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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第二十三章 髪切蟲の笑う夜
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第三話

 「……だからね、あの妹、あんまり評判よくないのよ」


 湯屋から戻り、兄の凝り固まった肩を揉みほぐす海華は、夕方お石らから聞いた話しを兄へ聞かせていた。

うつ伏せになり、妹の按摩を受ける朱王から返る返事は、あぁ、だの、うん、だの気の無いものばかりだ。


 「ちょっと兄様! 真面目に聞いてる!?」


 「聞いてるさ。――いたたっ! バカ、そこは筋だ!」


 不服そうな面持ちの海華に強く首筋を押し上げられ、引き攣る痛さに思わず足をばたつかせる。

よほど痛かったのか、ぎゅっと閉じられた目尻には、僅かに涙が滲んでいた。


 「あれだけの剣幕で人を怒鳴り付ける女だ、いい評判が立つはずないだろ。だからあんな優男やさおとこを亭主にしたんだろうさ。女房の言うことに逆 らえない風だったからな」


 「その亭主も、元々姉さんの方と一緒になるはずだったのよ? 一体あの家はどうなってるのかしらね?」


 手のひらで背中全体を擦る海華は、怪訝そうに首を傾げる。

しかし、今は人様の家庭の事情を詮索している暇は無い。


 「ねぇ、いっそのこと傷痕の無い人形作ればいいのよ。それで、幸枝さんに見せる時は傷痕描き足して……」


 妹の提案を鼻で笑う朱王の眉間に、みるみるうち深い皺が寄った。


 「そんな真似が出来るか。頭ごと作り直した方が早い。――お前、俺がやっつけ仕事が大嫌いなの知っているだろ?」


 一度完成した人形に傷痕なぞを描き足せば、まず目鼻の均衡が崩れ、それを直せば身体の釣り合いが取れなくなる。

かと言って、本人とは違う位置に傷痕を描けば、それは全く別人の人形になる。

言わば、釣り合っているやじろべえの片方におもりを付け足していくようなものだ。


 僅かな狂いは全体をぶち壊す。

それを承知で人形を納めるなど、朱王は絶対承知できない。


 「そりゃ重々わかってます。でも、これからどうするのよ? あの妹と姉さんと、どっちを説得する気なの?」


 「あの妹じゃ話しにならん。幸枝さんは……説得するより何より、なぜああも傷痕にこだわるのか、それを知りたいんだ」


 ぽつりと漏れた兄の呟きに、海華の眉が片方軽く上がる。

はい、終わり! と、一言叫んだ海華は、素早く跨がっていた兄の腰から身を退かせた。


 「あのね、もしあたしの顔に幸枝さんみたいな傷があったら、兄様なんて言うかしら?『そんな傷痕誰も気付かない。元と何も変わらない』って言う?」


 のそりと擦り切れ畳に身を起こす朱王は、その問い掛けに言葉が詰まる。

うぅ、と唸る兄を横目に、海華は茶の支度をし始めた。


 「小さな子供なら、それで誤魔化せるわよ。でもね、大人になったら、そう簡単にはいかないでしょ? 残酷な慰めよ」


 「残酷な慰め、か……」


 茶を淹れる妹の背中を見詰め、朱王はがりがり頭を掻く。


 「そうよ。女なんてね、ある程度の年になれば、自分の器量がどんなもんかなんてわかるものよ。二割増し三割増しで綺麗に作った人形出されても、嫌味にしか感じないわ」


 傷痕の無い人形、かつて美しかった頃の自分の顔……。

それを毎日眺めるとしたら、どんな気持ちがするだろうか。


 「有りの儘を作れってのは……そんな意味だったのかな?」


 「うん、きっとね」


 湯気の立つ茶を兄へ差し出し、海華は悲しげな笑みを見せる。


 「傷痕の無い人形渡されるなんて……幸枝さん、きっと自分を否定される気分になるんじゃない? 妹には、それがわからないのよ」


 熱そうに茶を啜り、ふぅ、と溜め息をつく海華。 湯飲みを握った朱王は、傷痕を描いてくれと詰め寄ってきた幸枝の顔を思い出す。

決して綺麗とは言い難いあの傷を描いてくれと言った幸枝の気持ちを踏みにじるのは、あまりにも酷な気がした。


 「海華……。俺、やっぱりあの傷痕をつける よ。あの妹や女将がなんと言ってきても。必ず傷痕を人形につける」


 決意を滲ませる兄の声色に、海華は小さく微笑んだ。


 「それがいいわよ。でも、代金なんか払わないっ! て言われたらどうする?」


 「他の仕事で埋め合わせる。受けられるだけの注文受けて……幸さん達には、頭下げて頼み込むしかないがな」


 苦笑いを浮かべた朱王は、湯気の立つ湯飲みを唇へ当てた。

それを見遣る海華は、にこりと白い歯を見せる。


 「あたしも少しくらいは手伝えるから。お金のことなら心配しないで。きっとなんとかなるわよ」


 どんな時も明るく励ましてくる妹に、今までどれ程救われてきたか。

そう思えばこそ、人に恥じない作品を仕上げなければ、と改めて朱王は決意を強くする。

しかし、この人形を巡って、今以上に深刻な事態に巻き込まれるなど、今の二人は知るよしも無かった。





 翌日、村瀬屋の勝手口から追い立てられるように外へ飛び出す朱王の姿があった。

幸枝の人形の件で女将と話しをつけに来たのだが、、の傷痕の事を持ち出した途端、母屋は天地がひっくり返る大騒ぎとなった。


 怒りに顔を紅潮させる妹は、『余計なことをするな!』と始終怒鳴り散らし、烈火の如く怒り狂う娘を前に女将はただ啜り泣くだけ。

妹の亭主はと言えば、一度たりとも顔を見せない。

結局、主役となる幸枝にすら会わせて貰えずに、朱王は母屋から叩き出されたのだ。


 いよいよ面倒なことになった、と肩を落とし、幾度も溜め息を吐きながら長屋への帰途についた朱王。 先に戻っていた海華と額を突き合わせ、これからどうするかと思案していた時だった。

軽く部屋の木戸が叩かれ、応対に出た海華の前に白髪頭の老人が立っている。

それは修一郎宅の使用人で、今日の夜、兄妹に邸宅まで赴くように、と修一郎の言伝ことづてをしに 来たのだ。


 何かあったのだろうか? と、首を捻りながらも、とにかく二人は日が落ちてすぐ邸宅に向かった。 邸宅に着いた頃には、紫色に染まる空に春霞が流れ、糸のように細い三日月が顔を出す。

