第一話
ちらちらと鈍色の空から小雪が舞い降りる。
冷たい木枯らしが吹きすさぶ、人気の無い寂しい墓地。
とある墓石の前に朱王と海華は佇んでいた。
秋月、と彫られた古い墓石、それは二人が伽南先生と呼び慕っている男の先祖が眠る墓だ。
風に煽られ今にも消えかけそうな蝋燭が二本と、白い煙をたなびかせる線香を供え、二人は暫し無言で手を合わせる。
今日は秋月伽南の父親、秋月西伽の命日であり、二人が秋月親子に命を救われた日でもある。
十数年前、今日のような小雪が舞う寒い日の夕暮れ、二人はこの墓地近くの小さな地蔵堂の前で親子に拾われたのだ。
「西伽先生が亡くなって、もう随分たつわね……」
墓石の前から腰を上げた海華が、ぽつりと呟く。
ああ、と小さな返事をした朱王は遠いあの日を思い出すかのようにふっ、と目を伏せた。
上條の家を逃げるように飛び出してから、二人は筆舌尽くし難い、どん底の生活を送っていた。
朱王は背中の傷が痛み、まともに歩くことも出来ない。
兄を地蔵堂へ隠し、海華は毎日必死で食い物を探して回った。
寺や神社から供え物を盗み、夜中は食い物屋の残飯を漁った。
挙げ句の果てには、野良犬がくわえていた腐りかけの魚を横取りしたこともある。
親も金も住まいも無い、垢にまみれた乞食同然の子供に世間の目は冷たかった。
勿論、気に掛けてくれる人間は誰一人としていない。
秋も終わり、厳しい冬が訪れようとした頃、とうとう気力体力共に限界に達した二人は、地蔵堂の前で筵に包まり死神の迎えを待つだけの状態になっていた。
骨と皮ばかりに痩せ衰え、寒さで薄い紫色に変わった体を寄り添わせ、朱王は自分の不甲斐なさを何度も海華に詫びながら、虚ろな瞳で厚い雲に覆われた空を眺めた。
胸に抱いていた海華は、最早返事をする力も無くなり、眼球が透けて見えそうな程に薄くなった目蓋を閉じて、骸骨のような体を小さく震わせるだけ。
海華だけでも生きて欲しかった、でも、二人で苦しみの無い世界へ逝けるのなら、それで良いのかもしれない……。
冷たく固まった身体は感覚が麻痺し、背中に刻まれた刀傷の痛みすら感じない。
早く楽になりたい、と朱王が思ったその時だった。
「もし、貴方達どうしたのです?」
頭上から聞こえた柔らかい声色。
男なのか女なのか、それを確かめる暇も無く、朱王の意識は暗く冷たい闇の中へと堕ちて行ったのだ。
そして、気が付いた時には、香桜屋の離れに二人揃って寝かされていた。
「西伽先生と伽南先生がいなければ、俺達はとっくの昔に死んでいたんだからな……」
独り言のように呟きながら、朱王は墓に向かって一礼した。
海華も兄にならい頭を下げ、二人はその場を後にする。
墓場を出てすぐの場所に、件の地蔵堂があった。
雑木林を背に、ぽつんと寂しく立てられた小さなお堂。
辛い記憶が甦るそこで、二人は一旦足を止めた。
黒く色の変わった厚い木の板で作られた粗末な建物。
柔和な面立ちの石地蔵の前には、誰が供えたのか白い饅頭が二つ皿に置かれている。
二人の足元を枯れ草が絡まりながら飛び去り、 乾いた風は朱王の黒髪も高々と宙に舞い上げた。
がたがたとお堂が軋み、石の地蔵も心なしか寒そうに身を縮めているように感じる。
「こんな狭い所に、よく二人で入ってたわよね」
白い息と共に、海華は苦笑いを漏らす。
「まだ小さかったからな。……それより、お前はこれからどうするんだ?」
寒そうに両手を擦り合わせる妹を見下ろし、朱王が尋ねた。
少しばかり考えた後、海華は赤くなった頬を緩ませる。
「まだ日はあるから、一度部屋に戻ってから仕事に行くわ。兄様は?」
「伽南先生の所へ行く。お前のあかぎれの薬を頼んであるんだ」
ありがとう! とにっこり微笑む妹へ、朱王も同じように小さく笑みを返す。
