突風
『高校は大丈夫そうか?』
電話越しの声。この心配そうな声の主は父親だ。あの時だって帰って来さえしなかったのに声だけはこんなにも優しい。
「うん、明日が高校の入学式。下宿先にも少し慣れてきたところ」
『そうか、楽しそうでよかったよ。入学式いけなくてごめんな』
「いいよ。仕事なら仕方ないし、父さんが稼いでくれてるから学校にだって行けるんだから」
『ありがとう。高校生活がんばれよ』
「うん」
その最後の返事を聞くか聞かないかのタイミングで電話はプツリと切れた。
僕が味覚障害を患ってから、父親は電話越しでは優しくなった。そして、それと同時に帰ってくる頻度はあからさまに減った。表向きだけは優しいその態度が柔らかい綿で首を締め付けられているみたいに苦しかった。
僕の家はいわゆる父子家庭というやつで僕の母親は中学2年の時に交通事故で亡くなった。
父は単身赴任で国内外を走り回って仕事をしている。母が亡くなってから、僕は実質一人暮らしのような生活をしていたが、『借りていたアパートでは高校が遠い』という理由で父は僕を下宿させることに決めた。
本音は味覚障害となった僕の食生活を心配してのことだろうけれど、やはり父はそのことには触れようとして来なかった。
__はぁ。
携帯電話をベットに投げ捨てそのまま自分も横になる。
下宿と言ってもアットホームな昔ながらのものではなく、食事を取る場所が一緒だったり、ランドリーが一緒だったりというだけでアパートでの一人暮らしに近い。
誰かと仲良くなるにしても、こういう場所では食事が1番のコミュニケーションの場となる。食事を楽しめない人が誰かと仲良くなるのはとても難しいということを僕はこの何日かで知った。
こんな体でも、美味しく感じるものがないわけではない。辛みは味覚ではないから感じることができるし、風味は楽しむこともできる。
だからカレーは好きだし、炭酸水も以前と変わらず美味しかった。だが、何より美味しかったのはビールだった。風味やアルコールの匂い、炭酸もすべてを感じることができたから。未成年だから禁止されてはいるけれど、味がするものならなんでもよかった。
今も部屋の冷蔵庫の中にはビールしか入っていない。食事は食堂で取れるから特に入れる必要もないのだ。
午後3時、入学式の準備も済んで一息ついているとピンポーンとインターホンが鳴った。
マンションのようなこの下宿には沢山の学生が住んでいるが、知り合いはいない。そもそも下宿生の殆どが大学生なのだ。
鍵を開け、ドアを開く。
そこには3人の男女が立っていた。その中で真ん中に立っていた、一番明るい男子生徒が話し出す。
「俺たち明日から、高1なんだ。相良高校の。中尾柚月くんだよね。同じ学年だし仲良くしたいと思って」
茶色がかった髪の少年と、その隣でニコニコと笑っている優しそうな女の子。それから一歩引いて少し冷めた目線でこちらを見つめる大人びた雰囲気の女子。
「うん、いいけど。僕のこと、どこで知ったの?」
「管理人さんに聞いたんだ。そしたら普段は高校生なんて1人でも珍しいのに今年は4人も入ったって言うから部屋も聞いたんだ。いきなりでごめんな」
個人情報もあったもんじゃないな。
「そういうことか。いいよ、僕も友達は欲しかったから」
僕は彼らの誘い受け入れて部屋を出る。
「じゃあ食堂、一緒に行こうぜ」
そう言って廊下を歩いていく。こんなに楽しそうな人を僕は久しぶりに見た気がする。
『慣れてきた』という父への電話での言葉が嘘ではなくなったことに少しだけ安堵した。