第三話
片手には酒瓶、反対側にくだを撒き散らす酔っ払いをそれぞれ抱え、朱王は今にも転びそうになりながら、何とか長屋まで辿り着き、部屋の戸を開ける。
風呂から帰ばかりで湿った髪もそのままに、火鉢の側で茶を啜っていた海華は兄が連れてきた突然の珍客に目を丸くした。
「え、志狼さん!? うわ、酒くさっ! ちょっと兄様どうしたのよ!?」
「どうしたも何もない! 屋台で酔い潰れてたんだ、ほら、志狼さんしっかりしろ!」
うぅん、と唸る志狼を畳へと押し上げた朱王は、海華の手も借りて動きの鈍い体を部屋まで引き摺る。 四つん這いで這いずる志狼は、肩に掛かる朱王の手を思い切り振り払った。
「ふざけんじゃねぇ! 俺はいつでもしっかりして……!」
茹で上がったように真っ赤な顔をした志狼は、 海華の方へ顔を跳ね上げる。
虚ろな瞳が海華の顔を捉えた瞬間、ぴたりと志狼の動きが止まった。
「あ……母、ちゃん!? やっぱり母ちゃんだっ! どこ行ってたんだ母ちゃんっ!」
ぱっ! と顔を輝かせた志狼は、浴衣姿の海華に力一杯抱き付く。
身体ごとぶつかられた海華は、悲鳴も上げられないまま畳に押し倒され、その間も志狼は母ちゃん母ちゃんと海華を呼びながら、胸元に顔を擦り寄せた。
「俺、ずっと探してたんだぜ!? なあ、母ちゃんっ!」
「ちょ……っ! 志狼さんっ! あたしは違うっ!」
「おい何やってんだ志狼さんっ!」
手足をばたつかせてもがく妹へ覆い被さる志狼を退かそうと、朱王は慌てて志狼に飛び掛かる。
その時、ぎゅうぎゅうと海華に絡み付いていた志狼の腕から、急に力が抜けていった。
「重いっ! やだ、寝ちゃったの!?」
ぐいと腕を突っ張って弛緩した身体を横に転がすと、ごろりと仰向けに転がった志狼はひどく穏やかな表情で静かな寝息を立てていた。
「ったく! 厄介な奴だ」
眠りこける志狼を見下ろす朱王の口から、呆れ果てたような溜め息が漏れる。
畳から身を起こし、乱れた浴衣を整える海華も今だに目を白黒させたままだ。
「これじゃ、暫く起きないな。――どうする?」
「戸板に乗せて八丁堀まで運んだら?」
「おい、死人じゃあ無いんだぜ? 仕方無い、今夜はうちに泊めよう。俺、一走り桐野様の所へ行ってくる。きっと心配なさっているだろう」
そう言いながら、朱王は再び小雪の舞う外へと出掛けて行く。
その間、海華は手早く自分の布団を敷き、四苦八苦しながら重たい志狼の身体を些か乱暴に布団の上へと転がした。
ぐらぐらと闇が揺れる。
重たい目蓋をなんとか抉じ開けた志狼は、くるくると回るシミだらけの天井に思わず開いたばかりの目を閉じてしまった。
身体は鉛を詰めたように重く、胸は焼けるようだ。
気だるい身をなんとか起こした志狼はガンガン痛む頭を抱えつつ、ひょいと真横に顔を向けた。
きっちり並べられたもう一つの布団、継ぎ接ぎだらけのそれに寝ている者の顔を確かめた瞬間、志狼は頭の痛みも忘れて布団から飛び起きていた。
「――ああ……起きたか?」
志狼の気配を感じ取ったのか、ごそりと布団が蠢き寝惚けた声が冷たく張り詰めた空気に溶ける。
「すっ……朱王さんっ!? ど、うしてここに!?」
むくりと起き上がり、大きく伸びをする朱王に向かって志狼は充血した目を瞬かせる。
「どうしてって、ここは俺の部屋だからな」
そう告げられ、志狼は改めて今いる場所を見渡した。
外から射し込む白い光に浮かび上がるそこは、 確かに自分の部屋では無い。
しかし、なぜ自分が朱王の部屋で寝ているのか、さっぱりわからなかった。
「俺……どうしてここに?」
「覚えないのか? 昨夜屋台でべろんべろんに酔っ払ってたんだぜ? たまたま俺が見付けて、そのま まここに運んだんだ」
「そう、だったのか……。あっ! 旦那様……!」
