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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第二十二章 孤高の虎 独眼の龍
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第五話

 志狼の体に覆い被さるように倒れ伏した龍牙の骸を手荒に地面へ跳ね飛ばした朱王は、意識をなくした志狼の身体を抱え上げ、医者の元へと疾走した。

もし、志狼が無傷だったなら、このままなに食わぬ顔で桐野の所へ帰り、全ては丸く納まったのだが、こうなってしまっては事の次第を全て白状しなければならない。

あの桐野に嘘や誤魔化しが通用しないことは、朱王も海華も重々承知していた。


 医者の元へ向かう朱王らと途中で別れた海華は、その足で桐野宅へ駆け込む。

あちこちに痣が浮かぶ海華の顔を見た桐野はひどく驚いた表情を浮かべ、海華の口から志狼が斬りつけられたと聞いた時には、いつも冷静な桐野の顔にもはっきりと焦りの色が見て取れた。


 直ぐさま海華と共に志狼の運ばれた医者の所へ走った桐野。

二人が到着した時には、幸いなことに志狼の意識も戻り、傷の手当ても無事に済んでいた。

朱王と共に志狼に付き添っていた見掛けぬ男女に桐野は僅かに怪訝そうな顔をしたが、とにかく志狼が無事だったことを知り、胸を撫で下ろしている。

それとは反対に、桐野の姿を認めた志狼は真っ青な顔で唇を噛み締めていた。


 どうしても家へ戻ると言い張る志狼に押し切られ、朱王と桐野は痛みに顔を歪める志狼の身体を両側から支えながら、なんとか八丁堀へと到着した。

その後ろには、不安そうな表情を崩さない海華と、どこか覚悟を決めた様子の実虎、桔梗の姿があった。


 ぐったりした志狼を布団に横たえた後、四人は客間へと呼びつけられる。

余計な装飾の一切無い、簡素で冷たい空気が満ちる部屋。

そこで朱王と実虎の口から廃屋であった出来事、そして実虎と桔梗が何者なのか、一切合財が淡々と語られ始める。

朱王らから全てを聞いた桐野は眉間に深く皺を寄せ、腕組みをしながら顔を伏せてしまった。


 「――志狼の過去は……勿論両親のことも、既に志あいつの口から聞いている。どうもこの頃様子がおかしいと思っていたが……」


 まさか命を狙われているとは思わなかった。

しかも自分の両親を殺めた男にだ。

どれほど苦しかったことだろう。


 「志狼さんも苦渋の選択でした。このままでは桐野様にも危害が及ぶと」


 「だが、人を殺めたことに変わりは無い」


 自分を見詰めてくる朱王を真っ直ぐに見詰め返し、桐野はきっぱり言い切った。

落ち着かない様子で何度も膝の上に乗せた手を握る海華は、ちらちらと兄の横顔へ視線を送る。

と、突然桐野の口から大きな溜め息が漏れた。


 「話は変わるが……桔梗と申したか? そなた志狼を甲賀へ連れ戻す気か」


 桐野の問い掛けに、桔梗はぴくりと唇の端をつり上げた。


 「恐れながら……志狼さんは亡き頭領の孫、合わせ絵を持って甲賀へ戻れば、次期頭領となるのは確実でございます。――ですが、甲賀に行くも、江戸へ残るも志狼さんの心次第かと」


 すっ、と一礼する桔梗を眺めながら、桐野は再び溜め息をつく。

それを見た朱王は、冷や汗を流しながら生唾を飲み込んだ。

まさかとは思うが、桐野は志狼に甲賀へ行けと言うのでは無いか……。

主である自分、与力組頭としての立場も考えず人を殺める奴など置いてはおけない。

そう言い捨てるのではないか。

嫌な考えばかりが頭の中を駆け巡る。


 それは海華も同じらしく、今にも泣き出しそうに顔を歪めて桐野を見詰めていた。

が、組んでいた腕を緩めた桐野は困ったように頭をがりがり掻きむしる。


 「志狼が行きたいと言えば、儂は止めぬ。――もし、お前は人殺しだ、と糾弾して志狼を叩き出せば、朱王、海華、お主らは儂を恨むだろう」

 

 思いもよらない桐野の言葉に、四人は呆気に取られた様子で桐野へ視線を向けた。


 「お主らの師であるその二人をお縄にしても結局恨まれるのは同じ、お主ら兄妹も同罪だ、と捕らえても、今度は修一郎に恨まれる。どちらにしても、儂は憎まれ損だ。だから……今の話しは全てお主らの独り言。儂は何も聞いてはおらぬ」


