「妬いているだけだろう」と笑う婚約者へ——いいえ、母の薬礼三年分の未払いです。受取の束で信用ごと返していただきます
くすくす、という笑いは、薄い磁器を銀匙で引っかく音に似ていた。リディアは口元を崩さず、膝の上で指を組む。扇の向こうから覗く目が六つ、七つ。無料の見世物にしては、皆さま装いに金をかけすぎである。
「想い人のできた若様に、婚約破棄を申し出たのでしょう? 妬いてしまわれたのねえ」
セシル夫人の茶卓には、季節外れの薬箱が飾られていた。蓋が半分開き、高麗人参が一本、たいそう偉そうに鎮座している。
その高麗人参、蓋に埃が。飲まない薬は、薬礼ではなく調度ですわね。
銀貨五枚。いや、保存が悪いので三枚半。茶卓の砂糖菓子十二個分。リディアの腹は正直にも、その最後の単位にだけ反応した。
「クロード様ほどの方なら、令嬢方がお慕いするのも仕方ありませんわ」
「男の方の少しくらいの気の迷い、笑って許すのが淑女ではなくて?」
「破棄まで口にするなんて。よほど妬いていらっしゃるのね」
含み笑いがまた磁器を引っかいた。リディアは茶を一口だけ飲む。薄い。これで一缶銀貨二枚なら、湯に謝るべきだ。
「お茶が冷めましてよ、リディア様」
「ええ。甘味はまだ温かい心でいただけますけれど」
何人かが目を瞬いたので、リディアは砂糖菓子を一つ取った。返事は取り損ねても、菓子は取り損ねない。そこだけは淑女として譲れなかった。
帰りの馬車を薬舗の前で止めると、煎じ薬の苦い匂いが鼻へ入った。三年前から服にも髪にも染みついている匂いだが、慣れたとは認めたくない。慣れたら砂糖を二割減らせそうで、それは困る。
バルド老は何も言わず、細長い紙へ日付と品目を書きつけた。月ごとの薬礼、銀貨三枚。ほかに往診と煎じ賃。それを受け取ったのが誰か、末尾にはいつも同じ名がある。
リディア・ベルマン。
「今月も、母の薬をお願いいたします」
「切らさん」
バルド老は乾いた指で受取を押し出した。リディアは紙を二つ折りにして懐へしまう。三十六枚目は、砂糖菓子よりずっと軽く、財布よりずっと重かった。
* * *
「妬くな。女の意地で縁を壊すな」
翌日、クロードはベルマン家の客間へ入るなりそう言った。挨拶より先に説諭。帽子より先に脱ぐべきものがあるとすれば、その思い込みだろう。
「わたくしが何を申し上げるか、お聞きにはならないのですか」
「聞くまでもない。君が破棄を望んだのは、僕に親しい女性がいるからだろう?」
言葉の皿に勝手な料理を盛り、さあ食べろと差し出してくる。毒見役が逃げる盛りつけだった。
「母の療養に関する両家の約束を、覚えておいでですか」
「もちろんだ。君の母上を気遣うのは当然だろう。薬代も見舞いの気持ちとして、うちが持つと言った」
「持ってはおりません」
「細かな言い方をするな。家同士で助け合っただけだ」
助け合い。便利な言葉である。助けた側と助けられた側を鍋に入れて煮崩せば、誰が銀貨を出したか見えなくなるらしい。あいにく、受取は煮ても字が消えない。
「支払いは、三年前からわたくしがしております」
「なら、一時的に立て替えたのだろう? いずれ家同士で調整すればいい。そんなことを婚約破棄の理由にするなど、やはり意地になっている」
薬代ごとき、女の未練で片づく話だろう。
クロードの顔には、そう書いてあった。実際、彼にとっては薬代ごときなのだろう。自分で払っていない金は、いつだって羽毛より軽い。
ひと月銀貨三枚、三十六か月で百八枚。往診は十二度、煎じ賃は三十六回。掛けの利息を足し、催促に使った紙と封蝋は——いや、封蝋代まで請求すると小さい女と思われる。百八枚を小さいと扱う男に、小さい女と評価される筋合いはないが。
「金額なら、あとで母上に話しておく」
「十一度、お送りしました」
「何を?」
「お支払いのお願いを。同じ文面で、角が立たぬように」
角を削りすぎて、こちらの指がなくなりそうだった。返事は一度もない。無回答という返答だけが十一通、きれいに並んでいる。
「僕は見ていない」
「では、ご覧にならなかった方を含めてお話しいたしましょう」
「リディア、僕は君のために言っているんだ。今ならまだ、焼き餅で取り乱しただけだと皆にも説明できる」
皆にも。すでに説明済みの口ぶりだった。
リディアは袖の内側で爪を立て、一番高い礼装の値を思い出した。銀糸の刺繍、真珠の留め具、裾直しまで含めれば銀貨二十七枚。着る。勘定を示す日に安い服を選んでは、同情を買いに来た娘に見える。
「両家の方々と、仲人であるセシル夫人にご同席をお願いいたします。お話は、その席で」
