第三話
自分の話し相手を引き受けてくれた朱王のために、浅黄は再び女将を呼ぶと、酒の支度をしてくれるよう頼んだ。普段、真っ昼間から杯を開けることなど殆どない朱王だったが、せっかくの志を無下にはしない。何より自他ともに認める笊、つまりいくら飲んでも酔わないばかりか顔色一つ変わらない彼にとって、徳利四、五本など飲んでいないと一緒だ。
けして豪華とは言えないが、数だけは多くある肴を摘まみに酒を楽しむ朱王を見ながら、ふいに浅黄は唇に当てていた猪口をそっと膳へ置いた。
「ねぇ朱王さん。この部屋に入った時、あたしの顔と格好を見て不思議そうな顔をしたろ?」
「あ……あぁ、すまない。伽南先生のところであった時と、その……だいぶ雰囲気が変わっていたから、ついな」
朱王に悪気があったわけではない、伽南の庵で会った時も、確かに容姿端麗な男だと感じた。朱王ならずとも、今、目の前にいるのが男だと言われれば多少の戸惑いを感じるであろう。元より顔立ちが整っているのと、女よろしく肌がキメ細かく綺麗というのも理由になるのではないか。朱王が話した理由に浅黄も納得したように頷いた。
「そうだよねぇ。こんなナリしてたんじゃぁ驚かれるのも無理ないか。いつもは『ちゃんとした』男の格好なんだけど……今日の客はコッチの方がお好みでさ。ここにはね、女とは話すのも嫌、触られるだけで虫唾が走るってぇお人が多くみえられる。朱王さん、アンタみたいなお人だよ」
唐突な浅黄の台詞に思わず小さくむせ込みながら、朱王は小さく苦笑いを見せる。
「わかるのか?」
「わかるさ。この仕事をして、もう長いんだ。相手がどんな趣味趣向なのか、男が好きか女が好きかなんて手に取るようにわかるよ。ところで朱王さん、差支えなけりゃでいいんだけどね、家族は?」
「妹と二人だ。両親は早くに死んだよ」
部屋の隅でこんこんと眠っている海華をチラリと一瞥し朱王は答える。もう一人兄がいる事は、あえて口にしなかった。。
「そうかい、それならあたしと一緒だね。うちも親父が死んでね。お袋と、妹が一人いたんだ」
酒が入っているからのか、浅黄はポツラポツラと身の上話をし始める。亡くなった父親は蝋燭問屋を営んでおり、暮らし向きは裕福だった。だが、父親は稼いだ分、いやそれ以上を酒に費やしてしまう男だったそうだ。
その父親も胸を患いあっさり逝ってしまい、後に残された浅黄らに圧し掛かったのは、父親が残した莫大な借金、勿論店は借金のかたに取られ、身の回りの物ほとんど全てを失ってしまったそれから母親は身を粉にして働き、借金を返しながら自分たち兄妹を育ててくれた、しかし借金の完済を待たずに母親は父と同じ胸の病に倒れ床に臥し、新たに薬代やら治療代やらで借金が嵩んでしまったのだ。
時おり昔を懐かしむように遠い目をする彼を前に、伽南が『苦労した』と言ったのはこの事だったのか、と朱王は思う。親の残した借金、そして病身の母と妹の生活、その二つが長男である浅黄の肩に圧し掛かってきたのだ。猪口に残っていた酒を一気に飲み下した朱王は、躊躇いながらもその唇を動かした。
「なら、その借金を返すためにこの仕事を?」
「そうだよ。最初は妹……お仙ってんだけどね。三つ下の妹が女郎屋に身売りすることになっていた。でもさ、朱王さんも妹がいりゃわかるだろ? 可愛い妹を岡場所なんざに売り飛ばすなんてできねぇだろう? だから、あたしがここにきたんだよ」
