壱 出会いの回雪
――ねぇ、知ってる?最近の事件、あれってさ………
肌を引き裂くように冷たい北風が、紅潮した頬に吹きつけた。寒さで止まりそうになる足を叱咤し、神楽は更に歩を早める。なれない雪道を歩き、通学用の靴はびしょ濡れだった。
ここから自宅まではまだかなりの距離がある。吹き荒れる雪を睨み、神楽は今日何度目かの溜め息をついた。凍えるような空気の中、長い距離を歩かなければならないのは誰だって億劫だ。生憎、気を紛らわせるような物もない。
さっきの自動販売機で缶コーヒーでも買えばよかった、と、神楽は一人後悔した。温かい物でもあればこの寒さも幾分マシだっただろう。
人通りの少ない路地は降り積もった雪のせいでさらに静まり返り、人どころか生き物の気配を欠片も感じなかった。寂れた路地には、もちろん自動販売機なんてものはない。
あるのはカラスに中身を食い散らかされ、雪を被ったゴミ袋の山ぐらい。回収する人もいないのか、もしかしたら忘れ去られてしまったのかもしれない――うず高くつまれた、生ゴミ。
鼻を摘みたくなるような悪臭を放つそれらの近くを通り過ぎ、息をついて前を見上げる。
雪は、止まない。ひらひら、ひらひら。神楽の目の前でまるで花びらのように舞い、そして落ちた。憂鬱な灰色の色をした厚い雲の向こうから、次々舞い降りる雪。
神楽はそのひとひらを掴む。冷たさを感じさせる間もないほどあっけなく、雪の片は溶け去った。
手の平に残る、僅かな水滴。雪の変化。
この路地でも、また――気配を感じて、神楽は視線を路地の先へ向ける。
先程までと同じ、静まり返った細い路地。
ただ、一つを覗いて。神楽の目の前に、“それ”はいた。
自然、足が止まる。
――ねぇ、知ってる?最近の事件、あれってさ………
何故か。聞き流したはずの会話が、頭の中で流れる。その会話を聞いたときに、背中に走った悪寒も、共に。
変化のない町で起こった、大きな変化。それは辺鄙な町で連続して起こる不可思議な事件の数々。神楽もニュースで聞いただけだが、目玉だけをくりぬかれた殺人や、行方不明になった人もいる。
そのどれもが、人間業ではない殺人だったらしい。つまり――人外のものが起こした、事件。
人間では無いものが関係するならば、この十月に雪が降るという、異常気象も納得がいく。
何故、“人間では無い何か”をあっさりと受け入れられるのか―――神楽には、分かるのだ。常の人には見えないようなものが、彼女には見える。普通の人間には聞こえないようなものが、普通の人ならば馬鹿らしいと笑うようなものが。
カサ。
目の前の“それ”が動いた。
いや、人の姿をとっているのだから、それという言い方は失礼にあたるのかも知れない。
小さく深呼吸をして、神楽は目の前の“男”を見た。
見上げるような長身で洋服ではなく、灰色や銀に近い色の袴を着ている。浅葱色の羽織を羽織っている様は、あの有名な幕末の警備隊を彷彿とさせた。
少し癖のある髪は、降る雪に紛れるような白髪。緑色と黄色が所々、白を彩るように入っている。
男は癖が気になるのかはねている髪を撫でつけ、途中で諦めて眼鏡を押し上げた。
体が、僅かに震える。
相手にそれを悟られないよう、神楽は自分自身の体を抱きしめた。
大きな黒縁の眼鏡の、その奥。その部分から、目が放せない。黒よりも暗く、白よりも潔白な色――残酷で獰猛な獣を思わせる黄金の瞳。光が差すたびに煌き、獲物を逃さない、狩人の眼。男の整った顔立ちのせいで、より鋭く、鮮やかに見える。
男は焦点を神楽に定め、こちらに向かって一歩踏み出した。
「あんたが、神楽ちゃんか」
聞きなれないイントネーションが、そう問いかけた。
「――私の、名前………」
神楽の唇から紡がれた言葉は、思っていたよりも弱弱しく、掠れていた。
「俺は神楽ちゃんのこと、何でも知っとるで?」
その声は優しげで柔らかく、本当に神楽の身を案じているように聞こえた。しかし神楽は、体から力を抜くことをやめない。いつでも逃げ出せるように身構え、男を見据える。
「そない怖がらんといてや」
ふわりと空気が暖かくなる。どこから発せられたものかと周りを見回すと、それは男の微笑みの元からだった。
困ったように笑い、髪を撫で付ける男。鋭い黄金の瞳の中には、神楽が想像していた陰惨な光など欠片もなく、暖かな光が宿っていた。
――もしかしたら、この男は危険じゃないのかもしれない
そう、頭の片隅に思った、瞬間。
唐突に胸の奥で激しく警鐘が鳴り出した。鐘は、本能は告げる。この男は危険だと。神楽の意思とは無関係に粟立つ肌も、これ以上男に近づくなと、警告する。彼女の本能は、この男を受け入れることを頑なに拒んでいた。
男が、一歩を踏み出す。神楽は、拒絶するように一歩下がった。
じり、と地面を踏む音が耳朶を打つ。
「俺は、なんも危害は加えへんて」
またしても男が一歩を踏み出そうというとき――神楽はもうその場にいなかった。
男から逃れようと、ただ本能が告げるままに走り出し、もと来た道を全力で駆ける。
後ろから、溜め息のような音が聞こえた。