「大げさにするな。君は昔から、数字になると頑固だ」
数字は返事をしない代わりに、勝手な想い人も作らない。比較するのも数字に失礼だった。
* * *
「焼き餅で家の縁を壊してはなりませんよ、リディアさん」
セシル夫人は忠告用の声を持っていた。茶会の含み笑いより半音低く、家同士のため、という高価そうな包装紙が巻かれている。中身が空でも、包装紙は立派だ。
「若い方の気持ちは揺れるものです。クロードさんも反省なされば、あなたも水に流して——」
「反省とは、何についてでございましょう」
「ですから、その、心配をかけたことについて」
支払いについて、とは言わない。銀貨百枚を越すと、皆さま急に数を数えられなくなる病にかかるらしい。
隣に座るオディールは、扇の骨を一本ずつ撫でていた。指には大粒の青石。薬礼なら二年分、砂糖菓子なら——やめよう。想像しただけで喉が甘い。
「そもそも、借りた覚えはございません」
オディールは顎をわずかに上げた。
「あれは頂いたご厚意でしょう。ご病気のお母様を抱えたあなたへ、ハルデン家との縁がどれほど支えになったことか。それを今さら勘定にするなんて」
「母の薬礼を払ったのは、わたくしです」
「婚約者の家へ尽くしたのでしょう? 女の意地で、それを借金のように言い換えるものではありません」
頂いた厚意。リディアが差し出し、ハルデン家が受け取り、なぜかハルデン家が施したことになる。見事な煎じ方だ。薬効は皆無、毒性は高め。
セシル夫人が、なだめるように手を重ねた。
「リディアさん。ここで折れれば、誰もあなたを責めません。焼き餅など、若い娘にはよくあることですもの」
リディアは重ねられた手を見た。ここで折れれば、三十六か月まで一緒に折り畳めるらしい。
「いいえ。これは、お気持ちの話ではございません」
リディアはそれだけを返し、同席の日を決めた。オディールの青石には及ばぬ礼装を、きっちり元を取る日にする。
* * *
当日、リディアは銀糸の礼装を選んだ。真珠の留め具は母がまだ立って選んでくれたものだ。鏡の中の顔は青白かったが、白粉代が浮いたと思えば上々。見栄には元手がかかる。だからこそ、回収しなければならない。
両家の話し合いだというのに、セシル夫人は茶会の奥方たちも招いていた。家の縁を案じる証人、という名目らしい。先日まで笑っていた口が、今日は何を値踏みするのか。どうぞごゆっくり。こちらは品物を三年かけて揃えた。
リディアは卓の前へ進み、椅子の背へ指を添えた。裾を乱さず腰を下ろし、革の書類入れを開く。
紙の端を揃える。三十六枚を日付順に重ね、その横へ催促の控え十一枚を置く。最上面には、もっとも古い受取が来るようにした。
クロードが眉を寄せた。
「こんな紙で大騒ぎをして、何になる」
「支払ったものが、支払ったことになります」
「だから、それは君の厚意だろう」
「そう申し上げた覚えはございません」
リディアは束を半回転させ、セシル夫人へ向けた。夫人は扇を開いたまま、最上面の日付へ目を落とす。
三年前。支払者、リディア・ベルマン。
扇が、ぱちりと閉じた。
奥方たちの誰かが息を吸い、誰も次の言葉を引き取らなかった。笑い声は止まると案外小さい。あれほど部屋を占領していたのに、銀貨一枚分の場所さえ残さない。
「三十六枚、すべて同じお名前なの?」
セシル夫人の問いへ、卓の端に呼んでおいたバルド老が短く答えた。
「リディア嬢だ」
「ハルデン家からの支払いは」
「一度もない」
「でも、お願いの文書を受け取っていなかった可能性が——」
「控えは十一枚。文面は同じだ。返事も同じだ」
「同じ返事とは?」
「ない」
バルド老は紙束から手を離した。言葉も金額も足さない。足さなくても、欠けているものだけが卓の中央でよく見えた。
「借りた覚えはございません。あれは頂いたご厚意でしょう」
オディールが紙束へ手を伸ばした。指先が最上面へ触れる前に、バルド老の杖が卓の縁を一度叩く。
「薬礼の勘定だけは、情で丸めん」
オディールの手が止まった。青石が卓上で冷たく光る。二年分。いま数えれば、きっとそう思える。リディアの暗算はきちんと動いていた。
「月の薬礼は銀貨三枚です。三十六か月で百八枚。往診十二度、煎じ賃三十六回、掛けの利息を合わせまして、銀貨百四十七枚と銅貨六枚になります」
「そんな額を、君が勝手に——」
「薬を止めればよかったと?」
クロードの口が閉じた。
リディアは一番古い受取を指で押さえた。三年前のその月、母はまだ玄関まで歩けた。薬舗へ向かう娘に、薄い肩掛けを持たせてくれた。帰れば庭先まで出ていて、遅い、と笑った。