 「桐野、様! それじゃあ、あたし達も、志狼さんも……!?」


 ぐっ、と身を乗り出し、顔を綻ばせた海華に桐野は素知らぬ顔で視線を反らしてしまった。


 「海華、儂は何も聞いておらぬと申したろう?」


 顔を背けた桐野に向かい、四人はありがとうございます、と深々と頭を下げた。

志狼も自分達もお咎め無し、後は桐野が上手く処理してくれる。

志狼がこの場にいたなら、きっと号泣していただろう。

胸のつかえが取れていくのを感じながら、朱王は密かにそう思っていた。


 『事を公にしない代わり、と言ってはなんだが、海華に一つ頼みがあるのだ』


 帰り際、些か照れたような様子で桐野から告げられた頼み、それを聞いた海華は、一瞬ぽかんと口を開けてしまった。

が、直ぐに満面の笑みを浮かべ、大きく頷いたのだ。


 そして激動の一夜が明け、薄暗い雲からちらちらと小雪が舞う寒い朝、桐野宅の門前には白い息を吐きながら勤めに向かう桐野を見送る海華の姿がある。

志狼の傷が完治するまで飯の支度など自分の世話をして欲しい、というのが桐野の頼みだったのだ。


 それを快諾した海華は毎朝早くから桐野宅へ向かい、朝餉の支度を終えて桐野を送り出したところだった。

寒さと冷たい水のために赤く変わった指先を擦り合わせながら、海華は志狼の自室へと走る。


 「入るわよ? 志狼さん全部食べられた?」


 がらりと襖を開けば、正面に布団から起き上がった格好の志狼の姿。

前に置かれたお膳は、きれいに空となっている。


 「旨かった。ご馳走さま」


 「お粗末様でした。今お茶入れてくるわ」


 空っぽの器を前にし、満足気に微笑んだ海華はお膳を手に部屋を出ようとする。

それを志狼は慌てて引き留めた。


 「それくらい自分で……」


 「いいから怪我人は大人しく寝てて! 志狼さんの看病も、桐野様から頼まれてるんだから!」


 そう言い放たれた志狼は、ばつが悪そうに頬を掻く。

寝間着から覗く胸元からは、真っ白な包帯が巻かれていた。

が、幸い傷は深くなく、動こうと思えば動けるのだ。


 黙って寝ているだけでは余りに退屈すぎる。

有り余る時間をどうしようかと志狼が思案していた時、廊下の向こうから兄様 !と叫ぶ海華の声が聞こえてきた。

朱王が来たのか、そう思った志狼がふらふらと布団から腰を上げかけたと同時に襖が開き、朱王が顔を除かせる。


 「志狼さん、具合はどうだ?」


 にこりと笑う朱王につられて、志狼も僅かに口角を上げて見せた。 


 「もう何ともない。――朱王さん、色々と世話になったな」


 再び布団へ座り直し、ありがとう、すまなかった、と志狼が頭を下げた。


 「気にしないでくれ、俺も海華も志狼さんには世話になっているんだ。ところで……」


 ふっ、と声を小さくした朱王に志狼はゆるゆると顔を上げる。

今まで笑みを見せていた朱王は、どこか不安そうに瞳を揺らめかせた。


 「桐野様と話は出来たのか? その……これからのことを」


 じっと志狼の顔を見詰める朱王の心配はただ一つ、志狼がここを出ていくのではないか、ということ。 主に迷惑を掛けた以上、自分はここに居られない。

桐野や自分達に黙って姿を消すことだって、充分考えられるのだ。

ぱちぱちと朱王の傍らに置かれた火鉢が音を立てて赤い火花を散らす。

暫しの沈黙の後、志狼は乾いた唇を静かに開いた。


 「旦那様は……好きなだけここにいろと仰って下さった。俺も……ここを離れたくないと、言った」


 「なら、甲賀には行かないんだな?」


 念を押すような口調の朱王に、志狼は寂しそうに目を伏せ小さく首を振る。


 「今更甲賀に行って何になる? 確かにお袋の故郷には間違いない。だが、俺は葛ノ葉の連中とは何の関係もない。それに……旦那様にはまだ恩返しが出来ていないからな」


 ふっ、と志狼の口から白い息が漏れ、宙に溶けていく。

自分が桐野と出逢った時のことを、無意識のうち志狼は初めて他人に話していた。


 「親父とお袋が死んでから、俺は物乞いと掏摸すりで暮らしてた。手先は器用だし、親父譲りで素早しっこかったからな。……俺が初めて掏摸すりでしくじったのは、旦那様の懐を狙った時だけだ」


