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媚態の花  作者: 花南
9/24

06/15

大学での最初の講義から一ヶ月が経った。新生活にもようやく慣れ始め、次第と周囲にも目を向けられるようになったギーにとって気になることがある。レインマンだ。

 最近彼はとても機嫌が悪い気がする。といっても、会った当初はおっとりした品のある男だと思っていた彼も、この一ヶ月いっしょに暮らしていると随分本質としては荒々しい部分もあることを知っていたので、多少は気にならなくなったが、それにしてもここ数日はとても荒れている。

 どうかしたのか、と聞いてみても「平気です」と言われるが、とてもそのようには見えない。

「最近のエミールはどうしちゃったんですか? いちいち僕やマリー・ルイーズに突っかかってくるし、ため息は多いし」

「ギーはまったくそういうところ鈍感なんだから。恋よ、恋の魔法がかかっているの」

「恋ですか?」

(恋ってあれですよね。レインマンのことだから相手は男ですよね)

 とは聞けずにいると、マリー・ルイーズはことさら大きくため息をついてから言った。

「相当いい男らしいのよ。ただし難攻不落な雰囲気がびんびんなんだって」

「へえ……頑張ってもらいたいですね」

 友人の恋愛は素直に応援したい。それが男同士であったとしてもだ。しかし巻き込まれたくないという思いも少しある。結局無難な言葉を選んだ。

 噂をすればレインマンが占いの仕事に出かける準備をして玄関に下りてきた。

「ギーくん、今日は大学に行く日でしょう。僕も今から出勤だからいっしょに車に乗せていってあげます」

「ありがとうございます」

 レインマンとギーは今でも丁寧語で話す。それはお互いの癖のようなものでもあるが、お互いの中に埋められない溝のようなものも感じるからだ。

 レインマンは上流階級の御曹司で、洗練された動きをする。スープを食べるとき、椅子に座るとき、歩く動作に至るまで普通の人と少しだけ違う気がするのだ。そんな彼を見ているとチェスターのように肩を叩いていっしょに笑い合ったり、そういう関係になろうという気持ちから一歩だけ遠のくのである。

 リムジンにふたりが乗ると、運転手が車を発進させた。

「レインマンの機嫌が悪いのって恋がうまくいかないからなんですか?」

 ストレートにそう聞いてみると、レインマンはギーを見て、「僕はそんなに機嫌が悪そうですか?」と聞いてきた。

「始終苛々して、ため息ついています」

「ああ……」

 しまった、という表情でレインマンはため息をついた。

「いつも思うんですけれども、いくら相手の思考が読めようが、相手に感応できようが、別に恋している相手の気持ちをこっちに向けることができるわけじゃあないんですよね」

 人の心が読めればけっこう便利な気はするが、それだけでは人の心をこちらに向けるのは無理ということか。ギーはレインマンを見つめながら思った。

「それどころか、相手がこっちにまったく気がないのが伝わってくるばかりで、虚しさだけが増す」

「エンパスならではの悩みですね」

「思わず相手に意地悪しちゃったりとか、僕らしくもなくツンデレを発揮しちゃったり」

「うわあ。そりゃ落とせる相手も離れて行きますよ」

「ですよねえ……」

 ふぅ、とため息をついてレインマンは悩ましげな表情をした。その憂いを帯びた顔を相手の男に見せてやればいいのに、いらんところでだけ色っぽいのだから。

「そうですよねえ、あなたにこんなサービスしても仕方がないし」

 思考を読み取ってレインマンはことさら残念そうに呟いた。ギーとしてはサービスされているつもりなどまったくない。むしろこちらがレインマンの恋の話を聞いているのだからサービスしているくらいの心持ちだ。

「いらんサービスですよ。放っておいてください」

「僕の思考をいちいち読み取って突っ込まないでくださいよ」

「あなたって心の中ではおしゃべりですよね。普通の人はもっと考えずに話して頭の中は空っぽですよ」

「そういうものですか? 僕はお菓子のことしか考えていませんが」

「たしかに食べ物のことを考えている割合が異様に多いです。まさに食欲の化身、三大欲求の塊」

「食う寝る遊ぶの塊みたいな言い方しないでくださいよ」

「めちゃくちゃそのままですよ。僕は言い得て妙なことを言ったと思います」

 本日も不機嫌度は絶好調である。早いところその相手がレインマンのものになってしまえば元のおっとりした彼に戻ってくれるのに、と思った。

「しばらくは不機嫌だと思っておいてくれてけっこうですよ。あいつのことを落とすまでは、少なくとも不機嫌です」

「そんなに好きな相手なんですか?」

「割と格好いいかなあと思ったんですけれどもね、本気かどうかと聞かれたらわかりません」

 男同士の恋愛は、年頃の女の子たちが考えるほどきらきらしていないようだ。まあ男女の恋愛も年頃の子が考えるほどきらきらしているとは言えないが、それでもまだもう少し少女漫画や恋愛小説の雰囲気に近いものもあるだろう。

