第69話 ヤミバイト⑥
階段は苔むしていて、転ばないように降りるのが大変だった。
私は壁に手をつきながら、ゆっくり、一歩一歩確実に降りていく。
ずいぶん長い階段だ。
地下五階へたどりつくはずだけど、地下五階ってすごく天井が高いんだろうか?
だからこんなに階段が長いのかな?
やっと地面にたどりつく。
「ずいぶん降りてきたよね……。天井はそんなに高くないけど……?」
さっき見た地図アプリによれば、すぐそこにセーフポイントがあるはず。
歩き始めると、その場所は十字路の真ん中だった。
「あれ? ここだよね……? 間違いないよね……? 地下五階の……ここ……。あれ?」
もう一度地図アプリを見る。
表示されているのは。
『地下六階』
の文字。
さっき見た地下五階の地図とは全然違う場所だった。
「あれえ!? なんで? なんで? え、嘘!」
ヤバい、なにかを間違えたんだ!
すぐに引き返さなきゃ!
そのとき。
「グフォッ、グフォッ、グフォッ!」
私の背後から、なんだか奇妙な声が聞こえてきた。
私はゆっくり、とてもゆっくりと後ろを振り向く。
そこにいたのは。
大きくて真っ黒に黒光りする毛に覆われた大男……。
いや違う。
これは……。
最初、熊かと思った。
でも違う。
もっともっと大きい。
体長は4メートルもあるだろうか。
真っ黒な毛に覆われた巨体、鈍く光る赤い巨大な爪、感情を感じさせない目、そして大きな口。
その上、頭部からは禍々しい形をした四本のツノが生えている。
ライセンスを取るときのモンスター研修で私は知っていた。
アルマードベアと呼ばれる、熊のモンスターだった。
危険レベル4。
S級の探索者ですらかなわないレベルの、凶悪なモンスター。
戦闘経験ゼロのE級が、どうこうできるものではなかった。
身がすくんで動けない。
声も出ない。
そんな私に、アルマードベアは冗談みたいに太い腕をふりかぶり、一気に私を殴りつけてきた。
その一撃をよけるなんて私にできるはずもない。
なすすべもなく私は壁に叩きつけられた。
本当なら、その一瞬で私の身体はグチャグチャになって人生終わりのはずだった。
だけど、そうはならなかった。
壁に叩きつけられ、そのまま床に落ちてぶざまに横たわる私。
「……あれ? でも全然痛くない……」
彩華さんが私にかけてくれた防御魔法のおかげだった。
私の全身を硬い膜のようなものが覆っていて、ダメージを完璧に防いでくれていたのだ。
そんな私を見たアルマードベアが駆けよってきて、さらに私を殴りつけてくる。
一発、二発、三発。
普通ならミンチ肉になるような攻撃。
でも、彩華さんの防御魔法によって全然痛くなかった。
「すごい、この魔法! 無敵じゃん!」
とは言っても、状況はよくなっていない。
相手の攻撃が通じないのと同時に、私もアルマードベアを倒す方法を持っていなかった。
「とにかく、逃げなきゃ!」
私は起き上がり、全速力で駆け出す。
どう考えても逃げ切れるはずもない。
4メートルもある熊のモンスターよりも速く走れるはずもないのだ。
だけど。
アルマードベアはこれを本気の狩りじゃなくて、遊びかなにかだと思っているようだった。
実際、遊んでいるのだろう。
私に追いつくと大きな爪でチョンと背中を押してくる。
ほんとならそれすら致命傷になるところなのだろうけど、彩華さんの防御魔法のおかげでそうはならない。
ただ、怖いことには違いがない。
「ひぃぃぃっ」
私が悲鳴を上げると、アルマードベアは、
「グフォ、グフォ」
と笑い声のような鳴き声を上げてその場に少しとどまり、また私を追いかけてくる。
猫が食べもしない鳥を狩るのと同じ気持ちなのだろう。
私はもうパニック状態だった。
全身を恐怖の感情が襲い、脳みそがカッカッと熱くなって、もう何が何だかわからない。
人生で出したことのないほどの全力で私は走り続ける。
限界を超えたスピードで心臓が跳ねる。
息が苦しい。
目が回る。
もうなにがなんだかわからない。
足の感覚がなくなって、もう自分の足かどうかもわからなくなる。
走っていくと通路のドアが目に入った。
もうなにも考えられず、ほとんど無意識で、しがみつくようにドアノブをひっつかむとドアの向こう側に入った。
バタンと私の背中でドアが閉まる。
でもこんなドア、アルマードベアの力ならあっというまに壊されてしまうかもしれない。
逃げなきゃ。
