第92話 巨大ワニ
いつからだろうか、いくら酒を飲んで酔っても、心臓がつぶれるような痛みがなくならなくなったのは。
サトウキビの蒸留酒、カシャーサの入ったグラスを傾けつつ、朱雀院彩華はそう思った。
我が子が石になってしまった悲しみを癒すために飲み始めた酒。
最初のころは泥酔すればいっときだけでも心の痛みを消すことができた。
だが、いつしか、酔いすら彩華を救わなくなってしまった。
グラスの中身を飲み切ると、彩華はグラスをセーコに向けて差し出す。
セーコがビンに入ったカシャーサをそのグラスに注ぐ。
彩華はそれをクイッと傾け、一気に喉へと流し込む。
そして、ふとあることに気が付いた。
「あら……Engolidorスライムの霊力が消えたわあ……やるわね、あのニンジャ」
「どうしますか? モンスターを向かわせますか?」
「いいえ。Engolidorスライムといえど、しょせんはスライム。こういうこともあろうかと、すでにポポカ・ジャカレを向かわせているわ」
「ポポカ・ジャカレ……?」
「そう。ポルトガル語で『灼けつくワニ』の意味よ。ふふふ、そんじょそこらのドラゴンより強いわよお……S級探索者一人じゃどうしようもないでしょう。これであのニンジャは片付いたわ。ワニに食われるか、その先に逃げて焼け死ぬか……。ふふふ……」
★
その巨大なワニを見た瞬間、トメは死を覚悟した。
3メートルの幅がある通路には大きすぎるほどの巨大さ。
トメからは、もはやワニの大きな口の中しか見えないほどだった。
――これは、勝てない。
あまりにも凶悪な、禍々しいオーラを感じる。
トメが今まで出逢ってきたモンスターの中でも、レベルが違うほどの魔力を感じた。
こいつ相手では、滅魔吸引器など、なんの役にも立たないだろう。
そう直感するほどだった。
「くそっ!」
巨大なワニ――ポポカ・ジャカレが来る方向と反対の方向へ、トメは駆け出した。
ポポカ・ジャカレは、吠えもせずにトメを追いかけてくる。
ドスドスドス、という鈍い足音だけが聞こえる。
幅3メートルの通路はポポカ・ジャカレにとって狭すぎた。
それでもポポカ・ジャカレは通路の壁を壊しながら走り続ける。
壁が豆腐でできているかのように崩れていく。
ポポカ・ジャカレの力に耐えかねたのか、床の石材すら壊れていく。
その影響か、ポポカ・ジャカレの向こう側の天井が崩れ落ちた。
もはや、トメは下り坂の向こうへと走るしかなかった。
全速力でポポカ・ジャカレの追撃から逃げ続ける。
だが、いつまでたってもポポカ・ジャカレはあきらめることもなく、ずっと追いかけ続けてくる。
十分走ってもまだ追いかけてくる。
マナの影響で強化されているトメの心肺機能でさえ、限界がやってきた。
トメの身体全体が、酸素不足を脳に訴えかけてくる。
その脳ですら酸素が足りない。
トメの目はかすんできて、すぐ前すらよく見えなくなってくる。
あの巨大ワニはどこまで追ってきているだろうか?
すぐそこにいるのだろうか?
振り向くことすら怖い。
「くそ、くそ、くそ!」
トメは腰にぶら下げた予備のカプセルに手をやる。
そして、そのカプセルの留め具を外した。
「これが私のとっておきだっ!」
カプセルを背後に向け、そのフタを取る。
その瞬間。
カプセルから、何かが発射された。
零那が地上に出ていたあいだ。
トメはなにも準備をしていなかったわけではなかった。
羽衣に頼んで、五芒星による攻撃を(手加減して)発射してもらい、それを掃除機で吸い込んでいたのだ。
それも、エネルギーに変換する方式ではなく、そのものの『あり方』を変えないモードで。
カプセルの中から、光り輝く五芒星が4つ、放出された。
まさに、羽衣の攻撃力を自分の物にする工夫だった。
それはヒュンヒュンと回転して巨大ワニ、ポポカ・ジャカレへ向かって飛んでいく。
そして、大きく口を開けたポポカ・ジャカレの顎へと突き刺さった。
トメは必死に走り続けていたのでその光景を見ることはできなかったが、ポポカ・ジャカレの青黒い血が噴き出て、ポポカ・ジャカレは痛みに首を振った。
ポポカ・ジャカレの上顎や下顎に突き刺さった五芒星は、まるで電動の丸ノコのようにその場で回転し続け、肉を割き、骨まで達する。
「グオオオオオンッ!」
やっとポポカ・ジャカレの足が止まった。
苦しそうにクビを振り、前足で五芒星を取り除こうとしている。
五芒星の回転は時間とともにそのスピードを緩めていき、ついには停止した。
そして、スゥッと空気に溶けるように五芒星が消え去る。
トメは、羽衣の全力を吸い込めたわけではなかった。
試そうとしたが、やはり掃除機が故障しそうになった。
だから、羽衣の力そのものではなく、その一部分にすぎなかったのだ。
だがそれでも、ポポカ・ジャカレにある程度のダメージは与えることができたようだった。
「グガァァァァッ!」
ポポカ・ジャカレが怒りの咆哮をあげる。
しかし、その間にトメはワニとの距離を開けることに成功していた。
――このまま……逃げ切る!
そしてついに、通路の終わりまで近づく。
そこには赤い光が見えた。
だが下り坂を全速力で走ってきたのだ。
足が言うことを聞かない。
「くそ、止まれないぞ!」
ついに。
トメは通路を抜け出した。
通路の出口は、数百メートル四方はあろうかという巨大な部屋にあいた、横穴だった。
地面から二十メートルほどの高さの横穴だ。
出口から飛び出たトメの身体は宙に浮く。
空気が熱い。
息を吸うとその熱が肺を焼くような感覚がした。
肌が露出している顔の部分が、チリチリと熱さで焼ける。
すべての景色が熱による陽炎でユラユラと揺れていた。
そして、トメの視界に入ったのは。
その部屋の地面だった。
いや違う。
地面など、なかった。
なぜなら、部屋の床があるはずの場所は、赤黒く煮え立つ溶岩でできていたのだ。




