第二話
「こいつを渡されたのは、お華、あんたと出会った前の年だ。あとの二枚は、頭領の一人娘と、同じ忍のある男に渡った。――あたしが半年間、あんたを実虎の所に預けた時のことを覚えてるかい?」
昔を思い出すかのように遠い目をした桔梗の言葉に、海華は無言で頷く。
桔梗に『大切な用事があるから』と言われ、半年間、実虎の山小屋で世話になったことがあったのだ。
「あの時ね、あたしから板を奪おうとして、その男……龍牙って名の、そいつが上方へ来ていたんだよ。あたしと一緒だとあんたも危ない。だから、あんたを実虎に預けた」
そうだったのか、と言いたいように、兄妹は顔を見合わせる。
あの時は、てっきり海華が桔梗に見捨てられたのだと朱王は思っていた。
海華も同じことを思っていたらしく、山小屋に来てから三日程の間、海華は食事もまともに食べられないくらい意気消沈していたのだ。
「その、龍牙という忍は……」
恐る恐るといった様子で朱王が口を開く。
ちらりと朱王に視線を向け、桔梗は眉間に深い皺を寄せた。
「きっちりカタはつけたさ。合わせ絵も奪った。ただ……命だけは取らなかったよ。――今は、それを一番後悔してる」
「確か目の玉片方を潰しただけだったか?」
火鉢に手をかざし、実虎が言う。
桔梗がこくりと頷いたのを見た瞬間、海華は背中に冷たいものが流れるのを感じた。
「合わせ絵を取られた時点で、頭領候補からは外される。だけど、龍牙は大人しく引き下がらなかっ た。七年前、頭領が死んでからずっと、あたしと、頭領の娘の行方を探していたんだ」
「あ……だから、あたしの前からいきなりいなくなったんですか!?」
やっと話しがわかったのか、海華が大声を出した。
「そうだよ。龍牙はお華とあたしの関係を知らないし、お華の顔も知らない。だから、合わせ絵を持っているなんて思わないだろ? だからあんたに預けたのさ」
黙っていてごめんよ。そう呟きながら、桔梗は海華を真っ直ぐに見詰めた。
小さく口元を綻ばせ、海華は『いいんです』と短く答える。
初めて聞いた真実に混乱しているのは確かだが、それでも桔梗が自分を頼ってくれたことは、素直に嬉しかった。
しかし、にこにこと笑顔の海華に対し、朱王は苦虫を噛み潰したような顔で桔梗を見ている。
「では、面倒事に巻き込まれたと言うのは…… その龍牙とか言う忍の?」
「ああ、そうだよ。あいつ、頭領の娘が江戸にいるのを嗅ぎ付けたんだ。こっちに下ってきたと仲間から知らせがあってね。あたしらも、娘を探しに来たんだ」
「下手をすりゃ、――いいや、必ず龍牙はその娘を殺るだろうよ」
ぼそりと呟く実虎に同調するように、桔梗は小さく頷く。
続いて溜め息混じりに桔梗が放った言葉に、朱王と海華は息を飲んだ。
「しかもね、厄介なことにその娘、男と駆け落ちして甲賀の里から逃げちまってさ」
「駆け落ち……って、江戸のどこにいるかわかるんですか?」
海華の問いに、桔梗は再び深い溜め息をついた。
「わからないんだ。名前を変えて江戸に住んでるらしい事は確かなんだが……。本名は、お狼と言ってね、今は『おれん』とか名乗ってるとさ。それしかわからないんだよ」
広い江戸の街で、おれんという名の女がどれほどいることか……。
探し出すなど不可能にすら思えた。
「とにかく、こっちにいる仲間にも聞いて回るさ。悪いがあんた達にも手を貸してもらうよ」
些か強引にも聞こえる桔梗の台詞に、海華は二つ返事で頷いた。
朱王も断る理由は無いし、何よりこのまま放っておけば実虎や桔梗の身も危ない。
お手伝い致します。 そう言いながら背後の実虎に向かって振り向いた朱王。
