【三】
「中等の分際でこの子に手ぇ出したこと、後悔させてあげるよ」
『ぐふ、ふ……食事の邪魔ぁ…する気かぁ……』
「僕等の感動の再会、邪魔したのはそっちでしょ」
残酷に薄く笑う空哉の目は、笑ってはいない。
彼の体に集まり始めた風の鎧は渦を巻き、近づくことすら困難になってきた。その風に半ば吹き飛ばされるようにしながら、神楽は電柱の影まで移動し、そっと膝を抱える。
「そうだね……。そこでそうやって、目瞑って耳塞いでて。――女の子に見せられるようなモノには、ならないだろうから」
その瞳に宿る、陰惨な光。先程までは垣間見ることすらなかった光が、そこにある。神楽は酷く寒気がして、ぎゅっと膝を抱きしめた。この寒気は、寒さのせいだけではない。
神楽は空哉に対して恐怖を抱いてはいたが、今のところ神楽自身に危害を加えるつもりはないらしい。言われたとおりに目を閉じた。
――視界が、黒に染まる。
『ぐふ……ふ……? あ゛…ぁあ゛ああ』
「なに? 偉そうな口きくわりに、呆気ないじゃん」
『ひ……ひゃ、ああああ…あ…』
何かを、裂く音。何か、水のようなものが滴る音。
『…ゆ…るし……』
「あはは。……今更許してやるわけないでしょ?」
『ぎゃ…あ……あああああっ!!』
甲高い、断末魔の叫び声。それに触発されるように、神楽は閉じていた目を開けた。
「あ……っ…」
目の前に広がったのは――地獄。
「あれ。見ちゃった? 仕方ないなあ」
楽しげに笑う、空哉の持っている刃物は、最後に見たときの三倍は長くなっていた。短剣というよりはむしろ、八本の日本刀。
風の吹き荒れる中、まるで爪のようにそれらを操り、化け物相手に戦っていたのだろう。濃い色の着物ではあまり目立たないが、何かの染みがつき、白い帯は紅く染まっていた。
――そして
あの目玉の化け物の姿は、どこにもなかった。
あったのは―千切れになった、肉片。雪に散る、紅い液体。無数に地面に転がる、ピンポン玉ぐらいの大きさのボール。
その一つが、ぎょろりとこちらを向いた。
「ひっ―――」
濡れた黒目が、くるくると回る。張り付いている細い紐のようなものは――血管、だろうか。
坂でもないのに、神楽のほうへ目玉は転がってくる。まるで、自分の意思で動いているかのように。
「あっぶなっ……って」
瞬間。何かが神楽の前を駆け抜けた。ひゅんと風を切る音が聞こえ、ぐしゃりと潰れる音が間近でした。
思わず閉じていた目を開くと、先に目に入ったのは例の目玉。僅か三寸ほど先で、ピタリと止まっているいた。
――三十cm程の木でできた棒。矢に、貫かれて。
矢なんて、歴史の教科書の微妙な挿絵でしか見たことのなかった神楽は初め何か分からなかったが、先に付いた鳥の尾羽のようなもので、やっとそれだと判断した。
「なにボケッとしとんねん! やられるやろ! アホかほんまに」
声のしたほうを見上げると、あの男だった。怒ったように話しかけているのはどうやら神楽に向かってではなく、空哉に向かってのようだ。
手には、弓。凝った設えで、何かが巻き付いている。よくみるとそれは――蛇だった。鱗の一枚一枚まで精巧に作られた、蛇。
「奏! 今までどこで油売ってたの!」
「いやな…これを拾っとって」
そう言って奏と呼ばれた男は、神楽に何かを投げて寄越す。投げられたのは、鞄。落としたと思っていたスクールバックだ。
「中身出てもうてたから、全部探すの大変やってん」
彼は神楽に対して、はにかむように笑う。空哉と会ったときと同じだ。……やはり、警鐘は鳴らない。
「にしても――やっこさん、ごっつ生命力の強い百目やなあ」
「うん。――異常だ」
「ほな、本体どこにおるん」
どこかちぐはぐな会話だ。内容についていけず、神楽はポカンとするしかない。
奏の問いに空哉がにやりと笑い、顎で空中を指し示した。
「あそこに、いるじゃん。随分とご立腹だよ」
その先には――なんと言ったら良いのか。簡単に言えば、目玉のお化け。
いくつもの目玉が連なり、細い紐――毛細血管らしきものでまとめられて一つの塊になっていた。きっと脳ミソなどと同じ状態なのだろうが、残念ながら神楽は人の毛細血管も脳ミソも見たことはない。
空に浮遊するそれ―百目は、ゆらゆらと不安定に揺れ動きながら、神楽達のいるほうへやってくる。
「な……な…っ」
百目が動くたびに血管の隙間から目玉が零れ落ち、ぷるぷると震えた。
「百目の本体だよ。そこの目玉が人間の体の中に入ると、あんな感じになる」
神楽の言葉を汲み取って、言った空哉が指し示したのは、切り刻まれた化け物の亡骸。
よく見ると目玉が刻まれた肉片の隙間から這い出し、やはりぷるぷる震えながら、本体へ近づこうと這いずっていた。ところどころ潰れ、何かを流しながら。
不気味な、目玉の行進。
その一部を、空哉が踏みつけた。綺麗に並んでいた列が乱れる。
「神楽ちゃんのこと襲いはったバケモンは、元々はみーんな人間やった」
憎々しげに言った奏の顔は、苦虫を噛み潰したように歪んでいた。
みんな、人間だった。その言葉に、鳥肌が立つ。
「百目って元々、人を驚かせるだけで危害を加えることはないんだけどね」
「穏便にできんか? この子にあんましグロいとこ見せとうないんや」
「これ以上どうグロくなるっての。めんどくさい」
「せやけどな」
やはり、どこか噛み合わない会話だ。
その間にも百目はその距離を縮め、今にも襲いかかろうと唸り声を上げた。
奏の責め立てるような視線に、空哉は舌打ちで答える。
「わかったよ。やればいいんでしょ、やれば。近づいたら……一緒に片付けるからね」
「物騒やな」
両手を広げ、空を仰ぐ。
あの八本の刀はどこかにしまわれていた。しかし彼のどこを探しても、あんなに長いものを仕舞えるようなスペースは見つからない。
神楽が怪訝に思っていると、凛とした声が辺りに響き渡った。
優しいのに、大地を揺らし、空を突き上げるかのような声が。
「浄土より吹きし風よ、包み込め――『風鈴・涅槃西風』」
柔らかいそよ風が、神楽の髪を撫でた。