【二】
「―――っ」
どれだけ、走っただろうか。神楽は立ち止まり、ぜえぜえと肩で大きく息をする。普段、運動は全くといって良いほどしていないため、少し走っただけでも息が上がってしまった。
自分の心臓の音がやけに大きく聞こえ、音を抑えようと左胸を強く掴んだ。
おかしい。神楽はちらと後ろを見、男の姿を探したが、どこにも見えないばかりか気配すら感じない。昔から走るのが遅く、とてもじゃないがさっきの男を撒いたとは思えなかった。
それに――男の姿は見えないのに、警鐘が鳴り続いている。しかも、先程よりも高く、大きな音で。時間が経つほど大きくなっていく。
心を落ち着けようと、顔をあげた神楽は、そのままの形で固まった。
走って逃げるのに夢中で、通学用の鞄を落としてしまったらしい―高校指定の、スクールバックを。神楽は自分の失態を呪った。鞄を取りに行くために、このまま戻れば、男と鉢合わせになってしまうかもしれない。
それは彼女の本能が許さなかった。中には教科書以外に貴重品は入っていないし、明日、交番にでも行けば届いているだろう。
そう楽観的に考え、再び顔を上げたとき。神楽はまたしてもそのままの格好で固まった。
一向に止む気配のない警鐘。先程の男のものとは違う、もう一つの気配。だから、奇妙だと思った。撒けるはずもない男を撒けたことも、落し物をしたことも、単に偶然だと思った。
だけど、違った――
『ぐふ…ふふふ……』
――一人で歩いてると、目玉のお化けに襲われるらしいよ
『旨そうな娘だぁ…ぐふ、ふふ』
鼻を突いたのは、悪臭。さっきの生ゴミなんか、比じゃないほどの―悪臭。肉が腐ったような、吐き気を催すような臭い。それは、目の前の生物から発せられていた。
『お前だけの餌じゃないぃ…こっちにも寄越せぇ』
『ぐふ、ふふふ』
形は、人型だった。あくまで、形だけは。腕、足や頭は、かろうじてそこがそうであっただろうと思えるだけ。脹らみ、どろどろとした何かの液体を指先だったであろう場所から流していた。
『旨そう……喰いたいぃ』
だらりと垂れ下がった、気味の悪い色をした皮膚。その下から覗くのは――真っ赤に充血し、見開かれた、無数の目。五十…七十…九十…いや、もっとある。その生き物の体を埋め尽くすように付いた目玉は一斉に彼らにとっての餌、神楽を見た。
その化け物は一体だけではない。どこから来たのか、今では神楽の周りを囲むようにいた。ぼこりと突き出た球状の部分―恐らく頭、に開いた穴から半透明の液体を垂れ流し、全身を埋め尽くす目玉がぎょろりと動く。
――無数の目玉には目蓋がない。皮膚に開く、刃物で切ったように歪な穴に――埋め込まれているというのが正しいのかもしれない。
『ぐふ、ぐふふふ……』
「いっ――」
化け物が、手―形は手ではなかったが、恐らく手―を伸ばしてくる。間近で見たそれにも目玉は付いており、神楽は驚いて思わず尻餅をついた。冷たい雪が、染みる。
立てない。恐怖で固まった体はまるで言うことを聞かず、ガタガタと頼りなく震えるだけだ。
きっと自分は、この化け物に喰われる。神楽はそう、思った。
今まで、命の危機に晒されてきたことは何度もある。その度に死を覚悟し、生きようと抗う本能を必死に押さえつけてきた。死ねたら、楽になるかもしれない。もう何も感じなくてすむのかもしれない。そう、思い続けていたから。
ただ、このときの神楽は、違った。
何故か――初めて、生きようとする本能が勝ったのだ。理由は――分からない。
「たす…けて……」
――生きたい。その思いが、神楽の唇を割っていた。
祈ることなど、願うことなど、とうにやめたはず。誰かに期待することも、誰かに頼ることもやめた。だから、助けなんか来るはずない。でも心のどこかで、期待していて――
「君もさ、面倒な奴に目、つけられたね」
天から降ってくる、声。どこか楽しげなその声に空を見上げると、つむじ風が降りてくるところだった。風は静けさを好むはずの積雪を舞い上がらせ、神楽と化け物たちの間に下りたつ。
「まったく。奏の奴、なにやってんだろ」
風が収まると、中から現れたのは少年だった。
風の中から現れた彼は深い緑色の着物に白い帯を身に着けていた。同じ、和服。先程の男のように羽織を羽織ってはいなかったが、男とかかわりがあることは否めなそうだ。
「な……」
少年はコバルトブルーの瞳を神楽に向ける。藍色の髪が風に踊った。
「遅くなってごめんね」
その容姿や華奢な体躯から、一見すると少女に見える、少年。その表情には困ったような微笑。こんな状況じゃなければ、見とれていたところだ。
「僕は、夜狩空哉。まぁ、正体が何かは分かってるみたいだけど」
なにも言えず、神楽は曖昧に頷いた。
男もこの少年も、目の前の化け物も。正体は同じ。何であるかは正確には分からないが――人外の存在であることは間違いない、だろう。
「……そうだよ。そこの奴と一緒だ」
神楽の思考を読み取ったように、少年―空哉が言った。その顔に、翳りがさす。
「でも、僕も奏も君を傷つけたりしない。護るために、こっちまできたんだから」
言っている意味が分からず、神楽は狼狽した。空哉はきっと、神楽にとって危険な存在だろう。だが、彼が来たことによってうるさいぐらいの警鐘が鳴り止んだのも事実だ。
本能の見せる矛盾に、神楽は戸惑う。
「信じられない? じゃあ……」
空哉は微苦笑すると、両手を広げた。その手には、いつの間にか鋭利な刃物。
右手に四つ、左手に四つ。計八つの短剣をそれぞれ指の間に挟み、自分の介入によって怯んでいる化け物に向き直る。無数の目玉が、一瞬にして恐怖に染まった―ように見えた。
彼の体には、いつの間にかつむじ風が戻っていた。
その体を護るような、激しい風が。