微かな笑みを浮かべながらも、彼の唇から語られる悲惨この上ない身の上話に、朱王は完全に黙りこくってしまう。朱王自身もけして恵まれた境遇で育ったわけではない。いや、泥水の中を這いずって生きてきたようなものである。そんな彼でさえ、浅黄の身の上は同情するに十分たるものだった。
「そうだ、な……。もし海華が、女郎屋に売られるなんて事になったら、黙っちゃいれない。こんなじゃじゃ馬でも、たった一人の妹だからな」
「そうだろう? あたしゃ、ここに来た事を後悔なんざしていないんだ。お袋も妹も、あたしが身売りした金でそれなりに暮らせているんだろう。―――― 身売りしてから一度も会っちゃいないが、あたしはそう思ってるんだよ。先生のところで海華ちゃんを見た時、耳の下に黒子があるのを見付けて、それが懐かしくてさ。うちのお仙にも、ここに大きな黒子があったんだ」
そう言いながら、浅黄は己の右耳の下を指さす。
わが妹ながら、そんなところに黒子があったなど全く気が付かなかった朱王は、少しばかり後ろめたい気持ちとなった。
「二人がどこにいるのかも知らないのか?」
「さぁ、知らないよ。ただ、風の噂に江戸を出た、って聞いたっきりさ。もしかしたら、戻っているかもしれないけれど……、わからないね」
祭祀気に笑い、金の簪をシャラリと揺らして浅黄は視線を窓の外へ向ける。と、朱王の背後で布同士が擦れ合う重い音と何かが蠢く気配を感じ、二人はほぼ同時に顔をそちらへと向けた。
「あ、海華!」
「あ、れ? 兄様!? 」
寝ぼけ眼を大きく見開き、布団から身を起こした海華は、朱王と浅黄の顔を交互に見比べクシャと顔を歪める。
「あたし、どうしたの? ここはどこ?」
「落ち着け、ここは照月っていう茶屋だ。おまえ、この店の前で具合を悪くしたところを、浅黄さんに助けてもらったんだ。何も覚えていないのか?」
目の前に座った朱王にそう言われても、海華は不安げな面持ちで視線を彷徨わせる。
「あたし、何も覚えてないの。先生の所に行こうとして、途中で咳が止まらなくなって……気が付いたらここに……」
「そうかい、まぁ無理矢理思い出さなくてもいいじゃないか。気分はどうだい? 苦しくないかい?」
軽く腰を浮かしてその場から立ち上がった浅黄を不思議そうに見詰めていた海華だったが、すぐに『あぁ』と小さく声を上げて目を瞬かせる。
「先生の所にいた方ですね?」
「そうだよ、覚えていてくれたかい嬉しいねぇ」
心底嬉しそうに表情を緩ませる浅黄に、海華の顔にも小さな笑みが浮かぶ。朱王の隣に座った浅黄に、布団の上に正座した海華は三つ指をついて深く一礼した。
「助けて頂いて、ありがとうございました」
「いいんだよ、元気になってよかった。朱王さんも一安心だね」
そう言いながらポンと朱王の背中を叩いた浅黄に、海華はニッコリ笑って頷く。その時、廊下に面した障子戸の向こうでパタパタと小さな足音が聞こえ、『失礼します』と涼やかで細やかな少年らしき声が聞こえた。
「浅黄さん、今岡の旦那様がみえられました」
「おや、もうきなすったかい。相変わらずせっかちなお人だこと。わかった、今すぐ行くよ」
着物の胸元と珊瑚の櫛を軽く直した浅黄は、フゥと小さく息を吐く。彼が話していた『女装を好む客』のお出ましのようだ。朱王は海華の身体を支えるようにその場に立たせて、自分は座したまま浅黄にもう一度丁寧に礼を述べる。
店の玄関まで浅黄に見送られ、長屋へと戻る二人。時おりコホコホと軽い咳を繰り返す海華の背中を静かに摩り、家路を急ぐ朱王の髪が頭の天辺辺りに輝く太陽が光の粒を纏わせ眩しいばかりに輝いた。