しかし実虎は相変わらず火鉢に視線を落としたまま、頼むぜ。と、ぶっきらぼうに返すだけだった。
近くに宿を取っているから。 そう言い残して二人は部屋を後にする。
今まで実虎と桔梗が目の前にいた、それがまだ信じられないというように、朱王と海華はぼんやりと畳に座り込んだままだ。
「――夢、じゃないわよね?」
「ああ、夢じゃない……師匠と、桔梗さんだ。 やっと、やっと会えた……」
実虎が吸った煙草の匂いが残る中、朱王は天井を仰いで先ほどの二人よろしく深々と溜め息をつく。
実虎と初めて出逢った夜のことは、昨日のように思い出すことが出来た。
西伽の元で手厚い看病を受けた朱王、薬が良いのか、食い物が良かったのか、背中の刀傷はみるみるうちに回復していった。
傷の回復と同時に考えていたのは、どうしたらこの恩を返すことが出来るか、と言うこと。
今の兄妹には、金もなければ店で奉公する体力も無い。
まさかとは思ったが、妹を身売りさせろと言われはしないか、離れ離れにされるのではないか……。
朱王の不安と焦りは日々つのるばかりだった。
ある日の夜、朱王は西伽の部屋に呼び出される。
母家の奥にある西伽の自室、そこには主人である西伽と息子の伽南、そして見知らぬ一組の男女が顔を揃えていた。
西伽の話しでは、二人は昔から懇意にしている人形師の実虎と傀儡廻しの桔梗と言い、もしその気があるのなら、朱王には人形師の、海華には傀儡廻しの修行を上方でしてみてはどうか、とのことだった。
むっつりと愛想の無い顔で自分を見遣る実虎と、うっすら笑みを見せる桔梗に最初は朱王も警戒した。
何しろそんな都合の良い話があるかと思ったし、人形などとは全く縁が無く、興味も無かったからだ。
「命を助けて頂いたのは本当に感謝しています。ですが、私達は乞食も同然。上方まで行く手形もありません」
やんわりと断りを入れた朱王を、実虎はじろりと睨み付けた。
「いつまでもこちらに世話にはなれねぇぞ? また妹と二人で路頭に迷うつもりか?」
「貴方様には関係ありません!」
がばりと顔を跳ね上げ、思わず朱王はそう叫んだ。
可愛くない子だねぇ、と、桔梗は呆れたように朱王を見詰めていた。
朱王の剣幕に全く動じず、実虎はにやりと意味ありげな笑みを浮かべたのだ。
「威勢のいいガキだな。おめぇ、刀握って行き倒れてたんだって? おまけに背中をばっさりだ。どうせ訳ありなんだろう?」
その台詞に、ぐっと朱王の言葉が詰まる。
自分達が何者なのか、それは助けてくれた西伽にも伝えていなかったのだ。
「おめぇがどこの何者なのか、そんなこたぁ俺の知ったことじゃねぇ。だがな、一度死にかけたんなら、これ以上怖いもんはないはずだろ?」
「小さな妹抱えて飛び出したって、すぐに野垂れ死ぬのが関の山さ。あんたの妹は、あたしが立派な傀儡廻しに育ててやるよ。手形なんざ少し金出しゃあいくらでも作れるしね」
実虎と桔梗の言葉に、朱王は再び下を向いていた。
確かに二人の言う通りだ。
既に、自分達は一度死んでいるのと同じ。
家も親も兄さえも捨てたのだ。
「でも……その金がありません。これ以上甘える訳にはまいりません」
お金ならうちが用意する。
そう言ってくれた西伽と伽南にも、朱王は頑なに首を横に振る。
実虎らに付いて行くにしても、まずは自分で先立つ物を用意したかった。
頑固なガキだ。 深々と溜め息をついた実虎が、がりがりと頭を掻きながら呟く。
「そこまで言うなら、闇手形の金は俺の貸しだ。おめぇが一人前の人形師になってから、必ず返せ。万が一おめぇがものにならないとわかった時は、容赦無く売り飛ばす。妹も遊廓行きだ。それが嫌なら、死ぬ気で修行しろ。――それならいいだろう?」
