パラレルワールド
パラレルワールド
ノサカノゾミは目を覚ました。ぼんやり天井のクリーム色の模様を眺めている。まだ五月といっても日当たりの良いノゾミの部屋は暑くて堪らない。首筋にうっすらと汗を掻いていた。ノゾミは日当たりの良すぎる自分の部屋があまり好きではなかった。ノゾミの住む家は父がローンで買った住宅だが、無駄に広すぎて落ち着かなかった。以前住んでいた2LDKのアパートの方が住み心地は良かったと感じている。そう思うのはこの家を買ったすぐ後に両親が離婚した事も影響しているのだろう。部屋の奥には大きな漆塗りの鏡台が置いてある。ノゾミの母が嫁ぐときに実家から持ってきたものだ。古くて大きい鏡台は勝手が悪いので、今はノゾミの部屋に置かれている。洋風の部屋にこの大きな鏡台が合っておらずノゾミはあまり好きにはなれなかった。今では紫色のカバーを掛けて部屋の隅に置かれている。ノゾミはベットの上で上体を起こした。今日これから何をしようか考えた。午前中はバスケ部の練習に行き、家に帰ると疲れてそのまま眠ってしまった。もうすぐ中間テストがある。担任の教師がまだ中学二年生だからといって油断するな、良い高校に行きたければ今のうちに勉強しなさいと言っていた。これから勉強しようかと考えたが、こう暑いとそんな気分にも慣れなかった。
「……」
ふと、ノゾミは何か違和感を感じた。何かがおかしいと思った。部屋の様子が普段と違う。ベットの上で辺りを見渡してみる。見た目に異変はなかったが…… 音が聞こえなかった。まったくの無音である。普段は部屋の外から、自動車が通る音が聞こえるのに今はまったく聞こえなかった。ノゾミはベットから出てカーテンと窓を開いた。
普段と変わらない光景であった。雲ひとつ無い青空だった。だが妙である、やはり音が聞こえてこない。ノゾミは自分の耳がおかしくなったのだと思い体の前で手を叩いた。音はきちんと聞き取れた。やはり外から音が聞こえないのである。ノゾミは洗濯物を干すしか出来ない狭いベランダに出て、外の光景に注目した。
しばらく経ち異変の原因が分かった。人が一人もいなくなっていた。
ノゾミは今度は夢を見ているのだと思って、頬をつねった。だがやはり確かな痛みを感じた。不安な気持ちになったが、心の底でそんな馬鹿な事があるかと思っていたのでそこまで慌てる事はなかった。とりあえず確かな状況を掴みたかったので部屋を出て階段を降りた。リビングに繋がる木製のドアは閉じていた。母のモモエはこの奥で休んでいるはずだ。ノゾミはドアを開いた。
そこには誰もいなかった。普段と変わらない部屋の中で、まだ湯気の出ている湯飲みとガラス製の急須だけが異様に目立っていた。ついさっきまで母がいた様な気配を感じた。ノゾミは大声で母を呼んだ。ノゾミの声は空しく家に響くだけで答えるものは居なかった。ノゾミはリビングを出て家中の扉を開いた。母を呼び全てのドアを開いたが母の姿は見えなかった。ノゾミの不安は増大した。もしかしたら自分を残して皆何処かに行ってしまったのではないだろうかと思った。だが、そんな馬鹿な事は無いと思う気持ちも残っていた。リビングに戻ったノゾミはテレビのリモコンを手に取った。テレビに映し出されたのは砂嵐だった。チャンネルを回して見たが全て砂嵐だった。ノゾミの不安は増大する。リビングの窓を開き庭に出る。
「ベス! ベス! いないの!?」
飼い犬の名前を呼ぶが寄ってくるものは居ない。青いペンキの塗った犬小屋の前でベスのリードがポツンを落ちていた。
ノゾミは家の外に出た。何処かに人が居るはずだ。そう思って歩き続けた。だが行けども行けども人の姿は見えない。道路には乗り捨てられた様に倒れた自転車があったり、エンジンのかかったままの車がフェンスにぶつかっていた。ノゾミはひたすら歩いた。一時間ほど歩いてきたが人一人見ていない。それどころか鳥や犬などの動物すら見かけていない。頭がおかしくなりそうだった。ノゾミは大声で叫んだ。何度も叫ぶ。
