第四話
次の日、長屋の自室には実虎からの報せを今か今かと待つ兄妹の姿があった。
始終無言を貫いている朱王は、机に向かって人形の仕上げを行い、火鉢の炭を神経質に火箸でつつき続ける海華は今日何度目かの深い溜め息をついている。
太陽はとうの昔に西へ沈み、冷たい北風がひゅうひゅうと哀しげな音色を立てて吹き抜ける。
がたがた揺れる立て付けの悪い戸口の向こうは、墨をぶちまけたような漆黒の闇が広がっていた。
と、小刻みに振動を繰り返す木戸を、とんとん、と何者かが遠慮がちに叩く音が二人の耳に飛び込んだ。
朱王が人形へ向けていた顔を跳ね上げ、戸口を見た時には、既に土間へ飛び降りた海華が戸に手を掛けているところだった。
誰? と小さな声色で相手に問い掛ける海華に、『志狼だ』とこれまた小さな返事が返る。
つっかい棒を外し、がたついた戸を開いた途端、びゅうっ! と埃を舞い上げて吹き込む冷たい風に思わず海華は身を竦めた。
そんな彼女の前で吹き抜ける寒風の中に立っている人の形をした闇が小さく揺れる。
黒の着つけに同色の股引きと紺足袋、目から下をぐるりと黒い布地て覆った男、志狼はまるで盗賊のような出で立ちだ。
唯一覗く二つの目と、左手に持った脇差しの鞘だけが光を反射し、きらりと輝く。
猫のように足音も立てず、部屋へと滑り込んだ志狼は顔を覆う布を指先でずらし、兄妹を見渡した。
「実虎さんから伝言だ。闇針の奴が全部吐いた」
「そうか、なら龍牙の居場所もわかったんだな?」
ゆっくりと腰を上げ、朱王は黒づくめの志狼と対峙する。
志狼の首が軽く縦に振られた。
「ああ、荒神町にある森の中だ。奥にある廃屋が、奴の棲家だと。実虎さんと桔梗さんは闇針を連れてそこにいる。朱王さんを呼んでこいと、さっきうちに投げ文があった」
寒さで僅かに頬を赤らめつつ志狼は真っ直ぐに朱王を見詰める。
わかった、と一言答えた朱王は長持ちの蓋を開け、中から丁寧に布地で包まれた太刀を取り出した。
長い黒髪を後ろで一纏めに結わえる兄を横目で見ながら、頬に青痣を張り付けた海華は静かに唇を動かす。
「あたしも、一緒に行く」
唐突な台詞に志狼は信じられないと言いたいように目を見開き、海華を凝視した。
「一緒にって……おめぇ怪我人なんだぞ!? 相手はそこらの破落戸とは訳が違うんだ、下手をすりゃあ殺される!」
「わかってる。だけど、やられっぱなしなんて嫌よ! 足手まといにはならない、約束するから……」
必死で言い張る海華に閉口しながら、志狼は彼女を止めてくれ、と助けを求めるように朱王へ顔を向ける。
自分の言うことは聞かなくても、兄である朱王が行くな、と言えば海華は諦めると考えたのだろう。
しかし、朱王から返った答えは志狼の予想を裏切るものだった。
「志狼さん、海華も連れて行く。こいつにも殴られた仇討ちをさせてやってくれ」
「朱王さん……なにかあったらどうする気なんだ?」
「自分の命は自分で守らせる。俺と海華のことは構わないでくれ。例え死んだとしても、それは自分の責任だ」
真っ直ぐ射るような目差しで志狼を見遣り、きっぱり言い切った朱王は、その視線を妹へと移す。
端の切れた唇を僅かに上げ、海華は大きく頷いた。
「そのくらいの覚悟は出来てる。だからお願い、あたしも一緒に連れて行って」
両手を指が白くなる程にきつく握り締め、すがるように自分を見上げてくる海華。
これ以上駄目だと言ったところで、二人の決意は変わらないだろう。
「――わかった。そこまで言うなら……。その代わり、一人で絶対に先走るんじゃねぇぞ。奴の狙いは、俺なんだ。だから、俺の側には近寄るな」
