第一話
厳しかった冬も過ぎ去り、溶けかけた雪の下から黄緑色の蕗の薹が顔を出す。
しかし、隙間風が吹き込む長屋では今だ火鉢の中で赤々と炭が燃えていた。
先月から作り始めた人形の仕上げに取り掛かっていた朱王は、朝早くから作業机に向かったまま、後ろで内職の縄編みをする海華とは、朝起きてから殆どの時間を同じ部屋で過ごしていると言うのに、二言三言しか言葉を交わしていない。
蝋燭の炎が隙間風に吹かれるたび、壁に映る二人の大きな影もゆらゆらと揺らめく。
しゅっ、しゅっ、しゅっ、と海華の手から生まれる縄が擦れる規則的な音だけが響いていた部屋。
その時、朱王が作業する手を止めたかと思うと、うぅ、と小さく唸りながら彫刻刀を持ったまま、右肩を大きく回した。
同時に首を左右に傾けると、ぐきぐきと鈍く関節が鳴る。
その音に縄を編む手を止めた海華は、膝の上に落ちた麻の滓を軽く払い除けた。
「兄様、肩揉もうか?」
「ああ……頼む」
軽く頷いた朱王はヨタつきながら立ち上がり、冷たい畳へゴロリとうつ伏せに寝転がる。
その腰の辺りに跨がった海華は、油っ気の抜けたかさついた手で兄の長い髪を掻き分け、肩甲骨に添って背中を押し始めた。
がちがちに固まった筋肉は、まるで鉄板を入れたよう。
力を込めて親指を押し付けても、なかなか指が入っていかない。
「岩押してるみたい。痛くなかったの?」
「痛いの通り越して何も感じなかった。麻痺したみたいだ」
歯を食い縛り、力一杯肩から背中を揉み込む海華とは対照的に、交差した腕に顔を埋める朱王は気持ち良さそうに目を閉じ、深い溜め息をつく。
岩のような筋肉がほぐれ始めた頃、海華は思い出したようにある話しを始めた。
「そう言えば兄様、髪切魔の話し知ってる?」
「髪切魔? ――ああ、女が夜中に道歩いてて、髪を切られたとかってやつか? 確か先月に二件あったな?」
「そうそう、いきなり後ろからばっさり髪を落とされるんだって。しかもね、切られた髪は道にばら蒔かれてたり、どぶに捨てられてたりするってさ。一昨日もあったの、この近くで傘屋の娘が襲われたのよ」
ぎゅうぎゅうと背を押し、喋り立てる妹の話しを聞いているのかいないのか、朱王はただ、うんうんと相槌を打つだけだ。
「下手人が男か女かもわからないらしいわ。昨日ね、草履屋の旦那さんに言われたんだけどさ、兄様も気を付けた方がいいかもよ?」
「何で俺が気を付けなきゃならない? 襲われるのは女なんだろ? ――あ、そうだ、そこもっと押してくれ」
背中の真ん中辺りを押された朱王は、もぞもぞと身体を蠢かす。
言われたところに手を当てた海華が、苦笑いを浮かべて強く背を押した。
「別に兄様が女に見えるってわけじゃないけど、狙われたのは髪の綺麗な人ばかりなんだって。だからよ」
さらりと髪に指を通してくる妹にそうか、と朱王は短く答える。
確かに烏の濡れ羽色をした黒髪は、下手な女よりずっと手入れが行き届いている。
長く伸ばしている以上、傷んでいるのは見苦しいと小まめに手入れをしているつもりだ。
「ご忠告は有り難く受け取っておくよ。痛っ! 馬鹿、そこは骨だ!」
「あら、ごめんなさい。でもね、兄様帰りが遅い時もあるでしょ? まだ日が落ちるの早いから、本当に気を付けてね」
案じるような口調の海華は、背中全体を両手で擦り暖める。
固まりきっていた筋肉もすっかりほぐれ、身を起こした朱王は身体全体が軽くなったのを如実に感じていた。
「後は、伽南先生から頂いた湿布貼っておけばいいわよ」
「そうだな。ありがとう、楽になった。さ、次はお前だ」
どかりと畳へ胡座をかき、朱王は再び縄を編もうとする妹を手招きする。
海華は不思議そうにちょこんと首を傾げて見せた。
「手を出せ。また皸が酷くなるぞ?」
その言葉に、ちろりと赤い舌を覗かせた海華は鏡台へと向かい引き出しから軟膏を取り出して兄へ渡す。