「すみませーん!!! すみませーん!!! 誰か居ないの!!?? 誰でもいいから出てきてよ!?」
ノゾミはアスファルトの上に座り込み、大声で泣いた。自分を残して皆去ってしまった。突然現れた理不尽に最初は恐怖したが次第に怒りが沸いて来た。この出来事はいったい何なのか? 何故自分だけが取り残されたのか? 母や皆はいったい何処に行ってしまったのか? 答えは分からないが置かれている状況はを受け入れつつあった。
ひとしきり無くとお腹がすいてきた。そういえばまだ昼食を食べていないことに気が付いた。最近はダイエットしているため朝食はバナナ一本しか食べていない。意識するとますますお腹がすいてきた。ノゾミは立ち上がり目に入ったコンビニに向かった。自動ドアがノゾミを感知して開かれる。少し気が咎められたが、のり弁当と水のペットボトルを拝借した。皆が元に戻ればお金を返そうと思った。弁当をコンビニの床に座り込んで食べた。お腹がいっぱいになると気持ちも少しだけ前向きになった。もう少し探してみよう。ノゾミは立ち上がった。
ノゾミは歩き続けた。次第に日が暮れ始めた。だが、人影一つ見つからなかった。ノゾミは諦めずに町の外れにある小高い丘の公園まで歩いた。高いところからならば何か見つかるかもしれないと思った。公園の滑り台の上から町を眺める。見渡せども動くものは見当たらなかった。人と動物の気配が無い光景は違和感しか感じなかった。次第に太陽の光が弱くなってくる。ノゾミはふと背後を振り返る。町の方向とは逆にある森が目に入った。それは奥の様子がまったく見えず、恐ろしい別の世界に繋がっているように見えた。夜になればそこから恐ろしい化け物が這いよって、自分に襲い掛かる。そんな光景を想像してノゾミは寒気がした。たまらずすぐに公園を後にした。
本当は自分の家まで帰りたかったノゾミだが、家まで帰るには距離が離れすぎている。仕方なく近くあった大きなデパートで一夜を過ごすことにした。普段見慣れた電気の煌々と付いた景色と違い、電気の消えたデパートは気味が悪かった。入り口は外の光が入って明るいが、通路の奥の方は薄暗かった。ノゾミはデパートに入って最初に懐中電灯と乾電池を確保した。その後、お腹がすいていたので地下の食料品売り場へと向かった。ノゾミは地下の階段を前にしてギョッとして立ち止まった。地下は恐ろしいほどの暗闇であった。階段を少しはなれたところから奥がまったく見えない。この暗闇に長く居れば発狂してしまうような気さえした。本当は売り場の奥にある弁当を取りにいきたかったノゾミだが怖気づいてしまった。しばらく躊躇したが勇気を振り絞り階段を降りた。階段の近くに設置されていた果実コーナーからリンゴとバナナを1個づつ取ってすぐに上にのぼった。
三階にある展示用ベットに腰を下ろした。幸いに非常灯が付いており、身の回りの様子は確認できた。ノゾミは布団を被り体を丸めた。恐怖に支配されえいた。怖くて仕方が無い。
「おかーさん……」
母を呼びむせび泣いた。目を閉じて祈った。今日の出来事が全て夢でありますようにと。
ノゾミは目を覚ました。辺りはほんのりと明るい。暗闇の中で祈り続けていたが、そこは見慣れた自分の部屋でなく、デパートのベットの上だった。近くの掛け時計を確認すると既に十時を過ぎていた。外に面したガラスから日差しが差し込んでいる。ノゾミはベットから這い出て残しておいたバナナを食べると一階へと向かった。無人のサイクリングショップから乗り心地の良さそうなマウンテンバイクを選び外に出た。今日は町の外まで出かけるつもりだった。
