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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第二十一章 妄信の縦糸 愚行の横糸
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第四話

 お奉行から許可が取れたらすぐに作戦を決行する、それまで待っていてくれ。

そう言い残し、桐野は二人の部屋を後にした。

桐野を長屋の入り口まで見送った海華が部屋に戻ると、朱王は部屋の真ん中にどかりと胡座をかき、苦虫を思い切り噛み潰したような表情を浮かべる。


 「――お前、本当に囮になる気か?」


 土間に立つ海華に向かい、朱王はじろりと睨むような目付きで問い掛ける。

海華はきつく唇を噛んだまま、無言で小さく頷いた。


 「死んだ夜鷹の骸、お前だって見ただろう? 運良く命は助かったとしても、顔でも斬りつけられたらどうする?」


 眦を吊り上げ、まるで怒っているかのような朱王だが、その口から出るのは海華を案じる言葉だった。


 「いくら桐野様からの頼みでも、お前が危ない目に逢う必要なんか無い。断っておくなら、今だぞ?」


 修一郎も海華は出せんと言っている。

頼むから断って欲しい……。 朱王は内心でひどく焦っていた。

しかし、海華 は思い詰めた表情を崩さず、ゆるゆると首を横に振る。


 「あたしがやらなくて、誰がやるの?」


 そう一言呟き、海華は畳へ上がって兄の正面へ正座した。


 「あたしは、兄様や桐野様方が守ってくれるわ。修一郎様だっている。でもね、お安さんや お町さん達は、誰も守ってくれないの。…… 皆、自分の身体張って食い扶持稼いでんのよ。そんな人達を見殺しになんて出来ない」


 ましてや、囮になれなんてとても言えない。

しっかりと兄を見据えたまま、海華は更に続ける。


 「兄様が心配してくれるのは、本当に嬉しいわ。心配させて、申し訳ないとも思ってる。――だからお願い、あたしの我儘も、少しだけ聞いて? もう、こうするしか方法は無いのよ」