突如そう叫んだ志狼は真っ青な顔で立ち上がろうとする。 が、視界は歪むように揺れ、ひどく気持ちが悪い。
うっ、と唸ったまま布団へ座り込む志狼を横目に、朱王は大きな欠伸を放った。
「桐野様のことなら心配するな。志狼さんがここにいるのは、昨夜知らせてある。さっき、海華が朝飯作りに行ったしな」
「え!? 海華が!?」
声を上擦らせ、志狼はばりばりと頭を掻く朱王を見詰める。
「ああ、朝飯も食わせないで仕事へはやれんと言ってな。志狼さんが今から行っても、その様じゃ使い物にならないだろ?」
にや、と口角をつりあげる朱王に志狼は決まりが悪そうに顔を伏せてしまう。
確かに朱王の言う通り、今更ながら猛烈な恥ずかしさが込み上げてきた。
「あ、朱王さん、その……すまない、すっかり世話になって……」
「なに、お互い様だよ。桐野様のことは海華に任せて……」
もう少し休んでろ。 そう言った朱王も再び大欠伸を一つ放ち、再びゴソゴソ布団へ潜り込んでいった。
「手間を掛けさせてすまなかったな」
八丁堀にある桐野宅の門前、見送りに出た海華に、桐野は些か困ったような笑みを見せた。 着けていた前掛けを外した海華は、いいえ、と返してにっこり微笑みを返す。
「桐野様にも志狼さんにも、いつもお世話になりっぱなしですから。このくらいはさせて下さい」
「そうか、志狼の奴には帰ってからきつく言わねばな。――では、行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」
ぺこりと頭を下げ、桐野を見送った海華は、すぐさま継ぎの当たった前掛けを締め直して屋敷の中へと駆けて行く。
早朝、朝餉の支度に参りましたと海華が現れ、さすがの桐野も驚きを隠せない表情を見せていた。
が、訳を話すと快く迎え入れてくれ、台所は好きに使ってくれと言ってくれたのだ。
自分の所より遥かに広く使い勝手のよい台所に海華は喜び、腕によりを掛けて朝飯を作った。
そして桐野も美味い美味いと全て平らげてくれたのだ。
後片付けを終え、志狼が戻ったら長屋に帰ろう。
そう思いながら海華が台所に入った、その時である。
ごめん下さいまし! と、男のがらがら声が玄関の方から響いた。
来客だ、と思った海華は再度前掛けを引き剥がして玄関へと急ぐ。
が、そこに人の姿は見えない。
首を捻りながら、一旦外へ出て辺りを見回すが、やはり誰もいないのだ。
「空耳かしら?」
怪訝な面持ちで再び首を捻り、海華は中へと戻る。
からから、と玄関の引戸を閉めた瞬間だった。
もの凄い力で襟首を引かれ、悲鳴すら上げられないままに海華は土間へと引き摺り倒される。
どしゃっ! と強かに硬い土間へ頬を打ち付け、ぐらりと意識が揺れた。
間髪入れずに、人影が海華へ馬乗りになり、剥き出しの首筋にチクリと鋭い痛みが走った。
「痛っ! な、なにっ!?」
無茶苦茶に手足をばたつかせ、影から逃れようと暴れるが、全くの無駄。
それどころか、バチーン! と耳をつんざく破裂音と同時、首がすっ飛ぶかと思うほどに頬を殴られ、ついに海華はぐったりと土間に倒れ伏す。
「暴れるから悪ぃのよ、ちったあ大人しくしとくんだな」
朦朧とした意識の中で朧気に聞こえるのは、先ほど聞いたがらがら声だ。
微かに開いた瞳に映ったのは、丸々と太った二重顎の男。
色気の悪い唇をつり上げながら、にやにやと気味悪い笑みで海華を見下ろしていた。
「兄ぃ! 終わりやしたぜぇ!」
海華に馬乗りのまま、男は玄関に向かって声を掛ける。
がらがらと音を立てて開いた戸、そこから滑るように入ってきたのは、体格の良い長身の男だった。
「口はきけるんだろうな?」
地を這うような低く冷たい声色。
海華の上にいた男は、勿論で。と答えて酒樽にも似た身体を退かす。
土間に倒れたままの海華は、なぜだか指一本動かすことが出来なかった。
