらぎら街を照らし出す。

一日の仕事を終え、人形と稼いだ銭を入れた木箱を背負う海華は地面に長く伸びた影法師を引き連れ、鼻歌混じりに帰路へついていた。


 その右手には紫色の千代紙で作られた小さな風車が、そよ風に吹かれカラカラと小気味良い音を立てて廻っている。

勿論、海華が自分で買い求めた物ではない。

昼間、若い母親に手を引かれた幼子から貰った物なのだ。

大きな瞳を目一杯に見開き、興味津々に海華が操る人形を眺めていた小さな女の子。


 芝居が終わり、他の客が離れていってからも、その子供は海華の側を離れようとはしない。

困り顔で子供の手を引く母親を見兼ねた海華は、人形に御神籤おみくじを持たせて子供に差し出しの だ。


 『お家に帰って、おっ母さんに読んでもらってね。途中で開けたら、福の神が逃ちゃうの』 と、言って。


 そんな子供騙しを真に受けた少女は、喜びに瞳を輝かせた。

そして、『お姉たんにあげゆ!』と、握り締めていた風車を差し出したのだ。

早く帰ろう、と袖口を引く子供に苦笑しながらも、母親は何度も『ありがとうございます』 と海華に頭を下げて去って行った。

少しばかり良い事をした気になった海華は、上機嫌で長屋の木門を潜り抜ける。

そこには、夕餉の支度に忙しくなる前、一時の談笑に興じているお多喜とお石の姿があった。


 「おや、海華ちゃんおかえり!」


 「今帰りました! あ、松坊だ」


 にこにこと白い歯を見せる海華は、お多喜の側へと駆け寄り、たっぷりと肉の付いたお多喜に背負われた二歳程の子供の頬をつつく。

艶めく頬をつつかれた子供は、きょとんとした顔で海華を見返した。


 「可愛いなぁ。あ、これあげる」


 そう言いながら松坊と呼んだ子供へ風車を見せれば、ぱっ、と朗らかな笑みを浮かべた子供が腕を一杯に伸ばして海華のてから風車を取った。


 「あらまぁ、海華ちゃんありがとう。松吉ー、 良かったねぇ」


 「海華ちゃん、こんな玩具どこから持ってきたのさ?」


 風車で無邪気に遊ぶ子供を眺め、お多喜とお石は柔らかな微笑みを見せた。


 「ちょっとした頂き物ですよ。あたしが持ってるより、松坊が持ってた方が似合いますからね」


 そう笑った海華がひょいと顔を上げた瞬間、長屋の一番奥にある部屋の戸が、がたつきながら開く音がした。

薄暗い部屋から姿を現したのは、二十歳そこそこの女だった。

あちこちに継ぎの当たり、薄汚れて粗末な着物を纏った体格の良い女は、これまた煤けた風呂敷包みを携えている。

女の姿を目にした途端、お多喜とお石の表情が急に険しくなった。


 ほつれた髪がかかる、やや角張った顔は輝く夕日の中でもやたらに白く見える。

それは抜けるような、とは言えない不健康な青白さだった。

淀んだ、光の無い両目の下には、くっきりとくまが浮かんでいる。

女にしては大柄な体躯を俯き気味に屈め、ちょこちょこと小股で歩く女は自分へと向けられる、決して好意を感じさせない三つの視線に気付いたようだ。


 お多喜達の視線から逃れるように深く伏せられた顔、がさがさに荒れた唇がきつく噛み締められたのを、近付いてくる女を凝視していた海華は見逃していなかった。

網膜に焼き付くような橙色の光の中を、粗末な着物の女が歩く。

海華らと決して目を合わせず、ひたすら俯いたままの女は三人とすれ違いざま無言で小さく小さく会釈した。


 つられるように軽く頭を下げた海華に対し、お多喜は、ふん、とそっぽを向き、お石に至っては睨み付けるような眼差しを女に向ける。

そそくさと女が前を通った瞬間、強い汗臭さと埃の匂いが鼻をついた。

 

