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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第二十一章 妄信の縦糸 愚行の横糸
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第三話

 二人の後ろから現れた女は、群青色の着物を身に付けた肉付きのよい大柄な体躯を揺らし、海華と留吉の横に立つ。

年は五十程だろうか、丸々とした頬はつきたての餅のように艶やかで、目尻には烏の足跡よろしく小皺が刻まれていた。


 「ここで何か、事件でも?」


 少し掠れた、しかし穏やかな声色で女は再び何があったのかを問い掛けてきた。

夜鷹が殺されたんでさ。 と答える留吉に、女は奥二重の目を僅かに細めた。

女の体が揺れるたび髪に留めた銀の簪が揺れ、きらきらと光を放つ。

海華は何気無く女の視線を辿った。

その先は真っ直ぐに地面へ、正確には地面に広がるどす黒い殺しの形跡へと向けられている。


 「近頃は物騒になりましたね」


 困ったような笑みを浮かべた女は、立ち尽くす二人に軽く会釈し、たっぷりと脂の乗った尻を揺らしながら立ち去っていった。



 「――こんな気味の悪いもの、よくまじまじと見られますね? 度胸の座った人なのかしら」


 去り行く女の後ろ姿を眺めながら、海華は感心しながらに呟いた。

その時、海華の後ろに立つ留吉が、おお! と何かを思い出したように叫び、ぽん、と手を打つ。


 「どっかで見た顔だと思ったら、ありゃ古着屋のお桐さんだ、いや、間違いねぇ」


 「古着屋の女将さん?」


 「そうだ、ここを少し行った所に、元木屋って古着屋があるんだ。なかなか立派な店構えだぜ? 旦那と女将一代で築いた店らしいからな。 てぇしたもんだ」


 うんうん、と一人大きく頷く留吉を他所に、海華は今だ女が去った方向を眺めている。

そんな海華もお構い無しに、留吉はさらに女のことについて喋り続けた。


 「一人息子が死んじまってから、女将もすっかり鬱ぎ込んでるって聞いたけどな。やっと元気になったのかねぇ」


 「え? 息子が死んだの?」


 何気ない留吉の一言に、海華がくるりと振り向いた。


 「ああ、一粒種だった息子だ。確か海華ちゃんとそう年は変わらねぇぜ? ふた月前だったかねぇ、病で死んだんだとよ」


 跡取り息子だから、女将も旦那も目の中に入れても痛くないほど溺愛していた息子らしい。

ふぅん、と気の無い返事をしながらも、海華はあの女将が妙に気になっていた。


 「ねぇ、留吉さん。その息子、何の病で死んだんですか?」


 きゅっ、と小首を傾げ、海華は留吉を見上げた。

それは俺も知らねぇなあ。 留吉はそうこぼし、考えるように視線を宙にさ迷わす。

その間にも、二人の周りには怖いもの見たさの男らが幾人も足を止め、乾いた血溜まりを見物していた。


 「そうだ、確かうちの親分なら知ってるはずだぜ。前にそのことを話してたのも、親分だからな。――でも海華ちゃん」


 どうしてそんなこと聞きたがる? その台詞が留吉の口から飛び出る前に、海華は、ありがとうございました! と大声で礼を述べ、おまけとばかりに留吉へ明るい笑顔を残しながら、番屋の方向へと駆けて行ってしまった。