自転車を漕ぎ自分の通う中学校にやって来た。運動場にはサッカーボールやバット等が無造作に置かれていた。体育館に入ると床にバスケットボールが散乱していた。もしかしたらと思い大声を上げてみる。やはり自分の声が響くだけであった。諦めて学校を出る。次はこの町を抜けて隣町まで行こうと思った。あっという間に正午が過ぎてまたお腹が空いてくる。ノゾミは空腹と徒労感で少しイライラしていた。
「わぁぁーーー!!!」
どうせ誰も聞いてしないと思い大声を上げる。やはり何も変わらない。少し喉が痛くなっただけだ。近くにコンビニを見つけた。自動ドアの前に立つが反応が無い。ドアの前で跳ねたりドアを押したりするが動かなかった。すでに町には電力が届いていなかったのである。ノゾミは拳を固めてドアを思い切り叩いた。けれどもドアは一向に動かない。ふと隣にある誰かの自転車が目に止まる。
『ガシャーン!!』
ノゾミは自転車を放り投げた。自動ドアは大きくギザギザに割れた。しゃがんで通ればノゾミでも入れそうだった。破片で体を傷つけないように慎重に通る。コンビニの中は少し蒸し暑かった。店の奥の弁当コーナーから焼肉弁当を手に取った。昨日まではダイエットをしていたが今はそんなことを気にするのがばかばかしく思えた。手に取った焼肉弁当は生暖かった。食品の保冷機能も止まっている。鼻に近づけて匂いをかいでみる。少しすっぱい匂いがした。賞味期限も昨日の日付になっている。嫌な予感がしたので焼肉弁当は棚に戻した。仕方なくサバとモモの缶詰を昼食にすることにした。食べ終わりペットボトルの水を飲んでみるとぬるくて気持ち悪かった。
コンビニを出て再び自転車をこぎ始めてる。目指すのは隣町であった。隣の町はノゾミの住む町より人が多く活気のある町だった。もしかしたらそこにまだ人が居るかもと期待していた。自転車を漕ぎ二時間ほど経った。隣町の駅に着いた。普段は人でごった返している駅が新聞紙や鞄等で散らかっており、閑散としていた。ノゾミは大声を上げる。広い駅にノゾミの声が響くが声を返してくれるものは居ない。しばらく歩き回ってみる。反対側のホームでは電車同士が追突しており、前の電車が脱線してホームを半分ほど飛び出していた。声を上げてみるが反応は無かった。散々自転車を漕いできたので、足が痛くなり駅の椅子に座り込む。時計を見るとすでに十五時をまわっていた。
ノゾミはもうこの世には自分以外の人間が居ないことを認め始めていた。これからの事を考えて不安になる。椅子の上で膝を丸めて目をつぶった。自然と涙が出てきた。母に会いたいと思った。
ノゾミは一時間ほどそのままで過ごした。次第に遠くの空が赤みを帯びてくる。今日もあのデパートで過ごすのは嫌だった。家に帰りたい。ノゾミはそう思った。
体は動きたくなかったが何とか気力を出して自転車を漕いだ。暗くなる前には住み慣れた我が家に帰ることが出来た。
「ただいま……」
誰も居ないことは分かっているが声を出してみる。家の中はノゾミが飛び出して行った時となにも変わっていなかった。しんと静まり返っている。念のために家の中を一通り歩き回ってから自分の部屋に入る。体は疲れ果てていた。倒れこむようにベットに入る。布団を頭からかぶり目を閉じた。体は疲れていて寝ようとしているのだが、目を閉じると不安が押し寄せてきた。いったい皆何処に行ってしまったのか? これから自分はどうすればいいのか? 涙が流れて枕が濡れた。
