第82話 花嫁
不思議な光景だった。
人間がダンジョンに潜れば、かならずモンスターが襲ってくる。
そういうものだったはずだ。
でも。
モンスターはみな彩華に好意的に接してくるのだった。
彩華が歩を進めるここは、沼垂ダンジョン。
その地下深くを、修道服を着た彩華が歩いていく。
その修道服は、自らを精霊にささげるための法衣である。
黒を基調として、目に刺さるほど鮮やかな赤い縁取りがされてある。
そして子宮を守るための真っ赤な腹帯、腰にはエシュにささげるためのサトウキビ酒と葉巻の入った麻のポーチ。
武器や防具はなにも持っていない。
しかし、それでよかった。
奇妙なことに、ダンジョン内のモンスターはどれも彩華に襲い掛かってこないのだ。
地下六階でアルマードベアが現れた。
しかしそいつは、彩華を襲ってくるどころか、まるで案内するかのように彩華の前方を歩く。
ちゃんとついてきているか時折振り向きながら、彩華を先導していくのだ。
彩華はそれについていくだけでよかった。
地下十階、全身から体毛のように蛇が生えている人型のモンスターと出会ったが、もちろん彩華に手出しはしない。
地下十五階、巨大な甲虫が、地面を這いずっている。
カブトムシのような見た目だが、その目は哺乳類のようで、ぎょろっと彩華をにらむ。
その身体にはゲジゲジのような虫が大量にまとわりついている。
甲虫はすぐに彼女がなんなのか気づいたようで、目を伏せ、
「ハナヨメ……キタ……ヨロコバシ……」
と人間の言葉で呟いた。
その声は重低音で彩華の胸にズシンと響いた。
このダンジョンにいるすべてのモンスターが彩華を歓迎しているようだった。
人類の中でも、非常に稀なほどの才能を持つ少女が、神のメッセンジャーであり精霊であるところのエシュへ嫁入りにきたのだ。
わずか17歳の彩華は、自分が精霊に選ばれていることを誇らしく思い、胸を張ってダンジョンを進んでいく。
モンスターと闘う必要のない探索行。
それでもダンジョンは広い。
持ってきていたチョコバーをチビチビかじりながら、彩華は歩き続ける。
ダンジョン内に満ちるのはマナ。
人間に特殊能力を与えてくれる、不思議な物質。
それが今は、彩華に無限の体力を与えてくれていた。
疲労は感じない。
それどころか、感謝と幸福の念で彩華は高揚していた。
ほとんど眠ることもなく、彩華は三日三晩歩き続ける。
そして。
ちょうど彩華が18歳になったその日。
彼女はついに地下20階へとたどりついた。
そこは大きな広間があって、異形のモンスターたちが居並んでいる。
皆彩華を見つめていた。
モンスターたちが道を開ける。
まさにバージンロードであった。
その先にいるのは、光輝くなにものか。
まぶしくてよく見えない。
いや、あふれ出てくる涙のせいか。
「エシュ様……」
感動と感激の涙が彩華の頬を濡らし続ける。
一歩、一歩、踏みしめながら彩華は歩いていく。
彩華の心の中に、直接声が聞こえた。
『よく来た、我が子を産むものよ……』
「エシュ様……」
光の中から、黒と赤が混じりあった色の光の束のようなものが伸びてきて、彩華の腰に巻き付いてきた。
「エシュ様、どうぞあなたのお子を……私にください……」
彩華の身体は光の束に持ち上げられ、そして光の中へと連れていかれる。
――なんてすばらしいの。私はエシュ様に認められた……。私の身体は、私の子宮は、あなたさまのためにあるのです……。
そして彩華は恍惚の感情に包まれ、あとはよく覚えていない。
★
神との交合のあと、彩華はそのまま地下20階にとどまった。
衣食住には困らなかった。
モンスターがどこからか持ってくるのか、いろいろなものが準備されていた。
実際はモンスターたちが探索者から奪ったものであるが、彩華はそんなことは知らない。
さらには、マクンバの信者たちがエシュと彩華への捧げものとしてダンジョンに置いていったものを、モンスターたちが回収してきたものもあった。
儀式に必要なロウソク、サトウキビの蒸留酒、葉巻、壺……。
すべてが揃った。
専用の小さな部屋にはベッドがなかったが、スライムに固定の魔法をかけて寝床にした。
生暖かくて、それなりに寝心地が良かった。
彩華は欠かさず三度の食事を摂り、スライムでできたベッドで眠り、起きているあいだはエシュへの祈りを捧げ続けるだけでよかった。
エシュの子種が確かに自分の体内に命として宿っている、という確信があった。
その確信のとおりに、おなかは日に日に大きくなっていく。
出産まで、一か月とかからなかった。
そして、ついにその日が訪れる。
2003年2月22日、未明。
繰り返しやってくる陣痛、その間隔がどんどん短くなる。
彩華はタオルを食いしばり、痛みに耐え続ける。
ひときわ大きな陣痛がきて、ああ、神が産まれる、と彩華は思った。
スライムのベッドの上で、異形のモンスターたちが見守る中、いよいよ出産が始まったのだった。
華奢な体格の彩華にとって、それは命がけの行為だった。
だが、その激痛や苦しみは神と精霊にささげられるものなのである。そう思えば、痛みすら喜びと思った。
そして。
ついに、彩華の膣口から赤ん坊の頭がゆっくりと出てきた。
モンスターの手は借りず、彩華は苦痛に顔をゆがめながらも、自らの手で赤ん坊を引きずり出した。
血がベッドのシーツを真っ赤に染める。
老婆の言葉が一瞬頭をよぎった。
泥が産まれてきたらどうしよう……?
しかし、生まれてきたのは、泥ではなく人の形をした赤ん坊だった。
それも、羊膜に包まれたまま産まれてきた。
羊膜の中には羊水が満ちており、赤ん坊は破水することなく、羊水に抱かれながら産まれてきたのだ。
彩華は知らなかったが、これは被膜児とか幸帽児とか呼ばれる、非常に珍しい現象であった。
やはり神の子だ、とだけ思った。
気を失いそうな痛みに耐えながら、彩華は自らの赤ん坊を胸に抱いた。
そしてやさしく羊膜を破る。
羊水が流れ出る。
小さな身体、小さな手、小さな足、間違いなく生きている。
赤ん坊という名前のとおり、くしゃくしゃの真っ赤な顔をしている。
柔らかくて暖かい。
あら、女の子ね、と思って、思わず笑みがあふれた。
嬉しさで胸がいっぱいになる。
泥ではなく人間を産んだ。
やはり私は奇跡の子だったのだ。
そしてこの子は神の子だ。
喜びとともにそっと我が子を抱きしめる。
だが。
すぐに異変に気付いた。
赤ん坊は泣き声を上げる前に動きを止めた。
そして、ゆっくりとその皮膚が変色し始めたのだ。
「……え、なにこれ……!?」
赤ん坊は薄く目を開け、そして彩華の顔を見ると、口を少し開けた。
「泣いて! 赤ちゃん、泣いて!」
だが、赤ん坊は産声をあげることはなかった。
そのかわり、ピキ、ピキ、という音が聞こえてきた。
赤ん坊の全身がゆっくりと灰色の皮膚へと変わっていき、やわらかかった肌も、ざらざらとした感触へと変化していく。
「やめて! やだ! やだ! やだ! やだ! あなたは神の子なの! 私は聖母になるの! 死なないで! 死なないで! お願い!」
彩華の絶叫もむなしく。
母の腕の中で、神の子は石の赤ん坊へとなり果てたのだった。