自分の手が荒れているのを、兄はお見通しのようだ。
ちりちりと傷にしみる薬を兄に塗られ、僅かに眉を寄せながらも、今度は海華が気持ち良さそうに目を閉じる番だった。
さて次の朝、手のひらに細かな傷を山ほど作りようやく完成した縄を納めに出掛けた海華は、その帰 り、一枚の瓦版を買い求めた。
そこには、先月に続けてまた四谷で髪切魔が出たと一面に書かれている。
狙われたのは、とある八百屋の一人娘で、頭皮が露になるくらいばっさりと髪を落とされたそうだ。
道行く人の間を縫い、瓦版を読みながら歩く海華は、突如後ろから肩を叩かれ飛び上がら ばかりに驚いた。
何しろ、今まで手元の瓦版に意識が集中し、周りのことなど全く気にしていなかったのだ。
ひゃあ、と間の抜けた叫びを上げ、慌てて後ろを振り向けば、自分の方へ手を伸ばしたまま、きょとんとした顔をする高橋と、にやにやと面白そうに笑う都筑の姿があった。
どうやら肩を叩いたのは高橋だったらしい。
「いや、すまない。驚かせたか?」
「高橋様……都筑様も、ご無沙汰しております」
大きく目を見開きながらも、ぺこりと頭を下げた海華の手から都筑が瓦版を取り上げた。
「この人混みで、こんな物を読んで歩いては危ないだろう。何を熱心に読んでいた?」
そう言いながら、都筑の視線が紙面を走る。
「髪切魔の話しです。また出たって……怖いですね」
首をすくめながら言う海華に、高橋も瓦版を覗き込み昨夜の事件か、と小さく呟いた。
「髪は女の命と言うが……本当に許せんな」
鼻息も荒い都筑は今にも瓦版を握り潰さんばかりだ。
雪解けのぬかるんだ道に、ぐちゃりと音を立てて深く下駄が食い込んだ。
その時、瓦版から顔を上げた高橋が、真面目な顔で口を開く。
「そのことなんだがな、昨夜小梅から聞いたのだが……昔、江戸には黒髪切りとか言う妖怪が出たらしい。何でも、女の気付かぬ間に髪を切り落とすとか」
余りに真剣な高橋の言い様に、海華はぽかんと 口を開け、都筑は呆れた様子で横にいる高橋を 見遣った。
「妖怪って、お前な……。大体相手に気付かれぬもなにも、後ろからいきなり引き摺り倒されたと、これに書いてあるだろうが。万が一、妖怪の仕業だとしたら、それを退治するのは俺達の役目では無いぞ」
退魔士か坊主辺りに任せておけばいい。そう鼻で笑う都筑に、その万が一かもしれない、と高橋は食い下がる。
二人の掛け合いを眺めていた海華は、もう苦笑いするしかなかった。
「まあ、高橋の言う通り、妖怪の仕業なら俺達の仕事は少し減るがな。――海華、朱王に充分気を付けるよう言った方がいいぞ?」
ぐい、と顔を近付けてくる都筑に、海華は僅かに眉を寄せ、頬を膨らませた。
「都筑様も兄様の心配ですか? 誰もあたしに気を付けろって、言ってくれないんですね?」
夜に屋外へ出る機会は海華の方が圧倒的に多い。
膨れっ面で見上げてくる海華を見た二人は顔を見合せ、ぷっ、と吹き出した。
「それは海華殿、海華殿の髪は短過ぎて切るのには難儀するだろう」
「そうだそうだ、もし俺が下手人の立場なら、断然朱王を狙うな。海華、もしお前が狙われたなら、頭の皮ごと剥ぎ取られるぞ」
「皮剥がれる!? そっちの方が嫌ですよ!」
笑いを含ませた二人の台詞に、真っ青になった海華は、勢いよく両手で頭を押さえる。
僅かに悲鳴の混ざった小さな叫びに、侍二人は再び顔を見合せ、大笑いするばかりだった。
都筑らと別れた海華は瓦版を握り締め、一目散に長屋へと戻った。
いつもより早い妹の帰宅に、珍しいこともあるものだ、と朱王は目を細める。
今まで、内職の品を納めに行った海華が、真っ直ぐに帰宅したことはほとんどと言っていいほど無かったからだ。
街で偶然逢った顔見知りと話し込んだり、貸本屋や古着屋を覗いたりと道草を食い、昼間に出掛けて帰りが夕方、なんて事はざらにある。