その瞬間、二人の視線が火花を立てんばかりにかち合った。
長めの髪越しに、朱王が睨むように実虎を見遣る。
そこまで言われれば、もう後には引けない。
わかりました。 そう答えた朱王に、桔梗は満足そうに頷いた。
そして本格的に雪が降り始める前、一足先に桔梗は泣きじゃくる海華の手を引き、上方へと旅立つ。
必ずまた会える、だからそれまで辛抱しろ。
そう何度も言い含め、妹を送り出した朱王。
しかし、幾度も幾度も自分の方を振り返り、『お兄ちゃん!』と泣き叫ぶ妹の姿が見えなくなった途端、朱王は見送りに出た西伽と実虎の前で、冷たく固い地に伏し、生まれて初めて号泣したのだ。
海華と離れるのが悲しくて辛くて不安で……。
体中の水気が無くなるかと思う程泣いたのは、後にも先にもあの時しか無いだろう。
朱王が実虎に連れられて上方へ向かったのは、 雪が溶け、春になってからだった。
そして、柔らかな笑みを見せて自分を送り出してくれた西伽の姿を見たのも、それが最後となったのである。
翌日から海華は仕事そっちのけで『おれん』を探しに街中を奔走した。
年の頃は五十、子供が一人いると桔梗からの新たな情報もあり、だいぶ的は絞られたのだが、それでも数多の人間が住む江戸、長屋も星の数ほどあり、たった一組の親子を探し出すのは不可能にも思える。
人別帳など海華には見られるはずもなく、仕方無しに忠五郎や各長屋の年寄り連中にも聞いて回ったが、どちらも空振り。
とある長屋で、一人だけおれんと言う名の女がいたが、それは七十近い老婆だった。
太陽が西へ傾き出し、灰色の雲が空一面を覆い始めた頃、寒風の中を烏が群れを成して塒へ帰っていく。
歩き疲れた足を引き摺りながら、ついに何の手掛かりも見つけられなかった海華は、とぼとぼと長屋への帰路についていた。
藍色の大きな暖簾をはためかす米問屋の前を、 暗い表情の海華が通り過ぎようとした時である。
おい!海華!、と大声で自分を呼ぶ声に、海華の足がぴたりと止まった。
振り向けば、短く結わえた髪を風に揺らしながら、炭色の着流しを纏った若い男がこちらへ駆けてくるのが見える。
「あ……志狼さん」
笑顔を見せるのも億劫な様子で、ぽつりと呟いた海華。
寒さのためか、浅黒い頬を僅かに朱に染めた志狼が自分の前で止まる。
やたらと疲れた海華の顔を見た志狼は、不思議そうに小首を傾げた。
「なんでぇ、随分と不景気な面だな。――人形持っていない所を見ると……仕事帰りじゃねぇのか?」
「うん、ちょっと人を探してて……。志狼さんは? 夕飯の買い物?」
「ああ。で? 人探しって、どこのどいつを探してるんだ?」
志狼の問い掛けに海華はこの四日余りの話しを聞かせた。
勿論、桔梗らのことまでは話せない。
海華の話しを聞き終えた志狼は、一瞬ぽかんとした表情を見せた後、腹を抱えんばかりに大笑いをし始める。
「何がそんなにおかしいのよ!?」
あまりの笑われ様に、海華は頬をぱんぱんに膨らませて志狼を睨めつけた。
「だって、おめぇ。ここは山奥の村じゃねぇんだぜ、天下の江戸だぞ?『おれん』って名前だけで探し出そうってのが、無理な話しだ。何年掛かるかわからねぇぜ?」
目尻に浮いた涙を拭い、志狼は海華を見下ろす。
確かに志狼の言うことは当たっている。
それが充分にわかる海華は、ふてくされたように横を向き、口を閉じてしまった。
「しかしなぁ、奇遇なこともあるもんだ。俺のお袋も『おれん』って名前だった」
「え!? 本当にっ!?」
がばっ! と顔を跳ね上げた海華に志狼は軽く頷く。