金額が消えた。
銀貨も、利息も、砂糖菓子も浮かばない。ただ日付だけが、指の下にあった。
「わたくしはただ、母に生きていてほしかっただけですの」
声を落とすと、真珠の留め具が呼吸に合わせて一度揺れた。リディアは受取から指を離し、背を伸ばす。
「それを、どなたかへの嫉妬に使われるために支払ったのではございません」
セシル夫人は閉じた扇を膝へ置いた。
「ハルデン様。返済は、いつになさいますの」
呼びかけの向きが変わった。
「夫人、これは両家で——」
「三年でしょう? しかも十一度のお申し出に、一度もお返事をなさらなかった」
奥方たちの視線も、一斉にクロードとオディールへ移る。頬から色が引いていく様子は、薬草の退色より速い。ああ、ようやく値がついた。あの含み笑い全部で、銅貨半枚。お釣りはいらない。
リディアは膝の上で手を組んだまま、口元だけを淑女らしく整えた。勝った、などとは申し上げませんとも。帳尻がこちらへ歩いて戻ってきただけです。三年も道草を食って!
「婚約については、予定どおり破棄いたします」
「待て。こんな騒ぎの中で決めることではない」
「騒ぎにしたのは紙ではございません。皆さまへ、わたくしが妬いて取り乱したとお話しになった方です」
クロードがセシル夫人を見た。夫人はもう扇を開かない。オディールも青石の指輪を隠すように手を握ったが、紙束の日付は隠れなかった。
* * *
「掛けはお受けできません」
乾物屋の主人は、卓に並べた品を一つずつ引き戻した。ハルデン家の使用人が家名を告げても、秤の分銅は動かない。
「これまでは月末払いだったはずです」
「本日から現金でお願いします」
「長い付き合いでしょう」
「長いお支払いがあるお家を、先に大切にいたしますので」
店の戸口にいたリディアは、母のための干し果実を選びながらそのやり取りを聞いた。噂は足が速い。ただし今回は、足元に三十六枚の受取を履いている。転ばない噂は強い。
その日のうちに、呉服屋も薬舗も、ハルデン家へ現金払いを求めた。味のない薬は一包で効く。
「薬礼の件をご存じ?」
後日、別の茶会でセシル夫人がそう切り出したという。主語はもう、妬いた娘ではなかった。
三週間後、ベルマン家へ銀貨箱が運び込まれた。ハルデン家の家令が卓上で蓋を開け、リディアは一枚ずつ数えた。元金、往診代、煎じ賃、利息。百四十七枚と銅貨六枚。数字は気持ちと違い、足りなければ音でわかる。
「確かに、全額ございます」
家令の肩がわずかに落ちた。オディールの伝言も、クロードの詫びもない。結構。銀貨箱に入らないものは、こちらも受け取る気がない。
リディアは利息の一部を小袋へ移し、その足でバルド老の店へ向かった。老薬師は袋を見ても手を出さない。
「待っていただいたお礼です」
「待ったのは金じゃない。おまえさんの母親の具合だ」
「では、薬を切らさなかったお礼です。これはわたくしの意思でお渡しします」
バルド老はしばらくリディアを見たあと、小袋を受け取った。情と勘定を混ぜない男は、礼まで断って相手の顔を潰すほど野暮でもない。実に高級な無愛想である。
その代わりのように、作業台へ三つの薬材が置かれた。
「見ろ」
「試験でございますか」
「目があるなら、使え」
見た目は似ているが、一本は切り口が乾きすぎている。もう一本は香りが弱く、保管中に湿気を吸った跡があった。残る一本を折れば、芯の色が均一で香りが立つ。
「こちらです。二つ目は買値の半分でも高うございます。最初の一本は煎じ時間を延ばしても、母には使いません」
「理由は」
リディアは切り口を示し、香りと乾燥具合を答えた。バルド老は次に小鍋を渡す。火を強くすれば早いが、薬効まで湯気に乗って逃げる。急ぐ客ほど薬を焦がす。人の焦りまで煎じてどうするのだ。
細火で時間を測り、色が深くなりすぎる前に布で漉す。バルド老は一口含み、顔をしかめた。
「まずい」
「薬ですもの」
「甘くするなよ」
「母の分にはいたしません。わたくしの葛湯には砂糖を入れます」
「聞いてない」
その日から、リディアは店の奥で薬材を選び、煎じ方を客へ伝えるようになった。最初に相談を持ち込んだのは、茶会にいた奥方の一人である。扇の代わりに薬包を持ち、代金を先に卓へ置いた。話が早い。信用とは、こういう音がするらしい。銀貨二枚、澄んだ音。
母に合う煎じ方を三年試してきたことが、そのまま仕事になった。乾き具合を見て仕入れを断れば損が減り、季節ごとの分量を変えれば客が戻る。値段に換えずにはいられない癖が、とうとう堂々と金を生み始めた。癖よ、よく育った!