 想像でしかないが、あくまで想像でしかないが、レインマンはかなりどろどろした恋愛の達人なのではないだろうかと思うときがある。占いで恋の相談をされることも多いだろう、中には相当複雑なケースもあるはずだ。彼はきっとそういうものをなんなくこなすだけのスケールがあるから占い師として売れるのである。

「褒めすぎですよ。僕はただの色情狂です」

「自分で言いますか? 色情狂って」

「事実ですから」

 もう何を言っても、言わなくても、考えるだけで相手は不機嫌になると判断してもう何も言わず考えずにおこうとギーは目を瞑って仮眠をとった。


 大学の講義は三回目の今日も特に問題なく終わった。午後の時間の講義だったため、レジュメの採点をして帰る頃には日はとっぷりと暮れていた。

 大学から駅までの道のりを歩く。もう大道芸人はいないし、露天も大方店終いを始めている。

 歩きながらひたひたと後ろからつけてくる気配があることに気づいた。以前この気配を感じたときはアランに攫われたので、今回は足を止めるのはやめた。かわりに全力で駅まで走ることにした。

 ギーが走ると後ろの足音も追いかけてくる。尾行が得意な相手ではないのはわかったが、自分への執着度はMAXなのだけはわかった。

 運動不足の心臓がばくばく鳴る、肺が悲鳴をあげている、喉がからからに渇く。

 思わず「助けて!」と声をあげようとした瞬間である、目の前に人が出てきたのでぶつかった。

「うわっ!」

 地面に買ったばかりと思われる肉やら野菜やらがぶちまけられた。

「す、すみません。弁償いたしますので」

 拾い上げながら頭を下げている間に自分を追いかけてきた足音は通過していった。さすがに急に止まることはできなかったのだろう。一安心だ、そう思った矢先のことだった。

「えっ……」

 ぶつかった相手はアランだった。相手は不思議そうな表情で、一言言った。

「息が荒れているぞ。どうした?」

「いえ、何でもありませんので」

「それにものすごい勢いで誰か通過していったし。追われていたのか?」

「……最初あなたかと思いました」

「私がいつもお前の尻を追いかけていると思うなよ?」

「誤解を招く言い方はしないでください」

 荷物をかき集めて紙袋の中に押し込み、突っ返した。

「じゃ、僕は帰りますので」

 そう言って離れようとした瞬間、手首を掴まれる。

「ストーカーから守ってやったんだ。肉体労働してもらおうか」

「は?」

「絵のモデルになってもらう」

「帰りたいんです。綺麗な身のまま家に帰らせてください!」

「お前こそ誤解を招く言い方しないでほしいな。まるで私が君に悪戯わるさをしたみたいな言い草じゃあないか」

 悪戯以上のことをしてくれたじゃあないか、監禁したくせに。と思いながら仕方なく手首を引っ張られるままアパルトメントについていった。

 狭い部屋の中にはイーゼルとカンバスが転がっていて、小さなベッドがある以外は生活臭のしない空間だった。

 まるであのときのログハウスそっくりのインテリアに背筋がぞぞ、としたが、アランはそんなことを気にする様子もなく、窓際に椅子を置いてギーを手招きした。

「ここでてきとうにポーズを取ってくれ」

「何時間ですか?」

「一時間もあれば十分だ」

 木炭を手にとりながらイーゼルとカンバスを移動させつつ、アランは自分の席を作り始めた。仕方なく窓際の椅子にこしかけ、てきとうに頬杖をついて一時間の沈黙に耐えられる姿勢をつくる。

 シャ、シャ、と木炭を動かす音が小さく聞こえる。この音だけ聞くならば、散髪をするときの鋏のリズムに近くてとても心地よい。見られている視線が気になるが、それも別にいやらしいものではない、画家の視線だ。

「あの絵は気に入ってくれたか?」

「絵って、シカゴ市警に送りつけてきたあのヌードですか?」

「よく出来ていただろう?」

「僕の素っ裸の絵がアメリカで今も保存されていると考えると僕自身はあまりいい気持ちではありません」

 不機嫌そうにそう呟く。アランは不敵に笑い、「今の表情いいね」と言った。

「どこがいいんですか。まったく」

「充たされてないって顔でたまらなくいいよ。君はフラストレーションと苦悩に喘いでいるときの表情がとても悩ましげでいい」

「ありがとうございます」

 ここで「変態」なんて言おうものなら、プライドの高い犯人だったら何をしでかすかわからない。アランはそこまで激情型ではないのは知っていたが、わざわざ相手を刺激する必要性もない。