 留吉を通りに残したまま、海華は番屋へと走る。

親分は都筑らと調べに出ている、と留吉から聞いたが、もしかしたら帰っているかもしれない、と海華は淡い期待を抱いていた。


 お邪魔します! と一声掛け、番屋の障子戸をがらりと開ける。

狭い室内に身を寄せ会うように座る黒い羽織が二つ、海華に背を向けて座る二人が同時にこちらへ振り向いた。


 「都筑様! 高橋様! お疲れ様でございます」


 「おお、海華。どうかしたのか?」


 海華の呼び掛けに、やや疲れた笑みを浮かべた都筑が片手を上げて答える。

湯飲みを持ち、熱そうに茶を啜る高橋は、昨夜は大変だったな。

と海華へ向かって声をかけると、はい、と小さな苦笑いを見せながら海華は二人の側へ寄る。


 「あんなに酷いむくろ、初めて見ました。――あのぅ、忠五郎親分は、まだ戻っていませんか?」


 きょろきょろと室内を見渡す海華。

すると高橋は湯飲みを置き、部屋の奥を指差す。


 「もう帰っているぞ。おい、忠五郎! 海華殿だ!」


 よく通る高橋の呼び掛けに、へい! としゃがれた返事が返る。

やがて、深い皺が顔のあちこちに刻まれ、真っ黒に日に焼けた中年男が奥から顔を出した。


 「おう、海華ちゃんか。どうしたい? 何か用か?」


 「ああ、親分さん。ちょっと伺いたいことがあって……元木屋さんの女将さんのことなんですけど」


 「元木屋……ああ、古着屋のお桐さんか? なんでぇ、唐突に」


 突然海華の口からでた店の名に、忠五郎は目を丸くさせた。

都筑と高橋も興味深そうに土間に立つ海華を見詰めている。

海華は、先ほど通りで逢ったお桐の様子を話して聞かせた。


 「――で、留吉さんが親分さんなら詳しい話しを知っているって、今回の事件には何の関係も無いかもしれませんけど……」


 「気になる、か? ――まぁ、今となりゃぁ話しても恨まれはしないだろう」


 どかりと煙草盆の前に胡座をかき、忠五郎は頭を掻く。

都筑と高橋、それに海華から送られる、早く話せといわんばかりの視線に、忠五郎は僅かに肩を竦めた。


 「元木屋のとこはなかなか子宝に恵まれなくてな、年いってから生まれた一人息子が一太郎いちたろうだ。旦那も女将も、そりゃ喜んで。何しろ跡取り息子だからなぁ、二人とも舐めるように可愛がって育ててたぜ」


 煙管を片手で弄び、忠五郎は更に先を続ける。

三人は固唾を飲んで、その話しに聞き入っていた。


 「その一太郎が、ふた月前にぽっくりと逝っちまった。確か二十歳になったばかりだったな。 表向きは急な卒中ってことだったが、本当は梅毒にかかって死んだらしいんだ」


 「梅毒、か。しかしな忠五郎、梅毒持ちでもぴんぴんしている奴など掃いて捨てる程いるだろう、そう簡単に死ぬような病ではないはずだが?」


 都筑が顎の下を擦りながら口を挟む。

確かに、梅毒は急激に症状が進む病では無いし、それどころか梅毒にかからなければ男では無いとうそぶく人間もいるくらいだ。


 「まあ、普通はそうなんですがね、一太郎の場合は頭に回っちまったんですよ。最期の方は寝た切りで鼻も欠けちまってたとか。親の嘆きったら、半端じゃねぇですよ。暫く店も閉めちまったんだから」


 ぽかん、と口を開けたまま、海華は忠五郎を凝視した。

夜鷹や遊女の中でも、梅毒を患い鼻や耳が欠けている者もおり、実際海華も幾度となく見たことはあったのだ。


 「その一太郎ってのが、三度の飯より女郎屋通いが好きな男でしてね、金なら幾らでも親が出してくれるってんで、毎晩遊び歩いてたらしいんですよ。親も可愛がり方は知ってても怒り方は知らねぇ。夜鷹にまで手ぇ出してたらしいですぜ?」


