第四話
「朱王様、少しだけ私の戯れ言に付き合って頂けませんか?」
微かに口元を綻ばせ、幸枝は静かに問うた。
渇きかけた唇を引き結んだ朱王は、無言のままで小さく頷く。
『ありがとうございます』と、礼を述べた幸枝、彼女の唇が小さく震える。
「妹は……幸乃は、幼い頃から私の物を何でも欲しがる子でした。着物、簪、果ては化粧道具まで。余りに酷い癇癪を起こすので、両親は私と妹にそっくり同じ物を与えていたんです」
昔を懐かしむように、幸枝の目は遠くを見詰めて細められる。
遠い昔、幼い頃の微笑ましい生活の一場面だった。
考えてみれば、朱王の長屋でも『姉ぇちゃんの人形が欲しい!』と駄々をこねる女児の泣き声が聞こえる時がある。
自分と海華は異性だったためか、そのようなことは全くといって無かったが、これが同性、しかも姉妹となれば話が違ってくるのだろう。
妹にとって、姉の持ち物は自分の物より魅力的に、かつ大人びて見えるのかもしれない。
「着物を欲しがり、簪を欲しがり……。妹は全て自分の物にしていきました。時には私の持ち物を奪って。――それが物のうちは、まだ良かったのです。でも……妹は私の許嫁、清二さんまでをも欲しがりました」
ぽつり、と呟いた幸枝の顔からは、すでに柔らかな笑みは消え去っていた。
やはりあの噂は本当だったのか、と心中で呟く朱王。
膝の上に揃えられた幸枝の白く細い指が、力一杯握り締められる。
「清二さんは小豆を商うお店の次男坊、うちとは長いお付き合いのある方です。親同士が決めた結婚ですが、――私は嬉しかった」
か細い声が震え出す。
菓子屋の娘として、将来の女将としてのなに不自由ない生活。
幸せな結婚をして、子供をつくり亭主と共に店を切り盛りする。
約束されていた幸に暗い影を落としたのは、血の繋がった、たった一人の妹だった。
「まさかとは思っていましたが、妹は清二さんが好きだと言い出し始めました。さすがの私も清二さんだけは譲れなかった。清二さんも、私のことが好きだと言ってくれました」
淡々とした様子で幸枝は唇を動かし続ける。
まるで、今まで押し殺していた思いを一気に吐き出すかのようだ。
朱王は途中で口を挟むことをせず、ただ黙って時折首を小さく縦に振る。
今まで誰にも打ち明けられず、ひたすら胸に溜め込んできた感情は明るく日の射し込む部屋の中に暗く澱んだ言葉の滓となり、対峙する二人の間を漂った。
と、幸枝は今まで自分の膝先へ落としていた視線を朱王に向け、まるで心の中を覗くように、じっと彼の瞳を見詰める。
「朱王様、私のこの傷は……どうして出来たものか、もうご存知ですか?」
唐突に投げ掛けられた問いに、朱王は狼狽を隠し切れなかった。
明らかに動揺し、忙しなく視線をさ迷わせる朱王を見た幸枝は、くすりと小さな笑みをこぼす。
「どうぞお気遣いなく。巷で噂が流れているのは知っておりますから」
ばつが悪そうに頬を掻く朱王へ、幸枝は傷が出来た理由を語り出す。
それは雪乃が話していた通り、稽古事の帰り道、頭から硫酸を浴びせられたと言うものだ。
しかし、その次に飛び出した幸枝の言葉に、思わず朱王はハッと息を飲み、穴が開くほど幸枝の顔を凝視した。
「私に硫酸を掛けて、頭の皮を焼いたのは…… 妹の幸乃でした」
部屋の空気が一瞬で凍り付く。
残酷な静寂に包まれた二人だけの空間に庭から吹き込んだ暖かい風が、桜の花弁を畳へ散らしていった。
「昨年の、夏の終わり頃のことでした。いつもは妹と二人で長唄のお稽古に通っていたのですが、妹は身体の具合が悪いからと、家で休んでいました」
畳に散らばる薄い紅色の花弁を眺め、幸枝は淡々と語り出す。
相槌さえもうてないまま、朱王は生唾を飲み下して幸枝を見詰めた。