ここから二人は別れ別れだ。
海華は長屋へ、朱王は伽南の庵へ……。
冷たく白い雪の花を浴びながら、二人はそれぞれの場所へと足早に向かって行った。
吹き抜ける寒風の中、髪を棚引かせながら朱王は伽南の庵へと向かう。
表通りに面した立派な店構えをした薬問屋、香桜屋の奥にある小さな庵。
それを隠すように立ち並ぶ木々もすっかり葉を落とし、裸になった枝を灰色の空の下で忙しなく揺らせている。
朱王には些か低い表戸を軽く叩くと、すぐに、どうぞ。と穏やかな返事が聞こえた。
戸を開いて、まず目に飛び込んでくるのは四方の壁にうず高く積まれた書物の山と、床に広がる薬草の束。
微かな埃と薬草の匂いの中、真っ赤に燃える火鉢の傍らに小柄な男が座っていた。
やや長めの髪を後ろでひっつめ、鼻の上に乗せた分厚い眼鏡の向こうから柔らかい眼差しを送る男は、香桜屋の長男でありながら、この庵で若隠居を決め込んでいる、秋月伽南その人だ。
「先生、ご無沙汰しておりました。今、よろしいでしょうか?」
ぴたりと戸を閉め、一礼する朱王を見た伽南は、にこっと白い歯を覗かせる。
「どうぞどうぞ。上がって下さい。散らかっていて申し訳ないですが……」
それはいつものことですね。そう困ったように笑い、伽南は火鉢に置いていた鉄瓶を取り、茶の支度を始める。
薄炭色の着流しに茶色の半纏を纏う体は、男にしては華奢だ。
しかし、年は朱王より上であり、修一郎より三つ程年下だが、小柄な体と童顔のせいもあり、とても三十五には見えない。
湯気の立つ湯飲みと共に伽南が差し出したのは、木でできた小さな軟膏入れだった。
「海華の薬です。切れないうちにこまめに塗って上げて下さいね。ああ、それと……」
思い出したように、伽南が背後から取り出したのは茶色い紙の袋だった。
「これは貴方に。湿布です、肩が凝った時に貼って下さい」
「これは……私のことまでお気遣い下さって、ありがとうございます」
嬉しそうに顔を綻ばせた朱王。
仕事柄、長い時間机に屈み込む姿勢の多い朱王は、気温が下がるこの季節、酷い肩凝りに悩まされるのだ。
以前、何気無く伽南に話したことがあるが、それを覚えていてくれたのだろう。
熱い茶を馳走になりながら、朱王は今しがた海華と墓参りをさせてもらったことを話した。
その途端、伽南は、しまったとでも言いたいように自らの額を叩く。
「すっかり失念していました、今日は命日でしたね。――また姉に叱られます……」
悪戯をして叱られた子供のような表情を見せる伽南を前に、朱王は笑うのを堪えるのが精一杯だった。
さて、その頃辻で仕事に励んでいる海華は、かじかんだ指に息を吹き掛け、天を仰いだ。
冬の日はつるべ落とし、あっと言う間に辺りは暗くなり、寒風の中足を止めて芝居を見てくれる人間はほとんどいない。
風に吹かれて真っ赤に変わった頬が、ぴりぴり痛むのを感じながら、海華は早めの帰り支度を始めることにした。
道に置いた木箱に人形と僅かな稼ぎを仕舞い込んでいた、その時だ。
「――華、お華!」
吹き抜ける風にも負けない、力強い女の呼び掛けが海華の耳に届く。
むっ、と僅かに眉を寄せた海華は、そのまま振り返りもせずに叫んだ。
「あたしはお華じゃない! み……」
海華だ!、そう言い放とうとした時、頭の中に眠っていた遥か昔の記憶が津波のように押し寄せる。
聞き覚えのある艶やかな声色、そして何より、自分を『お華』と呼ぶ者は、この江戸には一人もいない。
張り裂けんばかりに目を見開き、海華はカタカタと震えながらぎくしゃくした後ろを振り返る。
辺りを包む薄い闇に紛れ、自分と同じ木箱を背負った細身の、女の影が浮かび上がった。
「――やっぱりお華だ。久し振りだね……」