 自嘲気味に呟く志狼の話しに聞き入る朱王。

膝の上で握り締めた手の上に、火鉢から飛んだのだろう白い灰が一片、ふわりと舞い降りていった。


 「あの時は、四日間何も食ってなかった。人混みの中で旦那様に目を付けて……侍だから小金を持ってる、まだ若そうだからちょろいもんだと思ってな。いつも通りわざとぶつかって、懐へ手を突っ込む前に、旦那様に襟首掴まれてた」


 あの日を思い出したのか、弱々しい笑みを浮かべた志狼は自らの膝先へ視線を落とす。

しかし、それは一瞬のことだった。


 「さすがにあの時はもうお仕舞いだと思った。逃げる気力も無いしな。がちがちに固まった俺を見て、旦那様はこう言った。お前、腹が減っているのか? ってさ」


 「――桐野様らしいな」


 くすり、と小さく微笑んだ朱王に、志狼が、そうだろ? と呟く。


 「そうだ、って答えたら、そのまま飯屋に連れ込まれて、腹一杯飯を食わせてくれた。親も住まいも無いと話したら、ちょうどウチで使用人を探している。お前さえよければうちに来い、と。 驚くだろ? 会ったばかりの掏摸すりに……小汚ねぇ乞食のガキにだぜ? それから俺はここで世話になってる」


 今の自分があるのは全て桐野のお陰だ。

決して足など向けて寝られない。


 「だから、俺はずっと旦那様にお仕えしたい。出ていけと言われない限りは、ずっと……」


 ごしごしと目頭を擦る志狼の声が僅かに詰まる。

この男も、自分と同じく泥水の中を這い回る生活をしていた頃もあったのか、と朱王は心中思っていた。 その時、部屋の襖を静かに開けて二人分の湯飲みを盆に乗せた海華が入ってくる。