「お稽古が終わる頃には日が暮れていて……。 一人で家まで帰る途中、いきなり後ろから硫酸を浴びせかけられました」
頭の皮を剥ぎ取られるような激痛と焼ける痛みに絶叫を上げて道を転げ回った。
肉の焼ける嫌な匂いとズルズル抜け落ちる黒髪にまみれ、息も絶え絶えに顔を上げた瞬間、脱兎の如くに走り去る女の姿が見えたのだ。
「あれは、確かに妹でした。体つきも走り方も……妹に間違いありません。私は頭の皮が焼け爛れ、二度と髪の生えない身体となりました。 この額の傷も、その時のものです」
直前に迫っていた祝言は当然取り止め、ひと月もの間床に臥せていた幸枝を更に打ちのめす出
来事が起こったは、やっと傷が癒えかかり起き上がれるようになった頃だった。
「清二さんとの結婚を諦めて欲しい、と両親から言われました。清二さんは妹と一緒にさせて、お店を継がせたい。お前の顔では、とても女将として店には立たせられない、と」
悲しげな、そして全てを諦めたような儚い笑みを見せて幸枝は静かに俯く。
朱王の膝に乗せられていた手が、白くなる程に握り締められた。
「なぜ……なぜ、妹様の所業をご両親へお話しにならなかったのですか?」
からからに乾いた喉から絞りだされた問いは白い光の中に溶けて消える。
どうして一人で抱え込むのか、朱王には全くわからない。
泣いて叫んで怒り狂って、妹がこんな目に逢わせたのだ、と暴露していれば幸枝はこんなにも悲しい笑みを作らずに済んだはずなのだ。
「お人好しの、馬鹿な女だとお思いでしょう?」
自嘲気味の幸枝に、朱王はきっぱりと否定の言葉を口にする。
他人の言うことを全て真に受け、自分の意見を持てない愚かな女だとは思えなかった。
だから余計に腑に落ちないのだ。
そんな朱王の心中を察したかのように、幸枝は紅の塗られた唇を開く。
「店のためだ、辛抱してくれ。と両親に泣いて頭を下げられれば、否とは言えません。何より私はこんな身体です。女将にはなれない。唯一女将になれる妹を、奉行所に突き出してしまったら、お店はどうなるでしょう」
先代、先先代から受け継いだ店を自分の代で潰してしまう。
長く働いてくれる職人や使用人も辞めさせねばならないし、何より自分達が路頭に迷う。
清二を妹に譲る以外、幸枝に選択肢は残されていなかった。
ぐぅ、と言葉に詰まり、ひたすらに固く手を握る朱王。
老舗の暖簾を守るため、幸枝は自らの人生と幸せを諦めたのだ。
穏やかな、可愛らしい表情には似つかわしくない壮絶な『戯れ言』に、朱王の背から冷たい汗が流れ落ちる。
すっかり冷めかけているであろう茶を一口啜る幸枝の指先が、微かに震えているのを畳に視線を落とした朱王が気付くことは無かった。
桜の花弁を啄んでいた目白はいつの間にか飛び去り、代わりに、ちゅんちゅんと騒がしく鳴き立てる雀の群れが庭で遊ぶ。
肌を優しく撫でる暖かい春風が流れる部屋。
しかし、朱王には周りを取り巻く空気が身震いするほど冷たく感じた。
張り詰めた雰囲気の中、きつく閉じられていた朱王の唇が震えるように開かれる。
「一つだけ……一つだけお伺いしたいことが御座います。――先にあった髪切魔騒ぎ、下手人は本当に若旦那なのでしょうか?」
恐る恐る口にした問い掛けに、幸枝は頬を片方ぴくりと引き攣らせる。
「朱王さんは、あの人は下手人ではない、と?」
幸枝の呟きに、朱王は小さく首を縦に振る。
自分の長屋で泣き出しそうな顔をして女房の足元に縮こまっていた男に、女二人を夜道で襲うなど大それた真似が出来るとは到底思えなかった。
すると、にこりと微かにに微笑んだ幸枝は、『やはり朱王さんにはわかってしまいましたね』と一言漏らす。
「仰る通りです。清二さんの仕業ではありません。髪切魔は……私です」