もう、自分のせいで誰かが傷付くのは見たくない。
ぎゅっ、と胸が締め付けられるように痛むのを感じながら、志狼はそう呟く。
その瞬間、朱王の唇が小さな笑みを作り出した。
「志狼さんに死なれちゃ俺達だって寝覚めが悪い。だから、誰も死なせない。――海華の紐はよく飛ぶから、後ろは任せておくといい」
朱王の言葉に志狼はつられるように微笑む。
その横で、海華は任せろとでも言うように、自らの胸を強く叩いた。
すっかり葉を落とした大木が寒風に白骨にも似た枝をしならす。
ざわざわと町中の喧騒とも聞こえる暗い森の中。
冷えた空気を切り裂き、木々の枝の間から光の帯となって地面に届く白い月明かりの下で蠢く六つの人影があった。
枯草を踏み締めて立ち尽くす実虎と桔梗の足元には、産みの親さえ顔の判別が困難な程に顔を変形させた小太りの男が、荷物のように転がされている。
それは、桐野宅の玄関先で海華を手籠めにしようとした男、闇針の三治と呼ばれていた男だ。
実虎に捕らえられ、彼と桔梗の手によって強かに痛め付けられた男は、顔といわず身体といわず真っ黒な痣を張り付け、顔は原型を留めない程に腫れ上がっている。
もともと厚い肉がついた瞼は目も開けられないほど腫れ、血を流す唇から漏れる息は、ひどく苦し気だ。
志狼と共に森へ駆け付けた朱王と海華にもそれぞれ渾身の力で一発づつ殴り飛ばされ、今や息も絶え絶えの状態だった。
この場に現れた海華を目にした時、桔梗は、本当に大丈夫なのか、と言いたげに露骨に眉をひそめていた。
しかし、三治を鼻血が出る程に殴り飛ばした海華の姿を前に、心配はたちどころに消え去ったようだ。
冷えた夜気に漂うのは、全員の張り詰めた緊張感と三治の荒い息遣い。
強い光を秘めた皆の瞳が見据えていたのは、煌めく月光に浮かび上がる一軒の廃屋である。
茅葺きの屋根は所々に穴が開き、汚い壁は方々(ほうぼう)に長いヒビが走る、今にも崩れそうなあばら家だった。
青草の頃には一目につかないであろう廃屋を睨み付ける実虎の草鞋を履いた足が、そこに転がるぼろぼろの男を強かに蹴り飛ばす。
「おう三治。手前ぇには一役かって貰うぜ? 龍牙の野郎を外へ誘き出せ。裏切りと騙しが十八番のおめぇだ。簡単な話しだろう? ――もしも逃げやがったら……わかってんな? 桔梗姐さんの毒糸から逃げられると思うなよ?」
「あんたの毛の生えた心臓、後ろからぶっ潰されたくなかったら……大人しく言うこと聞くんだね」
紺色の組紐を袂から引き出し、先端で煌めく槍先をこれ見よがしに三治の鼻先で揺らす桔梗は、赤い唇をきれいな三日月形に歪めた。
すっかり抵抗する気も失せ、縮み上がってぶるぶる震える三治は、無言のまま何度も何度も頷き、這うようにして廃屋へと向かう。
よろめき、幾度も転びながら歩く三治の無様な後ろ姿は次第に小さくなっていく。
その時、大木の影に隠れる朱王に向かって実虎はにんまりと意味ありげな笑みを投げ掛けた。
「朱王、おめぇ腕は鈍ってなさそうだな。 ――雰囲気でわかるぜ? おめぇ、江戸でも何人か殺ったろう?」
「不本意ながら……。好きで刀を振るう訳ではありません。むやみやたらと刀に頼るな。師匠はそう教えて下さいました」
人殺しなどしたくない、ただの人形師として平凡に暮らしたい……どれほどそう思ったことか。
しかし、運命はそれを許してはくれないようだ。
複雑な表情を浮かべる朱王と、にやりと笑う実虎の視線がぶつかる。
「おめぇの腕なら、安心して斬り込みを任せられる。海華は後ろを預けても不安は無い。 ――どれだけ腕上げたか、しっかり見せて貰うぜ」