 「あの人が……お静さん、ですか?」


 長屋の門を潜り抜けて行く女の後ろ姿を見送りながら、海華がぽつりと呟く。

深く腕組みし未だに厳しい視線を投げ付けていたお石が、首を縦に振った。


 「そうだよ。ったく、愛想の一つも無い人さ 」


 「仕方ぁ無いさ。いつもいつも馬鹿でかい声で怒鳴り散らしてるんだ。あたしらと会うのが気まずいんだろうね」


 小さな嘲笑を漏らすお多喜の背では、何もわからない松坊が無邪気な笑顔を見せて風車を振り回している。

お多喜とお石の口から、件の家族に対する不満や愚痴が次々と飛び出し始めた。

朝晩関係無く、耳を塞ぎたくなる罵詈雑言を強 制的に聞かされているのだから文句の一つや二つこぼしても許されるだろう。


 しかし、この二人の愚痴に最後まで付き合っていたのでは、夕餉の支度が大幅に遅れることは目に見えていた。


 『兄様が待っているから。』と、適当な理由をつけ、作り笑顔でその場を後にした海華は、すぐに部屋の戸口を開く。

途端に聞こえてきたのは、低い低い鼾、そして作業机に突っ伏して背中を上下させる兄の姿だった。

海華が帰ったのにも気付いていない。

うたた寝を通り越して完全に熟睡しているようだ。


 「いやねぇ、ちゃんと横になって寝ればいいのに」


 些か呆れ顔で呟いた海華は音を立てぬよう、 そっと畳へ上がる。

疲労が色濃く滲む兄の横顔、ばさりと顔にかかる黒髪が白い肌に暗い影を落としていた。

背中に背負った木箱を下ろした海華は、部屋の隅に置かれた長持ちを開き、中から褞袍どてらを 引っ張り出す。

それを静かに動く兄の背へ掛けると、ぴくっ、と焦茶色の着流しに包まれた肩が跳ねた。


 最近、お静とおくまが夜中に繰り広げる激しい喧嘩騒ぎで、ろくろく眠れていないのだろう。

そんな兄を起こすのは忍びなく、海華は夕餉の支度に取り掛かるのを躊躇した。

包丁の音や、部屋から井戸への出入りで必ず兄は起きてしまう。

幸い、まだ飯を炊き始めるには早い時間帯だった。


 「――あたしも少し寝ようかな……」


 そう一人ごちた海華は、ぺたりと壁際に座り込む。

ぐぅ、ぐぅ、と規則正しく響く鼾に誘われるように海華からも大きな欠伸が放たれた。

夕日に照らされた障子戸が暖かな光を放つ。

部屋に舞う数多の埃が光を受けて煌めく様を見詰めながら、海華は無意識のうちに兄と同じ微睡みの世界に足を踏み入れていた。





 海華が始めてお静と会ってから数日が過ぎた。

その間も、お静らの部屋から長屋中に響き渡る嫁姑の大喧嘩は続き、住人はほとほと困り果てている。

あの家族を追い出してくれと、大家に談判する者まで出る始末だ。

仕事に没頭している間、ほぼ一日中部屋に籠っている朱王は、朝晩関係無しに始まる言い争いにすっかりまいってしまい、目の下にくっきり浮かぶ隈は暫く消えておらず、食べるよりもまず寝たい、が口癖になっていた。


 食が進まない兄を心配した海華は、耳に綿を詰めて寝たらどうか、とか、朝は起こさずに朝飯だけ用意して自分はそのまま仕事に出掛ける等していたが、兄の寝不足が解消されることは無い。