先ほど、首筋に何かされたせいなのか、首から下が痺れたように動かない。
ただただ恐怖に顔を引き攣らせる海華を、後から来た男が腰を屈めて覗き込んだ。
真っ黒に日焼けし、荒れた肌。
ぎらぎらと眼光鋭い蛇にも似た細い目は、射殺すような勢いで海華を睨め付ける。
が、その視線は一つだけ、なぜなら左目は薄汚い埃にまみれたぼろ布で覆われているからだ。
「貴様、ここの使用人か?」
心臓が縮み上がる声色に、海華はただ首を横に振るだけしか出来ない。
と、男の筋肉で覆われた太い腕が伸び、海華の髪を鷲掴みにして無理矢理顔を上げさせた。
「いた……っ!」
「死にたくなければ答えろ。ここに、志狼と言う使用人がいるはずだ。――どこにいるか話せ」
「しら、ない……そんな、人……知らないっ!」
咄嗟に海華は嘘をついた。
こんな状態で志狼の居所を話してしまえば、確実に志狼どころか兄まで危ない。
彼女の答えを聞いた刹那、すっ、と男の瞳が細められ、海華の顔を力一杯土間の土へと擦り付ける。
ぎしぎしと骨が軋み、薄い皮膚が破れる。
ひどい痛みに唇を噛み締め、きつく閉じた目から滲む涙を浮かべて海華は耐えた。
すると突然、男の手が握り締めていた手を離し着物の帯へと掛かる。
「や、やだっ! や! 止めて……」
「ならば話せ。志狼はどこにいる?」
抑揚のない声色と共に衣擦れの音を引き連れ、男の手によってどんどん帯が解かれていく。
しかし海華は口を割らない。
ついに着物は完全に剥がされ、襦袢姿で土間に転がる海華へ、男は更に残酷な言葉を放った。
「死ぬより辛い目にあいたいか? ――強情な女だ。おい、お望み通りにしてやれ」
ゆっくりと身を起こした男は、傍らでにやにやと面白そうに事の成り行きを見ている肥え太った男に目配せし、自分は後ろへ下がった。
「それじゃあ遠慮無く。まぁ、死ぬ前に極楽見せてやるぜ」
涎を垂らさんばかりに唇を捲り上げた男の手が、襦袢の裾を乱しだす。
恐怖と羞恥に硬直し、助けも呼べない海華は激しく首を振りながら涙を飛ばした。
ぶよぶよと肉がついた男の手が襦袢へ潜り込み、腰巻きを引き剥がした、その瞬間だった。
「お華ッ! お華――ッ! いるのかい!? 返事をしなッ!」
突如裏口から響くばたばたと慌ただしい足音。
それと同時に、鬼気迫る桔梗の叫び声が恐怖に凝り固まる海華の鼓膜を震わせた。
「ねぇ、さんっ! 姐さん助けて……っ 助けて ――ッッ!」
桔梗の叫びを確かめた途端、火の付いたように海華が泣き叫ぶ。
慌てふためいた肥満男に何度も頬を平手打ちされ、口の中に鉄臭く苦い味が広がった。
片目の男が、さっと背後を振り返ったと同時、びゅっ! と空気を切り裂く鋭い音を立て、藍色の紐が男に襲い掛かった。
男は素早く身を低くし、間一髪でそれを避ける。
がつっ! と海華の頭上で鈍い響きが立った。
紐の先端には、海華の組み紐に付いているのと同じ槍先が付いており、それが柱に突き刺さったのだ。
奥の部屋から飛び出してきたのは、血相を変えた桔梗と実虎だ。
「お華っっ! 龍牙っ! やっぱりあんただねっ!?」
「久しぶりだな桔梗っ! やっと見つけたぞ!」
桔梗を目にした途端、龍牙と呼ばれた片目男はひどく興奮した様子で深い皺が刻まれた顔を赤く上気させる。
海華へ馬乗りになっていた肥満男は、またにやにやと嫌な笑みを浮かべ、襦袢の脱げかけた半裸の海華を抱き起こし、喉元へ長く太い針を突き付ける。
それを目の当たりにした桔梗と実虎の足がぴたりと止まり、実虎は肌が痛むような鋭い眼差しで龍牙を睨み付け、桔梗は手酷い暴行を受けた海華に目が釘付けだ。
「その子を離しな……。その子は、お華は何の関係もない!」
「離して欲しければ、合わせ絵を渡せ。――早くしろ。この女を俺と同じ目にあわせたいのか?」
その台詞に連動するように、喉にあった針が海華の左目へと移動する。