承知しました、と朱王が静かに呟いたその瞬間、唐突に廃屋からばたばたと激しい物音と、人の争う怒声が響く。
そして、ぎゃあーっ! と断末魔の悲鳴が五人の鼓膜を震わせ、真っ暗な夜空へと消えていった。
闇夜に響く断末魔、五人の顔が弾かれたように跳ね、視線が廃屋へと集中する。
刹那、ばりばりっ! と枯木が砕けるけたたましい響きと共に廃屋の戸が砕け散り、のそりと長身の影が姿を現した。
月明かりに照らされた人影、埃と日焼けで白く汚れた紺の着付けに股引き姿の男だ。
ぼさぼさの髪から覗く蛇にも似た瞳は一つだけ。
間違いなく、海華を襲った男にして志狼の両親を惨殺した男、龍牙だった。
だらりと垂らした右手は、遠目からでもわかるほどにべったりと深紅の血潮にまみれ、それは粘っこい雫を滴らせて足元の枯草を濡らす。
突然現れた龍牙は、肉が削がれたような薄い頬を引き攣らせるように歪めた。
「鼠が……いつまでこそこそ隠れている?」
あの時と同じ、地を這う冷たい声色に海華はごくりと喉を鳴らす。
龍牙の挑発的な呼び掛けに、最初に大木の陰から飛び出したのは志狼だった。
後を追う実虎以下三人、最初に飛び出した志狼の姿を見た龍牙は独眼を細めて志狼を見詰めた。
「貴様がお狼の息子……志狼か?」
龍牙の問い掛けに、そうだ、と声を震わせて志狼が答える。
彼の返事を聞いた龍牙の薄い唇がますますつり上がる。
「なるほどな……あの左近とか言う野良犬にそっくりだ」
「野良犬、ッ!? てめえ……やっぱりてめえが親父とお袋を……っ!」
こめかみに青筋を浮かび上がらせ、ぎりぎり眦をつり上げる志狼を、龍牙は嘲るように笑った。
「そうだ、俺が殺った。貴様の親父もお袋も馬鹿だ、救いようのない大馬鹿だ。素直に合わせ絵を渡せばいいものを、息子の小次郎に預けたなんて下らん嘘をつきやがって……。痛め付けていたら、はずみで殺っち まった。ただ、それだけよ」
悪びれる風も無く、まるで物を壊しただけだと言わんばかりの龍牙に、志狼の怒りがついに爆発した。
「うるせぇッ! 黙りやがれっ! てめえだけは許さねぇッ! 絶対に、許さねぇッッ!」
腹の底から噴き出す怒りと悲しみに目の前が真っ白に変わる。
ぎりぎり握り締めていた脇差しを力一杯抜き取り、空気を震わす咆哮を上げた志狼の足が大地を蹴った。 あっと言う間の出来事に、実虎も朱王すらもその場を動くことができないでいる。
どんっ! と枯草を舞い上げ、志狼の身体が綿毛のように空へ跳び跳ね、冷たく煌めく刀身が思い切り振り上げられて、一直線に龍牙の頭目掛けて降り下ろされた。
ぎゅん……と刃が唸った、その瞬間だった。
龍牙の姿が、闇に溶けるかのように消えた。
刀は虚しく空気を裂くだけ。
志狼の瞳が驚きに大きく見開かれた刹那、突如、右の頬を襲う熱く鈍い衝撃に視界が歪む。
痛みも何も感じる暇すら与えられず、志狼の身体は凍った地面へぶち当たり、反動で毬のように跳ね上がる。
「まずいっ! 朱王っ!」
「はいっ!」
吹き飛ばされた志狼を目の当たりにした実虎は、血相を変えて朱王へと振り向き、脱兎の如くに志狼へ駆け寄る。
その手には所々漆が剥げ、艶を無くした年代物の大刀が握られていた。
倒れる志狼へと走る兄の後を追おうとした海華を、桔梗が襟首を引っ掴んで引き留める。
「姐さんっ!? 志狼さんが……!」
「下手に動くんじゃないよっ! いいかい、龍牙は……無音の龍牙は気配を消して……」
真っ白な顔色をした桔梗が柳眉を逆立てて怒鳴る。
かさ、と微かに枯れ枝が揺れる音がした。