直々に二人を出迎えた修一郎は、妻に酒の支度を命じ、奥にある自室へ二人を案内する。

時期に桐野もここに来る、と言う修一郎は久し振りに会う兄妹を前に顔を綻ばせっぱなしだ。


 「お前達とこうして会うのも久しいな、どうだ海華、元気にしていたか?」


 「お陰様で、変わり無く。修一郎様も雪乃様もお元気そうで安心致しました」


 雪乃が出してくれた茶と羊羮を前に、にこにこと白い歯を見せる海華へ、修一郎も大きく頷きながら盛大に破顔する。

そして、熱燗が入った徳利を朱王に差し出しながら、二人を呼んだ訳を話し始めた。


 「実は今朝方、高橋が村瀬屋から慌てて出てくる朱王を見掛けたと、桐野から聞いたのだ。

やたらに暗い顔で歩いていたと……お前が気落ちする姿など滅多に見ないからな。何かあったのかと。それでここへ呼んだのだ」


 心配顔で尋ねてくる修一郎の酒を有り難く受けながら、朱王は些か困った、と言うように苦笑いを見せる。

幸枝の件を他言はしたく無い。

しかし、修一郎がここまで案じてくれているのだから、誤魔化すのは悪いと思った。


 修一郎とて、口の軽い男ではない。

それを熟知している朱王は、包み隠さず今までの出来事を話して聞かせた。

すると、みるみるうちに修一郎の眉間に深い皺が刻まれ、見るからに不機嫌そうな面持ちに変わる。


 「と、言うことはだな、その村瀬屋は、お前に人形の代金を払わないと? 踏み倒す心積もりなのか?」


 「いえ、踏み倒すという訳では……。ただ、傷痕を付けた人形には金を払わぬ、と」


 朱王に注がれた酒を一息に飲み干し、空になった猪口を指先で弄ぶ修一郎は、『同じことだ』と吐き捨てた。


 「大体、人形を依頼してきたのは、その幸枝とか言う娘だろう。なぜ妹や母親が横から口出ししてくるのだ?」


 修一郎の疑問は最もだ。

しかし、それは朱王にも皆目かいもく見当がつかない。

その時、『そうだ!』と一言叫んだ修一郎が胡座をかいた膝頭を、ぽん、と叩いた。


 「村瀬屋なら雪乃の行き付けだ。あいつに聞くのが早いだろう。雪乃! おい、雪乃!」


 言うが早いか、修一郎は向かいの襖に向かい大声で妻を呼ぶ。

すぐに、はぁい! と透き通る声色で返事が返り、 朱王側にある庭に面した障子がするすると滑るように開いた。


 朗らかな笑みを見せながら顔を出した雪乃。

春らしい若草色の着物に、海華の目が引き寄せられる。


 「おお、雪乃。お前、よく村瀬屋に菓子を買いに出向いているそうだな?」


 「ええ。行っております。あそこはお砂糖や小豆の質が良いと評判ですから。その羊羮も、村瀬屋さんで頂きましたのよ」


 夫の問い掛けに、ぱちぱちと目を瞬かせ、雪乃は不思議そうに三人を見遣る。

なぜそんな事を聞くのか、と言いたそうな表情だ。 そんな妻の様子もお構い無しに、修一郎はぐっと身を乗り出し、更に妻へ畳み掛ける。


 「いや、羊羮の話しはどうでもいいのだ。お前、そこの幸枝と言う娘の事を何か聞いてはおらんか?」