 まぁ、自業自得ってぇ所ですかね……。 そう呟きながら、忠五郎は皺のある顔にますます深い皺を寄せながら、一際大きな溜め息をついていた。


 「それで、海華。お前はその女将が下手人とでも言うのか?」


 土間に突っ立ったまま、忠五郎を凝視している海華に都筑が振り向き様に尋ねる。

はっと我に返った海華は、しどろもどろになりながら、はい、と頷いた。

新中野所に都筑は女にあんな酷い殺し方は出来まい、と笑い飛ばす。

その横で、高橋は怪訝そうな顔でじっと何かを考えている。


 「いや、都筑。もしかしたら、もしかするかもしれないぞ。お主が持っていたあの香袋、その女将の持ち物だとしたらどうだ?」


 「そりゃあ、夜鷹の持ち物だと言われるより説得力はある。だがな海華の聞いた不規則な足音は、どう説明する?」


 「その足音なんだがな、俺はあの裏道で血の足跡を見たんだ。地面に、きっちり左右均等に付いていた。おかしいとは思わないか?」


 なにがだ? と不思議そうに聞き返す都筑に、痺れを切らせたように高橋が叫ぶ。


 「だからな! 足の悪い男が下手人なら、多少血の跡が掠れたり不規則になったりするだろう!?」


 「ああ……言われてみれば、そうだな。だが、女将が夜鷹を襲う理由は何だ? まさか息子が夜鷹に梅毒をうつされたから、その仇討ちか?」


 畳み掛けるような都筑の言葉に、さすがの高橋も口ごもってしまう。

そこへ助け船を出すように、海華が口を開いた。


 「あの、都筑様。もし女将が下手人だとしたら、殺す相手は夜鷹なら誰でも良かったんじゃ ……」


 「誰でも良かったぁ!?」


 都筑らの後ろに座っていた忠五郎が、すっとんきょうな叫びを上げる。

当の都筑はと言えば、真ん丸に目を見開いたまま、海華を穴の開くほど見詰めている。


 「いや、断定は出来ません。でも、息子が誰に梅毒うつされたかなんて、わからないですよね? 女郎からなのか、夜鷹からなのか……仇討ちするなら、断然夜鷹の方が狙い易いです。まさか江戸中の女郎屋に乗り込んで行く訳にもいきませんし」


