第三話
ただいま、と、やたら暗い声色と共に戸口を開けた海華。
その背後に志狼の姿を見た朱王の狼狽ぶりはかなりのものだった。
しゅんと項垂れ、酒瓶を抱えたまま土間に立ち 尽くす妹と前触れも無く飄々と現れた志狼へ交互に視線を移しながら、朱王は入れ、と低い声で呟く。
「――海華、お前またベラベラと……」
「いや、海華は何も喋って無い。いくら聞いても話せないの一点張りだ」
兄の隣にちょこんと座り、射殺さんばかりに兄に睨み付けられる海華を庇うように、志狼が朱王の言葉を遮った。
と、朱王の視線はそっくりそのまま志狼へと向けられる。
「酒屋の前でばったり海華と会ったんだ。どうも様子がおかしいと思ってここまで来たが…… 朱王さんを見て確信した。一体、何があったんだ?」
二人の前に座る志狼は深く腕組みし、兄妹をねめ付ける。
兄と志狼の視線がかち合った瞬間、海華の背中に冷たいものが流れた。
兄はどのような行動に出るのだろうか? 何もないよと誤魔化すか、余計なお世話だと怒鳴り付けるか……
ゴクンと海華が生唾を飲み込むのと、朱王の口から微かな溜め息が漏れるのとは、ほぼ同時だった。
「志狼さん、これから話すことは、あんた一人の胸にしまっておいてくれ。誰にも喋らないと約束してくれるか?」
「勿論だ。海華にも言ったが、他言は無用。約束する」
そう言い切った志狼の力強い光の宿る瞳を見詰め、朱王は無言で頷いた後、静かに口を開き始めた。
「――じゃあ、あんた達二人きりで、その盗賊連中に立ち向かうつもりだったのか? いくら何でも無謀すぎる」
朱王から事の次第を聞いた志狼は、呆れ顔で二人を見ていた。
フン、と鼻をならした朱王、その眉間には深い皺が刻まれている。
「無謀だろうが何だろうが、そうするしか方法は無いんだ。仕方ないだろう」
「仕方ないってな、怪我だけじゃ済まないぞ? ……ここまで聞かされちゃ、知らん顔は出来ないな」
「なによ、無理矢理聞き出したくせに」
膨れっ面を作る海華が志狼を睨み、チラリと兄へ目を移す。
ガリガリと髪を掻きむしる朱王は、どうするつもりだ? 小さな声で志狼を問いただした。
「俺も一肌脱ぐと言っているんだ。あんた達がぶち殺されちゃ、また旦那様の仕事が増えるだけだからな」
小さな笑みを見せた志狼は、自分が考えた計画を二人に話し出す。
それを聞いた朱王と海華は、ただただ呆気に取られたまま、呆然と志狼を見詰めていた。
「だがな志狼さん、あんたの計画だと桐野様を欺くことになるんだ。あんたはそれでいいのか?」
深く腕組みをした朱王が志狼の表情を伺うように視線を動かす。
志狼は一瞬目を瞬かせたが、すぐに小さく微笑みを浮かべてゆるゆると首を振った。
「欺くことにはならないだろう。いいか、大野屋の押し込みは平八が死んだことで決着が付いている。大体、引き込みのお仙も一緒に死んだと確認したのは奉行所だ。乾物屋の女将はただ名前が同じだけ、赤の他人だろ?」
ニヤリと口角を上げ、今だ不安気な表情を崩さない兄妹の見渡した志狼が再び口を開く。
「お香とその手下が死んで、女将の過去を知る奴らが口を閉ざせばいいだけの話しだ。女将はもう堅気、結婚して子供まで出来た。真面目に生きてる人間が泣くような真実なんか必要無いだろ?」
「それはそうだけど……万が一ね、桐野様が真実を知ったら立場的に知らぬ顔は出来ないんじゃない? 下手をしたら、お仙さんはお縄になるわ。小伝馬の牢屋で子供産むことになったら……」
ふぅっ、と悲しげな溜め息をつく海華は膝の上できつく両手を握り締める。
一つしくじれば、全てが壊れるのだ。
「あのな、旦那様は鬼でも非情な人間でもない。それを言うなら、あんた達だってとっくの昔に小塚っ原で生首晒してるんじゃないか?」
志狼の台詞に二人は思わず言葉が詰まる。
言われてみれば、確かにその通りだった。