ノゾミは目を覚ました。辺りはまだ暗く時計の針は二時を指していた。ノゾミは空腹であった。下に行けば母が買っていたお菓子があったが、懐中電灯はデパートに忘れてきてしまった。暗い家の中を歩き回るのは嫌だった。もう一度寝ようとしたが、お腹が空いてなかなか眠れなかった。クリーム色の天井を見上げているとぼんやりとこれからの事について考えていた。もう何処にも人は居ないだろう。食べ物は缶詰を食べてしのげそうだ…… ノゾミはこれからずっと一人で生きていかなければならないと思うと涙が出てきた。人と関わりあうとこなく生きていく人生に何の意味があるのであろうか? ただ食べて寝るをくりかえして命を永らえさせる必要があるのだろうか? いっそのことここで死んでしまおうか? そんな考えがノゾミの頭を支配していた。
虚ろげに開けていた目に部屋の隅にある鏡台が目に入る。外から入り込む月の明かりではっきりと見えた。月の光に照らされた鏡台はいつもより輝いて見えた。
「……」
そうでなかった。つきの明かりで光っているのではない。鏡台自身がぼんやりと青白く光っていたのだ。掛けられたカバーの内側から光を放っている。ノゾミはベットから抜け出すと鏡の前の椅子に座った。鏡のカバーを取り除いた。確かにそれは光を放っていた。柔らかく消えてしまいそうな青白い光だった。ノゾミはまるで映画のCGの様だと思った。
指先を鏡面に触れてみる。
「ひゃ!」
驚いた。鏡がノゾミの指先に引っ付いてきたのだ。思わず手を引っ込める。指先を確認して見るが特に異常は無かった。ノゾミは恐る恐るもう一度鏡面に手をかけた。
『ズッズズ……』
手首の辺りまで鏡の中まで入った。鏡の中は何だが生暖かった。更に手を突っ込むとそこには何も無かった。宙に手を振っているような感覚であった。ノゾミはゆっくりと手を引き出した。手に特に異常は見られない。
「……何これ……」
今までこの鏡にこんな変化は見られなかった。ただの古くて大きい鏡だと思っていた。母もなにも言っていなかったし、おそらくこんな事が起きるとは知らなかったのだろう。摩訶不思議な現象だが、ノゾミは怖いとは思わなかった。指先を少しだけ触れて離してみる。指先が離れたところから波紋が広がり鏡面に広がる。
「……」
ノゾミはこの鏡がどうなっているのか知りたかった。鏡の中にいけるのではないかと思った。やぶれかぶれになっていたのもあった。ノゾミは大きく息を吸い込み目を閉じた。鏡台の上に膝を掛けて頭を鏡の中に突っ込んだ。
『テゥプン……』
顔の周りを生暖かい物が覆った。更に体を押し込むと、顔の周りには何も感じなくなった。まるで暖かい水の中から空気中に戻ったようだ。
「……」
ノゾミは目を閉じたまま手を動かして周囲の様子を伺った。手は宙を切るばかりであったが、
『コツン』
何かが手に触れた。下の方である。どうやら硬い地面があるようだ。ノゾミは恐る恐る目を見開いた。
驚きのあまり息が吹き出てしまった。目の前に広がっていたのは見慣れた自分の部屋であった。ノゾミの手は鏡台の硬い樫の上に置かれていた。鏡の中から繋がっていたのは自分の部屋であった。ノゾミは驚いて訳が分からなかった。
『プゥーーー』
何かの音がした。ノゾミは驚きバランスを崩して、鏡台の下に転げ落ちた。
「痛ったぁ〜」
完全に鏡の向こうに入ってしまった。だがそこは元の世界と何も変わりは無かった。ノゾミが周囲の様子を見渡しているとまた音が鳴った。窓の外から音が鳴ったのである。ノゾミは胸の高鳴りを覚えた。ゆっくりとカーテンの閉めている窓に近づく。カーテンの向こう側からはかすかに音が聞こえた。ノゾミは思い切りカーテンを開いた。
目に入ったのは光であった。夜の闇を光が照らしていた。民家の窓から光が漏れており、ノゾミの家の前の道路には自動車が走っていた。
「ワァーーー!!」
ノゾミは嬉しさのあまり大声を上げた。すると後ろから階段を急いで登る音が聞こえてきた。足音はノゾミの部屋の前で止まると、部屋のドアがいきよい良く開かれた。
「のぞみ!!」
顔を皺くちゃにしたノゾミの母が立っていた。
「お母さん……」
ノゾミは母に抱きついた。この二日間一番会いたいと思っていた人に会えたのだ。安心感で涙が止め処なくあふれて来た。