からん、からん、と下駄の鳴る音、影が立ち竦む海華へ徐々に近寄ってくる。
ようやく顔がわかる位置まで来た時、海華は思わず気を失うところだった。
自分をお華と呼ぶ女……。
それは、海華を今の生き方へと導き、傀儡廻しのいろはと組紐の操り方を叩き込んだ張本人だったのだ。
朱王が長屋に戻った時、まだ部屋に海華の姿は無かった。
表は既に真っ暗、ひゅうひゅうと鞭を振るうような音を響かせ、風は益々強くなるばかり。
息の白くなる程寒い室内で火鉢に火を入れ、妹が帰ってくるのを待ちながら、朱王は残っていた仕事を片付けようと作業机に向かった。
どの位の時間がたっただろうか、作業に集中する朱王の耳に、ばたばたと慌ただしい足音が聞こえ、次いで、戸口が跳ね壊れんばかりの勢いで叩き開けられる。
驚いて顔を上げた朱王の目に飛び込んできたのは、真っ赤に泣き腫らした目をし、部屋に転がり込んできた妹の姿だった。
「お前……!? どうしたんだ! 何があった!?」
人形の頭と小刀を取り落とし、脱兎の如く妹に駆け寄る朱王は、髪をぐしゃぐしゃに乱しながらへたり込む妹の肩を強く揺さぶる。
ぽろぽろと赤くなった頬へ涙を転がしながら、海華は海華は何かに憑かれたように『姐さんが、姐さんが……』と繰り返した。
「姐さんって……誰のことだ!? お前一体……」
何を言ってる? そう続けるはずだった朱王の言葉は、ついに口から出ることは無かった。
なぜなら、開けっ放しの戸口に佇む一人の女の姿を確めたからだ。
留紺の着物を着た四十路程の女……。
ややつり上がり気味の涼しげな目元が朱王に向けられ、薄い唇は微かな笑みをたたえている。
「き……桔、桔梗さ、ん……?」
「そうさ。朱王、久しぶりだねぇ」
泣きじゃくる妹を前にしたまま、凍り付いたように動けない朱王を女はじっと見下ろした。
「なんだい、幽霊でも見たような面してさ。今日来たのは、あたしだけじゃないんだよ」
そう言いながら、女はちらりと自分の背後を振り返る。
と、吹き荒ぶ寒風の向こうから、邪魔するぜ。 と、嗄れた声が聞こえた。
のそり、と女の後ろから姿を現したのは、風雨に曝されて、濃紺が白っぽく色褪せた着物と袴を身に付けた、無精髭と白髪頭の男。
ぎろりと藪にらみの目が自分へと向けられた瞬間、朱王の体は雷に撃たれたように跳ね上がった。
「師匠……!」
「おうよ。朱王、おめぇ随分と酷ぇ所に住んでるもんだな」
師匠と呼ばれた男と、先の女は愕然とした表情の朱王の横を通り抜け、ずかずかと部屋へ上がる。
女が背負っていた木箱を下ろした瞬間、海華は兄の手を払いのけて女の膝へ泣きながらすがり着いた。
「今まで……今までどこにいたんですか!? あたし、あたしずっと姐さんのこと探して…… ずっと探してたんですよ、っ!」
わんわんと身を震わせて号泣する海華を、女は困った顔で見下ろしながら、なだめるように小さく肩を叩いた。
その横では、まるで我が家にいるのと同じくらい自然な様子で火鉢に当たり、煙管を取り出す年老いた男に、朱王が駆け寄っている。
「師匠っ! 実虎師匠……どうして、いつ江戸へ!? 今までどこに……!」
ひどく慌てた様子で矢継ぎ早に問い掛ける朱王と、ひたすら会いたかったと繰り返して泣く海華。
もう部屋の中は大騒ぎだ。
しかし、それにも動じること無く、男は火鉢で煙管に火を付け、ぷかりぷかりと煙草をふかす。
やがて、呆れたような目付きをしながら、隣で問い詰めてくる朱王を睨めつけた。
「おめぇはよ、海華みてぇに『会いたかった』とか『心配してました』とか可愛気のあるこたぁ言えねぇのか?」
「私だって心配したんです! 探したんです師匠のことをっ!」
大阪の街中を二人の姿を探してどれだけ歩いたか。
どんなに会いたかったことか……!