「本当だ。ただ……とうの昔に死んでるけどな」
ああ、そうよね。 と力無く答えた海華はガクリと肩を落としてしまう。
苦笑いしながらその様を見ていた志狼は、まぁ頑張れ、と海華の肩をぽんと叩き、片手を軽く振りながらその場を後にして行った。
「充分頑張ってるわよ……」
去り行く志狼の後ろ姿を眺め、海華はそう一人ごつ。
そして、腹の底から深々と長い吐息を吐き出して、再びとぼとぼと長屋を目指して歩みを進めた。
疲れ切った顔で部屋の戸口を開くと、そこにはいつものように作業机に向かう兄の姿があった。
「――ただいま」
「お帰り。寒かっただろう?」
早く上がれ、と言いながら朱王は火鉢の炭を火箸で掻き回す。
ぱちぱち爆ぜる真っ赤な炭へ手をかざし、海華は畳にぺたりと座り込んだ。
「やっぱり全然見つからないわ。どこへ行っても空振りばかりよ」
かじかんだ手を擦る海華は声まで疲れをにじませる。
作業の手を止め、妹へと振り返った朱王は元気の欠片も無い妹の顔を覗き込んだ。
「そのことなんだが、さっきここに桔梗さんが来た」
「姐さんが!? で、何だって?」
桔梗の名を聞いた途端、海華の瞳に生気が戻り兄へ向かって身を乗り出す。
朱王は一先ず妹を自分の隣へ座り直させた。
「落ち着けよ。まず、探してる女はまだ見つからないと、ただ一つ手掛かりがあった。おれんには一人息子がいて、名前は『しろう』と言うらしい」
「え? しろう? ――ちょっと待って、しろうって……」
「わかったか? まさかとは思うが、あの志狼さんじゃ……」
僅かに眉を潜めた朱王は腕組みしながら海華の瞳を見詰める。
その時だった。 海華は、志狼のある言葉を思い出したのだ。
『母親は、葛ノ葉衆頭領の一人娘、親父は伊賀の下忍だ……』
あーっ! と、空気を震わす甲高い叫びと共に海華はばね仕掛けの人形よろしく畳から飛び上がった。
「兄様っ! 兄様……! じゃあ、し、志狼さん……!」
「まさかとは思う、だが、もしかしたら……」
難しい顔をしながら火箸を弄ぶ朱王。
一見冷静に見えるが、そのこめかみからは一 筋の汗が伝う。
こちらは顔面を真っ赤に紅潮させ、今にも泣き出しそうな表情の海華は『姐さんに言ってくるっ!』と一声、土間に飛び降りるやいなや、転げるように部屋から薄暗く変わり始めた外へと駆け出していった。
「駄目で元々。取り敢えず会ってみようか」
それが桔梗の答えだった。
それから一夜明け、海華は兄、実虎、桔梗を伴って昼前に八丁堀の桐野宅へ赴く。
勿論、桐野が勤めに出て不在の時を狙ったのだ。
身を切るように冷たい空っ風が吹き荒ぶ中、屋敷の門を潜ったのは朱王と海華の二人だけ。
余り大騒ぎになるのも不味いため、実虎と桔梗は門の外で二人を動きを見守っていた。
すっかり葉の落ちた躑躅や桜の木々が立ち並ぶ庭。
その一角で、何やらごそごそと蠢く影が見える。
志狼さん? と呼び掛ける朱王の声に気付いたのか、枯れ枝を掻き分けるように姿を現したのは紺色の作務衣に分厚い半纏を纏い、頭を手拭いで覆った志狼だった。
「朱王さん! 珍しいな。ここへ来るなんて。 お? 海華、探してた女は見つかったか?」
にやにやと自分に向かって白い歯を見せる志狼を直視できず、海華は兄の後ろに隠れながら曖昧な返事を返した。
何とか冷静を装いたい朱王も、ぎこちない笑みを浮かべて志狼に向かう。
「今日は……そのことで来たんだ。仕事中か? 邪魔なようなら……」
「いや、いいんだ。牡丹の冬囲いしていただけだからな。あぁ、庭で立ち話しもねぇな。まぁ上がってくれ」
「いや! ここでいい。志狼さん、あんたに少し聞きたいことがあるんだ……」