肌寒い空気を引き連れた海華は土間で勢いよく泥だらけの下駄を脱ぎ捨て、皺くちゃになった瓦版を作業机の前に鎮座する兄の前に広げて見せた。
「兄様、また髪切魔が出たんだって! 今度は四谷よ!」
「四谷? 前の場所とは随分離れているな?」
小気味良い音を立てて人形を彫っていた手を止め、朱王が海華へ顔を向ける。
いささか興奮気味の海華は薄っすらと頬を赤くし、瞳を一杯に見開きながら兄を見た。
「それでね、それでね! さっき高橋様と都筑様にばったり会って、この話しになったのよ、そしたら高橋様、これは黒髪切りって妖怪の仕業じゃないかって言うのよ!」
畳に四つん這いになり、鼻息荒く喋り立てる妹に、朱王は呆れ果てたような溜め息をついてガクリと頭を垂れた。
「妖怪って……高橋様も面白いことを言うな。 まさか、お前信じてる訳じゃ……」
「だって、そんな妖怪もいるかもしれないじゃない。あたしも最初は疑ったけど……でも、妖怪なら姿を見せずに髪切れるわ、もし出会しちゃったらどうしよう!」
一人できゃあきゃあ騒ぐ妹を横目に、朱王は深々と二度目の溜め息を腹の底から吐き出した。
妖怪や化け物の類いが大の苦手な海華に、高橋も余計な話しを吹き込んでくれたものだ。
「だったら、襲われないように暗くなったら外へ出なければいいんだ」
作業机へ向き直り彫刻刀を握る朱王の投げ遣りな台詞に、海華は真面目くさった顔で大きく頷いた。
「うん、都筑様にもそう言われた。兄様も充分気を付けろって。あたしは髪が短いから、頭の皮ごと剥がされるかもしれないってさ。もう夜は絶対表になんか出ないわ!」
首を竦めて震え上がる妹に朱王が掛けたのは、 ああ、そうしろ、といかにも気のないものだった。
幼い子供に『化け物が出るから早く寝ろ』と言うのと同じだ。
しかし、そんな戯れ言で海華が大人しく言うことを聞くならば、朱王も修一郎も彼女の身を案じて気を揉まなくても済む。
怖いわねぇ、と繰り返しながら、新たに受けた内職の準備をする海華の背に、突如朱王の声が飛んだ。
「そうだ、言い忘れていた。明日昼前に客が来る。悪いが茶の支度をしていてくれ」
「わかりました。兄様また仕事受けたの? やっと終わったばかりなのに」
部屋の隅に積まれた縄の山を抱え、海華は目を瞬かせる。
朱王は作業机に向かったまま、緩やかに首を振った。
「まだ受けるかどうかは決めていない。取り敢えず話しだけは聞いてみるさ。なにしろ、先方からわざわざここに来るってんだからな」
「いつもはこっちから行かなきゃならないのにね。――まあ、いいわ。明日はあたし一日ここにいるから」
埃っぽい畳にどさりと縄を置いた海華は、兄のすぐ後ろへ座り込み、冷たくかじかんだ指をごしごしと擦りながら僅かな日銭を稼ぐべく、新たな内職に取り掛かっていた。
朱王の言っていた客が訪れたのは、昼近くのことだった。
草履編みの内職の手を一時止めた海華が一休みしようと腰を上げたと同時、立て付けの悪い戸口が遠慮がちに叩かれる微かな音が兄妹の耳に届く。
すぐさま戸を開けた海華の前に立っていたのは、見るからに上等な着物を纏った一人の女だった。
年の頃は四十を少し過ぎた辺りだろう。
細面の顔に、ふっくらと桜色の唇、二重のぱっちりとした瞳が、どこか不安げに海華を写していた。
手にした青色の風呂敷包みを固く握り締めた女は海華に向かって軽く会釈し、消え入りそうな声で、村瀬屋の者ですが……と名乗る。
にこやかに微笑んだ海華は、直ぐに女を中へと案内した。
「兄様、お客様よ」
そう声を掛けられた朱王は、作業机の前から立ち上がり女に向かって一礼する。
「村瀬屋の者でございます。先日、使いの者が文を……」
おずおずと口を開く女に、朱王の口元が僅かに緩んだ。