 真剣な目差しで自分を見詰める妹を前に、朱王は不機嫌そうな溜め息をつく。

自分がいくら説得しようが、一度決めたらやり遂げる。

桐野にも言ったことだが、妹の性格をこれほど厄介だと思ったことはない。


 信念を貫き通すのは素晴らしいと朱王だって思う。

しかし、ここまでくれば筋金入りの頑固者だ。


 「――断る気は、本当に無いんだな?」


 「無いわ」


 きっぱり言い切る妹に、朱王は根負けしたように頷く。


 「わかった、わかったもうお前の好きにしろ。 その代わり、修一郎様が良いと仰られたらだぞ」


 「わかってるわよ。兄様、こそこそ修一郎様の所へ行って、必ず止めてくれ、なんて言わないでね、下手な小細工は無しよ?」


 じろりと疑うような視線を送る妹に、朱王は思わず目を反らした。

明日にでも、修一郎の元を訪れようかと考えていた所だったのだ。


 「あ、当たり前だ! そんな真似なんかするか、 馬鹿馬鹿しい!」


 慌ててその場を乗り切ろうとする兄へ小さな微笑みを投げ掛け、海華はすっと立ち上がり、作業机の下から酒瓶を引っ張り出した。

そして茶碗を一つ持ち出し、兄の前に差し出す。


 「お一ついかが?」


 「……ああ」


 仏頂面の朱王が茶碗を手に取る。

並々と酒を注 いだ海華は、不意に自分の隣でじりじり燃える蝋燭へ目を向けた。


 「ねぇ、兄様。昼間にね、忠五郎親分が言ってたんだけど……」


 「親分が? なんだ」


 注がれた酒を喉へ流し込み、朱王が尋ねる。

海華は、ぼんやりと焔を見詰めたまま、微かに口を開いた。


 「母親ってね、子供の為なら鬼にも夜叉にもなるんだって。――もし、下手人が女将なら、夜鷹を殺してる時、女将は鬼になってるのよ」


 余りにも静かな口調に、朱王は無意識に茶碗を畳へ置き、妹の話しに聞き入る。

海華の大きな黒い瞳に、橙色の焔が映し出された。


 「向こうが鬼になるなら、こっちは夜叉になるわ。そうじゃないと、太刀打ち出来ない気がする。……もしかしたら、派手な流血沙汰になるかもしれない」


 それだけは、覚悟しておいてね。


 そう呟きながら、海華は朱王へと向き直り、どこか哀しげな微笑みを見せたのだ。






 今夜、動く。 桐野がそう伝えてきたのは、長屋に訪れてから五日後のことだった。

つまり、修一郎を説得するのに五日を要したということである。

いつお呼びが掛かるのかとそわそわしながら待っていた兄妹、流石の修一郎も、今回ばかりはなかなか首を縦に振らなかったようだ。


 昼間桐野が訪れた後、海華は早速お安らの元へ走った。

今夜、夜鷹は道へ立たないで欲しいと頼むためだ。

事の次第を全て聞いたお安は、驚愕の表情を浮かべ、何度も止めるように海華を説得した。

が、ここまで来たからには海華の気持ちは変わらない。


 ひどく海華の身を案じながらも、お安は夜鷹らを道に立たせないと約束してくれた。

色街辺り一体の夜鷹を仕切っているお安だ、夜鷹も素直に言うことを聞いてくれるだろう。

父親が遺してくれた懐刀を携え、朱王と海華が修一郎の邸宅へ向かったのは、丸い鏡のような月が天空に輝き出す頃だった。


 直々に玄関まで出迎えてくれた修一郎、月明かりに照らし出された顔は、血の気が抜けたように白く、表情は強張っている。

それは、海華の隣に立つ朱王と同じ表情だった。


 「朱王、海華……こんな役目を押し付けて、本当にすまぬ……」


 開口一番修一郎が発したのは、兄妹への弱々しい謝罪の言葉だった。


 「修一郎様、どうぞお顔を上げて下さい。私なら大丈夫です」


 努めて明るく返す海華に対し、朱王は無言のまま修一郎をじっと見詰める。

海華は支度があるから、と奥の部屋に通され、朱王は修一郎に次いでいつもの部屋、修一郎の自室へと通された。

しまい忘れた風鈴が、ちりちりと物悲しい響きを生み出す。

蝋燭の炎が揺れるなか、二人は暫し無言で対峙していた。


 「俺を……酷い男だと思っているだろうな」


 沈みきった表情の修一郎が、ぽつりとこぼす。

朱王は、いいえ。と答えるのが精一杯だった。

きっと修一郎は断腸の思いで、海華を囮に使うことを承諾したのだろう。

今の様子を見れば、そう考えるのは容易なことだった。


『気にしてはおりません』


『お役に立てて光栄です』


 そんな言葉も、修一郎にとっては陳腐な慰め、 下手をすれば嫌味に聞こえるだろう。

ただ、朱王には一つだけどうしても伝えてたいことがあった。


 「修一郎様、貴方様は、立場は違えど海華の兄上です。それは私も同じ。たった一人の妹を、人殺しを誘き出す囮に使うなど、私には耐えられません。修一郎様も、失礼ですが、今は私と同じお気持ちだと……」


 「そうだ……。出来ることなら、今からでも止めさせたい」


 ぐっ、と修一郎の太い眉が寄る。

まるで泣き出したいのを堪えるかのようだった。

朱王は、膝の上で揃えた手をきつく握り締める。


 「修一郎様には、北町奉行として、大切なお役目が御座います。己の気持ちを抑えても、やらねばならないこともありましょう。……私も、海華も充分わかっているつもりです。ですから……」