「あんた何処に行ってたの!? 心配したのよ!」
「うえ〜!! お母さん〜〜!!」
ノゾミの母親はノゾミの頭を優しく撫でててくれた。肩をギュッと抱きしめてくれた。大泣き少し落ち着いたノゾミは母の背後に口をポカンと開けている二人の警官がいることに気がついた。
母の話ではノゾミは昨日と今日の間、行方不明になっていた様である。最後にノゾミを見たのは昨日のバスケ部の練習でそれ以来誰もノゾミを見ていなかった。母はいつまでも家に帰ってこないノゾミを心配して警察に捜索願を出した。ノゾミの通う中学校にも連絡して仕事を休んで探し続けたそうだ。母は離婚した父親がノゾミを連れ去ったと思っていたようだ。
帰ってきてすぐにノゾミは鏡の世界に居たと説明したが、母も警察官も信じてはくれなかった。すでに鏡は青い光を失い、普段の姿に戻っていたのである。母はノゾミを恐い思いをしてパニックになったのだと思った。警察官はノゾミを注目させたいだけの迷惑な中学生だと思い腹が立っていた。警察はその日のうちに帰って行った。
その日は一人でいるのが恐かったので母と一緒に眠てもらう事にした。寝てしまうとまた母が消えてしまうのが不安でなかなか眠れなかったが、朝方目を覚ますと母は隣で寝ていて安心した。朝ごはんは母と一緒に作った。少しでも一人で居るのが恐かったのである。料理を食べ終わると母と一緒に外に出かけた。少し買い物をしてから携帯ショップに入った。心配性のノゾミの母はすぐに連絡が取れるようにノゾミに携帯を買ってあげた。ノゾミは携帯を買ってくれたよりも心配してくれる母の気持ちが嬉しかった。
昼前に家に帰った。ノゾミが居なかった間仕事を休んでいた母は休んでいた分も今日の昼から仕事に行かねばならなかった。ノゾミは今日は学校を休んで良いといわれたが家の中で一人で居るのが恐かったので学校に行くことにした。
ノゾミが学校に着くとちょうど昼休みであった。ノゾミがクラスに入ると皆が声を掛けてきてくれた。普段はあまり喋らない子や先生からも声を掛けられた。どうやら同じクラスの子達が学校中に呼びかけてノゾミの事を探していてくれたらしい。ノゾミは教壇の上でお礼を言った。皆に何処にいたのかと聞かれたが、正直に話すと頭のおかしな子だと思われると思い、その間の記憶は無いと答えた。
授業が終わるとノゾミは自分のことを探していた人たち全員にお礼を言った。同じクラスの子以外にも別のクラスの子や部活動の先輩や後輩にもお礼を言った。ノゾミがお礼を言うとほとんどの子は優しく悩み事があるなら相談してねと言ってくれた。皆からのやさしさに触れてノゾミはなんて幸せな人間なのだろうと思った。
ノゾミはバスケ部の練習が終わると帰宅した。母はまだ仕事で家には居なかった。ノゾミは服を着替えて、今のうちに飼い犬のベスの散歩に行こうと思い庭に出た。
「べすー、べすー、散歩行くよ〜」
ノゾミが呼んでもベスは犬小屋から出てこなかった。いつもは散歩の時間になると尻尾を振ってくっついてくるのに。不審に思ったノゾミは犬小屋を覗き込むと小さく丸まっているベスの姿があった。
「どうしたの? 元気ないの?」
ノゾミはベスの体に触れた。
「ヴゥゥ〜〜!!」
ベスは低いうなり声を上げて、ノゾミを睨みつける。
「ちょっと、どうしたの?」
ノゾミはベスの態度が信じられなかった。すごく懐いていたベスが自分唸り声をなどありえなかった。
「ベス……」
ノゾミはベスの頭を撫でようと手を出した。
「キャ!!」
ベスはノゾミの手に噛み付いた。本気で噛み付いていないのか血は出ていないが、ノゾミは噛み付かれたことにショックを受けた。
「なんで……ベス……」
「ヴゥゥ〜〜!!」
ベスは侵入者を威嚇するようにノゾミに唸っていた。
