まだ禁煙したい男。
西村恭子の策略に陥れられてから早三ヶ月。給料日直前には毎月恒例の金欠祭りが開催され、恭子のタバコ代は確保できるが、自分のタバコ代は確保できず、遂には喫煙ルーム(またの名を見世物小屋)で吸えそうなシケモクを探すという最悪な事態に陥っていた。
「譲治ィ、これがあたしの吸い殻だよお。間接キスできるよお」
性悪女はヘラヘラ笑いながら言った。
「何があってもお前の吸い残しだけには手は出さねえよ!」
俺は目一杯強がりを言った。
「あっそ。そういう事を言うんだ」
恭子はムッとした顔になり、プイと顔を背けると喫煙ルームを出て行った。本当に性格が悪い女だ。そんな女についほろっとさせられて、気を許した自分が今でも許せない。あんな女、例え全裸で俺のアパートの部屋にいても、指一本触れない自信がある。それくらい、俺は恭子に怒りを感じていた。おっと、そんな事を考えている場合ではない。シケモクを探索するのだ。
「あれ?」
長そうなのを見つけようと思い、吸い殻入れをガサゴソ掻き回したが、何故か短いのしかない。そして、長いのは恭子が吸い残したタバコだ。これだけには何があっても絶対に手は出したくない。あいつに知られたら、どんな風に言いふらされるかわかったものではないからだ。先日の一件以降、俺はすっかり「西村恭子に片思いキャラ」に確定してしまい、営業一課の連中は先輩はもちろん、後輩にまでからかわれているのだ。
「俺も西村先輩、狙っているんですよ」
後輩にそう言われた事がある。それも何人もだ。恭子が結構人気があるのを初めて知った。そう言えば、俺も入社したての頃は、あいつの本性を知らなくて、一回くらいデートしたいと考えていたのを思い出し、ゾッとしてしまった。
「も、とか言うな。俺は狙っていないから」
真顔で反論しても、
「またまたァ」
ゲラゲラ笑われてしまうのがオチだった。何だか、無性に腹が立ってきた。シケモクを探すなんていう屈辱を味わってるのも、あの女のせいだ。決めた。今度こそ、絶対に禁煙を成し遂げ、あいつの鼻を明かしてやる。俺は集めたシケモクを吸い殻入れに投げ込むと、喫煙ルームを飛び出した。今回は自信がある。秘策を見つけたのだ。
営業一課のフロアに戻ると、俺は徐ろに引き出しから便箋を取り出して、筆ペンで大きく「禁煙」と書いて、レターケースの横にテープで貼り付けた。
「またできない事をやろうとしているの?」
恭子が性悪なオーラ全開で近づいてきた。某アニメに出てくる魔女よりも悪い顔をしている。
「そう思うなら、また賭けるか?」
俺はフッと笑って恭子を見上げた。恭子は腕組みをして仰け反ると、
「何を賭けるの? もう私はタバコ代は確保しているから、これ以上望むものはないわよ」
おほほなどと似合わない笑い方をした。
「だから、今度俺が勝ったら、お前のタバコ代を負担するのをやめられるという賭けだよ」
俺はニヤリとして言い返した。今度は負けない自信があるのだ。
「なるほど。金欠病が悪化しているので、何とか出費を減らしたいのね?」
あからさまに俺を哀れんだ顔をする恭子。今すぐその首をへし折りたかったが、こいつを殺して刑務所に行きたくはない。
「どうだ、賭けるか?」
俺は更に挑発した。どうしても乗ってもらわなければならないからだ。
「いいわよお。どうせあたしが勝つんだから、どんな条件でもオッケー」
恭子はあるタレントの真似をしてポーズをとった。俺はそのタレントが好きなので、ムッとした。
「よし、だったら、今から始めるぞ」
俺はスーツの内ポケットに入っているタバコを取り出すと、そのままゴミ箱に落とした。
「タバコはこれだけだ。疑うなら、鞄や引き出しの中を調べてもらってもいいぜ」
俺は椅子から立ち上がり、恭子に点検を促した。恭子は訝しそうに俺を見てから、
「では遠慮なく」
机の引き出しを改め、レターケースの引き出しを改め、鞄を覗き込み、挙句に俺のスーツのポケット全てに手を突っ込んで確認した。スラックスの前のポケットに両手を突っ込まれた時はドキッとした。そこまでやるかと驚いたのだ。もう少しで触られるところだったのだ。まさかそれが目的だったのか? こいつは酔うとエロい女だからな。でも、今はシラフだから、それはないだろう。
「靴を脱いで」
恭子はまだ捜索を打ち切らない。俺は肩をすくめて、靴を脱いだ。恭子は中を改め、
「ま、いいでしょ。どちらにしても、あんたは一両日中に我慢できなくなるんだから」
靴を突き返してきた。俺はそれを履き直して、
「まあ、見ていろ。一ヶ月後に吠え面掻かせてやるよ」
「期待してるわ」
恭子はくるっと背を向けると、自分の席から鞄を取り、
「今日は直帰しまあす」
外回りに出かけていった。
「おっと、俺も約束があったんだ」
タイミング的に恭子を追いかけるようになってしまったので、
「外でデートっすか?」