「桔梗、やっぱりお前はわかってんだな……」
渦を巻く寒風に乗った不気味な声色。
それは、海華が立つ大木のすぐ真上から聞こえたもの……。
表情を引き攣らせた海華が頭上に顔を跳ね上げると同時、桔梗の手から紺色の組紐が電光石火の勢いで放たれ、海華は視界の中に銀色の軌跡が煌めくのを感じた。
木々の枝を弾き折り、銀色の凶器が闇を切り裂く。
が、槍先は虚しく空を切り、同時に軽々と空を飛ぶ影が思い切り腕を降り下ろすのを海華の瞳が捉えた。
何が起こったのかもわからず、ただ固まっていた海華の手が、無意識に紅い組紐を影へと繰りだす。
空を切り裂く鋭い響きと金属同士がぶつかる凄まじい音色、闇に咲いたのは眩いばかりの白い火花で……。
どん! と自分の足元に落下した物は、きらきらと光を放つ一本の苦無だった。
音も立てず地に降り立った影、龍牙が海華を睨み、にやりと口角を上げる。
「ちっ……。おい桔梗! この女、仕込んだのはお前か?」
「そうだよ、あたしの妹分に手を出すなんざ、あんたも怖いもの知らずだねぇ?」
組紐を手中に納めた桔梗へ駆け寄る海華は、勇ましい台詞とは真逆に桔梗の顔色が紙よりも白くなっているのに気付いた。
忌々しそうに顔を歪める龍牙の背後では、頬を強かに殴り飛ばされ、地に踞る志狼を、朱王と実虎が必死に助け起こそうとしているのが見える。
「最初から知っていればな……あの時、一息に目玉を潰しておけばよかった。――お前が俺にしたと同じようになぁ」
独眼を糸のように細くし、龍牙は海華を舐め回す如くに視線を這わせる。
思わず桔梗の方へと海華は後退った。
本能が、危険だと何度も警告を発する。
しかし、ここまで来て逃げるわけにはいかないのだ。
「まぁ、今からでも遅くはないな。貴様ら鼠は心行くまで切り刻んで……その女は、たっぷり可愛いがっ てやるか」
その言葉を聞いた途端、今までの恐怖はきれいさっぱり海華から消し飛び、代わりに湧いて来たのは激しい怒り。
真っ赤に上気した顔を怒りで歪めながらも、海華は不敵な笑みを漏らした。
「悪いけど……女襲うしか能無い男は興味無いのよ。無駄口叩いてる暇あったら、後ろ見てみれば?」
「ふん、野良犬はもうお目覚めか?」
相変わらずにやにやと不気味な笑いを浮かべ、 龍牙が顔だけを後ろへ向ける。
そこには、既に刀を抜いた状態の朱王と実虎、そして頬を赤く腫らし、ぎらぎらと瞳をぎらつかせる志狼の姿があった。
「龍牙よぉ、殺るならこっちからにしねぇか? 女二人なら、始末するのは後からでも遅くはねぇぜ?」
低い実虎の呟きが風に流れる。
今なら、殺そうと思えば海華にも桔梗にも簡単だった。
しかし、どうしても両親の仇は志狼自身の手で取らせてやりたかったのだ。
ふん、と鼻で笑った龍牙は、完全に朱王らの方へ身体を向けてしまう。
「それもそうだな。ならば……まずはお前らから血祭りだ」
そう言いながら、龍牙は腰に挿していた脇差し程の長さがある刀を二本、すらりと引き抜く。
その一本は、べったりと赤い血に染まっていた。
その瞬間、ぎらつかせていた瞳を裂けんばかりに見開いた志狼の口から、獣の如き凄まじい咆哮が迸る。
そして四人の黒い男達の足は、激しく枯草を巻き上げて地を蹴った。
それを見守っていたのは、二人の女と天空に浮かぶ鏡のような月だけ。
桔梗と海華が固唾を飲んで見守る中、目の前で繰り広げられるのは疾風の如き刀の舞いだ。
甲高い響きを立ててぶつかり合う白刃、足元で乱れ散る茶色に変わった枯草、そして月明かりに煌めく飛び散った汗。
志狼や朱王が放つ獣の咆哮と、龍牙の狂ったような嘲笑さえ無ければ、なんと美しく幻想的な光景に映るだろう。