 幸枝の名前が修一郎の口から出た刹那、雪乃は哀しげに瞳を伏せてしまう。

修一郎は、それに全く気付いてはいないように、何か知らぬか? と問い続ける。


 雪乃が見せた表情の変化にいち早く気付いた海華。 何気無く隣に座する兄へ視線を向けると、同じく雪乃の異変を感じ取っていたのか、朱王は僅かに目を細め、海華へ一度だけ小さく頷いて見せた。


 「幸枝さん……。お可哀想な方ですよ、まだお若いのに、あんな酷い目に逢われて」


 じっと自分の膝頭を見詰め、雪乃は悲哀を滲ませて一言呟く。

行灯に灯されていた炎が揺らめき、壁に映る四人の影がふらふらとなびいた。

ふっ、と小さな吐息が、雪乃の花の蕾に似た唇から溢れる。


 「確か、一年程前でした。お稽古事の帰りに暴漢に襲われて、頭へ焼水りゅうさんを……。幸枝さん、頭の皮が酷く焼けてしまって、二度と髪が生えなくなってしまったんです」


 その台詞に、朱王は弾かれるように伏せていた顔を上げる。

隠し切れない動揺と混乱に、頭の中を上手く整理出来ないのだ。


 「では……額の傷はその時の……。しかし、幸枝さんにはきちんと髪が」


 驚愕の表情を浮かべて自分を凝視する朱王に、雪乃はどこか悲しげな微笑みを見せる。


 「それはかつらでしょう。あんなことさえなかったら、今頃は結婚して、お店の若女将になられていたはずなのに。――こう言うのは失礼かもしれませんが、妹さんより幸枝さんの方が、ずっと女将さんには向いておられたでしょうね……」


 いささか言いにくそうに呟き、膝の上で揃えた指を雪乃は強く握り締め、一瞬の静寂が部屋を包む。


 「――下手人は、お縄になったのですか?」


 消え入りそうな声色で尋ねる海華に、雪乃は小さく首を振った。


 「今も見付かっていないんですって」


 そう返した妻の言葉に、修一郎は深く眉を寄せて顎の下を擦る。

毎日様々な事件の起こるご時世、その処理に忙殺される修一郎が、一年も前の事件など事細かく覚えていられるはずがない。


 その時、玄関の方から『御免下さい』と低い男の声が微かに響いた。

それに気付いた雪乃は、慌てて腰を上げ部屋を後にする。

やがて雪乃に案内され、部屋に現れたのは浅黒く日焼けした顔に人の良い笑みを浮かべた桐野だった。


 「遅くなって申し訳ない。おぉ、二人とも揃っていたか」


 どかりと自らの横に腰を下ろした桐野に朱王が 『ご無沙汰しておりました』と深々と頭を下げる。

兄と同じく一礼する海華は、にこりと白い歯を覗かせた。


 「お前達は変わりなさそうだな。ところで修一郎、せっかくの酒の席で仕事の話はしたくないのだが……」


 雪乃が用意していた猪口も取らず、桐野は僅かに声を潜める。

今だ眉を寄せたままの修一郎は、何度か目を瞬かせた。


 「仕事? 何か不都合があったか?」


 「不都合、と言う程ではないんだが、先日お縄になった髪切魔がおるだろう? あ奴が妙なことを話しておるのだ。四谷の一件は確かに自分がやった、だが先の二件はやっていない、と」