桔梗の顔から一気に血の気が引いた。
わかったよ、と呻き、桔梗は懐からあの絵と文を引っ張り出し、龍牙へと投げ付ける。
それを受け止めた龍牙は、薄い唇をつり上げて禍々しい笑みを桔梗らに向かって浮かべた。
「悪いな桔梗。後の一枚は……そのうち頂きに来る。おっと、動くな! 三治の闇針の威力は、お前も知っているだろう?」
にたりと笑う龍牙は、表情を強張らせる実虎と桔梗を横目にそのまま悠々と玄関を出て行く。
ぎりぎり歯噛みしながらそれを見送った実虎。
長い針を二人へ見せ付けるように構えた男は、 突然海華を土間に叩き付けて脱兎の如く表へ走り去る。
「畜生っ! 待ちやがれっっ!」
怒声一発、こめかみに青筋を立てた実虎が、二人の後を追い掛けて走り、桔梗は海華へ飛び付いた。
「お華っ! お華しっかりおしっ! あたしがわかるね、お華っ!」
血と泥がこびりつき、涙で汚れた顔を袖で拭いながら、桔梗は必死に呼び掛ける。
襦袢からは乳房が覗き、痛々しい青痣が張り付いた海華の顔は能面の如く表情がみえない。
半ば放心状態で桔梗に抱かれていた海華は、痛む頬に手のひらの温かい感触を覚えた瞬間、堰を切ったように大声を張り上げて泣きじゃくり、掴み掛らんばかりに桔梗にすがり付いていた。
尋常ではない表情で長屋に飛び込んできた実虎から全てを聞いた朱王と志狼は、死人のように真っ青な顔をで桐野宅へと転がり込んで来た。
玄関から一番近い部屋には、桔梗に抱き抱えられたまま土にまみれた襦袢の上から着物を掛けられた海華がおり、その顔はあちこち痣ができ、切れた唇も痛々しい。
そんな彼女を一目見た朱王は、頭を殴られたような衝撃を受けていた。
「海華……っ!? 海華、ッッ! お前……どうして、誰がこんなことっ!」
桔梗の腕から妹をひったくり、声を震わせて、なんで、どうしてと呟く朱王。
きつく抱き締めた身体は小刻みに震え、殴られて腫れた頬にぽろぽろと涙がこぼれている。
恐怖と安堵が入り交じり、海華は何も言うことが出来ないでいた。
「龍牙の野郎が来た。志狼、てめぇを探しにな」
暗い表情で朱王を見詰める桔梗の傍らに胡座をかき、ぼそりと呟いた実虎の言葉に、朱王の後ろで呆然と立ちすくんでいた志狼の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
「そんな……なら、海華は……俺のせいで……?」
志狼の表情はすっかり凍り付き、乾いた唇が戦慄いた。 と、兄の胸に顔を埋めていた海華から、消え入 るような声が聞こえる。
「志、狼さんが……どこにいるか、って……聞かれた……。けど、言わなかったの……。言ったら、きっと……志狼さん、殺される、から……」
その言葉が終わらないうちに、志狼身体が力なく畳へと崩れ落ちる。
がっくりと落ちた肩と伏せられ頭、ぶるぶる震える固く握り締められた両手の間にはポタポタと透明な滴が落ち、それはあっと言う間に畳 へ吸い込まれて濡れたしみを作り出していった。
声を噛み殺し、がたがた体を震わせて志狼は泣いていた。
その様子を朱王と海華は呆然と見詰める。
今まで志狼が泣いている所など一度たりとて見たことは無かった。
また、人前で涙を見せる男だとは考えもしなかったからだ。
「朱、王さん……すまない……俺のせいで、海華……こんな目にっ!海華……すまなかった……」
がっくりと頭を畳に付け、声を涙で詰まらせながら志狼はすまない、すまないとひたすら謝り続ける。 腫れた顔を苦しそうに歪め、海華は小さく頭を振った。
「志狼さんの、せいじゃ無いわ……。あいつらが、悪いのよ」
「そうだ。志狼さんだって狙われたんだ。海華は……怪我だけで済んだが、志狼さんは殺されていたかもしれない……」
朱王は、志狼を責める気持ちにはならなかった。