「とにかく、悪いようにはしない。旦那様だって今更足洗った引き込み女一人お縄にした所で、手柄も何も無いだろう。段取りのことは、そのお仙とか言う女に伝えておいてくれ」
「――わかった。志狼さん、また世話になるな」
気にするな、と一言告げながら腰を上げ、部屋を出ていく志狼を海華が長屋の外まで見送りに出た。
去り行く志狼の背中を見送りながら、朱王は腕組みしたままじっと何かを考えている。
「志狼さん帰ったわ。――兄様、やっぱり不安なの?」
ゴシゴシと額に滲んだ汗を拭いながら、表から戻った海華は僅かに眉を寄せ、兄の前に座る。
そうじゃないんだ、と返した朱王は丸まった背筋を伸ばすようにグゥッと大きく伸びをした。
「志狼さん、何だか感じが変わったと思ってな。最初に会った頃は、もっと棘のある男だと思っていたが……」
「確かにそうよねぇ、昔は口を開けば『関係無い』ばっかりだったわよ。まさか自分から『一肌脱ぐ』なんて言うとは思わなかったわ。どういう風の吹き回しかしら?」
兄の言葉にうんうんと頷き、海華は頬に手を当てながら不思議そうに首を傾げる。
「まぁ、助っ人が来てくれるのは有難いがな。 とにかく、志狼さんの案に賭けてみよう」
「そうね。志狼さんも言ってたわ。『失敗したら責任は取る。晒し首が二つから三つになるだけだがな』ってさ」
「ふん、そんな冗談まで言えるのか、あの男は」
ニヤと頬を緩めた朱王は、そのまま畳に寝転ぶ。
だが、あながち冗談では無いのだ。
相手が盗賊だろうが何だろうが、斬り棄てた時点で朱王らは殺しの下手人になる。
見つかれば、志狼も桐野とて平然としてはいられない。
「海華、お前、お仙さんと惣太郎さんの所へ行って今の話し伝えろ」
「わかった、行ってくるわ」
ぴょんと跳ねるように立ち上がった海華は、おもむろに木箱の蓋を開け、朱の組紐を引っ張り出して袂に放り込む。
「気を付けろよ、どこで見張られているかわからんからな」
「大丈夫よ、そう易々と殺られないから。じゃ、行ってきます!」
カラリと明るい声と共に、赤い着物が勢いよく外へと飛び出していった。
いよいよお香一味と対決する時が来た。
朧に月が光る夜、戌の刻を前にして長屋で着々と準備をする兄妹。
朱王は、いつも背中に流している長い髪を一纏めに結い、海華は返り血が目立たぬよう深紅の着物に着替えている。
風も吹かない蒸し暑い夜、じっとりと部屋に籠る湿気が息をする度に重く肺を満たしていく。
肌にまとわる汗を乱暴に拭いながら、朱王は組紐をクルクルと束ねる妹へ顔を向ける。
「お仙さんはどうしている? 安全な場所にいるのか?」
「惣太郎さんと伽南先生が家に行ってるわ。下手に逃げ隠れすれば余計に危ないし、三太さんに気付かれちゃおしまいだから」
妹の言葉に、そうか、と返した朱王。
どこかそわそわと落ち着かないのは、その手に命綱とも言える刀が握られていないからだろうか。
――悪いが、朱王さんは丸腰で来て欲しい。 ――
先日長屋を訪れた志狼の言葉を聞いた時、朱王は自分の耳を疑った。
狂犬のような盗賊どもを相手に、武器も持たずにどうしろと言うのだ。
朱王の反論に、志狼は安心しろと笑顔を見せた。
別な刀は俺が用意する、あんたが刀を持ってくれば後々話の辻褄が合わなくなる、と。
海華の組紐は、丸めれば簡単に隠すことが出来る。
だから、武器を持って行くのは海華だけなのだ。
これも志狼が考えた作戦の一部なのだが、やはり朱王には不安が付きまとっていた。
「志狼さんは向こうで待っているし、準備は全て整ったわけだ。なぁ、俺は見ての通りの丸腰だからな。頼りにしてるぞ」
苦笑いを見せる兄にポンと肩を叩かれ、海華は振り向き様にニッコリと微笑みを返す。
「大丈夫、任せてよ。兄様一人くらい、あたしがちゃんと守るからさ。それに志狼さんの案通りにやれば、命落とすことは無いでしょ?」
