【二】
コツコツ、と後ろを歩く、小さな足音が聞こえる。歩幅が小さいのか少し早足気味だ。空哉は歩く速度を緩め、そっと彼女に合わせた。
それらに紛れてぶつぶつと、なにやら言う声が聞こえる。
「…」
物騒な言葉が混じっている気がするのは、きっと気のせいではないだろう。
「……ねん」
「なに?」
「なんでやねん!!」
唐突に真下から突き上げられた拳を受け流し、空哉は怪訝そうに首を傾げる。
「なんでお前ばっかり……っ! なんで俺は警戒されるとや」
「……ああ」
落胆したような沈んだ声に何を思ったのか奏はいっそういきり立った。
「なんやのお前、ほんまに腹立つ」
「ちがくて」
「何が違うんじゃ」
敵意剥き出し――というよりも単に期限が悪いだけの奏に、空哉は二度目の溜め息をつく。
「……だからさ。単に僕のこと男として見てないだけだと思うけど」
「……は?」
本当に言っている意味が分からないのか、奏は首を傾げながら立ち上がった。
呆けたような間抜け面に、心底拳をお見舞いしてやりたい気分だった。平常心を装い、話を続ける。
「神楽は、男に対しての警戒心が強いみたいだから。――背の高さとか、声とか、いろいろあるんじゃないの」
その言葉を聞いた途端、奏の顔が一瞬固まり――そしてニヤケていく。
長身でがっしりとした奏に比べ華奢な空哉は、昔から女の子と間違われることがしょっちゅうだった。それ故に神楽の警戒を少しばかり解くことに成功したが、やはり男としてのプライドもある。
「そかそか。空哉は男とちゃうんか……ぶっ」
ただ、黙って、くつくつと笑う男を睨みつける。初めは控えめに笑っていた奏だったが、徐々に声を大きくし、ついに腹を抱えて爆笑し始めた。ふつふつと、黒い感情と共に苛立ちがつのる。
「でもまぁ。そんなら? 納得できるな。俺は、男として、見られとるらしいし?」
「足か腕か、アバラか。なんなら頭蓋骨がいい?」
「あんたの場合、冗談に聞こえへん」
「冗談言ったつもりない」
奏を見据える、小さな悪魔の眼。
「……できれば、小指の骨とかにしてもらえっとありがたいんやけど」
身の危険を感じた奏は犠牲を軽くしようと試みるが、被害を与えようとしている側はまるで聞いていない。
ひそひそと何事か囁きあっている男達を、ただ神楽はきょとんとした表情で見ていた。会話の内容を聞かせないようにしているのか、それとも単にやましい内容なのか。
どちらかは定かでないが、なにやら言い合いをしているのは間違いないだろう。
「分かった。じゃ頭蓋骨ね」
「聞いてへんし!!」
奏の頭上に、拳が舞う。神楽は驚愕して目を瞬き――それに気づいた空哉が、あっと声を上げたときには遅く。ガツ、という鈍い音が辺りに響いた。
「痛ったぁー!!」
涙目の奏を見なかったことにしようと、神楽は思わず目を閉じる。さすがに骨は折れていないだろうが、それでもかなり痛そうだ。
「ご、ごめ……ぷ…ちょ、ちょっとやりすぎ…た、かな…」
「本気でどつくか? 普通?」
再び地面にうずくまろうとする奏に真顔で謝ろうと努める空哉だったが、その顔には耐え切れないというように笑いが浮かんでいた。
「か、神楽…」
先に進もうと、空哉は神楽の腕を取る。無駄話をしていてはいけないと思ったから――否。実を言うと唇の端が不自然に痙攣するのを誤魔化すためだった。
足早に歩を進める彼に合わせて慌てて歩き出すと、後ろから嘆きのような、怒号のような声が聞こえてきた。
「……あの…?」
「なに、アイツが気になるの?」
いまだ笑いを含んだ問いかけに、曖昧に首を振る。気になるというわけではなかったが、心配だ。よくよく考えてみれば、原因は神楽自身にあるような気もする。立ち止まって後方を確認しようとする神楽を、楽しんでいるような声色がとめた。
「大丈夫だよ。見た目より頑丈だから。そんなことより――」
彼の言葉通り、立ち上がってこちらへ駆けてくる奏を見て、一人安堵する。苛立ったように髪をかき上げていたが、それは彼特有の癖のようだ。
「着いたよ。ここに、君を連れてきたかったんだ」
「あ……」
空哉の指差す先。そこに立つ、仰々しく荘厳な門に見下ろされ神楽はひどく恐縮した。周りを囲う石造りの塀も、今まで気づかなかったことが不思議なほどに威圧感を醸し出す。
ギィィィ…と重たい音を立てて、門の扉が内側から開かれる。驚いて飛びのくと、そこには二人の人が立っていた。いや、おそらく彼らも人ではないのだろう。
「ここにいる妖達は安全だから。心配しないで」
男と少女。男は金髪を長く伸ばし、柔和な笑みを浮かべている。服は着物だ。少女もまた、薄紫色の着物を身につけ、髪を顎のラインですっきりと切り揃えている。
年は神楽と同じか、もしくは少し下のように見えた。
僅かに幼さの残る顔に厳格そうな表情を刻み、少女は深々と礼をする。
「ようこそ、狐の屋敷へ。神楽様の身の回りの世話をさせていただくことになりました、美鈴と申します。なにか、御用がおありでしたら遠慮なく言いつけてください」
きらりと日の光に光る髪をぼんやりと眺めていた神楽は、慌てて顔をあげてくれるよう頼んだ。
「狐の、屋敷……」
訝しむ神楽を見て美鈴は凛とした表情を崩し、奏と空哉に向かって眉根を寄せた。
「夜狩様、白霧様。ご説明は?」
「それどころじゃ無かったんだよ。予想外のことが、いろいろと、ね」
「せや。このアホ男のせいで、エライ目にあった」
苦々しげに答える空哉と未だ不機嫌の奏を責め立てるように、美鈴は口を開く。
「それでは、困ります。やはり……」
「いいではありませんか、美鈴さん。どちらにせよ説明はきちんとしなければならないのですから」
ぬっと唐突に首を突き出した男が、やんわりと美鈴の言葉を遮る。
「初めまして。貴方が、神楽さんですね? いやはや、楓さんによく似て……」
そこで男はしまったといわんばかりに咳払いをし、にっこりと微笑んだ。
「失礼。私は、宮守隼人。妖狐の当主に仕える者です」
「いま…」
神楽の意識は、柔和な男――隼人の名とは別の方向に向いていた。
「いま、かえで、って…」
隼人の口走った、名。それは神楽の唯一知る、母親の手がかりだ。写真の一枚も残されておらず、記憶も曖昧で、十年間、その名前だけが神楽の知る両親のすべてだった。
それを、この目の前にいる男は、こともなげに言ってのけたのだ。まるで、彼女達をよく知っているかのように。
「知っていますよ。貴方のお母様―楓さんと、お父様、将宗様のことは、よく」
驚いて目を白黒させる神楽の前で、隼人は困り顔で言った。
「貴方は、覚えていないでしょう。立ち話は、何ですから、中で」