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傀儡奇伝(くぐつきでん)  作者: 黒崎 海
第一章 白狐
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第一話

 文机の横に掲げた燭台、そこに掲げられた蝋燭が、チラチラと忙しなく揺らぐ。

重厚なその机に覆いかぶさるようにして、その男は一心不乱に書物と格闘していた。



 傍らには、今までに片付けた書類が山と積まれ、少し突こうものなら雪崩の如く崩れ落ちてしまいそう、しかし、男の横にはそれと同量の手付かずの書類が積まれ、自身の出番を今か今かと待っている。



 大きな背を丸めるように座していた男は、利き腕側に置いていた硯に筆を放り出して、『うぅ』と小さく唸り大きな大きな伸びをした。今の今まで凝り固まっていた筋肉が、ギシリギシリと鈍い悲鳴を上げる。



 痛む体をかばうようによろめきつつも立ち上がった男は、縁側に面した障子戸に手をかけ、左右に大きく引き開ける。

その瞬間、薄い闇を引き裂き室内に差し込む白い光の帯に、男はわずかに目を細めて頭上に広がる夜空を仰いだ。



「おぉ、月が出ていたのか。全く気が付かなかったな」



 そうボソリと呟き、縁側に胡坐をかいた男は、凝り固まった肩や首をほぐすように大きく腕を上げ、左右に首を回す。



 彼の名は、上条 修一郎 家継。

旗本である上条家の当主であり、北町奉行を務める男だ。



 生き馬の目を抜く江戸、この八百八町に蔓延する数多の『悪』を取り締まり、裁きを下すのが彼の務めだ。

今は亡き父もこの大役を務め上げた。

もう、その背中を追うことはできないが、今でも彼は父を目標として日々激務をこなしている。



 満足な休みもない、過労に次ぐ過労で職務中に命を落とす者もある過酷な役職、しかし、彼はこの仕事が好きだった。

自分が寝食を忘れ、粉骨砕身職務に邁進すれば、江戸に住まう民の幸せに繋がる。

彼はそう信じて疑わない。



 まさに正義感の塊と言っても過言ではない男。

だが、彼の思いとは裏腹に、江戸の治安は目に見えて悪化しているのだ。



 ここひと月程前から、正体不明の人斬りが夜の闇に包まれた街を闊歩し、一人、また一人と町人達をその毒牙に掛けている。

しかも、二目と見ることが出来ないおぞましい殺め方で……。



 町方同心やその配下の岡っ引きらが血眼で下手人の行方を追いかけているにもかかわらず、いや、それを嘲笑うかのように、人斬りは蛮行を重ねていき、いまだ手掛かり一つ見付け出すことが出来ないのだ。



 星屑の瞬く夜空をじっと見上げる修一郎、そのわずかに上気した頬を涼しい夜風が撫で過ぎていく。

いまだお縄にすることが出来ない人斬りもさる事ながら、彼の頭の大半をある者らの事が占めていた。



 「あの二人は、元気でやっているだろうか……」



 夜空に放った独り言。それを聞いていたものは、夜空に瞬く星屑と鏡のような満月だけだった。










 風雨に曝され変色した戸口が、ガタリと鈍い音を立て震える。白く滑らかな皮膚に覆われた華奢な手、そこに持たれた人形のかしらを彫る手を静かに止めて、その男はゆっくりと顔を上げた。長く艶やかな、そして烏の濡れ羽色、と表現するのがぴったりの長い黒髪が、サラサラと薄い背中を流れていく。



 男は手にしていたのみと頭を木屑の散らばる作業机の上に置き、軽く息を詰めて大きく背伸びをした。



 戸口と同じく白っ茶け、ささくれ立つ畳に木屑が零れ落ちる。男が纏う墨色の着流し、その膝にもこぼれる木屑を手で払い、おもむろに立ち上がった男はそのまま土間へと降り、いまだ吹き付ける風に合わせてガタガタ揺れる戸口を勢いをつけて引き開ける。



 途端、冷たさを含んだ夜風が室内に吹き込み、作業机の木屑を、そして男の黒髪を宙へ巻き上げた。



 傍若無人に吹き抜ける風に思いきり顔をしかめて髪を抑えた男は、そのまま顔を天へと向けて『満月か』と呟く。



 男の名は朱王すおうといった。




 日本橋の外れ、そこからしばし歩いたところに建つ、今にも崩れ落ちそうなオンボロ長屋『中西長屋』に住まう彼は、長く伸ばした髪に安物の着流し、そして日がな一日この長屋に籠っていることなどから一見すればしがない遊び人、定職なしの風太郎といったところだろう。