相手はたった一人の忍、剣の腕は確かな、数々の修羅場を潜り抜けてきた朱王と、その師匠である実虎、そして朱王と同格の腕を持つ志狼が束になってかかれば、何も怖くは無い。
しかし、現実はそう甘いものではなかった。
唸りを上げて襲い掛かる白刃を楽々とかわす龍牙は、まるで体重というものが無いように身を踊らせ、宙を飛ぶ。
にたにた気味の悪い笑みを浮かべながらも、その両手に握られた二本の凶器は、確実に志狼の急所を狙って次々と繰り出され、漆黒の着つけはあちこち切り裂かれて血が滲んでいる。
今も、龍牙は実虎が横真一文字に振り払った刀を高々と宙へ飛んで避け、落下の勢いを借りて真っ直ぐに志狼へ狙いを定めた。
「所詮犬の子は犬だ! 狼にはなれぬ! 無様に野垂れ死ぬのがお似合いよ!」
「うるせぇっ! 黙れ――っ!」
龍牙の挑発に乗ってしまった志狼は、朱王が止める間も無く固く冷たい地を思い切り蹴り飛ばすと、煌々と光る月を背にする龍牙の元へ高く高く飛び上がる。
鼻腔が痛む程に冷えた夜気の中、空に浮かぶ二つの影が激しくぶつかり合った。
がきっ! と固い金属が交わう耳をつんざく響き。
ふらつきながら片方の影が傾いだ瞬間、あっ! と一声叫んだ朱王が影の真下へ走り寄る。
地面を震わせ、土埃を巻き上げて半ば墜落するように地へ降り立った志狼の胸元は、横一直線にざっくりと切り裂かれていた。
「志狼さんっ! 志狼さん大丈夫……」
「何ともね、ぇ……やれる……俺は、まだ……」
だらだら赤黒い血潮の滴る胸を押さえ、志狼は譫言のように呻き続ける。
その瞳からは光が消え去り、少し離れた場所に舞い降りた龍牙を虚ろな眼差しで睨み付けていた。
直ぐに朱王の背後から実虎が飛び出し、龍牙と激しい斬り合いを繰り広げる。
鼓膜を震わす刃同士がぶち当たる強烈な金属音と、支えた志狼の苦し気な呻きを耳にした朱王は、背中へ冷たい物が流れ落ちるのを感じた。
この斬り合いが始まってから、ずっと志狼の動きがおかしいと朱王は感じていた。
以前、稲荷の森で共に刃を振るった時と明らかに違う。
動きに無駄が多く、太刀筋も滅茶苦茶、まるで木の棒を振りかざす子供のようだ。
これでは犬の子一匹斬り殺すことは出来ないだろう。
むやみやたらに刀を振り回す志狼を見て、龍牙は笑っていたのだ。
気持ちに乱れがあれば、それは自ずと太刀筋に出てしまう。
それを補いながら加勢する朱王や実虎も、精一杯の実力など出せるはずも無かった。。
ぼんやりとそんなことを考えながら着つけに染み込む赤を見詰める朱王は、自分を呼ぶ実虎の怒号にはっ、と顔を振り上げる。
「朱王ッッ! 何してやがる! 早くこねぇかっ!」
ぎりぎりと渾身の力で鍔競り合う実虎は、茹でられたように真っ赤な顔を朱王に向けた。
慌てて駆け寄ろうとする朱王、その袖口を血にまみれた志狼の手が引き千切らんばかりの勢いで握り締めてくる。
「朱王、さん……待ってくれ。あいつは、俺が……!」
「わかってる! とどめは……仇は志狼さんにうたせてやるっ! だから、だから今は行かせてくれ! ――海華ーっ! 海華っ! 志狼さんを頼むっ!!」
食い込む指を引き剥がし、朱王は必死で妹を呼んだ。
そして、すがり付いてくる志狼を地面へと寝かせ、自身はしっかりと白刃を握って実虎の元へと土煙を上げて猛進していく。
激しい鍔競り合いを繰り広げていた龍牙と実虎。
互いに一歩も譲らずぎりぎりと刃の軋む鈍い音と二人の呻きだけがその場を支配する。
と、龍牙の足元、雪に濡れた枯草がズルリと滑り、ほんの僅か龍牙の身体が傾く。
