第88話 罠
漆黒の修道服、手には歪んだ十字架。
朱雀院彩華に違いなかった。
彼女はこちらに向かって歩いてくる。
もう10メートルの距離まで来た。
零那は錫杖を握りしめる。
「虹子さん、トメさん、下がってて!」
言われた通り、虹子とトメは零那と羽衣の後方に下がっていく。
ヤミはトレーラーの荷台で毛布をかぶって隠れた。
どうしよう、このまますぐに戦闘に入った方がいいのかしら、と零那は逡巡する。
だけど零那からすると、状況証拠はそろっているとはいえ彩華がすべての黒幕だと確信に至ってはいなかった。
羽衣もチラチラと零那の顔を窺っている。
でも、この距離からでも怖気を感じさせる霊気……間違いなく、こいつは朱雀院彩華本人だ。
彩華はこちらに気づいていない風に、巨人の死体を避けてくる。
いや、これだけの霊気を発している人間がこの距離で零那たちに気づいていないわけがない。
演技しているのだと思った。
焼けこげた巨人の顔を、不安そうな顔で見ながら歩いてくる彩華。
大した役者ね、と零那は思った。
〈なんで朱雀院彩華がここに?〉
〈ここ、地下8階だぞ?〉
〈どういうことだ?〉
まったく状況のわかっていないコメント欄には疑問符が並ぶ。
薄暗い通路を歩いてきた彩華は、零那に気づくとビクッと身体を震わせ、そしてパッと表情を明るくした。
「あらあ? 山伏さんじゃない! よかったわあ。私、ここで迷っちゃって……」
すぐ目の前、数メートル先で立ち止まり、そう言う彩華。
「……彩華さん、こんなところで何をしているんですか? 迷った? 迷ってこられるような場所じゃないわよね?」
零那は警戒を解かずに聞く。
「そうなのよお。私、地下4階から地下5階に行こうとして……。ずいぶん長い階段ね、とは思ったけど、気が付いたらここに迷い込んじゃったの。地図アプリを改ざんされたみたい……」
「地図アプリを改ざん?」
零那が聞き直すと彩華はうなずいた。
「ええ、どこかでハッキングされたのかもしれないわねえ。ひどいことをする人間がいるものだわあ。確か、そこの虹子ちゃんも同じ目にあったのよね?」
「虹子さん、答えなくていいわ。私が話す。……地図アプリの改ざんはあなたの仕業じゃないと言いたいの?」
「はあ? 私の仕業だって言いたいのお? なにを言ってるの? あなたたちこそ、こんな地下深くでなにをしているの?」
「野暮用があるのよ……。それも、あなたにね。いろいろ聞きたいわ」
「私に用? 聞きたいことって、なに?」
「まず一つ目。迷って困っていた割には、私たちに近づいてこないじゃない。虹子さんなんか私の指に吸い付いてきたわよ。なんで近くに寄ってこないの?」
「だって、あなたたちが本物かどうかわからないもの……。本物だったとしても、モンスターに操られていたり幻覚を見せられていたりするかもしれないし。……まさかとは思うけど、私の事、昆虫に見えてたりしないわよねえ?」
それを聞いて羽衣が錫杖を握りなおして腰を落とす。
それを手で制しながら零那は言った。
「ちゃんと人間のシスターに見えているわよ」
「そうよねえ、特SSS級の山伏さんがまさかモンスターに幻覚見せられるわけ、ないものねえ」
チッ、と羽衣が舌打ちをする。
羽衣の舌打ちなんて、零那は初めて聞いた。
よほどあの時のことが悔しかったのだろう。
モンスターに操られて実の姉に攻撃をしかけたのだ。
羽衣にとって屈辱だったに違いない。
「……彩華さん、あなたがこんなところにいるなんて、どう考えてもおかしいわ……」
「ここ、地下8階でしょお? あなたたちがここにいるのもおかしいわよお」
「私たちは目的があって地下20階を目指しているわ。でも、あなたは……」
「待って。山伏さん、よく考えて。これは罠よ」
「罠?」
「そう、私たち、罠にかかっているの。ダンジョンでは、なにが起こってもおかしくない……。だから、そうね、これを見て」
彩華は歪んだ十字架を零那に指し示す。
「…………なに…………?」
零那は十字架に注意を向けた。
それが致命的なミスだった。
後方で、ガコン、と音が鳴った。
だが後ろを振り向けば、その隙に彩華がなにをしてくるかわからない。
だから、すぐには振り向けなかった。
それもミスとなった。
羽衣だけが後方を振り返り、そして叫んだ。
「虹子さん! トメさん!」
虹子が立っていた場所。
その床が突然、消え去ったのだ。
「は?」
零那たちから距離をとって後方にいた虹子も、彩華に気を取られていた。
そのせいで、虹子はなにひとつ抵抗できないまま、床に突然空いた穴に吸い込まれるようにして消えていった。
虹子を追尾するように設定されているドローンもそのまま穴に吸い込まれていく。
さらにはそれと同時に、トメが立っていた場所の天井から、スライムのような粘液状のものがドロッと流れ落ちてきたかと思うと、瞬間的に現れ出てトメの全身を包み込んだ。
「ガボッ」
トメの吐いた息がスライムの中で泡となって浮かんでいく。
羽衣がトメに向かって駆け出す。
だが、さきほど霊力を使いすぎたせいで足がもつれ、まったく間に合わない。
トメを包み込んだスライムは、そのまま天井に開いていた穴に逃げ込んでいく。
ガコ、という音を立てて天井の穴が閉まる。
「セーマン!」
羽衣が光の五芒星を天井に向けて発射する。
それは天井の石を破壊し、破片が床に散らばるが、しかしトメの姿はもうどこにもなかった。
「やっぱり、こういうことが起きるのよねえ! あらあ、私も罠にひっかかりそうな予感がするわあ!」
彩華がそう言った瞬間、今度は彩華が立っている場所の床が開いた。
そして、彩華の姿もその落とし穴から床の中へと消えていった。
カコォン、という軽い音とともに、開いた床が再び閉まった。
残されたのは零那と羽衣、そして自転車とトレーラー、トメが使っていたキックボード。
トレーラーの荷台で、毛布をかぶっていたヤミがチラッと顔を出して言った。
「え? あれ? なにがどうなったの?」
零那は自分の顔からさぁっと血が引いていくのを感じた。
同じく真っ青な顔をしている羽衣と目を合わせる。
「…………やられたっ!」
そう、最初から彩華の狙いは虹子とトメだったのだ。
〈ああ!?〉
〈いきなり3人が消えた〉
〈え、あれ、これで終わり?〉
〈朱雀院彩華が登場したらすぐ死んだ〉
〈みんな死んだの?〉