 だが、その外見や生活環境とは裏腹、彼は江戸は元より上方にまでその名と、同じ男でも赤面してしまうほどの『美貌』を知られた人形師なのだ。



 江戸や上方近辺に住む裕福な商人や町人、そして由緒正しい武家、やんごとなき公家までもがこぞって彼の作り出す人形を欲しがり、人形問屋を通じて彼のもとに仕事の依頼が舞い込む。



 舞い込むのは仕事の依頼だけではなく、どこぞの誰ともわからぬ女や、時には男からの恋文も、三日とおかずに送られてくるのだ。



 が、彼は根っからの女嫌いに人嫌い、深い人付き合いは好まず、女と乳繰り合うなら死んだ方がマシ、そう言い切るほどだ。必然的に恋文は哀れかまどの焚き付けと化してしまう。


 それらは大概、庶民には想像もつかないほど高額で依頼されるものだが、この朱王、自分が気に入った仕事でなければどんな大金を積まれてもあっさり断ってしまう。



 そうかと思えば、たいして金にはならない人形の修理や文楽人形の頭作り、果ては同じ長屋に住まう子供らの子守人形などを嬉々として、時には徹夜までしてこしらえたりもする。


 本人は金にそれほど執着もなく、屋敷に住むのも長屋に住むのも同じこと、ただ気に入った仕事をして食べていければよい、との考えなのだろうが、周囲からすれば立派な『変人』だ。



 「あいつ、まだ帰ってこないのか」



 戸口の前に立ち、夜空を眺める彼の唇が微かに動く。

目に見えぬ誰かを探すように満月が照らし出す夜道へ視線を投げた朱王だが、そこには待ち人どころか猫の子一匹いやいない。



 ふぅ、と小さくため息をついた彼は探すのを諦めたのだろうか、そのまま踵を返して室内へ向き直り、戸口を半分ほど開けたままにして仕事を再開させた。


     









 「今夜は商売あがったりねぇ……」


江戸でも一、二を争う色街、そこに通じる大門へ通じる橋のたもとで、溜息混じりの独り言が宙に溶ける。




 橋のたもとへ所在無げにしゃがみ込み、遥か彼方から聞こえる賑やかな男女の談笑をぼんやりと聞いていた一人の女は、盛大な欠伸を一つ放ち、緩慢な動作で腰を上げた。



 辻行燈に浮かぶのは蝶の模様が入った深紅の着物。

耳の下あたりで切り揃えた黒髪を揺らして立ち上がるお河童頭の女は、色街から逃げ出してきた禿かむろではない。


 華奢で小柄な体に大きな瞳、全体的に幼い顔立ちをしているが、実は二十歳をとうに超えている。



 女は、結い上げもしない黒髪をクシャクシャと掻き混ぜ、フッと頭上を見上げる。



 「ずいぶん明るいと思ったら、今日は満月だったのね」



 そうポツンと呟く女の円らな瞳が、満月の柔らかな光を受けて猫の如くに煌めいた。

黒曜石にも似た漆黒の瞳に、鏡の満月が映り込む。


 女の名は『海華』といった。



 辻道に立ち、傀儡人形を操って道行く人々に人形芝居を披露し、御神籤おみくじを売る大道芸人である。主に昼は辻に立ち、夜間は色街付近で酔客相手に御神籤を売る。



 いつもなら、遊郭目当ての客がこの橋を引っ切り無しに通るためそれなりの売り上げがあるのだが、今夜はどうした事だろう、酔っ払いどころか夜鷹一人も通りはしない。

冷えた夜気、冷たく変わる夜風に吹かれて立っているだけ時間と体力の無駄というものだ。



 海華は二度目の大きな溜め息をついた後、道の端に置いていた大きな木箱……この中には彼女の商売道具である姫人形と御神籤が入っている。



 その木箱をいかにも面倒臭いといった様子で背負い込み、埃の纏わる着物の裾をサッと払う。

どうやら、今夜は引き上げることにしたようだ。

自らの背後に伸びる長い影法師をお供に、海華は自らの住家へと戻って行った。

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