十八時を過ぎて母が帰宅した。自分が居なかった間にベスに異変はなかったか聞いてみたが、特に変わったところはなかったと言われた。母がベスにご飯を与えると普段と変わらなく尻尾を振って喜んでいた。少し気味が悪かったが気にしないようにした。
次の日学校に行くと何人かに声をかけられたが、今までどうりの学校生活であった。部活が終わりバスケ部の友達と帰り道を歩いていた。
「のさか!」
後ろから声を掛けられた。声をかけたのは隣のクラスの大崎という男子だった。特に喋った事のない男子だったが、男子のバスケ部に入っており顔はよく合わせていた。大崎はノゾミに親しげに話しかけてきた。
「大丈夫だった?」
「……うん?」
「心配してたんだから連絡ぐらいしろよな」
「?……ああ、うん、ごめん」
「……、なんかよそよそしくない? なんか隠してる?」
「ええ? いや別に……」
「大崎ー!!」
大崎は後ろから声を掛けられた。同じバスケ部の男子が呼んでいる。
「……じゃあ、またな」
「え? ……うん」
大崎は言ってしまった。なにやら大崎を呼んだ男子にからかわれている様だ。ノゾミは大崎が何故話しかけてきたのかわからなかった。あれほど親しげに喋る間柄ではなかったはずだ。
「おあついですなぁ〜」
一緒に帰っていたバスケ部の友達がニヤニヤ笑っている。
「え?」
ノゾミは何のことだかわからない。
「何よ、え? って」
「大崎君とはそんなんじゃないよ? なんで?」
「はぁ〜? あんた何言ってるの? この前大崎に告白されて、OKしたって言ってたじゃん!?」
「……え?」
ノゾミにはそんな記憶なかった。
ノゾミは何かがおかしいと感じていた。飼い犬のベスも大崎も少しだけ何かがずれていた。ノゾミの頭にある考えが浮かんでくる。考えたくもない恐ろしい事だった。家に戻ってくるとすぐに自分の部屋に向かった。部屋に入るなり疑いを持ちつつ勉強机をあさった。だが、いつもどうりの自分の机であった。自分の物が決められた場所に配置されている。ノゾミは自分の考えが間違いであってくれと祈った。
ふと部屋の隅に置かれているピッチリと扉の閉めているクローゼットが目に入った。上段の大きな扉には衣服が、下の小さな引き戸には下着などが入っている。ノゾミは恐る恐るクローゼットの扉を開いた。目に映る物はいつもと変わらない…… そう思ったときクローゼットの奥に異物を見つけた。震える手でそれを取り寄せる。
それは赤いワンピースであった。ノゾミの趣味とは明らかに違ったものであった。もちろんこのようなもの買った覚えなどない。ノゾミはワンピースをクローゼットに放り投げてその場に座り込んだ。目からは涙があふれている。自分の考えが間違いではなかったと確信した。私はこの世界の住人ではない。この世界には本物の『のぞみ』が居る。
母が帰っていた。両手にスーパーのレジ袋を提げている。パートで働いている仕事場から余った惣菜を持って帰っているのだ。母はノゾミの落ち込んだ様子にすぐに気がついた。母はレジ袋を机に置くと優しく語りかけた。
「どうしたの? 学校で何かあった?」
ノゾミは母に抱きついた。
「……私違うの、お母さんののぞみじゃないの……」
母は娘の突然の言葉に驚きながらも、ノゾミの髪を柔らかくなでた。
「何言ってるの。のぞみ、あなたは私がお腹を痛めて産んだ子なのよ。馬鹿なこといわないの」
ノゾミは嗚咽をもらしながら心の中で呟いた。
(違うの。私はあなたから生まれていない)
それからはノゾミにとって苦悩の日々だった。自分は偽者のノゾミで本来ここに居るべきではないと思っていた。優しくしてくれる母を騙しているような気もしていた。本物の『のぞみ』がこの家に帰ってくれば自分はいったい何処に行けば良いのだろうかといつも考えていた。それでも日々は何事もなく過ぎて行った。