 怒りも恨みもしておりません。


 きっぱりと言い切った朱王は、真っ直ぐに修一郎を見詰める。

その言葉に嘘や誤魔化しは無い。

修一郎もわかっているのか、くしゃりと泣き笑いの表情を浮かべて大きく頷く。

その時だった。


 「海華ちゃんの支度が出来ました」


 微かな雪乃の呼び掛けと共に、庭に面した障子がするすると開く。

そこにちょこんと座していたのは、山吹色に赤い格子模様の入った派手な着物を纏い、白粉で白く首辺りまで化粧を施した海華だった。


 「雪乃様がして下さったの」


 きつめに紅を塗った唇が三日月形に弧を描く。

普段、全くといって良いほど見ない妹の化粧した顔に、兄二人は暫し見入っていた。

側に寄り添う雪乃は、朱王に向けて『綺麗になりましたでしょう?』と、どこか悲しげな笑みを見せた。 海華がこれから何をするのか、全て知っているからだろう。


 「奥方様にはお手数をお掛け致しました。――海華、後ろには俺や桐野様が付いている。だから、何も心配するな」


 「桐野だけでは無い。今日は俺も付いている」


 唐突な修一郎の言葉に、兄妹は勿論雪乃までもが驚きに目を見開いた。


 「なんだ、女四人を殺した下手人が捕らえられるかもしれんのだ。俺が自ら出ても、おかしいことはあるまい?」


 三人をねめつけるように視線を走らせ、修一郎は文句があるかとばかりに深く腕を組む。

本心は、海華のことが心配なのだ。

それを重々わかっている朱王は、何も反論することが出来ないでいた。

月が高く昇った頃、邸宅から出た三人は、桐野らが先に待っているであろう、あの色町近くへと向かって行った……。






 風に流れる暗雲が月を隠す。

どこか哀愁漂う犬の遠吠えが響く色町近くの大通り。

突如、生暖かい空気を切り裂くような男女の怒号が轟いた。


 「こちとら身体張ってんだ! そんなはした金で足が開けるかっ!」


 「なんだとぉ!? この腐れ夜鷹が! お高くとまりやがってっ!」


 山吹色の着物の前を、千鳥足の酔っ払いが一人、口汚く罵りながら通り過ぎる。

柳眉を逆立て、一昨日来やがれ! と吐き捨てた女は、頭から被った白い手拭いの片端を、ぎりぎりと噛み締めた。


 小脇に蓙を抱えた女、夜鷹に化けた海華は、苛立たしげに闇の向こうを睨み付ける。

桐野らと橋の付近で落ち合い、ここに立ち始めて何刻過ぎただろうか。

声を掛けてくるのは、酒臭い息を吐き散らす酔っ払いだけだった。


 お安が手を回してくれたのだろう、いつもは 数人の夜鷹が客を待つこの道も、今は海華一人だけ。

その代わり、通りにずらりと並ぶ店や柳の大木の陰には、二人の兄や桐野以下、二十余人ほどの侍達が息を潜めて下手人を待ち構えているのだ。


 海華に一番近い酒屋、その板塀の陰から苛立つ海華を見守る修一郎、朱王、桐野の瞳が揺れる。

ことごとく酔っ払いどもを蹴散らす海華を、三人は感嘆の溜め息をつきながらも、どこか複雑な気持ちで眺めていた。


 「――啖呵を切るのも、なかなか様になっているな」


 自分の妹の口から飛び出るえげつなく、そして歯切れの良い台詞に、修一郎は目を丸くし、桐野は笑いを抑えるのに必死だ。


 「全く……どこで覚えてきたのやら」


 がっくりと肩を落としながら、朱王が呻いたその時だった。

吹き抜ける夜風に乗り、待ちに待った鬼神の足音が聞こえて来たのだ。