 「なんだそれは。どうせ口から出任せを並べているだけだろう。人が一人自害しているのだ。認めたくないのは当たり前だな」


 まあ、飲め。と酒を差し出してくる修一郎へ猪口を出す桐野の顔は、なぜか冴えないままだ。


 「いやな、どうも嘘をついているようには見えんのだ。本人は、その日その時間は賭場にいた、と言い張っておる。高橋らに調べるよう申し付けたのだが……」


 納得出来ない、とばかり仕切りに首を傾げる桐野を眺めながら海華は一口に切った羊羮を頬張る。

ねっとりとした甘味に豊かな小豆の香り。

この一口が、どれ程気持ちを和ませてくれるだろう。

しかし、甘味を好まない兄達にはよく理解して貰えないのだ。


 酒を酌み交わし、相変わらず髪切魔の件を話し続ける男三人を横目で見ながら、海華はいつもより渋めに淹れられた茶を啜る。

その時、玄関先が何やら騒がしくなった、そう海華が思った次の瞬間ばたばたと廊下を駆ける幾人かの騒がしい足音が、春の夜空へと響き渡った。

廊下を思い切り走り抜ける足音と共に、廊下に面した障子へ二つの影が現れる。


 桐野様! と半ば叫ぶような声に、何事かと表情を曇らせた桐野は腰を上げ、勢い良く障子を開け放つ。

そこには、廊下に座り込み深々と頭を下げる二人の侍がいた。

大きく丸まった背は間違いなく都筑、その隣の一回り小さな背は高橋だ。


 「どうしたのだ、騒がしい」


 怪訝そうに眉を寄せる修一郎に、『申し訳ございません!』と恐縮しきった高橋が返す。

よほど慌てて走ったのだろう二人の髪は所々ほつれ、荒い息に身体が揺れる。

恐る恐るという様子で顔を上げた二人から流れる玉の汗が磨き上げられた廊下に滴った.