妹がここまで痛め付けられたのには、確かに腸が煮えくり返る思いがする。
が、ここで志狼を責め、罵倒しても話しは進まない事も十分わかっていた。
「――志狼さん、おめぇこの間、俺には関係の無い話しだと言ったな?」
桔梗の後ろで腕を組み、仁王立ちになった実虎が志狼に厳しい視線を向ける。
その言葉に、ゆるゆると顔を上げた志狼。
その見開いた両面は真っ赤に充血し、僅かに髭の伸びた頬を透明な雫が幾筋もつたう。
「見知った女が手籠めにされかけて、まだおめぇは関係無いと言えるのか? おめぇの棲家も龍牙の野郎にばれてんだ。このままじゃあ、おめぇの身も、ここの旦那の身も危ねぇ」
その言葉に、ごくんと志狼の喉が上下した。
険しい表情を崩さない桔梗も、睨むような視線を志狼へ投げ掛けている。
「あの……あの合わせ絵が、狙いなのか? なら、あんな物っ!」
「渡したしても渡さなくても、龍牙は必ずあんたを殺すよ? ――あんたの両親と同じようにね」
桔梗の言葉に、視線は裂けんばかりに目を見開き畳についた両手を指が白くなるほど握り締めた。
「そんな……じゃあ、親父とお袋を殺ったのは……」
「そうだ、龍牙だよ。江戸の仲間を探し出して聞いた。間違い無いさ」
その瞬間、志狼の目の前に二十年前の地獄が鮮明に甦った。
網膜に焼き付いた両親の骸……。
病気がちだった母親の代わりに、買い物に出掛けていた志狼が長屋に戻ると、部屋の中は一面の血の海だった。
布団に転がっていたのは、両手の指を全て断ち切られ腹を裂かれた母親の無残な姿。
両目を潰され、舌を切られた上に切り取られた首は、まるで置物のように茶箪笥の上に置かれていたのだ。
その時は、志狼もまだ七つの子供、訳もわからず、ただ怖くて怖くて泣きながら父親の働く船着き場へ一目散に走った。
しかし、そこには黒山の人だかりができ、青い顔をした同心や十手持ちが右往左往していた。
人を掻き分け、志狼が目にしたのは、五体をばらばらにされ塵のように川に浮く父親の姿だった。
もはや関係無い、なんて言葉で済む話しでは無い。
涙で濡れていた志狼の瞳に怒りが紅蓮の炎と燃え、こめかみには青筋が浮かぶ。
「その男は……龍牙って奴はどこにいるんだっ!?」
弾かれるように立ち上がった志狼は、烈火の如くに怒り狂う。
許せない、殺してやる! と喚き立てる志狼に掴み掛かり、胸ぐらをひっ掴んだ実虎が、そのまま志狼を畳へと引き摺り倒した。
「ギャァギャァ喚くんじゃねぇ馬鹿野郎がっ! おめぇ、本ッ当に龍牙を殺る気があるのか?」
「当たり前だっ! 親父とお袋……海華の敵も取ってやるっ!」
びりびりと空気を震わす怒号に怯え、海華は思わず兄の着物にしがみついた。
「おめぇが本気なら、こっちだって手を貸してやる。奴の居場所は、わかったも同然だからな」
実虎の台詞に、桔梗は怪訝な顔で後ろを振り向く。
じろっ、と皆の顔を見渡した実虎は、日に焼けた髭面を歪めて意味ありげな笑みを浮かべていた。
「闇針の野郎をひっ捕まえておいた。裏の林に放り込んである。奴から龍牙の棲家を聞き出しゃあいいんだ」
にやりと口角をつり上げて実虎は自分の後ろ、屋敷の裏側辺りを顎でしゃくる。
すっと目を細めた桔梗も、同じく赤い唇を片側だけを微かに上げた。
「へぇ、よく追い付いたじゃないか? 探し出す手間が省けるよ」
「俺が手ぶらでノコノコ戻る訳がねぇだろ? ――さて、これからの話しだが……」
ざりざりと無精髭を擦り、実虎が畳に座り込んだままの志狼に視線を落とした。
「龍牙の塒は俺と桔梗が探る。志狼、おめぇはとにかく普段通りに生活しろ。いいか、間 違ってもここの旦那にばらすな」
「ど、うしてだ? あんた、さっき旦那様も危険だと……」
「だからだ。ここの旦那は北町奉行所の与力組頭だそうだな? このことが明るみに出て、下手に奉行所なんざに動かれたくねぇ」