 から、からころ……かつん……かつん……


 不規則な下駄の音。

海華が弾かれたように顔を上げ、音の方向を確かめる。

隠れていた三人も、表情を引き締め桐野と修一郎は早くも刀の柄に手を掛けていた。


 道の反対側には、都筑や高橋率いる奉行所の侍が大勢待機している。

その者らの視線が海華へと注がれているのは間違いないだろう。

突き刺さるたくさんの視線を痛いほどに感じながら、海華は生唾を飲み込んだ。

下駄の音は、確実に自らへと近付いている。


 かたん、からん、と軽い音を引き連れ、遠くでゆらりと闇が揺れた。

海華の見開いた瞳に映り込んだ人影。

辻行灯の光に浮かんだのは、風呂敷包みを携えた一人の女だった。


 肉付きの良い体を濃紺の着物で包み、僅かに顔を伏せてこちらへやってくる。

地面へ根が生えたように、その場へ立ち尽くす海華の少し手前を、その女は足に合わない下駄を引き摺るように通り過ぎる。


 「――あら、お久し振りねぇ」


 涼やかな声色が海華の鼓膜を振るわせた。

ぴたり、と女の歩みが止まり、ゆっくりゆっくり顔が海華へと向けられる。

突然声を掛けられ、海華は石のように突っ立ったまま返事すら返すことが出来ない。


 にこにこと愛想の良い笑顔で近付く女、それは以前、海華がこの場で逢った古着屋の女将、お桐だった。


 「この頃店へ来て下さらないから、心配していましたよ?」


 古い友人にでも話し掛けるように、お桐は半分手拭いで隠れた海華の顔を覗き込む。

人違いです、そう乾いた舌が言葉を紡ぎ出そうとした瞬間、風呂敷包みに隠れたお桐の手元で、銀色の冷たい光が、辻行灯の下、ぎらりと鋭く輝いた。


 びゅっ! と空気を切り裂き、白銀の光が海華の鼻先を掠めた。

紙一重でそれをかわした海華、悲鳴すら上げる暇もなく、ぐぅ、と小さく息を詰めたまま、後ろへ素早く飛びすさる。


  女の風呂敷が宙を舞うのと、海華の蓙が女の顔に叩き付けられるのは、ほぼ同時だった。

ぐっ! と呻いて女、お桐が顔を押さえる。

蓙に紛れて顔に投げ付けられた物、それは赤漆塗りの鞘だった。


 お桐の柳眉がみるみるうちにつりあがり、裂けんばかりに見開いた瞳が血走る。

うぉぉ――っ! と獣の如き叫びを迸らせ、お桐は鈍色に煌めく大きな出刃包丁を振りかざして一直線に海華へと突進した。


 ぐらぐら揺れる地面、突き出した懐刀にも怯まず、お桐は肉付きのよい手で海華の胸ぐらを力一杯ひっ掴む。

あっ、と思った時には既に遅く、身体の均衡を崩した海華は、だんっ! と重たい響きと土煙と共に地面へ思い切り叩き付けられた。

強かに顔面を硬い地に打ち付け、目の前に火花が散る。


 全てが、あっと言う間の出来事、ひゅっ! と喉を鳴らしながら天を見上げた海華、怯えた瞳に映ったものは、鬼の形相をしたお桐が着物の袖をたなびかせ、自分に向かって出刃包丁が突き立てようとする姿だ。

その瞬間、海華――っ! と雷鳴のような咆哮が響き渡り、大きな影の塊がもの凄い勢いで出刃包丁をかざすお桐へ真横からぶち当たる。


 肉のぶつかり合う鈍い響き、毬のようにお桐の身体が土煙をあげながら派手に地面を転がった。

次いで、夜気を震わす雄叫びを上げて道の両側から飛び出す大勢の侍は、地面から起き上がり口から涎を垂らしながら、ぎゃーぎゃーと奇声を上げ、今だ出刃を振り回すお桐へ飛び掛かっていく。