 「お奉行……桐野様! また、また……かっ、髪切魔がっ!」


 血走った目を見開き、唇を戦慄かせた都筑。

その口から飛び出た台詞に部屋にいる四人全員が面食らった。


 「また髪切魔が!? どういう事だ! 下手人は既に……間違いでは無いのだなっ!?」


 手にしていた空の猪口を放り投げ、修一郎が色めき立つ。

脂汗にまみれた顔を苦しそうに歪め、高橋は何度も大きく頷いた。


 「間違いではございません、女が夜道で髪を落とされ、挙げ句に首を切りつけられました!」


 首を切られた。

それを聞いた途端、海華は隣に座した兄の袖口をきつく握り締めた。

これは尋常ならざる事態だと思っているのか、桐野も顔を強ばらせて高橋の報告を聞いている。


 「切られた女は、死んだのか?」


 「我々が駆け付けた時にはまだ息がありました。とにかく医者へ運んだのですが、あの傷と出血では長くはないと……」


 高橋の言葉が終わらないうち、桐野は修一郎へ素早く目配せして、そのまま畳を蹴り上げて廊下へと飛び出る。

その後を追うように都筑と高橋も一度修一郎へ頭を下げ、転がるように駆けて行った。

突然の出来事に一言も声が出せない兄妹の前で、修一郎は深く頭を抱えて低い唸りを漏らす。


 「海華……海華、今日はこれで失礼しよう」


 自らの袖口を掴む妹の手を軽く叩き、朱王は色の無い唇を開く。

同じく顔面を蒼白にした海華は、無言のまま小さく首を縦に振った。


 「では、修一郎様。私達はこれで……。ご馳走になりました」


 「う、む。気を使わせてすまないな……」


 じっと畳を睨む修一郎から出た言葉は、ひどく沈んだものだった。

が、兄妹が立ち上がった瞬間、彼は打ちのめされたような表情を二人へと向ける。


 「朱王、海華……。下手人はまだ捕らえられていないかもしれん。夜道は充分気を付けろ。いいな?」


 わかりました、と返す兄の隣で海華は唇を噛み締める。

そして、何かを決心したかのように両手の関節が白くなるほどに強く握られた。


 「修一郎様、私……。私、下手人がお縄になるまで、仕事には出掛けません。だから……」


 ご心配なさらないで下さい。 そう口にするみはなの黒曜石の輝きを放つ瞳が修一郎を見詰める。

妹の宣言に朱王は意外そうに目を細めた。

畳に座し、しっかりと海華を見る修一郎は、急に泣き笑いの表情を浮かべ、『そうか』と一言呟いていた。




 修一郎宅から帰った翌日、海華は新しい内職を探しに行く、と言って長屋を出て行った。

髪切魔が捕まるまで辻には立たない、と修一郎に約束した以上、人形廻しで得られる稼ぎと同等の内職をしなければならない。

お昼は外で買ってくる、そう言い残して出掛けた海華が血相を変えて戻ってきたのは、春の太陽が高く昇った昼近くのことだった。


 朝から作業机に向かいっぱなしだった朱王の耳に、地面をしたたか蹴り上げる下駄の音が届く。 それに続いて部屋の引き戸をひしゃげんばかりに叩き開け、真っ赤に顔を上気させた海華が部屋へ転がり込んできた。


 「兄様っっ! 兄様大変っ! 大変よーっ!」


 激しく息を切らせ、下駄を土間へ脱ぎ捨てて自分の側へ駆け寄る妹に、朱王は眉間に深々と皺を刻み、手にしていた人形の足と彫刻刀を置いた。


 「どうしたんだ、みっともない! 履き物くらい揃えて……」


 「そんな悠長なこと言ってる場合じゃないわよっ! 髪切魔がお縄になったって!」


 口から唾を飛び散らせ、大声で喚き立てる海華は兄に向かって皺くちゃになった紙切れを突き出す。

それは思い切り握り締められた瓦版だった。


 「あのね、昨夜首切られた女って村瀬屋の妹だったのよっ!」


 まん丸に目を見開きながら妹が言った言葉に、朱王の不機嫌そうだった表情も驚愕と戸惑いに一瞬で塗り替えられる。


 「村瀬屋の妹ぉ!? 幸乃とか言う女か?」


 「そう! 幸乃さん、しかも下手人があの若旦那で……とにかくこれ読んで!」


 ぐっ、と突き出された瓦版を引ったくり、朱王は皺だらけの雑紙を勢い良く広げる。

そこには、昨夜起こった事件のあらましが事細かく記されていた。


 昨夜、妻である幸乃と出掛けた村瀬屋の入婿、清二せいじは、ふとした事から妻と口論になり、清二はカッとなった勢いで持っていた小刀で妻の喉元を切り裂き、髪を切り落とした。

