Prologue
「ゲホッゲホッ!」
僕は運ばれて来たばかりのミートソーススパゲッティを吐き出した。
周りの人がチラリとこちらを見る。
__味がしない。
このファミレスには何度も来ていた。家の近くで安く楽にご飯を済ませようとするとこういう所に頼ってしまう。一人暮らしで自炊もするけれど、毎日はしんどいものがある。
このスパゲッティを頼むのも初めてというわけでは決してなかった。
でも、こんなことは初めてだった。
もう一度、目の前のミートソーススパゲッティを見る。なんの変哲もない、多分冷凍のスパゲッティ。見た目と香りは一緒なのに味がなく、それでいて肉臭さみたいなものだけはあるのだ。とにかく今の僕には食べられたものではなかった。
店員に文句を言おうと周りを見渡すが、僕以外にそういう人はいないらしく、みんな楽しそうに談笑している。
__僕だけなのか?
勘違いだったのではないかと自分に言い聞かせながら二口目を食べる。
それでも、やはり味はしなかった。また吐き出してしまいそうなのをなんとか水で流し込む。味のないミートソーススパゲッティはとにかく不快なものだった。
隣の人から冷ややかな目線を向けられていることに気付いて、急に居心地が悪くなった。僕は学生カバンとコートを急いで取って席を立う。レジまでを走る寸前の速さの早歩きで進み、会計を済ませて逃げるようにファミレスを出た。『ありがとうございました』と丁寧にお釣りを渡す店員も顔も見れなかった。
怖いと思った。何に対しての恐怖かはわからない。けれど、とにかく行き場のない不安と恐怖が胸の中で渦巻いていた。
ドアをたった2枚隔てただけなのにレストランの外は恐ろしく寒かった。冬の夜の風が肌を突き刺す。
「さむ……」
コートに包まるようにして歩いた。いつもの夜闇が一層黒く見える。
借りているアパートは5分ほどでいつまであれば何も考えずにサッと歩ける距離なのだが、今はその距離ですら、ものすごく遠いものに感じた。
近くの公園の自動販売機が煌々と夜道を照らしている。僕はホットのブラックコーヒーを買って、それから近くのベンチに座った。
__はぁ。
自然とため息が出る。食費に余裕があるわけではない。あの味のしないスパゲッティだって、無料ではなかった。
まだ温かい缶を開けるとコーヒーの匂いが辺りに広がった。すぐそこにアパートが見えているが、自分の家で確かめたくはなかった。普段はブラックなんて飲まない。買うとしてもカフェオレ。
缶に口をつけ、ズズッと少しだけ口に入れる。コーヒーの香りが鼻から抜けていく。
「なんで……」
無意識のうちに出た言葉だった。香りは確かにコーヒーだ。けれどブラックコーヒーのあの苦味がいつまで経ってもやってこない。コーヒー風味のお湯。
嫌でもわかった。
__今おかしいのは僕の方だ。
まだ一口しか飲んでいない缶をゴミ箱に投げる。乱暴に投げ捨てられた缶はゴミ箱を外れ、暗い藪の中に消えていった。ゴミを拾いに行く気も投げた時に手にかかったコーヒーを拭う気力すらも、僕にはもうなかった。
中学3年の冬休み。僕、中尾柚月は味覚障害だと診断された。