 「随分静かだったけど、何か大事なお話しだった?」


 湯気の立つ熱い茶を二人に手渡し、盆を胸の前で抱えた海華が白い歯を見せ、小首を傾げた。


 「うん、――志狼さん、ここに残るってさ」


 兄の言葉に、海華は嬉しそうに顔を綻ばせる。


 「よかったわ! 実はあたし、志狼さん傷が治ったら黙って出ていっちゃうかと思ってたの」


 「俺も最初はそうしようと考えてた」


 旨そうに茶を啜りながら、志狼がぽつりと答えた。

やっぱりね、と頷く海華が抱えていた盆を傍らへと置く。


 「桐野様に迷惑かけたって気持ちはわかるけど、でもね、いつも傍にいてくれる人がいきなりいなくなるのって、凄く悲しいし寂しいもんよ?」


 穏やかな目をした海華の口から出た言葉に、志狼ははっと息を飲む。

確かに、両親が突然殺され自身の前から消えた時、心が押し潰されるような悲しみと寂しさに襲われた。 同じ思いを尊敬し、敬愛する桐野にさせてしまうところだったのだ。


 「そう、だな……。おめぇの言う通りだ。――今度ばかりは本当におめぇに悪いことしたな。怪我までさせちまって……」


 しょんぼりと項垂れる志狼に、海華はからからと高らかに笑った。


 「いいのよいいのよ、そんなこと! でも、酔っ払った志狼さんに、母ちゃん! って抱き付かれた時は、正直どうしようかと思ったけどさ」


 その一言を聞いた途端、さっ、と顔色を蒼白に変えて急に志狼が焦り出す。

そんなことをした覚えは全く無い。

大体、自分がどこで飲んでいたのかすらも覚えていないのだ。


 「ぐでんぐでんに酔っ払ってたからな、海華押し倒されたのはさすがにまいったよ」


 「だ、抱き付いた……? 押し倒したぁ!?」


 とどめとばかりの朱王の台詞に、湯飲みを持つ手がぶるぶる震える。

目を白黒させている志狼にちらりと視線を向け、朱王はにやりと意味深に笑った。


 「引き剥がした時には寝ちまったけどな」


 「そ、うか、それ以上は……何も無い、よな?」


 「当たり前じゃない、それ以上あったら今頃志狼さん、大川辺りに浮かんでるわよ。――桐野様には内緒にしてあげる」


 唇に人差し指を当てて軽く片目を閉じた海華に、ひどく引き攣った表情で『頼む』と呟いた志狼を目の当たりにし、朱王は盛大に吹き出していた。






 『あの旦那の気が変わらないうちに、江戸とはおさらばだ』


 実虎がそう切り出したのは、龍牙と三治の死が破落戸ごろつき同士の喧嘩のためだと瓦版に載った、その日の夜だった。

どうやら桐野の誤魔化しは上手くいったらしく、殊更騒ぎ立てる者はいない。

ひと月もたてば、人々からはきれいに忘れ去られてしまうだろう。

前回と同じく、実虎と桔梗は自分達に何も告げずに行ってしまうのではないか、そう気が気ではなかった兄妹は報告があったことに一先ず安堵したが、同時に一抹の寂しさも感じていた。


 もっとゆっくり話しがしたかった。

十年越しの再開なのに、なんと慌ただしく日々が過ぎてしまったのだろう。

もう少し江戸へ留まれないか、との朱王の提案にも、実虎は頑として首を縦には振らない。

江戸の空気も水も女も、俺にゃあ合わねぇんだ。

それが実虎の答えだった。


 まだ夜も明けきらぬ日本橋、肌を刺すように吹き荒ぶ寒風の中、旅装束姿の実虎と桔梗を見送りに出た兄妹の姿があった。

暗く冷たい闇に包まれた四人の他、人影は全く無い。

志狼も、実虎らを見送りたいと切望したのだが、海華から『てめぇの身体を一番に考えろ』と実虎からの伝言を受け、今日ここに来るのは諦めたようだ。

長屋からここへ来るまで、兄妹の表情は外に広がる闇と同じくらいに暗く、終始無言だった。

師の旅立ちを前に海華は早くも両目一杯に涙を溜め、最早桔梗の顔を正面から見ることも出来ない。

朱王も涙こそ見せないものの固く唇を噛み締め、手にした小さな包みを弄んでいる。


 「それじゃあ行くか、二人共今回は世話になったな」


 背の荷物をしっかりと背負い直した実虎が、ひょいと片手を上げる。

大したことはしていません、どうぞお元気で……。 言いたいことは山程あるのに、どれも喉の奥で止まってしまう。

とうとうしゃくりあげ始めた海華を見て、桔梗はくすくす小さな笑みを漏らした。


 「嫌だねぇ、今生こんじょうの別れでもあるまいに」


 「なら……また会えますよね? 今度は、あたしが上方まで行きます……。だから……っ!」


 後は涙で言葉が続かない。

寒風に曝され、乾いた涙でひりひり痛む頬を桔梗の手が些か乱暴に撫で上げた。

 