もっと逃げなきゃ。
もつれる自分の足を見る。
もうピクリとも動いてくれない。
それでも逃げなきゃいけない。
私は無言でバチバチと太ももを叩く。
やっと足の感覚が戻ってきて、無理やり持ち上げてさらに前へと進む。
パッと顔を上げる。
ああ、ダメだ、と思った。
部屋は狭く、今入ってきたドア以外に出口がない。
もう、ダメだ。
逃げ場がない……。
その時、部屋の中にモクモクと煙が巻き起こった。
どこかで嗅いだことのある匂い……。
そしてすぐにそれがタバコの匂いだと気づいた。
タバコの煙はあっという間に部屋に充満する。
もう前が見えないほどだ。
幻覚でも見ているのだろうか、と全力疾走のせいで酸素不足になった脳みそで考えていると。
煙の向こうに、人影が現れるのが見えた。
だんだんと煙が晴れていく。
そこには、誰かがいた。
真っ黒な修道着に身を包んだ女性。
火のついた大きな葉巻を片手に持っている。
私は叫ぼうとして、でも肺はもはや声を出せるほどの力も残ってなくて、それで私の喉からはしゃがれた音しか出なかった。
「ああかひゃん……」
彩華さんだった。
そこには、彩華さんがいつものように優しい笑みを浮かべて立っていた。
「よかった、たしゅ、たしゅけ、たしゅけ……」
「うふふ。よくやったわね、深夜ちゃん。ここまで来てくれてありがとう」
「ふーふー、ひーひー、彩華しゃん、熊、熊が……」
「もう大丈夫よ。すぐに楽になるわあ。ふふふ。自分の足でここまで来るのが重要なのよお。無理やり連れてこられてもエシュ様は喜ばない。自らの足で、それも一人で身を捧げに来るのが重要なのよお」
「にゃ、にゃにを……?」
彩華さんは葉巻を口に咥えて吸うと、多量の煙とともに息を吐いた。
「ふー。葉巻の煙はね、エシュ様を呼ぶ儀式。そして、あなたは自らの足でここに来た」
「ふぇ? 彩華しゃん、たしゅけて……」
「そう。助けてあげるわあ。人類をね。あなたは言うなれば、エシュ様に自らを捧げる尊い人柱。あなたはすごい魔力の才能を持っているのよお。なればこそ、エシュ様のお力になれる。ここから先は、エシュ様の御使いどもが、あなたをエシュ様の元へと連れて行ってくれるわ」
そして、彩華さんはもう一度葉巻を吸い、煙を吐く。
ニコッと魅力的な笑顔を私に見せてから、パチンと指を弾いた。
途端に、私の背後のドアがバンッ! と大きな音を立てて開いた。
「ほうら、あなたの胸に刻まれた目印が、エシュ様の御使いたちを呼んでるわ……」
騙された。
騙されていたのだ。
私は彩華さんに騙されて、ここまで連れてこられた。
そして……。
私は後ろを振り向く。
そこにいたのはアルマードベアだけではなかった。
もっと大きな猿の化け物、そして全身から蛇が生えている人型のなにか、さらには三つ首の大きな犬……。
よくわからない。
わからないまま、たくさんのモンスターが私に襲い掛かってくる。
アルマードベアが私の腰に噛みついてくる。
巨大な熊の顎ががっちりと私の胴体に食いつく。
「大丈夫よお。さっき、あなたに最強の防御魔法をかけてあげたでしょお? うふふ、だから、あなたはすぐには死なない。生きたまま、エシュ様に召しあがってもらうの。あなたの魔力を得たエシュ様はさらにお強くなるわ……」
アルマードベアは、私の小さな身体を咥えたまま走り出す。
まるで骨を咥えた犬のように。
「じゃあね、バイバイ、深夜ちゃん。ありがとうね」
やだ。
やだやだやだ。
死にたくない。
食べられたくない。
やだやだやだ。
私の身体はアルマードベアによってどんどん地下深くへと運ばれていく。
やだ。
もっと、かわいい洋服を着たい。
もっとかわいいバッグがほしい。
怖い。
なんで。
なんで?
お金。
45000円。
私の値段。
まだ、今日の分をもらってない。
もうすぐお母さんの誕生日。
なにか買ってあげようって。
やだ。
死にたくない。
やめて。
学校。
友達の顔。
今度、カラオケに行こうって約束した。
やだ。
やめて。
将来はショップの店員になりたい。
おいしいもの食べたい。
お肉。
受験。
東京の大学に行きたい。
憧れの一人暮らし。
いつか、素敵な恋人。
お母さん。
お母さん。
お母さん。
ごめ
やだ
いた
たしを ふうに
痛い
イタ
やめ
おかあさ
ごめ
いたい
焼けて
もうない
わた の んぞう
あさん
おわ
おわ
おわり。




