【四】
「うっ……ごほっ、げほ」
隼人が口を開きかけたとき、それを遮るように後ろで激しく咳き込む声が聞こえた。
咳をした張本人は申し訳なさそうに目を伏せ、音を抑えようと必死で口元を覆っている。気づかれないようにしているのか異常に体を小さく丸めていたが、美鈴の眼はそれを逃さなかった。
「だから、申し上げたはずです。お部屋へ戻りましょう」
その口調は柔らかだったが、どこか有無を言わせない雰囲気があった。すみれはなおも食い下がる。
「だって私……」
「駄目です」
悪戯をした子供を諭すような目で、美鈴がすみれを見る。反論しようと口を開きかけたすみれだったが、またしても自身の咳に遮られてしまった。美鈴がまたしても口を開こうとしたとき、すみれはそれを静かに制した。
「わかった。…神楽ちゃん、またね?」
名残惜しいといわんばかりにしょんぼりとうな垂れ、すみれは美鈴に手を引かれるままに自室へ引き返していく。呆然と、神楽はその背中を見送った。
「すみれ様には、困ったものですね」
嵐のように来て、嵐のように過ぎ去っていった彼女に対して、隼人が苦々しげに言う。みれば、皆が皆、渋い顔をしていた。しかしそれはどこか優しげでもある。体の弱いであろう彼女を、気遣ってのことだろうか。
「それはいいとして。……とりあえず、この世界に住むのが妖、っていう生き物だってことは、説明したよね?」
おもむろに空哉が口を開いた。返答を求めていたわけではなかったのか、神楽の返事を聞かずに話しを続ける。
「この妖には三種類あって、僕たちみたいに人の姿を取れる妖を、“高等妖”って呼ぶ。この高等妖には当主を筆頭とした、一族っていうのに分けられてる。ちなみに隼人と慎太郎は妖狐の一族」
「貴方のお父様、将宗様は、我が一族の当主でした」
どこか懐かしげな表情で、隼人は天井を見上げる。
「本当にすばらしいお方でした。強い力と、思いやりと――私は、あの方のお側につけて幸せだった」
その口ぶりから、将宗がいかに信頼の厚い人物だったのかは容易に想像できる。『だった』という言い方が少し気になるが。
神楽の視線を感じた隼人はそれとなく話を逸らし、やんわりと微笑んだ。
「貴方がここへ来たとき、“門”を通ったでしょう? あれは、“妖の門”と呼ばれる特殊なもので、限られた者にしか開くことはできません。今、この“妖の世”であれを開けるのは五名。そのうちの二人が、ここにいる私と奏さんです」
良く分からないが、あの門は凄いものだったのか。妖の世にどれだけの妖と一族があるかは知らないが――とりあえず奏が凄い者だということは分かった。
「あんな――」
神楽が感心したように見詰めていると、なぜか不機嫌な奏が口を開いた。
「神楽ちゃん、俺のことなんやと思ててん?」
弁解しようと、慌てて口を開こうとしたが――空哉のからかい声に遮られてしまう。
「そりゃダテ眼鏡掛けてる変なオッサンでしょ」
「オッサンは余計じゃ、オッサンは!」
「変なのとダテ眼鏡はいーのかよ」
「はいはい、分かりましたから……静かにしてください」
いつものことなのか、半分呆れ、半分諦めといった表情で、隼人が割って入る。
「で、まぁ……“人の世”でも、門を開ける方々がいるんです。彼女たちは、巫女、と呼ばれていますね」
巫女というのは、よく神社なんかで見かける、女の人のことだろうか。神楽の記憶が正しければ、彼女達は神職の補助などをするはず。それと、門とは何の関係があるというのだろう。首を捻った神楽に、隼人は言葉を続けた。
「単に門を開けるといっても、先祖代々の血を守る限られた一家だけです。あちらで一番強力な巫女の一家は、“千珠家”」
「千珠……」
「千珠家は人の世で妖の存在を認識する唯一の家として、管理を任されていたのですが……」
ここまでくればお分かりですか、と隼人はなにやら意味深な顔で微笑む。
が、しかし。
はっきり言って神楽には良く分からない。曖昧に首を横に振ると、今度は打って変わって上機嫌な奏が声を潜めた。
「将宗さん、惚れてもうたんや。その千珠の巫女さんに」
千珠の巫女――
「楓さん、あなたのお母様です」
いまいち理解が追いついていない神楽に、隼人がそっと言った。
はっとして振り返ると、柔らかく微笑む顔。それはどこか懐かしさのようなものを、含んでいる気がした。
「詳しいことは私には分かりかねますが。将宗様と楓様が出会い、恋に落ちた。そして生まれたのが、神楽さん、貴方です」
「その時に、楓と君を護るために作られた――それが僕達、“護手”」
「俺らはな、命張って、あんたを護るんや」
明るい、奏の笑顔。神楽にはそれが、ひどく色あせて見えた。色を見ようとしても霞み、目に入った先から世界の色が抜けていく。