自分の方へ身を乗り出し、真っ赤な顔で叫ぶ朱王を片手を上げて押し留め、男は『大声出さなくても聞こえてる』と、あっけらかんとして答える。
そして、泣き叫ぶ海華を懸命になだめる女へ、ちらりと視線を移した。
女は小さく頷きながら、涙でぐしゃぐしゃになった海華の頬を軽く叩く。
「ほら、もう泣かない! これじゃあ話しも出来ないだろ? ――泣き虫お華は今も変わってない ねぇ」
軽い笑い声を上げながら、女は海華の両頬を摘まんで横へ引っ張る。
横に歪んだ顔で女を見上げた海華は、くしゃりと泣き笑いの表情で嬉しそうに女を見詰めていた。
さて、兄妹の前に突如現れたこの二人組、男の名は実虎、女の名は桔梗と言う。
朱王は上方で十年間、実虎の下で人形造りの修行をし、海華も同じ期間桔梗の下で傀儡廻しの修行をしていたのだ。
ぼさぼさの白髪を無造作に後ろでひっつめ、無精髭を生やした実虎は、もう五十の坂を越えている
一見すれば年老いた浪人風に見えるが、上方の人形問屋の間で名を知らぬ者はいない程の腕の良い人形師だ。
山奥の小さな小屋に住み着き、ほとんど街へは降りない実虎を、ある者は遥か昔、上方一帯の盗賊を仕切っていた頭だと言い、またある者は、高名な武家の出なのだと噂した。
朱王は本当の所、実虎の素性については何も知らない。
しかし噂が本当ならば、後者の言い分が当たっていると思っていた。
なぜならば、人形師の修行と共に剣術の稽古をつけてくれたのも、この男なのだから。
実虎が自分の前から突然姿を消してから、はや七年。
何の前触れも無く、再び二人は兄妹の前に現れた。
ぱちぱちと火鉢の炭が爆ぜる音と、海華がしゃくり上げる声だけが部屋を支配する。
のんびりと煙管をふかす実虎を、焦れったそうに見遣りながら、朱王は膝の上に置いた手を握り締めた。
「――なんでいきなり江戸へ来たのか。そう言いてぇんだろ?」
ぼそりと嗄れ声で呟いた実虎に、朱王は無言で大きく頷く。
紫煙を口から吐き出しながら、実虎はがりがりと頭を掻きむしる。
「おめぇ達が無事に生きてるか……なんて理由で上方から下ってくるほど暇じゃねぇ。ちっと面倒事に巻き込まれてよ」
面倒事、との言葉に、朱王の眉が寄せられる。
後はおめぇが話せ、とばかりに実虎は桔梗へ視線を投げた。
すると桔梗は、真っ赤に充血した目で自分を見詰める海華へ、微かな笑みを投げ掛ける。
「お華、あたしがあんたと別れる前に渡した物があるだろ? まだ持ってるかい?」
はい! と震えた声で勢いよく返事をした海華が、弾かれるように立ち上がり部屋の片隅に置かれた長持ちへと飛び付いた。
そして蓋を跳ね開け、中を引っ掻き回しながら、ある物を掴み出し桔梗の元へ転がるように駆け戻る。
その手に握られていたのは、濃い飴色に変わった小さな組み木細工の木箱だった。
「ああ、これだよ。――あんた、これを開けていないね?」
木箱を受け取った桔梗の瞳が僅かな光を放つ。
海華は髪を振り乱し、ぶんぶんともの凄い勢いで頭を振りながら、開けてません! と叫んだ。
その様子をじっと眺めていた実虎は、面白そうににやりと唇をつり上げる。
「本当に開けてねぇのか? 海華、中身が気にならなかったのかよ?」
「開けてません! 姐さんに開けるなって言われたから……約束したから、開けてませんっ!」
「へぇ、馬鹿正直な奴だぜ」
煙管を手にしたまま、実虎は隙間風にも似た笑いを漏らす。
少しお黙りよ、と些か厳しく言い放ち、桔梗は実虎を睨み付けた。
「馬鹿正直だから、これをこの子に預けたんだ。じゃなきゃ危なくて他人なんざに預けられるかい」
その言葉に、海華の涙で汚れた顔が、へにゃりと綻ぶ。
あれは、桔梗と別れる前日だった。
『これを預かっていておくれ。あたしが取りに行くまで、絶対に開けちゃいけないよ』
そう念を押され、海華は木箱を預かった。
以来七年、大切にしまっていたのだ。
これさえあれば、必ずまた桔梗と逢える。
そんな淡い期待を胸に抱きながら、海華は約束を守り続けた。
部屋にいる全員の目が、その木箱に吸い寄せられる。
桔梗の白く細い指が、繊細な組み木の箱に掛けられた。
桔梗の指は箱の四隅を軽く叩き、次々と組んだ木の棒を緩め、複雑に組まれた箱が次第に解体されていく。