「奉行所が動いたなんて龍牙が嗅ぎ付けてごらんな。奴はさっさと江戸から逃げる。せっかく奴を殺れる機会を、みすみす逃すことになるんだ。あんたも旦那も、龍牙が生きてる限りずっと危ないんだよ」
実虎と桔梗の言葉に、志狼はおずおずと頷いた。
よし、と一声漏らした実虎は次は傷だらけの妹を抱き締め、ひたすらあやすように背中や髪を撫で続ける朱王に目を向けた。
「朱王、おめぇも海華を連れて長屋へ帰れ」
「そんな! 私も、私にも何かさせて下さい! せめて龍牙探しは一緒に……」
妹の仇討ちくらいはさせて欲しい、せめて闇針とか言う輩を一発ぶん殴りたい。
ごちゃごちゃとあらゆる感情が錯綜する頭で、朱王は必死に実虎へ訴える。
しかし、実虎は首を横に振った。
「駄目だ。朱王、おめぇは今、頭に血が上ってる。そんなおめぇが妹押し倒した野郎相手に冷静でいられるとは思えねぇ」
心の中を射抜かれるような鋭い実虎の視線に朱王は狼狽を隠せなかった。
確かに実虎の言う通りだ。
「激昂したおめぇに今、闇針の野郎を殺させる訳にゃいかねぇ。奴は大事な道案内だ。――わかるな、朱王」
「――はい……」
ぎりぎり歯を食い縛りながらも、朱王は素直に頷く。
自分がひどく不甲斐ないと思った。
だが、妹を痛め付けた相手を前に平然としていられる自信は無かったのだ。
早く帰ってお華を休ませな、との桔梗の言葉に、朱王はふらつきながら海華をしっかりと抱き上げ、玄関へと向かって行った。
痣の付いた顔を見られないように、と志狼は自分の羽織を海華へ頭から掛けてくれた。
屋敷の門前で、本当にすまなかったと何度も頭を下げる志狼に、朱王は気にするな、志狼さんのせいじゃない、などと月並みな言葉しか掛けることが出来ない。
鉛を飲み込んだように重苦しい気持ちを抱え、海華を背負って沈みきった表情で長屋へと向かう。
賑やかな表通りを避け、裏道を歩く朱王に背負われた海華は、今もぐったりと兄の背中に身を預けたままだった。
と、覆い被せられた羽織の下から、兄様、と小さくくぐもった声が聞こえる。
「どうした? 痛いのか?」
「大丈夫……。心配かけて、ごめんなさい」
消え入りそうに呟かれる謝罪が、朱王の胸をちくりと刺した。
「お前が謝ることは無い。何も悪いことはしていないだろ?」
「うん……でも、油断してたあたしも悪いの」
くすん、と鼻を啜りながら言葉を紡ぐ海華。
せめて、組み紐だけでも持っていたら、結果は違っていたかもしれない。
「また、姐さんに助けてもらっちゃった……。 上方に行く時、一番最初に言われたこと、すっかり忘れてたわ」
自嘲気味に呟く海華は、あの日、兄と離れ離れにされた時の話しをぽつりぽつりと語り始めた。
生まれて初めて兄と引き離され、不安と寂しさと恐怖で泣きじゃくりながら江戸を出た海華。
いつまでも泣き止まない海華に、桔梗は噛んで含めるように何度もこう言い聞かせたのだ。
『女だから、子供だからって理由で誰かが助けてくれるほど、世の中は甘くないし世間の人間も優しくはない。無事に生き延びてまた兄さんと会いたいなら、自分の身は自分で守れ』 と……。
「桔梗さん、そんなことを言ったのか……」
海華の告白を朱王は複雑な気持ちで聞いていた。
たかだか六つの子供だった海華には、かなり厳しい言葉だったはずだ。
「うん……。あたしは、自分を守りきれなかった。だから……だからせめて、仇討ちくらいは自分でしたい。――いいわよね?」
自分を殴り付け、手籠めにしようとしたあの男だけは、自分の手で始末したい。
絶対に許せない……。
「――お前だけ除け者にはしない。だから、それまではゆっくり休め。わかったな?」
暫し考えた上で朱王は、そう結論を出す。
うん、と嬉しそうな返事をし、海華は腫れた頬を兄の肩口辺りへ擦り付けていた。