 「それはそうだが、あまりにも突拍子もない話しだ。上に伝えた所で、取り合っては貰えんぞ?」


 苦々しく呟く都筑に、海華はそうですか、と沈んだ声でしょんぼりと下を向いてしまう。

その時、突如高橋が勢い良く立ち上がり、土間へとかけ降りた。


 「ここで唸っていても始まらん! とにかく証拠を探せばいい、証拠さえあれば、必ず桐野様は認めて下さる。そうなれば、上も黙ってはいられまい!」


 真剣な面持ちで一声叫ぶなり、高橋は脱兎の如くに番屋を飛び出して行く。

どこへ行くのだ!? と大声を上げ、都筑も慌てて高橋の後を追い掛け、あっと言う間に姿を消した。

侍二人が風のように出ていった後は、呆気に取られた様子の忠五郎と海華だけが番屋に取り残される。


 「――あたし、余計なこと言っちゃいましたかね……?」


 開けっ放しの戸口を眺めながら、ぽつりと海華が呟く。

煙草盆から煙管を手に取り、煙草の葉を詰めながら、忠五郎は小さく首を振った。


 「いや、そんなこたぁ無ぇよ海華ちゃん。都筑様方も、あんまり手掛かりが無さすぎて弱りきってたんだ」


 乾いた空気の中に、苦い煙草の香りが広がる。

旨そうに紫煙を燻らせる忠五郎に向かい、海華はある疑問をぶつけてみた。


 「あの、親分さん、言い出しっぺのあたしが言うのもなんですけど、本当に女将が殺ったと思いますか?」


 そうだなぁ、と煙を吐きながら呟く忠五郎は、宙に視線をさ迷わせた。


 「確たる証拠はまだ無ぇからな、何とも言えねぇが……。但し、これだけは言えるぜ」


 こつん! と煙管が煙草盆へ打ち付けられる。

こちらへ体を向けた忠五郎は、海華を手招きした。

その仕草に応え、海華は上がり框へ腰を下ろす。


 「女親ってのはな、――うちのかかぁもそうだが、子供の為なら何だってするぜ? てめぇが腹痛めて産んだガキだ。守る為なら、平気で泥の中這いずりまわるもんだ」


 じっと海華の顔を見詰めながら、忠五郎は静かに語り続ける。


 「もし海華ちゃんの言う通り、女将が息子の仇討ちをしたとしても、――俺は驚かねぇ。餓鬼の為なら母親ってのは、鬼にも夜叉にもなるんだよ」


 最後に囁かれた言葉は、母親とは縁の無い海華の胸にも深く染みるほどに重たく感じられた。

その日の夜、長屋に帰ってからも、海華の頭の中から忠五郎の言葉が離れることは無かった。

夕餉が済んだ後、壁に凭れながら人形の手入れを始めた海華だが、その手はかなり前から止まったまま、何かを考えるようにじっと人形の頭を見詰めている。


 かりかりかり……と海華の正面で朱王が木を彫る小気味良い音だけが響く部屋。

ふいにその音がぴたりと止まり、朱王が後ろを振り向いた。


 「おい、悪いが濡れ布巾をくれ。……おい、おい! 海華!」


 呼び掛けても返事をしない妹に、怪訝そうな表情を見せた朱王が叫ぶ。

途端、海華の体が小さく跳ね上がった。


 「あ、ごめんなさい、なぁに?」


 「濡れ布巾をくれ。――どうした? ぼーっとして」


 急いで水瓶まで走る妹を目で追い掛け、朱王は小首を傾げる。

なんでもないわ、と曖昧な笑みを見せながら、海華は布巾を兄へ手渡した。


 「それならいいんだが、またあの事件のこと考えてたのか?」


 「う、ん。少しだけね。何だか気になっちゃってさ」


 図星を突かれた海華は苦笑いを浮かべ、再び人形の手入れに取り掛かった。

埃を拭い、髪を整えて木箱へと納める。

ぱたん、と木箱の蓋が閉められたその時だった。

些か強めに戸口が叩かれ、朱王、いるか? と低めの声が戸口越しに届く。


 よく聞き慣れた、その声色。

はい、と返事をした朱王が腰を上げ、戸口を開く。

すっかり暗くなった表に立っていたのは、黒い羽織を纏った三人の侍、桐野、都筑、高橋だった。


 「夜分にすまない。お主らに話しがある」


 無表情のままの桐野、後ろの二人は僅かに顔を強張らせて朱王を見た。

兄が中へ招き入れた者らを確かめた海華は、驚いたように目を丸くする。

六畳一間ほどの部屋に五人もの人間がひしめくように座っていた。

茶を出そうと立ち上がる海華を桐野が引き留め、兄の横へ座らせる。


 「突然押し掛けて申し訳ない、早速本題に入らせてもらう。 ――実はな、あの骸が握っていた香袋の持ち主がわかったのだ」


 桐野の言葉に、海華は思わず身を乗り出す。

誰なんですか? と尋ねる前に、桐野は眉間へ思い切り皺を寄せた。


 「持ち主は、古着屋の女将。お桐だ。高橋らが店に行って香袋を見せたら、あっさり自分の物だと認めた」


 「――では、殺しも認めたのですか?」


 朱王の静かな問い掛けに、桐野は首を横に振る。

そして、後ろへ座する高橋を振り向き、詳しく話せと呟いた。


 「この香袋は、確かに自分の物だ、しかし、ひと月前にどこかで落としてしまった、と」


 「落とした!?そんな……」


 嘘ですよ! と力強く叫ぶ妹を、朱王は肩を掴んで引き戻す。

興奮気味の海華は、顔を紅潮させて高橋を見詰めた。

が、次に口を開いたのは、相変わらず表情を強張らせたままの都筑だった。


 「こちらだって嘘だとは思うておる! 海華、昼間下手人は女だと申したお前の考えは正しい!  笑い飛ばした俺が間違っていた」