 静寂を破る狂乱の捕り物劇、暴れ狂うお桐は、神妙にしろっ! と怒声を張り上げる侍らに引き摺られ、道の彼方へ消えていく。

ぺたりと尻餅をついたまま、唖然と一部始終を見守る海華の体を力強い腕が、がくがくと揺さぶった。


 「海華っ! 海華――! しっかりしろ、大丈夫かっ!」


 激しく揺れる視界の中では、ほつれた髪を脂汗で顔に張り付け、必死の形相で自分の名を叫ぶ修一郎の顔が見える。

その後ろからは、足を縺れさせながら走り寄る朱王と桐野の姿があった。


 「修、一郎……さま?」


 地に倒れた衝撃で、くらくらと揺れる思考の中、海華はじっと目の前の男を凝視した。

全身を土埃で汚した修一郎は、今にも泣きそうな面持ちで何度も『大丈夫か?』と呟きながら海華の頬を硬い手のひらで撫でる。


 「海華……血が……」


些か青褪めた表情の朱王が地に屈み込み、懐から引き出した手拭いを海華の頬へ当てた。

擦り剥いたのだろうか、ぴりぴりとした痛みに海華の顔が歪む。


 「お奉行、とにかく早く番屋へ。傷の手当てをしなければ」


 海華を覗き込みながら、桐野は動揺を隠し切れない修一郎へ冷静に声を掛けた。


 「あ、あぁ、そうだな。海華、しっかり掴まれ」


 そう言いながら、修一郎は小刻みに震える腕で軽々と海華を抱き上げる。

ひくり、と体を戦慄かせ、海華は蚊の鳴くような声を出した。


 「修一郎、様……桐野様……下手人は? お桐は……?」


 「大丈夫だ。お縄になった」


 「海華殿、よくやった。お主のお陰だ。よくやったな!」


 きつく抱き締めてくれる修一郎と穏やかな笑みを見せる桐野。

潤み始めた瞳で兄を見遣れば、こちらも泣き笑いのような表情を浮かべ、頑張ったな、と些か乱暴に髪を掻き回される。


 その瞬間、堪えに堪えていたものが、ぷつりと音を立てて切れたのだろう、海華は修一郎の肩口へむしゃぶりつき、わんわんと大声で号泣し始めた。

もう大丈夫だ、泣くな、と懸命に妹を慰める朱王の背後では、地に転がった赤漆の鞘が、月の光を受け、きらりと清冽な光を放っていた。




 怒涛の捕り物劇から一夜明け、兄妹は長屋近くの茶屋へ赴いていた。

二人が茶屋の暖簾を潜った時、奥の席には既に修一郎と桐野の姿がある。

兄妹は、この二人に呼び出されたのだ。


 「昨夜はご苦労だったな。海華、怪我の具合はどうだ?」


 にこにこと微笑む修一郎は、自分の正面に座した海華へ問い掛けた。

はい、大丈夫です。

と、目尻を下げて頷く海華の左頬には、薄っすらと赤い掠り傷。

手首にも真新しい白い包帯が巻かれている。


 地に叩き付けられた時にできた傷は、三人が心配した程酷いものではなかった。

無事に下手人を捕らえることが出来た修一郎も、勿論桐野もすこぶる機嫌が良く、何度も昨夜の礼を述べる間も始終笑顔を絶やさない。


 四人の元へ茶と菓子が運ばれ、修一郎は早速話しの本題へと入った。


 四人もの夜鷹を惨殺したのは、今更言うまでもなく、古着屋の女将であるお桐だった。

動機は梅毒をうつされて死んだ息子の復讐、海華の推測通り、相手は夜鷹なら誰でもよかったようだ。


 「あんな薄汚い売女どもさえいなければ、うちの子供は死ななかった。と一晩中喚き散らしていた。逆恨みも甚だしいわ」


 細い目を益々細め、桐野が吐き捨てる。

朱王も呆れ果てたように小さな溜め息をついた。

湯気の立つ茶を一口啜り、海華は不思議そうに小首を傾げる。


 「でも桐野様、どうしてお桐が昨日動くってお分かりになられたのですか?」


 「ああ、そのことか。実は、昨日からお桐の亭主が古着の買い出しで店を留守にしていたのだ。一度出たら、十日は帰ってこないらしい。 もしやと思って、な」


 店の奉公人に聞き込んだところ、いずれも夜鷹が殺害された日に、亭主は買い出しに出掛けていたのだ。


 「店の者の目を盗み、夜中に男物の下駄を履いて出掛けていた。目に付いた夜鷹へ、まるで顔見知りのように声を掛けて油断したところを……」


 「出刃で刺し殺し、激情に任せて切り刻んだ訳ですね」


 湯飲みの中に映る自分の顔を見詰め、桐野に続くように朱王がぽつりと呟いた。

確かに、相手が女となれば夜鷹やも少しは警戒を解くのだろう。


 人で賑わう店内、いらっしゃい! と娘の明るい声と、客の談笑が響く中、四人が座る奥の席だけは、ひどく重苦しい雰囲気に支配されていた。


 「――都筑の奴は、始終あの女は恐ろしい、と口にしていたが……確かにな。海華を襲った時の顔は、まさに鬼だった」


 深く腕を組み、俯き加減の修一郎は、昨夜の場面を思い出したかのように小さく身震いをして見せる。 そして、ふと顔を上げ、ごそごそと袂をまさぐり出した。