穴の開く程に自分を見詰めてくる兄妹に、志狼も何かおかしいと感じ始めたようだった。
「どうしたんだ? 二人して。そんな暗い顔してよ」
怪訝そうな表情を見せる志狼に朱王は一度乾いた唇を舐め、死んだ両親の名を聞く。
母親は、おれん。父親は左之助、と言うのが志狼の答えだった。
「そうか、悪いが志狼さんに会ってもらいたい人がいるんだ」
ひどく思い詰めた様子で呟いた朱王は、背後の海華へ顔だけを振り向かせ、小さく頷く。
海華は黙りこくったまま、門の外へと走り去った。
不思議そうに首を傾げる志狼の前に現れたのは、見たことも無い一組の男女だ。
「あんたが……おれんの息子かい?」
最初に口を開いたのは、深く腕組みをする桔梗だった。
「そうだが……。あんた達は誰でぇ? おい朱王さん、これは一体……」
何が起きたのかわからず、ただ朱王と実虎らを交互に見遣る志狼に海華が今にも泣き出しそうな声色で、二人の正体を告げる。
この人は、葛ノ葉衆の女忍であり、自分の面倒を見てくれた恩人だ、と。
葛ノ葉衆、その言葉を聞いた途端、志狼の顔がみるみるうちに強張り出す。
両手は、指が白くなる程に握り締められていた。
「甲賀の……忍が、俺に何の用でぇ?」
明らかに怒りを含ませた低い声色、しかし桔梗は怯まなかった。
「あんたの母親のことで、話しがあるんだよ」
火花が散るかと思う程互いを睨み合う。
一気に張り詰めた緊張の糸、兄妹が戦慄を覚えるくらいに一触即発の状況のなかで実虎だけが冷めた目差しで四人を眺めている。
桔梗の赤い唇が動き出した時、海華は思わず目を固くつぶっていた。
ひゅうひゅうと唸りを上げる風の中、ふざける なっ! と辺りを揺るがす志狼の怒声が轟いた。
顔は寒さの為ではなく怒りで真っ赤に染まり、ぎりぎりと眥を吊り上げる様は、朱王ですら息を飲む程だ。
「何がお狼だ! 左近だっ! 俺のお袋はおれん、 親父は左之助だ! いきなり訳のわからねぇ事ほざきやがって! お袋は……」
「頭領に娘は一人だけだ。名前はお狼。間違いないよ。――追っ手に感付かれないように、息子にも本名は教えなかったんだ」
ぎろりと自分を睨み付ける桔梗に、今にも飛び掛からんばかりの志狼が『出鱈目言うなっ!』と叫んだ瞬間、桔梗は例の合わせ絵を志狼の前に突き出した。
「ぎゃあぎゃあ喚くんじゃないよっ! あんたが お狼の息子なら、お袋さんから守り袋を預かっているはずだ! あの子は、それにこの板を入れていた。嘘だと思うなら、中を確かめてごらんなっ!」
こめかみに青筋を浮かべながら、志狼は作務衣の胸元に手を突っ込み首から下げたぼろぼろの守り袋を取り出す。
それは、いつか志狼が吉原の女郎屋で落とし、海華が届けた物だった。
引きちぎるように袋の口を開いた志狼。
中をまさぐっていた指がピタリと止まり、中を見た瞬間みるみる顔から血の気が引いていくのが、兄妹からもはっきり見えた。
唇を固く噛み締め、志狼の小刻みに震える指が守り袋から抜き出した物。
それは、桔梗が差し出した物と全く同じ黒光りする漆塗りの板と、破れかけた古い紙切れが二枚。
板の表面には天に向かって顔を上げ、口から火炎を吐き出す狐の横顔が金細工で施されている。
「――あたしの言った通りだろう?」
小刻みに震える手で合わせ絵を握り締め、一杯に目を見開く志狼へ桔梗が静かに言葉を掛ける。
その瞬間、志狼は恐ろしい程の勢いで地を蹴り飛ばし、桔梗へと掴み掛かった。
「やめろっ! 志狼さ……落ち着けっ!」
「うるせぇっ! 離せ――っ!」
志狼の手が桔梗に掛かる直前、間一髪の所で朱王が志狼を羽交い締めにし、海華は桔梗を庇うように前へ立ち塞がる。