 口から唾を飛ばして叫ぶ都筑に、海華どころか朱王までもが目を見開いた。

どこか都筑の顔が、怯えているように見えたからだ。


 「あの女将、血塗れの香袋を見せられても顔色一つ変えないのだ。ただ……ただにこにこ笑って、『私の物で御座います』それだけだ!」


 自分の持ち物が血に染まっている、それを町回りが持ってきた。

何があったのか聞かない者はいないだろう。

笑顔でそれを見られるはずはない。

高橋と都筑には、女将が異様を通り越して恐ろしく見えたのだろう。

一瞬の静寂が部屋を支配する。

凍り付いた時を動かしたのは、桐野の小さな咳払いだった。


 「高橋、都筑、お主らは先に帰れ。儂はもう少し二人と話がある」


 桐野の言葉に二人は顔を見合わせる。

しかし、すぐに『承知致しました。』と一言残し、二人はちらちらと兄妹と桐野を交互に見やりながらも腰を上げ、長屋を後にして行った。

高橋と都筑が帰った後、桐野はどこかソワソワと落ち着かない様子で兄妹と向かい合う。

普段あまり見られない桐野の態度に、朱王はひどい胸騒ぎをおぼえていた。


 二人へ交互に視線を向け、やがて桐野は意を決したように膝の上に置いた手を、ぐっと握り締める。


 「海華殿に、囮になって欲しいのだ」


 再び場の空気が凍り付く。

朱王は一瞬、桐野が何を言っているのかわからなかった。

それは海華も同じらしく、ぽかんと口を開けて苦い表情を作る侍をただただ凝視している。


 「桐、野様。囮とは……海華をわざと下手人に襲わせる、ということですか?」


 微かに震える声で朱王が問う。

そうだ、と答えが返った刹那、かっ! と腹の中が熱くなった。

相手は四人の女を殺めた輩だ。

そんな危険な人間の前に妹を行かせるなど、承知できる話しでは無かった。

囮と言えば響きが良いが、下手をすれば生け贄になりかねない。


 無意識に自分を睨むような目付きになる朱王に、桐野はひどく苦し気に顔を歪め、言葉を絞り出した。


 「お主の気持ちは痛い程わかる。儂がとんでもないことを言っているのも、充分承知している。だがな、もう、この方法しか無いのだ」


 限りなく黒に近い灰色のお桐、お縄にするには確たる証拠を掴まねばならない。


 「あの香袋はお前の物だ、だからお前が下手人だ。とはいかない。一番確実なのは……」


 「お桐が海華を襲えばいい。その現場を押さえるのが一番でしょうね」


 朱王の声色に棘が混じる。

本来ならば、桐野へそんな口をきくなどは許されない。

しかし、今の朱王にはそんなことを気にしている暇は無かった。

妹の命を危険に曝せと言われているのだから……。


 「お奉行様は……修一郎様は、何と仰っているのですか?」


 僅かに顔を伏せ、朱王が尋ねる。

緊迫したやり 取りを兄の隣で聞く海華は、おろおろと視線をさ迷わせた。

実の妹を囮に使うと言われた時、修一郎は何と 返事をしたのだろう。 凶悪な人殺しを捕らえられるなら、それでよいと応じたのだろうか? じわじわと沸き上がる怒りにも似た焦りの中、朱王は修一郎の顔を思い浮かべていた。


 「お奉行は……そんな危ない真似をさせられるか、と大反対だ。無理もないがな……」


 ぽつりと呟いた桐野は、海華へ真っ直ぐな視線を向ける。


 「海華殿、儂もお主にこんな話しをしたくはない。だが、このままでは更に夜鷹が犠牲になるのだ。無論、無理強いする気は更々無い」


 その言葉を聞いた瞬間、海華の心臓が、どくりと一度大きく跳ね上がる。

お安、お町、それ以外にも親しくしている夜鷹達の顔が、次々と頭の中を駆け巡った。

自分がやらねば、次は誰が血塗れの骸となって道に転がるのだろう……?


 「おい、どうする気だ?」


 些か苛立ったような兄の声が飛ぶ。

からからに乾いた唇を一舐めし、海華はゆっくり桐野へ向かって顔を上げた。


 「私……私、やります。囮に、なります……」


 消え入りそうに弱々しい返事。

朱王は、ひくりと眉を動かし、桐野はぐっと唇を噛み締めた。


 「これ以上、あんな骸を見たくありません……。皆、大切な友人なんです。私で出来ることなら、何でもさせて頂きます」


 きっぱりと言い切る妹に、朱王はがりがりと頭を掻きむしる。

出来るなら、嫌だと断りを入れて欲しかった。


 「すまぬ。本当にすまぬ二人共……。海華殿、 お主の後ろには我々が着いておる。もし、お主が危険な目に逢えば、下手人を斬り殺すのもいとわない。朱王、海華殿の命は必ず守る」


 真摯な目差しが朱王を射る。

『海華は必ず守る』桐野は以前も、そう約束し、しっかりと守ってくれていた。


 「――承知、致しました……。海華がご協力すると言うなら、私が止めても無駄です。――ですが、修一郎様は……」


 「儂が責任持って説得致す。そのことは心配するな」


 そう言いながら、桐野はここへ来て初めて柔かな表情を見せた。

その後ろでは、じりじりと蝋燭の芯が燃え、黒い煤を吐き出す。

揺らめく炎に合わせて影が動く浅黒い桐野の顔を見詰めながら、朱王は内心で大きな溜め息をついていた。

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