ポカンと朱王の口が開き、瞬きも忘れた両目は穴が開くほど幸枝を凝視する。
呆然とした朱王を前に、幸枝は事の全てを語り始めた。
髪を切られた娘二人と幸枝ら姉妹は、同じ長唄の稽古に通っていた友人同士だった。
幸枝が頭を焼かれて一年がたった頃、その二人が店を訪れたのだ。
妹は友人二人を母屋へ通し、お喋りに花を咲かせる。
その部屋の側を、やっと床から起き上がれる状態になった幸枝が通り掛かった。
久し振りに障子越しから聞こえる友の笑い声に懐かしさを覚えた幸枝は、そのまま三人の会話を隠れ聞いていた。
すると、ひょんな拍子に娘の一人が幸枝の近況について妹に尋ねた。
その途端妹は馬鹿にするかのように鼻で笑い、こう言い放ったのだ。
『姉さんなら離れに閉じ込めてるわよ。あんな化物みたいな有り様でうろつかれちゃ、お客がみんな逃げちゃうもの』
それを耳にした瞬間、幸枝は全身から音を立てて血の気が引いていくのを感じた。
それに追い討ちをかけるかの如く、障子の向こうから女二人の空気を震わす爆笑が鼓膜を突き抜け、幸枝は逃げるようにその場を後にしたのだ。
「――あの三人を殺してやりたいと……産まれて初めて人を殺したいと思いました。自分と同じ目に遇えばいい、死ぬより辛い思いをさせてやりたい、と。だから、あの二人の髪を切り付けたのです」
離れに住まう幸枝にとって、家人の目を盗んで外出するなど容易いことだった。
稽古事の帰りを待ち伏せ、自分がされた時と同じく背後から襲った。
「裁ち鋏で髪を切りました。それを押し入れへ隠すのを、度々様子を見に来てくれた清二さんに見付かってしまって……何度も何度も問い詰められて、結局全てを話してしまったのです」
黙々と唇を動かす幸枝の瞳は、生き生きとした光が失われ、冷たい闇が支配している。
やはり、清二は幸枝の仇を取るために妻を殺め、幸枝の罪も一緒に被っていた。
「清二さんが妹を殺した、髪を切り落としたと聞いて、私は慌てて裁ち鋏を探しました。でも、どこを探してもありません。きっと清二さんが持ち去ったのだろうと……」
震える声色で呟く幸枝の瞳から、ぽろりと透明な雫が転がり落ちる。
将来の夫となるはずだった男は、自分の身代わりとなって妹を殺め全ての罪を被ってお縄になった。
凶器となった裁ち鋏を所持していた以上、奉行所は清二を下手人と疑わないはずだ。
声も出さず、ただ玉の涙をこぼし続ける幸枝を前に、朱王は掛ける言葉が見つからない。
突然に暴露された真実は、若い女一人の胸にしまい込むには余りにも重すぎる。
二人の間に漂う冷たく暗い静寂に混ざるのは、朱王が小さく息を吐き出す気配と今だ響く雀の喧しい鳴き声だけだった。
「清二さんは憂さ晴らしで女を襲う卑劣な人ではありません。心根の優しい、穏やかな人です」
滑らかな頬を流れる涙を手で拭い、幸枝は真っ直ぐに朱王へ顔を上げる。
清二と一度しか対面していない朱王には彼が心優しい男なのか、それともただの優柔不断な小心者なのか、判断がつかない。
「朱王様……私をどうなさいますか? 一度はお役人様に本当のことを話さなければ、と思いました。――ですが恐くて……恐くて足が竦んでしまうのです」
肩を震わせる幸枝の顔に、あの悲しい笑みが浮かぶ。
潤んだ瞳でじっと見詰められるのがこれほど心苦しく感じるのは、朱王にとって初めての経験だった。
「妹の言葉を聞いた時から、私はあの子をなんておぞましく卑劣な人間なのだと思いました。でも、本当に卑劣な、鬼畜にも劣る人間は私の方だった、と」
姉妹の訌争に、関係無い清二を巻き込んでしまった。
しかも、自分の身代わりとなった元許嫁を見捨てようとしているのだ。