 「それまでに、その泣き虫を直しておいで。 ――江戸に入ってからすぐ、あんたの芝居見たけど、本当に上手くなったよ。組紐の腕も……もう何の心配もいらないね」


 唐突に掛けられた余りにも優しい言葉に、海華は両手で顔を覆い、声を上げて泣きじゃくる。

大きく震えるその肩にそっと手を添えた朱王も、今にも泣き出してしまいそうに顔を歪めた。


 「何でぇ何でぇ朱王! おめぇまで辛気臭ぇ面しやがってよぉ。まぁ、おめぇの腕もいくらかは上がったようだから、俺も一安心だ」


 「そんな……私なんかまだまだ……」


 ぎゅっ、と力一杯包みを握り締めた朱王は、恐る恐る実虎に視線を向ける。

ざりざりと無精髭を擦る実虎は、どこか照れているように見えた。


 「師匠、これを……。遅くなってしまって、申し訳ありません」


 意を決した様子の朱王がゆっくりと差し出した包みを見て、実虎は僅かに目を細めて首を傾げた。


 「江戸を出る時、立て替えて頂いた闇手形代の二十両です。――お返し致します」


 ありがとうございました、と深々頭を下げる兄妹を前に、実虎と桔梗は呆気に取られたように顔を見合わせた。


 「なんでぇ、そんな昔の話しまだ覚えていやがったのか?」


 「はい。一人立ちしてから、海華とこつこつ貯めた金です。必ず師匠にお返ししたいと」


 「律儀な子だよ。折角だから、頂いておきな」


 そう言いながら実虎に流し目を送る桔梗。

うぅ、と微かに唸った実虎は、朱王が差し出す包みを受け取り懐へとしまった。


 「まあ、そこまで言うならもらっておくか。 ――じゃあ、達者でな」


 ぶっきらぼうに言い放ち、実虎はくるりと踵を返して橋へと向かう。

それを追う桔梗は、じゃあね、と艶やかな笑みを二人へと投げた。

僅かに目を潤ませる朱王と、ぼろぼろ涙をこぼす海華は二人の姿が見えなくなるまで橋の袂へ立ち尽くしたまま。


 やがて、東の空から闇を切り裂く光の筋が迸る。

新しい朝は冷たい北風と白い朝日を伴い、赤く染まった二人の頬を照らしていった。





 実虎らが江戸をたって五日程が過ぎた。

桔梗との別れに気落ちし、しょんぼりと元気の無かった海華だが、近頃徐々に立ち直り内職の仕事も少しずつ受けている。

白兎の尻尾と似た牡丹雪が舞い降りるこの日も、海華は一日かけて編み上げた草鞋を店へと納めに出掛け、朱王は新たに受けた人形製作のために朝から作業に没頭していた。


 火鉢にかけた鉄瓶から吹き出る湯気と、朱王が木を削る軽ろやかな音だけが響く部屋。

そこへ、とんとん、と遠慮がちに戸口を叩く音が混ざった。


 作業の手を止め、どうぞと声を掛けながら振り返る朱王の前で戸口を軋ませ入ってきたのは、頭や肩に真っ白な雪を積もらせ、寒さに頬を赤く染めた志狼だった。

手には大きな酒瓶と、若草色の風呂敷で包まれた小さな包みを持っている。


 「邪魔するよ、今いいか?」


 「どうぞ。志狼さんもう出歩いてもいいのか?」


 「ああ、医者ももう心配いらないと。海華は出掛けているのか?」


 「内職の品納めに行ってる。どうぞ、上がってくれ」


 土間に立ち、雪を払う志狼に声を掛けて朱王は茶の支度を始めた。

部屋に上がった志狼は、持参した酒瓶と包みを朱王の前に差し出す。


 「今回は本当に迷惑かけて……少しなんだが、受け取ってくれ。海華は酒が飲めないと旦那様に聞いたから、これは海華に」


 「そんな、気を遣わなくてよかったんだ。大したことをしたわけじゃないしな」


 苦笑いを見せる朱王に、こんなことくらいしか出来ねぇから、と志狼は小さく呟く。

余り断るのも悪いと思った朱王は、ありがたく頂戴することにした。


 「海華も喜ぶよ。――それで志狼さん、気持ちの整理は……少しはついたか?」


 どこか案じるような声色の朱王に、志狼は俯きがちに軽く何度か頷いた。


 「まぁ……少しは、な。この間、親父とお袋の墓にも報告してきたし。あんな板切れ一枚で殺されたなんて、今だに納得は出来ないが……。 いつまでもうじうじしてたって仕方がない話だ」


 「そうか……。墓の場所、わかったのか?」


 もうもうと湯気の立つ茶を志狼に渡し、意外そうに朱王が尋ねる。

冷えた指を温めるように湯飲みを手で包んだ志狼は、僅かに口元を緩めた。


 「ああ、ずっと昔、旦那様が無縁仏を片っ端に探して下さったんだ」


 「桐野様が? ――そうだったのか。で、あの合わせ絵はどうした? 桔梗さんに渡したか?」


 「いいや、俺が持ってる。親の形見なんて、あれだけしか持っていないしな。桔梗さんもわかってくれた。甲賀の方は、上手く言いくるめるから心配するなとさ」


 もう、狙われることもないだろう。

そう小さく笑いながら志狼は湯飲みに口を付けた。

朱王も、ほっとした表情で志狼を眺めている。


 「海華の奴、もうすぐ帰ると思うから少し待っててくれないか?」


 「いいのか? あいつにも、直接礼がしたかったんだ」


 嬉しそうに顔を綻ばせる志狼に、朱王もつられて笑顔を見せた。

音の乏しかった部屋に、男二人の談笑が響く。

ふわふわと地面を覆う真っ白な雪を踏み締め、雪だらけになった海華が部屋へ駆け込んできたのは、それから直ぐのこと。


 恨みも怒りも、全てを覆い隠すような純白の雪は、ただ音もなく江戸に降り積もっていった。









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