「お手紙拝見致しました。わざわざご足労頂いて申し訳ありません。むさ苦しい所ですが、どうぞお上がり下さい」
継ぎの当たった座布団を出した海華は、すぐに茶の支度を始める。
そこに座した女は、きょろきょろと落ち着かない様子で辺りを見回し、しきりに自分の隣へ置いた風呂敷包みに視線を向けていた。
「早速ですが、お嬢様の生き人形を、と伺っておりますが……」
海華が湯気の立つ茶を向かい合う二人の前に出し、それを合図としたかのように朱王が話を切り出す。 はい、と小さく頷いた女はなぜか唇を固く噛み締め、ちらちらと海華に視線を送る。
それを感じた瞬間、海華は女の心の内がすぐ理解出来た。
兄と二人だけで話がしたい、他の人間がいては話し難い、そう女の視線は語っている。
ちらりと兄の方を伺えば、兄もそれを察知したのか女に気付かれぬ程度に小さく小さく頷いた。
「あぁ……私、ちょっと用事を思い出したわ。 申し訳ありません、後は兄様と二人で……。どうぞごゆっくり」
にっこりと女に笑いかけ、海華は腰を上げる。
部屋を出る瞬間、閉まりかかった戸口から見えた女の横顔は、暗い影となって瞳に映った。
長屋を出た海華は、何をするでもなく街をぶらつく。
穏やかな春の陽射しが降り注ぎ、人々で賑わう街。
あちこちの店先には色とりどりの暖簾が揺れ、重そうにしなる天秤を担いだボテ振りが海華の横を通り過ぎる。
鮮やかな振り袖で、きらびやかな簪で着飾った娘達はきっと芝居に行く途中か帰りなのだろう。
賑やかに喋り立てる彼女らからは、ふわりと鼻をくすぐる香の匂いがした。
一点の曇りも無い青空を飛び去る雀の群れを眺めて歩く海華は、どこで暇を潰そうかと思案していた。 きっと昼過ぎまでは戻らない方がいいだろう。
また小間物屋へ冷やかしにでも行くか、そう思った海華の目に、楊枝をくわえて歩く留吉の姿が映った。
「留吉さーん! こんにちわ!」
「おう! 海華ちゃん、久し振りだなぁ」
楊枝をくわえたまま、にっ、と白い歯を見せる留吉に駆け寄る海華。
時間を潰すには良い相手に会ったものだ。
留吉は、ひょいと海華の背中を覗き込み、意外そうに目を見開く。
「箱を背負ってない所を見れば、仕事中じゃあ無いのか?」
「そう、ちょっとした暇潰しですよ。――ところで、例の髪切魔、まだお縄にならないんですか?」
興味津々といった様子で訪ねる海華に、留吉は苦い顔で頭を掻く。
「全然駄目よ。何しろ下手人見た奴がいねぇんだからな」
「そうですか……。でも、死人が出ないだけマシですかね?」
海華の口から死人、という言葉が出た途端、留吉の表情が急に暗く変わる。
それが出ちまったんだよなぁ……。 深い溜め息と共に吐き出された台詞に、今度は 海華が大きく目を見開く番だった。
「出たって、殺されたんですか? 瓦版には何も……」
「殺られたんじゃねぇ。その……これだよ」
留吉は右手を強く自らの首に押しあて、ぐっと上に上げる。
その仕草に、誰かが首を括ったのだとわかった。
「まさか……自害?」
「そうだ、最初に襲われた佃煮屋の娘よ。今朝、首ぃ括ったとさ。何でも縁談が破談になったらしい。ひでぇ話しだよな」
ひどく暗い顔で呻く留吉に、海華は顔を俯かせたまま返す言葉が見つからないでいた。
留吉と別れた後海華はある一軒の茶屋に入り、行き交う人々をぼんやりと眺めている。
その目は無意識に目の前を通り過ぎる女達の髪へ向けられていた。
自分と同じ、猫っ毛の髪をおかっぱに切り揃えた幼い少女、手入れの余り行き届いていないばさついた髪の中年女、共の者を従えた商家の娘らしき若い女は、艶やかな黒髪を少しの乱れも無く結い上げ、赤い珊瑚の簪が、その髪の美しさを引き立てている。
その後ろを腰を屈めて歩く老婆の頭は、雪のように真っ白だ。
冷めかけた茶を口に含み、海華は自らの髪を指に絡めた。
ふわふわと柔らかく、春の陽光に暖められた髪。