普段から気性の荒い妻に虐げられ、鬱憤うっぷんが溜まっていたようだ。

血塗れで倒れる妻を介抱する清二の懐から凶器が発見され、あえなくお縄となった。


 しかも、調べの中で清二は先の二軒の犯行も自分がやったと、髪切魔は自分だと白状した。

何でも鬱憤晴らしで女の髪を切り付けていたらしい。

一気に瓦版を読み終えた朱王は、信じられない、とでも言いたいように何度も目を瞬かす。

ようやく息の整った海華が、乱れた黒髪に手櫛を入れた。


 「――これ、本当だと思うか? 出鱈目書き散らしている訳じゃ……」


 疑惑の目で瓦版を眺める朱王は机へ肘をつき、赤く頬を上気させた妹に尋ねた。


 「それが嘘でもないらしいの、あたしね、ここに帰る途中で番屋に寄って親分さんに聞いたのよ。そうしたら、清二の部屋から女の髪の毛が絡んだ裁ち鋏が見付かったんだって」


 裁ち鋏か、と一言呟いたまま、その後は黙りを決め込んでしまった兄に海華は怪訝な面持ちで首を傾げた。


 「兄様、何が腑に落ちないの? 大体本人がやったって言ってるんだから。――あの青瓢箪が、あんな大それた真似するとは思わなかったけどね」


 「お前もそう思うのか?」


 ばりばり頭を掻く妹へ向かい、やっと朱王は口を開く。

兄を横目で見遣り、無言で頷く海華はやはり兄も同じことを考えていたのだ、と確信していた。

と、朱王は突然のそりと腰を上げ、出掛ける支度をし始める。


 「ねぇ、どこ行くのよ?」


 「村瀬屋だ。この後人形をどうするのか、幸枝さんと話しをしてくる。裏から忍び込めば大丈夫だろう」


 「これから!? こんな事件があったばかりなのよ、何も今じゃなくても……」


 「お悔やみついでだ。正直……人形の事は後でもいい。幸恵さんの様子が気になるんだ」


 神妙な面持ちで海華の方を振り返り、夜までには戻る。 そう彼女へ告げると朱王は麗らかな春の日射しが 降り注ぐ表へと出て行く。

真綿に似た雲が浮かぶ抜けるような青空。

その下を行く朱王の心には、暗い疑惑という名の雲が立ち込めたままだった。


 朱王が村瀬屋に着いた時には、既に店の周りは黒山の人だかり、瓦版を読んだのであろう野次馬達がひしめき、大混乱の状態だった。

勿論店は固く門を閉ざし、家人らはじっと息を潜めているのか物音一つ漏れてはこない。

余りの騒ぎに一瞬入るのを躊躇した朱王だったが、なんとか人混みに紛れて店の裏手へ忍び込むのに成功した。


 表からは完全に死角となる、幸枝が住む離れは母屋と同じく静まり返り、五分咲き程になった桜の大木が、青空の下薄紅色の花を揺らせていた。

離れの玄関をそっと開け、『御免下さい』と遠慮がちに奥へ向かって声を掛けると、ぱたぱたと小さな足音が聞こえ、些か不安げな様子の幸枝が顔を出す。

朱王の姿を確かめた瞬間、蒼白く見えた幸枝の頬にさっと朱がさした。


 「まぁ、朱王様。いらっしゃいませ」


 「ご無沙汰しておりました。その……この度は何と申してよいのか……」


 『御愁傷様です』そう告げて玄関先で深々と一礼し、悔やみの言葉を述べる朱王に、幸枝も同じく頭を下げる。


 「ご丁寧にありがとうございます。何のお構いも出来ませんが、どうぞお上がり下さい」


 にこりと小さく微笑んだ幸枝は、朱王を以前写生を行った部屋へと通してくれる。

妹が殺されたばかり、挙げ句にその犯人は義弟、――元を正せば幸枝の許嫁という、信じがたい現実に直面している幸枝。

玄関先で帰されて当然なのにも関わらず、部屋へ上げてくれるなど奇跡にも等しいと朱王は思った。


 燦々と暖かい陽光が降り注ぐ部屋からは、あの桜がよく見える。

薄い絹のような花弁の間からは、深みのある黄緑色をした目白が顔を出し、しきりに花を啄んでいた。

やがて、茶菓を手にした幸枝が奥から姿を現す。

最初にここを訪れた時、茶を運んでくれた少女はもういないようだ。


 「お店が大変な時に伺って、本当に申し訳ないと思っております。どうぞお許し下さい」


 神妙な面持ちで畳へ手を着いた朱王に、幸枝は 緩やかに首を振った。


 「お気になさらないで下さい。――それより、 先日は妹が大変無礼な真似を……。お恥ずかしい限りです」


 『お許し下さい』と、幸枝は悲しげに顔を歪め、畳へ額を擦り着ける。

妹が長屋に怒鳴り込んだことを知っているようだ。

恐る恐るといった様子で顔を上げた幸枝。

額に刻まれた傷が痛々しく引き攣る。

そんな幸枝を安心させるかの如く、朱王は柔らかな笑みを投げ掛けた。


 「どうぞお気になさらず。本日は……誠に申し上げにくいのですが、ご依頼された人形の件で伺いました。妹様に、傷痕は付けないで欲しいと……。いかが致しますか?」


 朱王の問いに幸枝は静かに目を伏せる。

庭から流れ込む春風が、日向の香りを部屋に運んだ。


 「あの子が、幸乃がそのようなことを?」


 「はい、傷痕を描いた下絵も持って帰られました。妹様があのようになられた以上、もう一度人形の作りについてきちんとお話ししなければ、と」


 朱王の声だけが静かに響く。

手にした湯飲みに映る己の顔を、じっと見詰めていた幸枝は薄く紅を塗った唇を噛み締めた。


 「幸乃は……また私の『大切なモノ』を奪ってしまったのね」


 小さく、本当に小さく呟かれた嘆き。

朱王には、それがとてつもなく意味深い台詞に感じる。

無言で自分を凝視してくる朱王の視線に気付いたのか、幸枝は伏せていた顔を上げて庭から射し込む白い光の中、ひどく寂しげに微笑んで見せた。

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