あっけらかんとした様子で土間へ降りる海華、いつもは下駄を履いて行くのだが、今日は草履を突っ掛ける。
稲荷の裏は深い森、地面には草が生い茂っている。
下駄では足元が滑るのだ。
「さて、それじゃあ出陣といくか……」
「そうね、お互い頑張りましょ」
チラリと視線が交り、自然と口角が上がる。
戸口を開け放てば、そこは月明かりが薄く差し込むだけの静かな暗闇。
ポツリと一つだけ灯る提灯の灯り、寄り添うように歩く二つの影が足音も立てずに長屋門を潜り抜けていった。
草履の立てるヒタヒタと軽い足音が静寂の世界に響く。
いつもより近くに感じる地面、一歩一歩稲荷の社に近付くに比例し二人の鼓動は大きく脈打った。
湿った草や土から立ち上る不快な程の湿気と熱により、身体中がじっとりと汗ばむ。
朧気で眠たそうな月明かりに浮かび上がる、色褪せた古い社。
辺りに人影は全く無く、耳が痛くなるほどの静けさが世界を支配していた。
ガサッ、と青草を踏み締めた途端、透き通るように薄い羽を震わせた蛾が一匹足元から舞い上がり、海華の頬を掠めて月光の中へと消えていく。
立ち上るむせかえるような腐葉土の匂い、今を盛りと生い茂る青草から転がる夜露が黙々と歩を進める二人の着物を濡らした。
森の奥、ぽっかりと口を開いた草地。
お香が初めて海華に正体を明かした場所には、ポツリポツリと灯る六つの提灯の灯りが二人を出迎えた。
「――約束通り、来たようだねぇ……」
微かな笑みさえ含んだ、粘るような女の声に朱王は闇の向こうを睨み付け、海華は生唾を飲み下す。
ザクザクと草を掻き分け、踏み締める幾人もの足音。
揺らめくモヤの向こう、提灯の光に浮かんだのは一人の女と十余人あまりの、全身黒ずくめの男達の姿だった。
「お仙はどうしたんだい? 一緒に来るよう言ったはずだよ?」
「孕み女を流血沙汰には巻き込めない。――お前の狙いは俺達なんだろう?」
「フン、まぁいいさ。あいつの居所はわかってんだ。あんたら血祭りに上げた後でもじっくり可愛いがってやるよ」
ニタリと紅を塗った唇が嫌な笑みを浮かべ、糸切り歯が覗く。
気だるげな光に照らされる白い顔は、光の加減で深い影を作り出しひどく凶悪に感じた。
「平八が殺られたと手下に聞いてから血眼でお仙の行方を探したよ……。裏で糸引いてた、あんたらのこともわかった。――よくも弟を殺ってくれたね……っ!」
お香らと兄妹の間合いがジリジリ狭まる。
いつでも組紐を繰り出せる準備をした海華、腕組みしながら微動だにしない朱王。
志狼が来るまで、とにかく間をもたせなければ……。
「お香さん、だったか? 一つ取り引きする気はないか?」
唐突に朱王の口から飛び出た台詞に、お香の足が止まり、怪訝そうに眉が寄せられる。
何を? と聞き返す暇も与えず、再び朱王の唇が動きだした。
「これ以上、お仙さんや俺達に関わるな。全部忘れてさっさと上方へ戻れ。その後は……お前らが押し込みをしようが人を殺めようが、俺達の知ったことじゃない」
ふざけるんじゃねぇッッ! と、手下の一人が怒声を上げる。
呆気に取られたような表情のお香、その眦がみるみるうちにつり上がり、壮絶な怒りが剥き出しになった。
「忘れろ、だ……!? 減らず口も大概にしなっ! あたしがどんな思いしてあんたらを探し出したかッッ!」
「話しは呑めないと?」
「当たり前だっ! お仙も亭主も、あんた達も! 切り刻んで犬の餌にでもしてやるっ!」
歯を剥き出し、噴き上がる怒りで顔を紅潮させたお香が怒号を撒き散らす。
側にい並ぶ手下らは手に手にドスやら大刀を握り、それらが天から舞い降りる月光にキラキラと白い光を反射した。
ぐっ、と大地を踏み締めた海華、その手にしっかりと握られた紅い組紐がギシリと鈍い音を立てる。