一時間かからずにその絵は完成した。

「水彩画にするつもりですか?」

「いいや、最終的にはこれをモデルに油絵で描く」

「これの上から水彩で軽く色つけたほうが簡単そうなのに」

 そう言った瞬間、顎に手をかけられて無理やり上を向かされた。ギーの目を指差して彼が腹を立てる。

「水彩で君のこの目の色合いが表現できると思うのかね? この青い玻璃びいどろのような目が、水彩で!」

「ごめんなさい。絵がわからない僕のつまらない言い分は聞き流してください」

 威圧的に反応されるとつい萎縮してしまう。絵の話になるといきなり真剣になり、目の話になるといきなり執着し、そしてその両方になると興奮しがちなのがアランだ。

 明らかに怯えているギーの頭を撫でながらアランは宥めすかすように言った。

「怖がらせたいわけじゃあないんだよ。わかっているだろう、坊や。私を怒らせないでくれ」

「すみませんでした」

 何が原因で怒るかなどわからないのにどうしろというのだ。

「絵のモデルは終わったんだし、帰っていいですか?」

「食事でもしていきたまえ。昔はいっしょに食事をとっただろう」

 あのログハウスで冷めたテイクアウト料理を食べさせられたことをいっしょに食事をとったと言うのならば、そうかもしれない。

「じゃあせめて、僕が作ります」

 睡眠薬を混ぜられたら今度こそ何をされるかわかったものではない。先ほど買ってきた材料から牛肉とたまねぎ、ドミグラスソースの缶を取り出した。

「ビーフシチューでいいですよね?」

「構わないよ」

 遠く離れた日本ではビーフシチューのことをビーフストロガノフとごちゃごちゃにしているらしいが、この材料で作れるのは間違いなくビーフシチューのほうである。

フライパンの中でたまねぎを飴色になるまで炒めて、塩コショウをした牛肉を放り込んだ。最後にドミグラスソースを加えてぐつぐつと煮込む。

 バタールをオーブンで軽くトーストして、皿に盛り付けてアランの前に出した。

「なかなか美味しいね」

 口にシチューを運びながらアランがそう言った。

「失敗しようがない料理ですから」

「そうかね? 私は小さい頃しょっちゅう失敗していたよ」

 食べながらアランは語った。

「両親とも帰るのが遅くてね、ベビーシッターを雇う余裕がなかったから、私はひとりで夕食を作った。鍋を焦がしたときに近所の人が駆けつけてね、それを知った父親に殴られたのを今でも覚えている」

「あまり食事にいい記憶がないんですね」

 たまに思う。エディプスコンプレックスを持っている子供の父親が全部、悪いわけではない。だけどどうしてそんなに子供に愛がないのだろう、と。

もちろん父親が正しい愛情表現をしたならばすべての犯罪者が犯罪を犯さなかったわけではない。なるべくしてなった人間もたくさんいる。だけど少なくともアランにおいては、利発的な彼を抑圧した父親像がちらつく。彼が自分の感情を抑圧することなく、正しく愛され、愛することを覚えれば、十分殺人衝動は抑制が効いたのではないかと思う。

「お前の作る食事は美味しいよ」

「レストランのキッチンでアルバイトしたことあるので、そのせいですね」

「料理に愛情がこもっているからだな」

 食べかけていたパンが喉に詰まって噎せた。アランはにやにやと笑う。

「たまに料理を作りに来てくれないか? 話し相手になってほしい」

「……あなたが僕に何もしないと約束するならば、考えてもいいですけれども」

「何もしないよ。食事をして、絵のモデルになってくれて、話をしてくれればそれでいい」

 ギーはアランをじっと見つめた。それは恋した相手に言う言葉だろう、と思いながら。

 アランに限ったことではないが、エディプスコンプレックスのある猟奇殺人犯は性的にちゃんと機能していたとしても、結婚していない場合が多い。女性にコンプレックスがないにしろ、父親像にコンプレックスがあるからだ。それにもふたつ姿があって、父親が息子を溺愛しすぎた結果エディプスコンプレックスになったパターンと、アランのように放置に近い状態が続いてそうなった場合がある。

 愛情を貪欲に欲する者は、小さな愛情にとても敏感だ。そして飢えているためすべて吸い尽くそうとする。

 これでも、アランのことは他の人間よりはわかっているつもりだ。とても可哀想な人だと思う。だけど自分は女ではないし、ゲイでもない。アランの恋人として彼の傷を埋める相手は自分以外の誰かだと思っている。

「考えておきますね。ごちそうさま」

 だけどそれを面と向かって言うような危険な真似を今はしたくなかった。とりあえず保留の形をとって距離をおきたい。

 鞄を拾ってアパルトメントを出る寸前、ふと気になってギーは振り返った。

「パリでも人殺しはしているんですか?」

 アランはその言葉ににやりと笑い、

「だとしたら誰を殺して欲しいんだ?」

 と聞き返してきた。なるほどアランらしいな、と思って、こちらも軽口で返すことにした。

「僕の両親を殺した放火魔には死んでもらいたいと思っていますけどね」

 帽子をかぶって軽くお辞儀をするとギーは外に出た。

 自分はまだ放火魔のことを許していないらしい。そりゃあそうだ、自分の最愛の両親を奪ったのだから。アランのように愛情の薄い父親でもなく、レインマンのように過干渉な父親なわけでもない、普通にギーを愛してくれて、ギーが自分自身の人生を歩むことを一番喜んでくれた、最愛の父親と、それに連れ添った母親が突然いなくなったのは自分にとってショック以外の何物でもない。

「僕もやさしくなりたいなあ……」

 全部許せるやさしい人間になったら、こんな苦しい気持ちにはならないんじゃあないだろうか。そんなことを考えた。


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