後輩の一人が問いかけてきたが、無視してフロアを出た。そして、鞄から財布を取り出し、中からタブレットの錠剤を出した。中身は禁煙補助剤。要するにタバコの代わりだ。金欠になったのは、これのせいでもある。こいつを噛むくらいなら、タバコを買った方が安く上がるというくらい、高い。しかし、恭子のタバコ代をなしにできるのであれば、高くない。絶対に成功して、あの女を落ち込ませてやる。
「おお」
一つ噛んでみた。クールミント味だ。眠気覚ましのフ○スクに似ているのかな。気のせいか、タバコを吸いたい感情が抑えられた。これならいける。俺は勝利を確信した。
こうして、一週間が過ぎた。俺は一本もタバコを吸っていない。恭子の顔に焦りの色が見えてきた。
「禁煙外来にでも通ったの? 今度は長続きしているね」
意図的に顔を近づけてきて、タバコの匂いを嗅がせようとする。はたから見ていると、キスをせがんでいるように見えなくもない。だが、誰とするとしても、こいつとはしたくない。
「まあな。どうだ、そろそろ降参してもいいぞ?」
俺が挑発すると、恭子は、
「まだまだ。あと三週間あるんだから、勝負はこれからでしょ」
プイと顔を背けて、スタスタとフロアを出て行った。
「先輩も罪な男っすね。西村先輩があんなに誘っているのに冷たくあしらうなんて」
また後輩が妄想を暴走させているが、俺は完全に無視した。
外回りの間も、ガムのお陰でタバコを吸いたいという欲求は抑えられた。但し、このガムには一日の上限があり、二十四個を超えてはならないのだ。調子に乗って噛んでいたので、結構消費している。数えてみると、上限まであと五個だった。まずいな。まだ定時まで時間があるし、夕食を摂ったら、習慣で吸っちまいそうだ。
「あれ? 直帰じゃなかったのか?」
帰社すると、喫煙ルームの前で恭子に会った。すると恭子は、
「タバコが切れちゃってさ」
手を差し出した。俺はイラっとしたが、まだ賭けの代償は続いているので、
「ほれ」
タバコ代を渡した。
「サンキュー」
嬉しそうに駆けて行く恭子の後ろ姿を見ていると、
(ああはなりたくない)
しみじみそう思った。喫煙ルームの前にいると、吸いたくなってしまう衝動に駆られるので、トイレに寄ってから営業一課のフロアに戻る事にした。
フロアに戻ると、何故か恭子がいて、机に突っ伏していた。
「どうした? 腹でも痛いのか?」
すると恭子は顔を上げて、
「自販機が壊れてて、タバコを買えなかった」
涙ぐんで言った。バカめ。禁煙しろと言いたかったが、それでは恭子と同じ性悪になってしまうと思い、
「そうか。残念だったな」
心からそう思って言ったのだが、
「あんたねえ! ここぞとばかりにあたしが苦しんでいるのを面白がってるわね! 悪魔!」
恭子はニコチンが補給できないので、相当イラついていた。その程度の言葉で悪魔になるのなら、お前の言動はどう表現すればいいんだよ? 呆れてしまう。
「タバコ、タバコを頂戴!」
恭子は目を血走らせて俺の襟首を捻じ上げてきた。
「く、苦しい……」
救いを求めようと思ったが、あいにくそこには誰もいなかった。皆定時で退社したようだ。
「タバコー! タバコ、タバコ!」
恭子は半狂乱状態で俺の首を締め上げてくる。このままだと事件になってしまう。俺は恭子の手を振り払って、
「タバコは持ってねえよ! お前が確認しただろ!」
叱りつけてやった。
「うるさいい! タバコ! タバコ頂戴よお!」
すでに錯乱状態の恭子には何を言っても通じない。仕方がない。
「落ち着け。タバコはないが、同じようなものはある」
俺は鞄から財布を取り出して、禁煙補助剤を恭子に渡した。
「そのガムを噛めば、落ち着くよ」
恭子は何も言わずにそのガムを手の平に載せて見つめていた。
「恭子?」
目を開けたまま気絶しているのかと思って声をかけた。すると恭子は大笑いを始めた。とうとうおかしくなってしまったのか?
「譲治、あんた、ズルしたわね? こんなもの噛んでたから、タバコを吸わずにいられたのね」
恭子は犯人を追い詰めた名探偵のように俺を指差した。
「ズルじゃねえよ! 俺はタバコは吸ってねえぞ!」
一瞬ドキッとしてしまったが、反論を試みた。しかし恭子は、
「確かにそうだけど、あんたは所詮その程度の男なのよ。ズルをズルと認めずにタバコさえ吸わなきゃいいんだろうと開き直るみみっちい男なのよ!」
半目で俺を見て言い放った。カチンときた俺は、
「だったらいいよ。これから三週間、このガムにも頼らずに禁煙を貫いてやるよ! それならいいんだろ?」
売り言葉に買い言葉で宣言してしまった。
「さすが譲治。男だねえ」
恭子がニヤニヤして言ったので、しまったと思ったが、遅かったのだ。
そしてその二日後、俺は我慢し切れずにこっそりと喫煙ルームでシケモクを吸っていたのを恭子に見つかり、
「これは倍返しね」
電子タバコをプレゼントする事になってしまった。そのせいで、
「西村恭子の財布」
そんなあだ名をつけられたのだった。