離せ、畜生っ! と、めちゃくちゃに暴れ狂う志狼を押さえ付けるのに、朱王も精一杯だ。
「今更……今更なんだっ! 何が頭領争いだ! 親 父と、親父とお袋が死んで……何年たったと思ってやがるっ! 帰れっ! 話しなんざ聞きたくねぇっ! お前ら……全員とっとと消えろーっ!」
色濃く怒りをにじませた叫び。
血走った目は、ぎらぎらと異様な光を放ちながらその場にいる者を睨み付ける。
だが、海華にははっきりとわかった。
燃え上がる怒りの奥底にあるのは、暗く冷たい悲しみだ。
思い切り朱王の拘束を振りほどいた志狼は、そのまま凍り付く地面を蹴り、転がるように屋敷の中へと姿を消してしまう。
その様を実虎は門に凭れて眺めていた。
『厄介な奴だ……』
無精髭に囲まれた口から出た呟きは、冷たい風に掻き消されていった。
志狼がお狼の息子だとわかり、合わせ絵の最後の一枚も見つかった。
それだけでも、よくやったよ。
そう桔梗は言い、海華の背中を元気付けるように叩く。
後は、龍牙が志狼を襲撃せぬよう見張るだけ。
これからも頼む、と言い残し実虎と桔梗は八丁堀から去って行った。
取り敢えず長屋に戻った二人は、どちらも暗い表情を隠せず、特に海華はすっかり意気消沈している。
それからは部屋から一歩も出ることは無く、日が暮れた頃、朱王は酒を買いに長屋を出て行った。
あたしが行くわ、と海華が言ったのだが、夕方からちらちらと雪が降り出し、夜道は危ないからと朱王が出掛けたのだ。
酒を満たした酒瓶を抱え、羽織に手首を隠しながら、小雪が舞う中を帰途につく朱王。
骨身に染みる寒さのためか、夜の街に賑わいは無く、人々は足早にそれぞれの家へと帰って行く。
大通りから一つ外れた小道その向こうにぽつりと一つ、提灯の灯りが見えた。
近くに寄ると、香ばしい天婦羅の匂いが鼻をくすぐる。
三人も入れば一杯になってしまう、小さな天婦羅屋の台。
禿げ頭の親父が黙々と箸を動かすその前に、台に突っ伏す藍色の着物が縄暖簾の間から覗いている。
飲み潰れた酔っ払いだろう。
特に気にも留めず、朱王が屋台を通り過ぎようとした時だった。
ふざけやがって、畜生……。 と、小さな呻き声が耳に飛び込む。
それは、聞き覚えのある声色だった。
「おい……、まさか志狼さんか?」
恐る恐る縄暖簾を掻き分けた朱王の目の前に、 真っ赤に染まった顔をした志狼が突っ伏していた。
酒精でどろりと濁った瞳は焦点が全く合っていない。
完璧な泥酔状態だが、朱王のことは認識したようで、おぅ、と 低い返事が返った。
「お客さん、この人の知り合いかい?」
忙しなく箸を動かしていた親父が、ちらりと朱王に視線を向ける。
「あ、あぁ知り合いだ」
「そりゃあ丁度良かった。このお客さん、さっきからこのざまだよ。ウチに来る前にも、どっかでしこたま飲んできたらしいねぇ。ここで寝られちゃこっちが困る、悪いが連れて帰ってくれねぇかい?」
「オイコラ! 誰がこのざまだ!? どいつもこいつも人のこと、小馬鹿にしやがってっ!」
だんっ! と志狼の拳が台に叩き付けられる。
どうも癖の悪い酔っ払いだ。
「志狼さん……。ほら、帰るぞ! 一体いくら飲んだんだ!?」
ふらふらと力の入らない志狼の体を支え起こし、朱王は親父へ少し多めの金を渡して屋台を出た。
朱王より体格は小さいが、それでも大人の男。
体重を掛けられれば、支えるのは一苦労だ。
ちゃんと歩け、しっかりしろ、と叫ぶ朱王に、うるせぇ、馬鹿野郎、と様々な罵声を浴びせ掛ける志狼。 ふらふらと足元も覚束無い男二人は、白い花が舞う中を、朱王の長屋へと向かって行った。