その日は何の前触れもなくやって来た。母との夕食を終えてお風呂にも入り、自分の部屋に戻りそろそろ寝ようかなと考えていた時である。ベスが大きな声で鳴いた。甲高い声を上げて狭い庭を走り回っている。まるで自分の主人が帰ってきたかのように。ノゾミはすぐに察しがついた。本物が帰ってきたのだと。咄嗟に部屋の電気を消して、床に耳をつけて下の様子を伺おうとした。
玄関の扉を開く音が聞こえる。
「おかーさん!!」
世界で一番聞いたことのある声が聞こえた。その後も何度も母を呼ぶ震えた声や嗚咽などが二階まで響いてきた。ノゾミは呆然としていた。とうとう本物ののぞみが帰ってきてしまったのだ。
このまま下の階に下りて、のぞみと母に全てを話してしまおうかと考えた。だが誰がそんな話を信じてくれるだろう。本物ののぞみと入れ替わった偽者のとして家から閉め出される気がした。ノゾミが焦って考えを巡らしていると階段を登る音が聞こえてきた。ノゾミはあわてて大きなクローゼットの中に入り込んだ。クローゼットのドアを閉めるのと同時に部屋の戸が開かれた。
ほんの少しだけ開かれたクローゼットの隙間から外の様子が伺えた。母の隣にいたのは自分自身であった。何もかもが自分と同じで気味が悪かった。
「ホラ、誰も居ないでしょ、私はあなたが部屋に入るところを見たわよ?」
母の声であった。
「それは私じゃないって、私は今まで父さんに連れ回されていたんだから」
それはノゾミとと同じ声であった。ノゾミは離れて聞く自分の声が酷く気持ちが悪かった。
「あなたは疲れてるのよ、恐いおもいしたからきっと記憶が混乱してるんだわ」
母はのぞみの肩に手を置いた。
「違うわ! 何で? どうして信じてくれないの?」
のぞみは泣き出しそうな目で母を見る。
「今度一緒に心のお医者さんのところに行きましょう。……お母さん明日も仕事で早いから、もう寝るわよ」
「お母さん!」
母は部屋の戸を閉めて階段を降りて行った。のぞみは部屋の中で立ちすくんでいる。やがてベットの中に入り泣いた。ノゾミはその様子をクローゼットの中から眺めていた。自分の泣いている姿というのは生理的に受け入れがたく、吐き気を催した。
のぞみはそのまま三十分ほど泣き散らかすと部屋の様子を見渡した。ノゾミが置いていた携帯に気がついて手に取った。
「なによこれ!? なんでこんなものが私の部屋にあるの!?」
のぞみは携帯を操作した。
「みんなの番号も入ってるし……」
のぞみは寒気を感じて震えた。恐怖を紛らわせるようにテレビのスイッチをいれボリュームを上げた。
のぞみはしばらくはそのままテレビを見ていたが、ふいに立ち上がってクローゼットに近づいてきた。ノゾミは息を殺した。まずいばれてしまうと思った。
『ガタッ!』
のぞみが開いたのは下の段の引き出しだった。のぞみは下着とパジャマを取ると部屋から出て行った。風呂に入るのだろう。ノゾミは止めていた息を吐き出した。心臓がまだ高鳴っている。咄嗟に隠れてしまったが、これからどうしようか迷った。のぞみは自分のことを受け入れてくれるか不安だった。
『きゃーーー!!!』
のぞみの叫び声が聞こえる。耳を澄ますと母を起こして必死に何かを訴えている声が聞こえる。風呂場で自分の使われた下着を見つけたらしい。母に激しく詰め寄っている。ノゾミはのぞみの叫び声を聞いて頭が痛くなった。
この世界ののぞみは自分の事を受け入れてくれるのだろうか? 一緒にこの家で生活してくれるだろうか? 無理だと思った。自分の姿を見るのは気味が悪く、体の中から嫌悪感が這い上がってくる。
ノゾミは体を丸めて頭を抱えた。どうしよう? けれど考えても答えは出ない。