と、今まで口をつぐんでいた朱王が、意を決したかのように幸枝と視線を交わらせ、唇が小さく動き出す。
「私は、奉行所の役人でもなければ岡っ引きでもありません。ただのしがない人形師です」
きっぱりと言い切る朱王に、幸枝は黒目がちの目を真ん丸に見開く。
「若旦那は決して幸枝様が髪切魔だとは仰らないでしょう。そのくらいの覚悟がなければ、身代わりになどなれません」
今、仮に幸枝が名乗り出た所て、奉行所は凶器を持っていた清二を下手人と疑わない。
こんな小娘に大それた真似は出来ぬ、と一笑されて終わりだ。
何しろ、清二自身が『俺がやった』と言っているのだ。
「今のお話しは……幸枝様の独り言、『戯れ言』です。私は、何も聴いてはおりません」
「独り、言……?」
どこか気の抜けた感のある声色で、幸枝はぽつんと呟き、朱王は大きく頷く。
「そうです。それに、私の仕事は幸枝様の人形を作ること。貴女様を奉行所に突き出すことでは御座いません」
そう一気に言い終えた朱王は、一杯に涙を溜めた目で自分を凝視する幸枝に、ふわりと柔らかな笑みを投げ掛ける。
つられたように泣き笑いの表情を見せた幸枝。
「朱王様は……お優しい方ですのね……」
涙で声を詰まらせながらの呟きは、薄絹の花弁を運んだ風の音に掻き消され、朱王の耳に届くことはなかった。
「幸枝様の生き人形、必ずご満足して頂ける作品に仕上げます」
そう言い残し、朱王は離れを後にする。
玄関を出る際、奥から聞こえた女の慟哭に僅かだが胸に鋭い針が刺さった時にも似た痛みを感じて、朱王は深々と腹の底から溜め息をついた。
その頃には、店の前に群がっていた野次馬も潮 が引いたようにいなくなっており、外では、いつもと変わらぬ平穏な時間が流れている。
人が溢れる広い大通り。
色鮮やかな暖簾が春風に揺れる店先、賑やかにお喋りに興じながら朱王の横を若い娘の一群が通り過ぎる。
一時の休息を求めて人が集まる茶屋の外では、 出された腰掛けに座り、口一杯に団子を頬張る幼い姉妹の姿があった。
山吹色をした揃いの絣着物を身に付けた姉妹、血色の良い頬を緩ませて旨そうに団子を食べる姿は、『幸せ』を体現しているように朱王の目に映る。
幸枝と幸乃の姉妹も、かつてはこんな穏やかな時間を過ごしていたかもしれない。
そう考えると、朱王はまるで鉛の塊を飲み込んだかの如く、胸が締め付けられる重苦しい気持ちになっていた。
「――様! 兄様ぁ!」
自分を呼ぶ声と共に、ぽん! と背中を叩かれ、我に返った朱王は慌てて後ろを振り返る。
そこには、黒目がちの目を真ん丸に見開き、不思議そうに自分を見上げる海華の姿があった。
「どうしたのよ、道の真ん中でぼーっとしちゃって。さっきから呼んでるのに気付きもしないんだから。――大丈夫?」
「あ……ああ、悪いな。ちょっと考え事してたんだ」
ばつの悪そうな笑みを見せ、朱王は風に流されて顔をくすぐる己の髪を後ろへとよけた。
「それより、お前まだ仕事行くんだろう?」
「うん……、そうしようかって思ってたけど……。今日はもう止めるわ。兄様、一緒に帰りましょう。いいものがあるの」
にこりと微笑みんだ海華は、手にしていた小さな紙包みを兄へ見せる。
「いいもの? 何だ?」
「お饅頭。いつも人形廻し見に来てくれるお婆さんから頂いたの。美味しいうちに食べちゃいましょうよ」
茶屋で団子を頬張る姉妹と同じ笑顔を浮かべる妹に、堅かった朱王の表情も緩みだした。
「そうだな。有り難く頂こうか」
そう言いながら、朱王は踵を返して長屋へと続く道を行く。
その隣を歩く海華の唇が、小さな呟きをこぼした。
「兄様……、村瀬屋さんの仕事ね、やっぱり取り消しになったの?」
「いや、このまま続けてくれと。代金も予定通り払ってくれるそうだ」