実虎はそれを見逃さなかった。
「ぐっ! う、おぉぉぉっっ!」
乾いた唇から放たれる怒号、がつっ! と派手な打撃音を立て、実虎は渾身の力で龍牙の身体を押し飛ばす。
弾かれたはずみでぐらつく二人、実虎の背後から、矢のような勢いで朱王の黒い影が飛び出した。
朱王の刃が疾風の如く龍牙の急所に襲い掛かり、それを必死でかわす龍牙の顔に初めて焦りの色が浮かんだ。
白刃同士を打ち付け合うけたたましい響き。
束ねられた朱王の艶髪が、月光の中、漆黒の蛇にも似た動きで空を舞う。
深く身を屈めた朱王は、左下から右上、斜めの方向へ思い切り刃を走らせる。
脇差しを交差し、その反撃を受け止めた龍牙だったが、下から襲う激しい衝撃に左手に握っていた脇差しが一本、高々と宙へ飛んだ。
白い光を反射し、きらりと輝く冷たい刃。
慌ててそれに手を伸ばした龍牙の目の前で、凶器は一筋の閃光によって更に遠くへ弾き飛ばされる。
しゅっ! と空気を裂いて飛んだ光、それは桔梗が放った組紐の先端に結わえられた槍先の放った光だった。
「桔梗――っ! 貴様ぁっ!」
「残念だったねぇ! 少しのヘマが命取りだと、前にも言ったろう!?」
紺色に染められた紐を素早く引き戻し、毒蜘蛛の桔梗は目を見開いて吐き捨てる。
怒り狂った龍牙は桔梗へ飛び掛かろうと身を翻すが、朱王がそれを許さなかった。
「貴様の相手は俺だっ! 余所見をするなっ!」
「黙れっ! 手前ぇら……こうなりゃあ皆殺しだ ――っ!」
ぼさぼさの髪を振り乱し、噛み付くような勢いの龍牙が朱王へ突進した。
容易くそれをかわしながら、朱王はちらりと志狼へ視線を投げる。
実虎の背後にいた志狼は、海華の手によって胸に手拭いで血止めを施され、彼女の手を借りてよろよろと立ち上がろうとしている最中だった。
あれなら、まだやれる。
そう確信した朱王は、闇雲やたらに脇差しを振り回す龍牙をひらりと避け、振りかざされた右手に、何の迷いも無く刀を真っ直ぐに降り下ろした。
肉と骨の断ち切られる鈍い響きと、腕に感じる衝撃。
脇差しを握ったまま、肉の塊と化した手首が多量に噴き出す血潮に彩られ玩具のように闇へ飛ぶ。
右手を振り上げた格好のままで止まった龍牙の口から、背筋も凍らんばかりの絶叫が迸った。
ぎゃ――っっ! うおぉ――っ! と苦痛の悲鳴を上げ、手首のあった部分を押さえて転げ回る龍牙。
黒い着つけも、薄っすら積もる白い雪も、龍牙の周りは生臭い血潮で紅く染められていく。
少し離れた場所には、今だに刃を握ったまま、時おり小さく痙攣を起こす切断された手首が塵のように転がっていた。
「志狼さんっ! 今だ……!」
粘りつく鮮血を刀から滴らせた朱王は、何を思ったのか、のたうち回る龍牙の髪を鷲掴み、引き摺るように無理矢理立たせて、思い切り志狼へと突き飛ばす。
よろよろ、と血塗れの龍牙が二、三歩よろめいた瞬間だった。
「うわぁぁ――――っ!」
胸を裂く絶叫と共に、刀を胸の前に突き出すように握った志狼が枯草を飛ばし、雪と土煙を舞い上げて一直線に龍牙へと疾走した。
渾身の力で体当たりした瞬間、龍牙の背中から血塗れの刃が一本生える。
ぶつっ、と鈍い響きと共に心臓を貫いた志狼の刃。
悲鳴も、恨み言も、龍牙の口からは出てこない。
ただ、魚のように土気色の唇をぱくつかせるだけ。
「――親父と……お袋の、仇だ……この畜生っ ……!」
ぎりぎりと龍牙の身体に刃を食い込ませ、志狼は息も絶え絶えに呻く。
その場に急ぎ駆け付けた四人の前で、志狼は龍牙もろとも冷たい地面に崩れ落ちていった……。