かこん、と軽い響きを立て、箱の一辺が外れた。
その中にしまわれていた物が、七年越しに外気へ曝される。
桔梗が取り出した物、それは茶色く変色し、きれいに折り畳まれた一枚の紙切れと、赤子の手のひらほどしかない大きさの板だった。
漆で塗られ、艶々と黒光りする小さな板。
その表面には、何やら複雑な曲線を描く金細工の模様が施されている。
何の変鉄も無い一枚の紙切れと黒い板。
たったこれだけの物が、これから兄妹や周りの人々を巻き込む事件の引き金となることを、兄妹は知るよしも無い。
「これ、何ですか?」
桔梗の手に乗せられた黒い板と、変色した紙切れを交互に見遣りながら海華が首を傾げた。
隣から顔を出した朱王も、怪訝な面持ちでそれを見詰めている。
そんな二人に視線を移し、桔梗は意味ありげな笑みを赤い紅を塗った唇に浮かべた。
「これかい? これは……とっても大切な板切れと手紙さ。ある種の人間は、涎垂らして欲しがるくらいの代物だよ」
要領を得ない桔梗の答えに、兄妹はますます大きく首を傾げ出す。
と、兄妹の背後に座した実虎が、ちっ、と小さく舌打ちをした。
「おい、勿体振らねぇでさっさと話しちまえよ。おめぇ、そんな厄介な物七年も海華に押し付けてたんだぜ?」
「押し付けた? 随分な物言いじゃないか。――まぁ、厄介な物ってぇのは当たってるけどね」
微かに苦笑いを漏らした桔梗が着物の袂をまさぐり出す。
そこから取り出されたのは、赤い絹で出来た守り袋。
その中から引き出された物は、桔梗の手に乗せられているのと同じ、黒い板と紙切れだった。
桔梗は、その板を畳へと置き、二つを上下に合わせて見せる。
ぴたりと板が合わさると、繋がった細かい金細工の線がある絵を浮かび上がらせた。
それは、四つ足をした動物の胸から下の絵。
肝心の顔は途切れてわからないが、ぴんと立った尻尾の形を見る限り、狐のようだった。
ちょうど、稲荷の前に置かれているお狐様の像の形。
狐の背後には、曲がりくねった植物の蔦のような模様が見える。
「これは……合わせ絵、ですか?」
ぽつりと呟いた朱王に、桔梗は軽く頷く。
つまり、もう一枚同じ板が存在し、それを合わせると金細工で描かれた狐が出来上がるようだ。
「朱王の言う通りだよ。この狐の頭が細工された板を持つ人間を、あたしは探しに来たのさ」
そう言いながら、桔梗は蝋燭の灯りを反射し、きらきらと煌めく板を見詰めながら、事の次第を語り始めた。
この板に描かれている狐は、甲賀忍者の一派、葛ノ葉衆の紋なのだ。
板と手紙はそれぞれ三枚づつ存在し、それは普段、頭領によって厳重に保管されている。
この板を持つことが出来るのは、次の頭領候補となる三人だけで、誰に渡されたのか、それは誰にも伝えられない。
板を渡された三人は、それぞれ他の板二枚を自力で見つけて奪い取り、三枚全てを揃えた者が無条件で次期頭領となるのだ。
「これを渡されるのは、忍としての腕と人望を認められた者さ。力はそれぞれ互角だから、殺し合い覚悟で板を探し、戦って奪い取る」
そう続けながら、桔梗は再び板二枚と手紙二通を木箱にしまい、器用に箱を組み立てていく。
目を瞬かせながら、桔梗の話しに聞き入っていた海華に、ある疑問が芽生えた。
「あの……どうしてその板を姐さんが?」
「どうして? そりゃ、あたしが葛ノ葉の女忍者だからさ。……ああ、お華には言ってなかったねぇ」
ごめんよ、と言ってころころ笑う桔梗を穴の開く程凝視する海華は、衝撃的な告白に返す言葉が見つからないでいた。
それは朱王も同じで、本当なのか? とでも言いたいように、実虎を振り返る。
煙管に新しい煙草を詰めながら、実虎は事も無げに言い放った。
「こいつぁな、頭領の妾の娘だ。『紅蜘蛛の桔梗』ってな。まあ、腕は確かだ。海華、それはおめぇが一番良く知ってんだろう」
はい、と消え入りそうな声で海華が答える。
桔梗の話しからすると、自分は他の頭領候補が血眼になって探している物を、何も知らずに七年間大事に持っていたらしい。
「黙って預けたのは悪かったと思ってるよ。でもね、そうでもしなきゃあ、これを守り切れなかったんだ」
忍では無いお華が、板を持っているなんて奴らも思わないだろう? そう言いながらも、桔梗は少し申し訳なさそうな笑みを海華に投げ掛けた。




