序
『おかあ、さん』
少女は闇の中で母を呼ぶ。
嫌になるほどに体に纏わり付く、漆黒。それは、彼女自身の長い髪だった。少女はそれに気づくこともなく自分の髪に怯え、逃れようとその身を捩る。
彼女の足元は、何もない。ただ奈落が広がっているのみ―――否。少女の足元に広がる闇の底からは無数の白い手が、少女を絡め取ろうと伸ばされていた。白い手は闇の中でも霞むことなく、どこか光を放ちながら大蛇のようにのたうつ。その先にあるのは、小さな少女。
『たす……けて…』
いつも助けてくれる母がいない。どこを探しても、どんなに呼んでも母は来ない。それが何を意味するのか、幼い少女には分からない。
『かぐらのこと、嫌いになっちゃったの…?』
悲痛な叫びを嘲笑うかのように白い手の一つが少女の足に触れる。どこからか下品な笑い声が聞こえ、瞬く間に彼女を包みこんだ。
恐怖。
白い無数の手に絡め取られる、妙な感覚。足掻いても足掻いても抜け出すどころかさらに奈落へ引き込まれていくようで――
『おかあさん』
ただ悲鳴のように母を呼ぶ。彼女にはそれしかこの闇から、この白い手から抜け出す方法が思いつかなかった。
『おかあさん、おかあさん、おかあさ…』
いつも真っ先に駆けつけ、助けてくれる母は、来ない。そう少女が悟った瞬間彼女の意識は途切れ、白い手に導かれるかのように小さな体は奈落の底へ落ちていく――
――◆◇◆―――◆◇◆――
闇の中に二人の男がいる。一人はゆったりと上座に座り、もう一人は冷たい畳の上に頭を垂れていた。
「……の娘が覚醒…と?」
「ええ。……と言ったほうが……です…」
冷たい風が音を奪い、男達が何を話しているのかは正確に分からない。
蝋燭の光りは不安定に揺れ、微かな灯し火は上座に座る男を照らし出す。着崩れた着物の上を流れる闇の色を映した髪。顔は見えないが、逆にそれが威圧感を醸し出していた。
「どのような娘だ」
地の底から聞こえてくるような、低い、声。風が止んだ時、その声だけがはっきりと聞こえた。
「あれは厳密に言うと……。人ですらない。貴方様のような…とは……かと」
跪いている男のほうが僅かに顔をあげ、神妙な顔つきで告げる。その男の表情とは逆に、上座に坐る男の方は楽しげに笑い声を上げた。
刹那、静寂が、風を凪ぐ。
男の声を……聞かせようとでも言うように。
「なるほどな。興味深い。……益々欲しくなった」
月光が、男の顔を照らし出す。その表情はゾッとするほど冷たく―ゾッとするほど美しかった。
血のように赤い舌先で舐める、蝋の様な指。はだけた着物の胸元から覗く、驚くほどに白い肌。妖艶に微笑むその唇はまるで紅い三日月のよう。――三日月は、不自然に引きつった。
闇に浮かび上がる、冷たい双眸。髪と同様に闇の色を映す深い色。
「だが、もしも邪魔するものがあるならば……」
蝋燭の火が夜風に揺れ、唯一の光りは失われた。風は男の髪を巻き上げる。漆黒と漆黒は絡み合い、一つになって融合していく。
そこにあるのはただただ濃密な闇。光りを許さない漆黒。
光が消え蝋燭の煙が漂うのと同じように、ふっと男が呟いた名が漂う。
甘い声で、そっと囁くように――。
――◆◇◆――◆◇◆――
「――っ!!」
ひやりと冷気が、肌を撫でる。
「ゆめ……?」
――いつもの自分の部屋だ。何も、変わらない。飛び起きた少女はそれを確認し、ほうと溜め息をつく。寝巻き代わりに着ていたジャージが、肌寒いのに汗で濡れていた。同じように汗で湿った髪をかきあげる。長く伸ばした髪は、癖も無くストンと元に戻った。
二度寝をしようと眼を閉じたが結局眠れず、少女は起き上がって窓の外をぼんやりと眺めた。幾分まだ暗いが白み始めた空の端が、必死に夜明けを伝えようとしているようで。
――また、あの夢。
関連性は全くないように思えるのに、彼女は昔から二つの夢を一緒に見ることが多かった。その夢を見た後は、昔からろくなことが無い。
一つ目の夢を見た十年前のあの日―――思い出したくもない、記憶。
夢の内容は、起きた途端に忘れてしまう。でも、分かる。また、夢を見たんだ、と。
「怖くない」
自分に言い聞かせるように、ポツリと呟く。その自分の声が、微力ながらに勇気をくれた。
少女は再び溜め息をついて、大きく伸びをした。白み始めた空の向こうから、綿のような白が舞い降りる。降り始めた白綿は徐々に激しさを増し、すぐに猛吹雪になった。季節外れの雪風巻は赤い紅葉を舞い散らせ、虚空の果てまで吹き飛ばす。
共に舞う、不吉なほど、白い―――
少女の肌が、粟立つ。寒さではなく、恐怖から。
「あの…男……」
夢の内容を思い出したのは、初めてだった。
あの妖艶な男が囁くように言った名前。それは―――
千珠神楽
紛れもなく、少女自身の名前だった。
君想ふ華、スタートしました。
駄文ですが、よろしくお願いします。。。