しばらく経ってのぞみが部屋に戻ってきた。部屋の入り口に立ち辺りを見渡している。不意にしゃがみ込みベットの下を覘いた。布団をしまっている押入れを開いた。ベランダに出て外の様子も伺っている。ノゾミはこれで見つかってしまうのではないかと思ったが、捜索はそこで終わった。
のぞみは誰もいないことに満足したのか、ベットの上に座ると日課のストレッチを始めた。ノゾミと同じ習慣であった。のぞみはストレッチが終わると部屋の電気を消した。テレビは付けたままで音声だけ消してある。のぞみは布団を頭から被った。
三十分ほど経ってのぞみは眠りに落ちた。少しだけいびきが出ていた。ノゾミは自分が眠るときにいびきを掻いているのをしってショックだった。
ノゾミはゆっくりと音を立てないようにクローゼットのドアを開いた。このままずっと隠れているわけにもいかないと思ったのである。母ならば分かってもらえると思った。まず母を説得して何とか自分を保護してもらおうと思った。ゆっくりとクローゼットから出て床に足を着ける。
のぞみが目を前に向けると想像だにしていない光景が目に入った。鏡が光っていたのである。
「……起きて、起きて」
「……えぇ、何?……」
「起きてよ」
「何?」
「……」
「うわぁ!!!」
「静かにして! 大声出さないで!」
「なんで! なんで私がいるの!」
「驚くわよね、私は貴方よ」
「なんで? どうして? 夢!?」
「違うわ、夢じゃない、現実」
「そんな…… なんなのよ貴方?」
「私は別の世界から来た貴方よ」
「嘘? 何言ってるの? そんな漫画みたいなこと信じられないわ……」
「そうでしょうね、私が貴方だったら信じない。でもこれは本当。貴方と私同じだもの。貴方の事何でも知ってるよ」
「……好きな食べ物は?」
「トマト。小学生の時好きだったのは同じクラスの森村君。付き合った事を想像して秘密の日記を付けてた。びりびりに破いてもう捨てちゃったけど」
「……なんで知ってるの?」
「私はあなただもの」
「……貴方はなんでここに来たの?」
「……貴方に見てもらいたいものがあるの、だからここに来た」
「?」
「私の世界に来て」
「え?」
「そこの鏡から行けるから」
「そんなの嘘、あれはただの鏡だもん」
「今は違うのよ、さあ早く」
「待ってよ。私恐いわ。お母さんを呼んでくる」
「駄目よ、お母さんは疲れて寝てるから、それに来てもらえればすぐに済むから」
「そうだけど……やっぱり恐いし」
「……こないと一生後悔するよ…… 私先に行ってるから」
『テゥプン……』
「……嘘? ほんとに消えちゃった…… 嘘でしょ?」
「…… 水の表面みたい、少し暖かい……」
「ああ、どうしようかな……やっぱり恐いな…… お母さん呼んでこよう……」
「何してるの!? 早く来て!」
「え!? ちょっと!? きゃ!?」
『テゥプン……』
「ちょっと! 痛いって! 何するのよ!」
「ごめんなさい。急いでいたから」
「……ここが貴方の世界?……」
「ええ、そうよ」
「え?……私のと一緒じゃない? え? なんか変?」
「うん、この世界はおかしくなってしまったの」
「なに? 音が聞こえないの?」
「あたり、この世界には誰もいないの、人も動物も何もかも……」
「……私恐いわ、早く自分の世界に戻りたい。私こんなとこ嫌よ……」
「…………私も嫌よ……」
『ドンッ!!』
「きゃ!! ちょっとなにする……」
『テゥプン……』
………。
「あああ!!」
ノゾミは鏡に向かって椅子を放り投げた。鏡は大きな音を立てて崩れ落ちた。大きな物音を聞いた母が階段をすごい勢いで登ってくる。
「のぞみ!? どうしたの!?」
「……ごめんなさい、お母さんの鏡を割っちゃった」
「まぁ!? それよりあなた怪我は無いの!?」
「うん…… 大丈夫」
「そう、良かった。……そういえば誰かと話す様な声が聞こえてたけど、誰かいたの?」
「……何言ってるのお母さん? 私は一人よ」
終わり