「代金を受け取れ」
バルド老は新しい受取綴りを作業台へ置いた。月ごとに彼が切ってきたものと同じ紙、同じ幅。けれど末尾の空欄には、まだ誰の名もない。
「わたくしが?」
「働いた者が切れ」
リディアはペンを取った。薬材、煎じの相談、受取額。最後に、自分の名を書く。
リディア・ベルマン。
支払う側として三十六度見た名前が、初めて代金を受け取る側に立った。インクが乾くまでのわずかな時間さえ惜しく、彼女は頬が緩むのを止められなかった。
初報酬で買うものは決まっている。葛湯、蜂蜜、干し果実。それから砂糖を惜しまない焼き菓子。苦い薬の匂いへ、正面から殴り込みをかけられる甘さがよい。
* * *
「気持ちの行き違いだった」
薬舗を出たところで、クロードが待っていた。以前より襟元がくたびれて見えるのは、呉服屋が現金を求めるせいかもしれない。服一着分。いけない、元婚約者まで値踏みしてしまった。しかも安い。
「君も、あの場では感情的になっていた」
「わたくしが、でございますか」
「母上も言い方を誤った。僕も、君があれほど負担していたとは知らなかった。だが、知らされていれば違ったんだ」
十一度。リディアは口には出さなかった。出す価値も、もうない。
「僕たちは長い付き合いだ。君だって、すべてを捨てたいわけではないだろう?」
「婚約はすでに破棄されております」
「やり直せる。僕の気持ちは変わっていない」
「どのお気持ちでしょう」
「君を大切に思っている。今度こそ話を聞く。母上との間にも僕が入る。だから、意地を張らずに——」
クロードは気持ちを積み上げた。大切、後悔、行き違い、昔からの縁。どれも銀貨箱へ入れて振れば、音がしない。
「いいえ。これは、お気持ちの話ではございません」
リディアは焼き菓子の包みを抱え直し、彼の横を通り過ぎた。呼び止める声は追ってきたが、足は止めない。菓子が冷める。元婚約者より重大事である。
母の部屋には、今日も薬の苦い匂いが満ちていた。ソフィアは枕へ背を預け、娘の大きな包みを見て目を細める。
「ずいぶん、買ったのね」
「初めてのお代をいただきましたので。祝い事は砂糖を惜しむな、と古い教えにございます」
「誰の教え?」
「たった今、わたくしが作りました」
リディアは小卓へ皿を二枚置き、焼き菓子と干し果実を並べた。蜂蜜を落とした葛湯から甘い湯気が立ち、薬の匂いを少しずつ押し返す。
「薬より高いのではない?」
「まさか。薬礼ひと月分で、この菓子なら十四包みと半分です」
「半分まで数えたの」
「半分は大切ですわ」
ソフィアは焼き菓子を一つ取り、ゆっくり二つに割った。大きいほうを娘の皿へ戻す。
「働いた人に」
「お母様も、薬を飲むという大仕事をなさっています」
「では、半分ずつ」
リディアは言い返さず、大きい半分を口へ入れた。ほろりと崩れた生地から、砂糖と蜂蜜の味が広がる。三年間、舌の奥に居座っていた苦みが、今日だけ少し場所を譲った。
「砂糖は薬より効きますのよ。少なくとも、今日のわたくしには」
それから彼女は、鞄から一枚の受取を出した。まだ新しいインクの匂いがする、最初の一枚。
「見てくださいませ。わたくしが切りましたの」
ソフィアは紙を両手で持ち、末尾の名を指でなぞった。値段を尋ねず、娘の皿へ残りの干し果実を二つとも載せる。
リディアは一つを母の皿へ戻した。半分は大切だ。受取の上では、自分の名がきちんと乾いていた。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