それでも期日までに人形を仕上げなければならない朱王は、毎日ふらふらになりながら作業机に向かっている。


 この日の夜も、夜空にばら蒔かれた銀色の星屑を背景に上弦の月が天高く上がる頃まで朱王の部屋には小さな灯りが揺れていた。

周りの住人らは既に夢の世界を楽しんでいる時間帯だ。


 「兄様ぁ……もう寝たらぁ?」


 ごろりと寝返りをうった海華は、自らの足元で机に向かう広い背中へ気だるげな声を掛ける。

意識の半分は夢の世界を揺蕩っている海華には、蝋燭の灯りに合わせて揺れる壁に映った兄の影が幻のように感じられた。

妹の声に応えるように小刀を手にしたまま、 ぐぅっと大きく伸びをした朱王。

縮めていた身体、関節がばきばきと微かな悲鳴を上げるのを聞きながら、机上へ置いた人形のかしらへと視線を落とす。


 ほぼ完成に近いかしらは、細かい手直しをするだけの状態だ。

早く仕上げたい気持ちは山々だが、寝不足続きのぼやけた頭で細かい作業を続けるのは、流石の朱王も躊躇われた。

ここは妹の進言通り、さっさと眠りについたが得策だろう。


 寝間着にまとわる木屑を軽く払い、蝋燭の火を吹き消した朱王は覚束無い足取りで妹の隣へ敷かれた布団に倒れ込む。

もぞもぞと布団に潜る兄の気配を感じた海華は、自分の掛け布団を鼻の下まで引き上げた。


 「お休みなさぁい……」


 「ああ、お休み……」


 そう返し、大欠伸を放つ朱王の上下の瞼が眠りの魔力で引き合わされる。

しかし完全に目が閉じられようとした瞬間、 怒声と言う名の悪魔が夜の静寂を踏み荒らし、再び兄妹の安らぎの眠りを奪い去っていく。


 「お静っっ! あんた、作治が帰らないのはあたしのせいだと言うのかいっ!? 誰に向かって物を言っているんだっ!」


 ざらざらと掠れた罵声に続き、何かが壁に叩き付けられるガチャン! どかん! と物が激しくぶつかり合う凄まじい破壊音が長屋中に響き渡る。

一気に眠気が吹き飛んだ海華が布団から身を起こした刹那、隣で寝ていた朱王が思い切り敷き布団を殴り付ける鈍い振動が体に伝わった。


 「――っっ! もう限界だ……っ!」


 そう吐き捨てたと同時に、朱王は寝間着のまま土間へと飛び出した。

これには海華も仰天し、慌てて兄の袖口を力一杯握り締める。


 「ちょっと! どこ行くの!?」


 「決まっているだろ、あの部屋だっ! もう我慢出来ん、これ以上続いたら、こっちの気が変になる!」


 灯りの消えた部屋では、兄がどんな表情をしているのかは伺えない。

しかし、はっきりと怒気を含ませた声色に海華は兄の堪忍袋の緒が切れたということを、嫌というほど感じていた。

勿論兄の言い分は一理あるが、今あの部屋に怒鳴り込んだところで騒ぎをより大きくするだけだ。


 「火に油注いでどうすんのよ!? さっきの聞いたでしょ? 変な物投げられて怪我したらどうするのっ!」


 「構うもんか、一言言わなきゃ気が済まん!」


 土間で喧喧囂囂けんけんごうごうの言い争いを繰り広げる兄妹。

その間も老婆の罵声は止むことは無い。

遂には近くの部屋から赤ん坊が泣き叫ぶ甲高い声までが響いてくる有り様だ。


 『とにかく俺は行く!』と、一言、朱王が妹の手を振りほどいてつっかい棒に手を伸ばす。

と、すぐ向かいの部屋に小さな灯りが灯るのが見え、次に跳ね飛ばさんばかりの勢いで戸口が叩き開けられる気配がした。

どかん! と一際大きく響いたその音に、思わずつっかい棒に掛けた手を止めた朱王は、ぱちぱち瞬きを繰り返す妹と顔を見合わせていた。


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