今はそれだけが頼みだ。
今にも飛び掛かろうと殺気立つ男らを目の前にしながらも、朱王は顔色一つ変えない。
それどころか、ふっ、と顔を伏せながら小さな溜め息までついたのだ。
「お前の弟も話のわからない男だったが……さすがは姉弟、物わかりが悪いのは同じだな」
ゆっくりと整った顔が上げられる。
白く光る、半分は影に隠れたその顔には、はっきりと薄い笑みが見て取れた。
朱王の顔が完全に上げられた、その瞬間だ。
闇に埋もれた二人の背後から、ヒュッと風を切って何かが投げ込まれる。
海華の目には何だかわからぬ、丸く黒い二つの物体、それはベチャッ! と粘るような水音を立てて地に落下し、そのままお香らの足元へと転がっていった。
ごろごろと重たい音を立ててお香の足元に転がる二つの物体。
提灯の灯りに照らし出された瞬間、取り巻きの手下達から間の抜けた悲鳴が上がり、お香は呆然と地面を見詰めたまま顔を引き攣らせた。
夜露に濡れた物体、それは血走った目を裂けるほど見開き、今だどす黒い血潮を滴らす男の生首だった。
もう一つの首は、頭に手下らが被る黒い布切れをまとわりつかせ、だらしなく紅い舌を垂らしたままだ。
「朱王さん、待たせたな」
全てを飲み込む暗闇から、不意に響いたよく通る声色。
ザッ、と頭上に茂る木の葉を揺らし、兄妹の前に細身の影が軽々と舞い降りる。
同時に朱王と海華の頬が緩んだ。
「志狼さんっ! 遅いわよ!?」
「お前ぇ達より先には来てたぜ? 朱王さんの啖呵に聞き入ってたんだよ」
真っ黒な着流しを端折った志狼は、振り向き様に悪戯っぽい笑みを見せる。
その手には血に濡れた二本の大刀が握られ、 そのうち一本が朱王に向かって放られた。
それを 受け止めた朱王は、困ったように眉を寄せて見せる。
「あんたが来るのを待ってたんだよ。さてと……お香さん、これでも考えは変わらないか?」
空を切り裂く鋭い音を立て、朱王は刀を振って絡む血潮を振り切る。
細かい粒となり飛び散る赤い血の雫。
歯軋りをしたお香の怒りが遂に頂点に達した。
「上等だよっ! 上等じゃあないか! 殺れっ! 三人纏めて切り刻めッッ!」
お香の叫びと共に、ウオ――ッッ! と男らの咆哮が森に木霊す。
怒涛の如くになだれ込み、めちゃくちゃに刃物を振りかざす男達に、提灯を放り投げた朱王と志狼の白刃が襲い掛かり、 海華の組紐が唸りを上げて湿った空気を切り裂く。
肉を裂き、骨が砕ける鈍い響きと断末魔の叫びが朧月の空に響き渡った。
先陣を切り、突進してきた男三人は、振り上げた刀を下ろす暇も無く志狼に袈裟懸けに斬られ、朱王に首が千切れる程深く喉笛を切り裂かれて、赤く生暖かい体液を噴き出しながら、 ぐしゃりと地面に倒れ伏す。 その二人から僅か後ろにいた男は、海華が放った組紐の槍先で額をぶち割られ、薄い桃色をした脳漿を飛び散らせながら後ろ向きに昏倒した。
ガツガツと並み居る男らの群れに斬り込む朱王と志狼。
ウオォォッッ! と腹の底から吼えた朱王が、ぐっと身を屈めて白い光の線と化した刃を横に凪ぎ払った瞬間、朱王の喉首を狙ってドスを突き出した男の胴体が真っ二つに裂け、悲鳴を上 げる間も無く裂けた腹から生臭い臓物を垂れ流してこと切れる。
「朱王さん! あんたなかなかやるな!」
朱王の真横で真っ正面から幹竹割りで男一人を片付けた志狼が、返り血で赤く染まる頬を歪めた。
まぁな、と短く答えた朱王が横に視線を送った時、志狼の背後で陽炎のように闇が蠢く。 危ないっ!と朱王の唇が形作った、その時だっ た。
蛙の潰れたような悲鳴、ぐぇぇぇっ!と一声上 げて、志狼の後ろで男が倒れる。
驚いて振り向いた志狼、彼の目に飛び込んできたのは背中から心臓を貫かれて泡を吹き絶命する黒づくめの死体と、得意気に鋭い白銀の牙を持つ朱の蛇を引き寄せる海華の姿だった。