そう、と返した海華の顔には、はっきりと安堵の色が見て取れる。
幸枝の話しを海華に聞かせるか……、村瀬屋からの帰り道、朱王はずっとそれを悩んでいた。
ぺらぺらと他人に話せる内容ではない。
しかし妹には少なからず、いや金銭的には自分よりもずっと不安な思いをさせていたのだ。
仮にこのまま沈黙を貫いても、彼女のことだ、必ず何か隠しているのはわかってしまうだろう。
そんなこんなを思いながら、隣を歩く妹へ視線を落とす。
さらさらと揺れる黒髪が、柔らかな陽射しを反射して玉虫色に輝いた。
「あのな海華、お前に話したいことがあるんだ」
歩みを進めながら妹に声を掛けた時、ふいに海華が自分へ向かって顔を上げる。
真っ直ぐな眼差しが、朱王を射った。
「兄様、話すかどうか迷ってるでしょ?」
心を見透かされた問い、朱王の心拍が瞬時に跳ね上がる。
無意識に足が止まった二人。
『わかるか?』と、掠れた声色で聞いてくる兄に、海華は小さく吹き出した。
「わかるわよ、何年兄妹やってると思うの? 話しちゃ駄目って言われたの? だったら、無理に聞かないわ」
ちょこんと小首を傾げ、海華は苦笑いを見せる。
何度か目を瞬かせた朱王は、澄んだ妹の瞳を身を屈めて覗き込んだ。
「話すな、とは言われていない。だがな……他言無用だぞ?」
「口が固いのと、底抜けに明るいのがあたしの取り柄だって昔兄様言ってたじゃない? 心配御無用よ」
そう言って白い歯を覗かせた海華は、まるで安心しろ、とでも言いたいように兄の腕を叩く。
今度は朱王が妹と同じく苦笑いを浮かべ、軽く首を縦に振っていた。
長屋に帰った朱王は、幸枝が語った懺悔の告白を全て海華に話して聞かせた。
幸枝に硫酸をかけたのは幸乃であること。
先に襲われた娘らと幸枝の関係。
そして若旦那 が幸乃を殺め、幸枝の罪も共に被ってお縄になったこと……。
兄の前にきっちり正座し、固唾を飲んで話に聞き入っていた海華は、幸枝が下手人と知り、一瞬だけはっ、と息を飲んで驚愕の表情を見せた。
しかし、その後は無言を貫いたままで、じっと自らの膝頭を見詰めている。
二人の前には、白い湯気を上げる濃いめの茶と、たっぷりと餡の詰まった白い饅頭の乗った皿が置かれている。
渋い茶の香りが揺らぐ部屋。
燦々と日の光が降り注ぐ表からは、甲高い声を上げてはしゃぎ廻る子供達の声が響いてくる。
軽やかに地面を叩く、かつかつとした音は竹馬が奏でる音色だろうか。
光と歓声が満ち溢れる外に対し、二人が座する室内は気味悪い程の静寂が支配し、暗く重たい陰が沸き上がろうとしていた。
「俺は……間違ったことを言ったんだろうか……」
全てを語り終えた朱王は静かに目を伏せ、自らに問い掛けるかの如くぽつりとこぼす。
その問いに、海華はゆるゆると首を振って答えた。
「間違ってなんかいないわ。仮に、幸枝さんを番屋に突き出しても、今度は若旦那が苦しむだけだもの」
「そう、だよな。だが……これからは幸枝さん、生きてる限りこの事を引き摺っていくんだ」
裁きを受けるのと、どちらが辛く苦しいのだろうか。
朱王達には、どちらがましかなど推測することは出来ない。
なぜなら、それは張本人である幸枝だけにしかわからないことだからだ。
重苦しい空気が漂う室内。
ふぅ、と小さい溜め息をついた海華は、伏せ気味だった顔を兄へ向かってゆっくりと上げる。
哀しみと戸惑いが入り雑じった複雑な色が、その瞳に写っていた。
「幸枝さん……本当に可哀想よ。今までずっと守ってきたものを、全部自分の手で壊しちゃったんだから」
店を、両親を、職人や使用人を自らの人生と幸せを犠牲にして守り続けた。
しかし、それは妹の余りに酷い仕打ちと暴言によって砂上の楼閣よろしく崩れ落ちたのだ。