「神楽さん、貴方は人間ではありません。正確には妖でもない。……巫女、そして妖の血を引く、極めて稀有な存在。だから、身を挺してでも護らなければいけないのです」
何故、巫女の血を引くから護られなければならないのか。何故、稀有な存在と言われるのか。それが理解できなかった。
「だって……わ、たし」
自分が分からない。
人間は――敏感で、残酷だ。自分より下の者がいれば蔑み、上のものがいれば妬む。そして自分と少しでも違うものがいれば、疎い傷つける。
意味も無く蔑まれ、忌み嫌われ続けてきた。誰とも関わらず、ただ独りでいる。それだけが、自分の身を守るただ一つの手段。そうやって生きていく道しかないと、この本能に刻み込まれるまで――傷つけられ、精神を壊された。
「ここに、いてはいけない…」
自分を護ると言った、この男達。でも――信じたいと思うのに、本能が許さない。まるで――壊れかけの玩具を貰ったかのような、そんな気持ち。欲しくて欲しくてたまらなかったモノが、手に入れた途端に壊れてしまう、あの恐怖。
震える手で、自分の体を抱きしめる。幼い頃、見知らぬ者達によって付けられた傷が、消えたはずの傷が、まだ残っている気がした。鈍器で強く殴られたときの――あの痛みが、甦る。
「怖かった、つらかったね。……本当にごめん」
見上げると、そこには。まるで自分が苦痛を受けたかのように、苦しげに歪んだ空哉の顔。
「こう言ったら、言い訳になるんだけど……妖の世と人の世は、時間の流れ方が違う。将宗と楓が失踪したっていうのを、僕達は最近になって知ったんだ。君がずっと、一人で苦しみ続けてきたことを、僕は知らなかった。将宗と楓と、幸せに暮らしてるんだと、ばっかり―――っ」
唐突に、空哉は拳を畳に打ち付けた。鈍い音が、木霊する。
「空哉、やめろ」
今まで黙っていた慎太郎が口を開き、空哉の拳を引き剥がした。だが――それだけ。黙ったままの慎太郎と空哉に変わって、隼人が口を開く。
「いくら嘆いても過去は変えられない……。貴方を苦しめたという、私達の大罪も、消えることは無い。貴方は――過去の分も、今を幸せに生きてください。私達は貴方の護り手。いつでも側にいます」
体の震えは、止まっていた。痛みが、消えていく。
「しあ、わせ?」
初めてその言葉を見つけた子供のように、たどたどしく。
「そう。幸せ」
戸惑って俯く神楽を見、護手たちが顔を見合わせて微笑んだとき。音も無く襖が開いた。
神楽は驚いて振り返り――そこに立っていたのは美鈴だった。
「失礼します。皆様、お食事の用意ができました。本日は白霧様と夜狩様もこちらでお召し上がり下さい」
そう言って後ろから何かを取り出す。ふわりと、鼻腔をくすぐる香りが広がった。
「ほう。鍋、ですか」
「ほな、気分入れ替えて食べよか、な?」
「あんたが食べたいだけじゃん」
口々に言い、慣れた様子で鍋へ箸を伸ばす。大人数で――いや、鍋というのは大人数で囲むものだから、鍋というもの自体を食べたことのない神楽は戸惑った。
しかし、そんな彼女にお構い無しに、鍋の中の食材は着実に減っていく。主に、奏と慎太郎によって。
「おいコラ慎太郎! それの俺の肉や!」
「さっさと食わねえのが悪ぃんだよ」
「このクソ餓鬼……はよ鍋ん中入り! ゴマダレ付けて食うたるわっ!」
「ったくもう……神楽、ごめんね、こんなんで。一人でぐだぐだしてるの嫌になってきた」
空哉が呆れたように首を振り、二人のいざこざの元になっているものを取り上げた。いつものことなのか、そんな三人を隼人は笑顔で見つめている。
「あ……空哉てめぇ。俺の肉返せ!」
「アホか! 俺の肉や」
「肉肉、肉肉うるさい。……神楽、早くこっちおいで? この馬鹿共に全部食べられちゃうよ」
小さく返事をすると、空哉の隣に腰を下ろす。肉の奪い合いをしていた二人は横槍を入れた空哉に文句を言っていたが、当の本人はまるで気にしていない。
「馬鹿てなんや、馬鹿て」
「…んだよ。この馬鹿と同じ馬鹿だーなんて、失礼にも程があんだろ」
「空哉さん、別に間違ったことは言ってませんね」
「なんやとっ!」
その和やかな様子に、神楽はふうと息を漏らした。不意に温かい手が、頭に触れられる。みれば、空哉が微笑んでいた。
「幸せに……なれるよ。君なら」
「あの……」
そこではっと気づく。あまりにもこの空間では自然すぎて、自分でも気がつかなかったが――神楽は、笑っていたのだろうか。ひどく、歪な笑みだっただろう。
最後に笑みを零したのがいつだったのか、覚えていない。それでもまた、笑うことができた。
これから自分の身に、何が起こるのか。それは分からない。だけど――神楽はもう一度、静かに、それでもしっかりと、思い出したばかりの笑顔を零した。
いつの間にか月が昇り、彼らを見守るように、静かに微笑んでいた。
大きな改定、本当に申し訳ないです・・・。