結い上げもしないで、みっともないと度々言われ、それでも邪魔だからと伸びるそばから切ってしまうこの髪。
普段大して気にもしないこの髪を、根こそぎ切り取られたとしたら……その時自分はどんな気持ちになるのだろう。
放って置けばまた伸びる、と開き直るのか、それとも佃煮屋の娘と同じく死にたくなるほど嘆き悲しむのか……。
目の前を通り過ぎる数多の人の群れ、街中の喧騒も、海華の耳には届いていない。
完全に自分の世界に入り込んだ海華は、空になった湯飲みを両手で握り締める。
先日、都筑は『髪は女の命だ。』と言っていた。
それを奪われるというのは死ぬのと同意義なのか、海華にはわからなかった。
髪はまた伸びる、しかし命は一度失えば二度と戻ってはこないのだ。
「――きっと、泣くくらいはするわよね……」
ぽつんと一人ごちた海華は、その場に茶の代金を置き、溜め息混じりに立ち上がる。
太陽は既に頭の上を過ぎていた。
もう、客は 帰った頃だろう。
もやもやした気持ちを引き摺りながら、海華は人混みの中へと消えて行った。
ただいま、と一声放った海華が部屋の戸口を引き開けると、兄はいつもの指定席、作業机の前に鎮座していた。
机に寄り掛かる兄は、なぜか浮かない表情で目の前の壁とにらめっこしている。
「兄様? ……兄様、どうかしたの?」
土間に立ったまま、不思議そうに小首を傾げる妹にやっと気付いた朱王は、慌ててこちらに顔を向け、ぎこちない笑みを浮かべて見せた。
「あぁ、――お帰り。早かったな?」
「うん、あの人は? もう帰ったの?」
そう言いながら、壁際に視線を走らせる海華。
来客時に出した継ぎだらけの座布団は、きちんと元の場所へ片付けられていた。
「さっき帰った。仕事も受けたよ。前金で十両だ。悪い話しじゃないだろう?」
机の上に置いた白い金包みを弄り、朱王は顔に掛かった髪を後ろへと掻き上げる。
さらさらと動く漆黒の流れ。
その下にある兄の表情は、いつもとどこか違って見えた。
「引き受けたの……。ねぇ兄様、何かあったの? 随分冴えない顔してるけど……。そんなに難しい仕事?」
部屋へ上がった海華は、心配そうな面持ちで兄と向かい合う。
暫し言葉に詰まった朱王は、再びぎこちない笑みを見せ、緩く首を振った。
「いや、そんなことはないさ。至って……普通の仕事だよ。何も案じることは無い」
「それならいいけど……。あ、そうだ、兄様あのね……」
何度か目を瞬かせた海華は、さっき道で留吉から聞いた話しを兄に聞かせた。
全てを聞き終わった朱王は、留吉と同じくひどく暗い表情を作り出す。
「自害したのか……。可哀想にな」
「うん。婚礼の日取りも決まりかけてたらしいわ。相手側から一方的に断り入れてきたんだって。――いくら惚れ合ってた仲でもさ……どんなに辛くても、自分から死ぬことないじゃない?」
そう呟いた海華は、ごろんと冷たい畳へ仰向けに寝そべる。
寝転んだままで見上げた兄は作業机に頬杖をつき、まるで独り言のように壁へ向かって静かに喋り出した。
「髪切られた上に縁談はおじゃんか……。ついていないと言えば、それまでだな。――でも」
一度言葉を区切り、ゆっくりと妹を見下ろす朱王。
暗い光を孕んだ瞳は、じっとこちらを見詰める海華を映す。
「顔を切られたり、辱しめられた訳じゃないんだ。髪が伸びるまで待つ、と相手の男が一言でも言っていれば、その娘だって死ぬのは思い止まったろうさ」
「――自分の親に逆らってでも?」
そんなことが出来るのか? と言いたげな海華に、朱王は少し寂しげ顔を歪めた。
「心底惚れてるなら、それぐらいは出来るだろ? 相手がどんな言葉を欲しているか、理解するのは難しいが……。思い合わなきゃ一緒になんて暮らせないよ」
溜め息混じりに出た言葉は、壁の隙間から入り込む風に流され、溶けるように消えた。