「きっと、あの店は長くもたないだろうな」
妹の言葉に同調した朱王は、淹れ立ての茶を一口含む。
甘味が苦手な兄のためか、濃緑色の茶はいつもよりかなり渋く淹れられている。
舌に染み込む渋味に顔をしかめた朱王は、ふっと何かを思い出したように海華へ顔を向けた。
「あのな、もう一つ余計なことを言ったかもしれないんだ。聞いてくれるか?」
「勿論。ここまで来たら何でも聞くわよ」
熱い湯飲みを手のひらで包み、海華は微笑を投げ掛ける。
微かに揺らめく茶に映る自分の歪んだ顔に視線を落とし、朱王の唇がゆっくりと動き出す。
そこから生まれた声はやけに暗く、どこか後悔の念を含ませて海華の鼓膜を震わせ始めた。
離れを去る直前、朱王はあることを幸枝に伝えた。
決して責めるつもりはなかった、しかしどうしても幸枝に話さなければ、と思って出た言葉だった。
「自害した娘のことだけは、忘れないでくれ、と。確かに貴女は、人生も幸せも奪われた、だが、首を吊った娘は、命そのものを失ったんだ、と」
朱王の声は尻すぼみに小さくなり、湯飲みを持つ手に力が入る。
そう、とだけ呟き、畳へ湯飲みを置いた海華は、じっと兄を見詰めた。
「幸枝さんは、どう言っていたの?」
「何も……ただ、大泣きされたんだ。なぁ、俺は……幸枝さんに酷いことを言ってしまったのかな?」
不安げな、そしてすがるような眼差しで自分を見る兄へ、海華は僅かに口元を綻ばせた。
「大丈夫よ。兄様の気持ちは、幸枝さんだってよくわかって下さってるわ。そうじゃなきゃ、今頃怒鳴り返されてるか、人形は一発で取り消しされてるわよ」
「そう、か……。わかってくれてるか」
じりじりと手に染み込む湯飲みの熱さに、慌てそれを畳へ置いた朱王の暗く雲っていた顔に、微かな安堵が浮かぶ。
「ありきたりの慰めより、ずっといいわよ。間違ったことは言ってないんだからさ」
ころころと軽やかな笑い声を上ながら、海華が皿に置かれた饅頭を一つ摘まみ上げる。
その時、部屋の静けさを引き裂かんばかりに、うわ――っ! とけたたましい子供の泣き声が外から響いた。
『姉ちゃんの履いてる下駄がいいっ! 青い鼻緒じゃ嫌だぁっ!』
金切り声で叫ぶ、まだ幼い女児の声。
すぐに朱王らの部屋の近くから、ぎゃんぎゃん喚く子供を諌める女の怒号が耳をそばだてていた兄妹の鼓膜を揺さぶった。
『いつまでも駄々こねるんじゃないっ! あんたはいつも姉ちゃんのを欲しがって! いいかい? 人様の持ち物欲しがるなんて、卑しい子のすることだよっ!』
きっと母親だろう、その怒鳴り声に子供の泣き声がぴたりと収まる。
ぐすぐすと小さく鼻を啜る音を聞いた途端、朱王と海華は顔を見合わせて笑っていた。
「派手派手しいな。どこの子供だ?」
「おみつさんの所よ。お玉ちゃんだわ。いつもお姉ちゃんの後くっついて歩いてるの、可愛い子よ」
そう答えながら饅頭を一口かじる海華。
相変わらず茶ばかりを啜る朱王は思う所があったのか、持っていた湯飲みを唇から離す。
「人様の持ち物欲しがるのは卑しい人、か……。もし、幸乃さんに同じ事を言ってやれる人間が周りにいたなら……一人でもいたなら、あの姉妹も若旦那も、こんな悲しい思いをすることなんてなかったかもな」
ぽつり、とこぼれた朱王の言葉。
かじり跡のついた饅頭を持ったまま、そうね、としか海華は答えられなかった。
きっと兄の言う通りなのだ。
だが、過ぎ去った時間を巻き戻すことなど出来はしない。
今、この瞬間も時は足音も立てず、気配も感じさせずに時は確実に駆け抜けていく。
そこに小さく響くのは、兄妹が残り少なくなった茶を啜る音と外から聞こえる、はしゃぎ廻る子供らの歓声、軽やかに地を打つ竹馬の音だけだった。
終
3