 「お前に返さねばなるまい」


 そう言いながら飯台の上へ置いたのは、あの懐刀。

その瞬間、海華の顔が、ぱっと輝いた。


 「良かった……! 放ったままにしていたから、ずっと気になっていたんです」


 大切そうに懐刀を手に取り、海華は艶やかな鞘を撫で上げる。

幸い、大きな傷は付いていなかった。

安堵の表情で懐刀を見詰める海華へ、朱王は穏やかな眼差しを向ける。


 「しかしお前、よく鞘だけをお桐へ投げたな? 刀身まで投げていたら、あのまま出刃で刺されていたぞ」


 感心したような兄の口調に、海華は何故か怪訝そうに眉を寄せる。


 「あたしもね、よく覚えてないの。鞘に手を掛けた記憶もないし……」


 懐刀をしげしげと見詰め、海華はしきりに首を傾げ続ける。

蓙の間に隠していた懐刀が、自然とお桐に向かって飛んで行った、という感じなのだ。

そう話した途端、そんな馬鹿な、と朱王に笑い飛ばされ、海華はむくれた顔で横を向いてしまう。

しかし、修一郎は僅かに唇を綻ばせ、腕を伸ばして、ぽんぽんと頬を膨らます海華の肩を叩いた。


 「海華、きっと……父上だ。父上が助けて下さった。そう思っていろ」


 修一郎の言葉に、海華と朱王、そして桐野が一瞬目を見開く。

が、すぐに三人共柔らかな笑みを浮かべて修一郎に視線を向けると、彼は些か照れ臭そうに鼻の頭を掻 き、ぷいとそっぽを向いてしまったのだ。






 ぽっかりと満月の浮かぶ星空。

凄惨な事件の幕が降りた花町。

古びた橋の近くから、賑やかな女達の笑い声が響く。


 顔には白粉を塗りたくり、派手な着物を纏う女 らの中心には、御神籤入りの箱を足元に置いた海華の姿があった。

夜鷹殺しの下手人が捕まり、晴れてお安やお町は仕事に精を出すことが出来るようになった。


 その功労者の一人である海華の元には、話しを聞かせてくれと噂好きの夜鷹が連日集まってくるのだ。


 「――でもさぁ、いくら我が子が可愛いったって、夜鷹殺しても死んだ息子が戻ってくるわけじゃないのにね」


 まだ十代前半だろうか、くるくると表情を変えながら細面の娘が口を開く。

そうだそうだと同調する数人の女を横目で見遣りながら、海華は溜め息混じりに桐野から聞いた事柄を話し始めた。


 お桐も、最初から夜鷹への復讐を考えていたわけではないらしい。

事の起こりは、息子が悶死してから、ひと月あまり過ぎた頃だった。

朝な夕な、店も閉めて仏壇の前で泣き暮らしていた夫婦。

ある時、主人の漏らした一言に、お桐は打ちのめされたそうだ。


 『もう、子供のことは忘れよう』


 嘆き悲しんでいても、子供は帰ってこない、諦めて二人で生きていこう。

主人はこうした意味で言った言葉なのだろうが、お桐の受け止め方は違った。

なぜ、自分の子供を忘れなければならないのか?

どうしてそんな酷いことを言えるのか……? 亭主の気持ちが、一気に自分から離れて行く気がした。

息子が死んだから、幸せな家族は壊れてしまった。

諸悪の根元は、息子に梅毒をうつした夜鷹なのだ……。


 「それで、堪えていた恨みが爆発したらしいわ」


 ばりばりと頭を掻きながら言った海華に、あたしらにしちゃぁ、いい迷惑だよ! と夜鷹の一人が唇を尖らせる。

と、海華と同じく橋の欄干に凭れて話しを聞いていたお安が、微かな溜め息をついた。


 「その亭主も、辛かったんだろうさ。だから早く忘れたかったんだよ。でもさ、母親ってぇのはそうは行かない。何しろてめぇの腹痛めて産んだんだから。忘れろなんて酷な話しだ」


 「男って、面倒からはすぐ逃げたがるからね」


 そう吐き捨てたのは、橋へしゃがみ込んでいたお町だ。


 「それでさ、そのお桐って女は、この辺りの夜鷹皆殺しにする気だったのかい?」


 先程の娘の背後から、別の丸顔の年増夜鷹が顔を覗かせる。

海華は緩やかに首を振った。


 「江戸中の夜鷹殺りたかったって。梅毒は女郎にうつされたかもしれないのに、犯人は夜鷹って思い込んでたのよ」


 馬鹿な女だねぇ! お町の叫びと同時に、どっと笑い声が星空へと響く。


 思い込みの縦糸と復讐と言う愚行の横糸で織られた物は、血で染まった破滅と言う名の織物だった。


 「……女狂いの馬鹿息子に振り回されてさ、その女も考えてみりゃあ哀れなもんだよ」


 やかましい笑いに掻き消されるようなお安の一言に、海華は無言で頷いた。

ちかちかと星の瞬くある日の夜。

いつもと変わらぬ風景の中で、海華とお安は顔を見合せながらどこか寂しげな笑みを浮かべる。

賑やかな女達の談笑を響かせながら、夜は深々と更けていった。






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